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雪に紅(7)

 大会が終わった。

 既に会場は撤収が完了し、閉伊宮高校総合格闘部も、荷物を纏めて外へ出ていた。

 休憩を幾度か挟んでも、小規模の大会である。

 まだまだ、日は高い位置にある。既に玲が自転車に荷物の半分ばかりを括り付け、道場へと先に向かっていた。

 紗織は一人、車で帰ってしまっているし、修と御幸も徒歩だが、先んじてしまった。慶次だけが一人、会場付近に残っていた。

 慶次の手には、賞状が一枚。印刷された台紙に、名前を筆ペンで書き込めば完成の安物だ。それを、日陰になっている階段に腰掛けて、読むとも無しに慶次は眺めていた。

 文面はどうでもいい。これを手に入れた事も、まるで慶次は価値を感じない。

 然し、得るまでの経緯には意味が有った。

 今もまだ、右足首が痛む。最後の最後に、ほんの数度だけ、本来の可動範囲より外へ曲げられた足首である。

 蹴りが遅ければ腱を切られていた。躊躇い無く靭帯を引き剥がされ、暫くは歩けぬようにされていただろう。

 後から考えれば、怖い相手だった。

 躊躇わずに人間を壊しに来る相手など、生まれて初めて相手にした。

 だが慶次は、それに対応し、勝ったのだ。

 賞状など、インクの染みた紙でしかない。

 然しこのインクの染みは、苦も楽も思い出す為の、とっかかりになる染みなのだ。

 空手の大会で得た賞状やらメダルやらは、部屋の隅に、箱に入れて放り出してあるが、帰ったら壁にでも飾ろうかと、慶次はなんとなく思った。


「羨ましい事で」


 後方から声がして、それから足音が二人分聞こえてきた。


「参加者、六人だぞ」


「そうじゃないですってば、もう」


 神巫 紅が、後ろに正人を引き連れて、慶次の直ぐ背後に立っていた。


「それですよ、賞状」


「やらないぞ」


「要りません」


 慶次の頭に覆い被さるように、腰を曲げて、紅は賞状の文面を覗き込む。

 節くれだった木のような指が、印刷された画一的な文字と、筆ペンの達者な字をそれぞれなぞった。

 肩を超えて伸びて来た右手を、軽く右手で押しやりながら、慶次は賞状を丸めて、保管用の筒に押し込んだ。


「青森から来てんだってな」


「ついでに、沿岸の春も楽しもうかと。パークホテルに泊まって、明日の夜に帰ります」


「この季節に、見るものも無えんじゃねえか」


「そこにいると、外からの目は分からないものですよ。魅力的な街じゃないですか」


 紅は両腕をぐうと伸ばして、目一杯に息を吸い込む。

 河川敷の公園に近い場所に、この市民体育館は有る。

 直ぐそこを流れている川を、数百mか1kmか、それぐらい降れば、そこは海である。

 ほんの少し、潮の香りが混ざる風を胸に抱いて、紅は心地良さそうに目を細めていた。


「……紅。お前、気になる事を言ってたな」


「お兄さん、の事ですか?」


 おう、と短く答え、慶次が頷く。


「入学前、関東に遊びに行きましてね。うちの館長と中の良い方の所で、数日ばかり合同練習をしてきたんですよ。

 慶一さんは、丁度その最中に、道場にふらっとやって来まして」


 と、とんっ。

 軽い足取りで、紅が慶次の正面に立った。

 階段に腰掛けている慶次を、何段か下に立って見据えれば、視線の高さはほぼ同じになる。

 試合の時とは別に、紅は浮かれている様子であった。


「そっくりですね、お二人は」


「……兄弟だからな」


「いえ、蹴り方までそっくりです。仲の良い御兄弟のようで」


 慶次の声は、常より幾分かくぐもっていたが、紅はその心中を知ってか知らずか、調子を変える事は無い。


「修さんには、申し訳ないのですが」


「……あん?」


「私の目はもう、彼を見ていないんですよ」


 言葉とは裏腹に、謝意の一辺も窺えぬ口振りであった。


「……そうか」


 然し慶次は、その意も、理解出来ぬではない。

 自分にしてからが、幾度か勝利した相手を、何時までも好敵手と定めておくものだろうか。

 慶次とて、生まれ落ちた瞬間から強かった訳では無い。自分より強い相手を追い抜き、追い越し続けて、今の姿が有るのだ。

 修の試合を見ていて、これまでも気付いていたが、明確に言葉に出来なかったものが、何であるか分かった。

