雪に紅(6)
――俺は、器用になったな。
関節技だとか、絞め技だとか、そういう技術を学んだのは、総合格闘部に入ってからだ。
知識としては持っていたが、実践を始めてから、まだひと月も経っていない。
打撃以上にグラウンドの攻防は、技術の差が如実に現れる。220cmを超える巨漢ファイターが転ばされ、苦も無く捻られる様など、テレビでさえまま見る光景だ。
入部する前であれば、試合前によぎった思いの通り、組み合った時点で6ポイントを奪われ、追い詰められていただろう。
だが俺は、こいつの技を、ここまで耐えてやりあっている。
正直に言えば、最初のアキレス腱固めの時点で拙いと思った。
けれども、決められる箇所を僅かにでもずらせば、効力が落ちるのが、あの技だ。
痛みを皆無には出来なかったが、脚を潰されない程度に抵抗できたのは、剣条 裕也の指導が為である。
組手では良く投げられるし、気を抜けば腕と言わず脚と言わず、嬉々として取りに来るあの先輩が居たから、初見ならば何も出来ぬだろう技に、それなりに対抗出来ている。
それから、あのフロントチョーク。意識が遠のく予兆を感じ、直ぐに動かなければ、数分は眠らされていたのでは無いか。
首を絞められた経験もまた、総合格闘部に入るまでは無かった。玲との最初の組手で、脚で首を絞められたあれが最初だ。
全くとんでもない方向から、名前もないような訳の分からない技が飛んでくる奴だったが、考えてみれば、世界全ての技術を知る程、俺は賢くない。命名出来ぬ技を相手が使う、それこそが普通なのだと、あの時に知った。
絞められる感覚の、どこまでは良く、どこからが拙いか。知っていたから、投げられるのが見えていても、前方へ逃げたのだ。
一か月もしないうちに、俺は此処まで強くなった。
けれども、一番の理由は――〝あいつ〟だろう。
全く、目の前のこいつと比べると、あれもこれも、違う所ばかりだ。
負傷を狙うこいつの貫手と、確実にポイントを奪っていくあいつの拳と。
稀に放つ隠し技としてのこいつの蹴りと、コンビネーションの一つとして組み込まれたあいつの蹴りと。
投げも、関節も、絞めも、色が違う。
競技性など知らぬと、ただ強くあろうとするのが、こいつだ。
強くありながら、自らを競技者として律するのが、あいつだ。
どちらが良い、とは言わない。
あいつは、こいつに勝てなかったという。だが俺は、この二つに優劣を付けない。全く別なものだからだ。
二人の美女がいるとする。
勝気で遠慮のない、すっと一本筋が通った美女と、楚々として穏やかに、だが艶やかさを隠した美女だ。
どちらが優れているかなど、個々の好みでしかないのだから、この二人に優劣はつけられない。
それと同じに俺は、高虎 修と神巫 紅の、いずれが優れていると決められなかった。
確かにこいつは――紅は、とんでもなく強い。
スポーツのルールの枠をはみ出さぬぎりぎりで、武術的な技をぶつけて来る、凶暴な奴だ。
貫手を拳の代わりに、部位を選ばず打つなど聞いた事もない。腕の骨で受けた筈が、俺の腕にばかり痣が出来ている。
体格に恵まれない少年だ。
身長は163cmという所だろうし、体重も65kgは無い。骨格を見ると、むしろ良く此処まで体重を乗せたと称えるべきだろう。
その体で紅は、195cmの俺と互角に打ち合うし、互角以上に試合を運んでいる。
空手だけをやっていたら、こんな奴と出会う事はなかった。己の選んだ道に、改めて感謝の念が湧く。
然し、俺にこの競技の楽しみを教えたのは、修なのだ。
あの時は楽しかった――今でも思い出す。
その日に出会ったばかりの男と、ろくに言葉も交わさずに意志の疎通を見る、あの瞬間。
殴り合い、蹴り合いながら、俺達は憎み合う事だけはしないのだ。
俺を見ろ、お前を見せろ、互いに強請り合いながら、打倒するという目的へ走って行く。
俺達は、最終的には、相手に勝ちたい。
然しその過程が、何処までも続く事を祈ってしまう。
俺はいつまでもいつまでも、修と殴り合いを続けていたかった。
――お前は、どうだ。
口を開かず、紅に問う。
姫様のような顔をして、高いところに止まりやがって。本当はあんな風に笑うんじゃねえか。
身を仰け反らして放った狂声を、一人も残さず、ここに居る連中は聞いたんだ。
お前の連れだってビビッてただろう。当然だ、お前は怖い。
けど、その怖いお前が出て来なきゃならないようにしたのは、俺だ。
怖いお前は何をしたい。
俺をさっさと壊したいのか、いつまでも嬲っていたいのか。
どちらでもいい。どちらでも、いい男だ。
だが、あいつと比べて、お前はどうなんだ。
俺に新しい世界をくれたあいつより、お前が強いというのなら、
「やってみやがれ」
俺は常のように構えた。
「楽しいの……?」
佐渡 御幸は、試合を録画しながら呟いた。
暴力には不思議な魅力があると、御幸は自分自身の経験から知っている。
理性的には、暴力沙汰は悪い事であるとも理解している。
だが、そういう理解とは無縁な場所が心の中に有って、自分を惹きつけているのも気付いていた。
過保護にも度が過ぎる幼馴染と、結局は縁が切れないのも、それである。
未経験の格闘技に興味を持ち、道場を覗きに行ってしまったのも、それである。
今にして考えれば、美術部の先輩を殴りつけたのも、それかも知れない。腹を立てた事より何より、暴力に触れてみたかったのだ。
だから御幸は、暴力を楽しむ感覚が分からないとは言えない。
それでも眼前の試合は、御幸の理解を超えていた。
慶次は笑いながら、紅の頭を殴り抜く。
紅は微笑を浮かべながら、慶次の鳩尾に貫手を刺す。
どれを取っても、並みならぬ苦痛が有る筈だ。だのに二人は、苦痛を厭わない。
痛みは、苦しみは、避けるべきものではないのか?
自分を痛めつけるかの行為が、御幸には理解できぬのであった。
「そりゃ楽しいわよ……幸福の最高潮ね、ありゃ」
御幸の横に、松風 紗織が立っていた。
「そうなんですか?」
「あなただって、鬼ごっことか、かくれんぼとか、色々やったでしょ? あれとおんなじ。理由は分からないけど、楽しいから止められないの」
ため息を一つ。呆れたような響も有るが、いやに優しげな顔をして、紗織は試合を見ている。
「男の子っていっつも楽しそうねぇ……羨まし。御幸ちゃんもそのうち、あんな顔をするのかしらねぇ」
「わ、私はあんなっ……!」
修羅の如き慶次を指さして紗織が言うと、御幸は声を喉につっかえながらも、
「……確かに、羨ましいですけど」
「でしょー? あーあ、私にもいいひと見つからないかなー……慶次ー、ラスト一分!!」
思いの丈を、一つ零した。
もはや止まる事は無い。
血が煮立ち、絶頂に絶頂が重なるが如き多幸感の中、慶次と紅は打ち合っていた。
慶次の前腕には、紅の指先が刻んだ痣が幾つも並び、その半分は皮膚が裂け、血を流している。
防具に隠れた紅の右頬は、蹴りの衝撃が突き抜けて、広く痣になっている