 誰よりも緻密に試合運びを組む癖に、誰よりも感情の起伏は強いのが修なのだ。

 猛る際の力は、本来のそれを遥かに凌駕する。慶次も、そういう姿に惹かれ、引き寄せられた。

 だが、逆に心が沈んだ時の、委縮の度合いも、人より大きいのかも知れない。

 慶次には、それが無い。

 例えどれ程、試合前に心が昂らずとも、正面に立って向かい合えば、やがては火が着き、燃え上がる。

 紅はきっと、慶次の側に近い人間だ。

 一瞬の極限状態に向けて、己を限界以上に高めるスポーツと、平常より最大の力を発揮せんとする武道の、精神性の違いであるのかも知れなかった。


「慶一さんにも負けましたが、あの人は弟想いな人でしたね。私の指を受けて、『それで弟を刺して来い』なんて、本当に嬉しそうに言うんですから」


「あの野郎」


「本当に、来て良かったと思います。いやはや楽しかった」


 顔を腫らしながら言うにしては、軽い口振りであったが、


「……だな」


 慶次も頷いて、のっそりと立ち上がった。

 道場に戻れば、用具の手入れやら片付けやら、まだやる事が残っている。

 一通り片づけたとて、今度は紗織に付き合わされての組手が、何本か待っているに違いない。


「そういえば慶次さん」


「ん?」


「来月、北東北三県での合同合宿が有るのはご存じで?」


「……市民体も先週知った」


「あらら」


 それは酷い、などと言いながら、紅は口を手の甲で隠して笑う。


「参加は、総合格闘部が有る二十校少々。勿論、私達も行きます……残念ながら高等部だけですけど。

 大会前の腕試しに、皆さんもこの折に、如何です?」


「どうだろな、俺が決める事でもねぇが」


 良さそうだ、と。

 そう言って慶次は、閉伊宮高校までの道を歩き始めた。

 振り返らぬまま、後方に、遠ざかる足音を聞く。

 聞こうと思えばまだ、あの唇から零れ出る微笑を、耳に聞けそうな気がしていた。






「若者達よ、良く帰った!」


 道場に戻るやいなや、総合格闘部の皆を出迎えたのは、裕也の晴れ晴れとした顔であった。

 だが、表情が明るいのとは裏腹に、裕也の顔には、これまた大きな青あざが有った。

 それも、顔の側面ではなく正面。高校総合格闘のルールに従うならば、必ずスーパーセーフで防御されている箇所である。


「裕也さん、どうしたんすか、それ」


「んー? 後の楽しみの為の布石としたものである! ……でもちょっと痛い!」


 裕也の左手には氷嚢があり、時々これを痣が出来た部位に押し当てて冷やしている。

 氷嚢の表面の結露具合を見るに、もう結構な時間、冷やしていたものであるらしい。慶次がじっとそれを見ていると、裕也はぶんぶんと右手を振って、


「まま、それはいいのいいの! それよりも、早速だけど次の大会について――」


「もうっすか!?」


 大会を終えたばかりの慶次達を労うより早く、次の目標を突き出すのであった。


「うむ! 実を言うと今月末だったりするの!」


「だからそういう事はもっと早く!」


「ちゃんと申し込みは全員分済ましてるから!」


 つまり、次の大会までは、あと三週間と少々なのである。

 今回の大会は、あくまでも市を単位とした、極めて小さなもの。参加は三校六名の、半日で終わる大会だった。


「……裕也さん。次の大会っていうのは」


 そして、次の大会は――


「インターハイの県予選」


 最大規模の、大会であった。

 裕也の口から出たこの単語は、実の所、新入生である慶次や玲、御幸には然程の実感が無い。

 それでも、その大きさは知っている。

 四十七都道府県全てで予選が行われ、優勝者が一箇所に集い、その中で真の頂点を決める。言うなれば、日本一を決める大会であるのだ。

 慶次が、裕也に横槍を入れるのを止めた。

 玲は普段の我知らぬ顔のまま、然し眼鏡の位置を数度も直し、裕也を見た。

 御幸が、背筋を伸ばして立つ。


「市民体育祭は、此処で怪我しても構わない一年生ばかりが参加する。今度は二年生も、もう後が無い三年生も出てくる。俺達十代の学生にとって、一年の経験の差、二年の経験の差はとんでもなく大きいんだ。はっきり言うと、御幸ちゃん。全く格闘技未経験のあんたがいきなり県代表なんて、まず無いと思っていいかな……嫌な相手も出るしねー、もーう」


「……はい」


 何時に無く真剣に裕也が言うが、その意味は、御幸もよく分かっている。

 芸術であれ、運動であれ、未経験者と経験者には、実力に大きな開きがある。

 極めて稀な例として、経験を補うだけの才能に恵まれた者もいるが、平均的に見れば、経験の差は実力の差に直結する。

 最初の大会で鮮烈のデビューを飾り優勝者へ――そんな夢を見られるのは、ほんの一握りの人間だけなのだ。


「けれども!」


「は、はい!」


「県上位くらいならチャンスは有る!」


びしっと御幸の顔を指差し、裕也はそう続ける。


「元々、女子の選手は層が少ないんだよねー。だから、空手だったり柔道だったり、そういう専門じゃない選手が兼任してる事が多いの。で、そういう子は高総体では、本業の方に出るから……」


「……つまり、チャンスは有るって事ですね!」


「イエス、ユーキャン! 何より君には、心強い師匠がいる!」


 断言する裕也の横に、紗織がちょこちょこと進み出て、我を見よと小さく飛び跳ねる。

 実際、女子選手に対し、高校総合格闘は、まだ環境が整っているとは言い難い。

 練習相手も少ないし、指導者が不足しているので、ごく僅かの強豪校に選手が集中しているのが現状だ。

 然し、裕也はその点に関して、全く憂いている様子が無かった。

 総合武術を二十年以上も続けている松風 紗織は、日本国内で見ても、女性に限っていうならば上位の実力者である。指導者とするに、これ程の人材はそう見つかるまい。


「そーれーにー……ふっふっふっふっふ」


 然し裕也は、これで終わらせない。

 愉快は可能な限り積み重ねて、たんと食わせるのが自分の役目であると考えているのが裕也なのだ。

 自分は企んでいるぞと周囲に知らせる、あの笑い方を始めた瞬間、企みに振り回される部員は皆、次は何が来るのかと身構えた。


「さて、ここで皆に質問です。格闘技の経験は? はい、まずは慶次君から!」


「え? あー……尚武館流空手を十年」


「よしよし、玲は?」


「……喧嘩だけだ」


「元気でいいねえ、それじゃ御幸ちゃんは?」


「何もやってないです……」


「ふむふむ。ちなみに先生は」


「はーい。尚武館流を一通り、二十二年でーす」


「大先輩だわー……それでは最後に、修!」


 一通り話を回して、さて、最後。裕也は、道場の隅に立っている修を指差し言った。


「……しゅーうー?」


 答えは無い。

 修は、ぼうと何処かを見ているようで、裕也の声を聞いている様子は無い。

 裕也が、修の目の前まで歩いて行く。

 修の視界に、裕也の姿は納まっている筈だが、然し修は動かない。


「……修! 大丈夫か!?」


「わっ……!?」


 裕也が目一杯背伸びをして、鼻先に額が触れる程も近付くと、やっと修は、自分が呼ばれている事に気づいたようであった。

 目を白黒させ、それから周囲を見渡して――自分の居る場所が、道場である事さえ信じられぬという顔をする。

 魂此処に在らずの様を見れば、裕也も陽性の笑みを消し、不安気な顔で修を見上げた。


「……大丈夫です、剣条先輩……ちょっと眠かっただけで」


「本当? 体調悪いんだったら、座って休んでても――」


「いいえ」


 気遣う裕也を押しのけるように、修は壁から離れた。

 何処へも目を向けない。ただ道場の出口だけを見て、一直線に、そこまで歩く。

 両手とも、拳を固く握っていた。

 強く握った拳が、震えていた。


「ちょっと眠気覚ましに走ってきます」


 そう言って、修は道場を出る。

 小走りの足音は直ぐに遠ざかり、外の音は風の他に、何も聞こえなくなった。


「……誰か、説明をプリーズ。詳細にね」


「た、たぶんビデオを見れば分かるんじゃ……」


 御幸が差し出したデジタルビデオを、裕也はその場で再生する。

 マットの上に胡坐を組んで、この日の大会の試合映像――閉伊宮高校の試合だけなら5試合、20分で見終わる。

 その後、裕也は三十分も、黙って座り込んだままだった。

 日が傾きかけて漸く、


「慶次」


「うっす」


 ガラス窓から空を見上げて、慶次を呼ぶ。


「追いかけてやってくれない?」


「……押忍」


 両腕で斜めに十字を切るや、慶次は歩幅も大きく駆け出そうとする。

 その視界の端に、何か光るものが飛来した。サイズも然程では無い――咄嗟に受け止めれば、自転車の鍵であった。


「道場の裏、黒塗りで籠付きの奴だ。……鍵は明日返せ」


 玲が投げた鍵を、分厚い拳の中に閉じ込めて、慶次は一度頷いた。

 それから靴を履くと、道義姿のままで自転車に跨った。

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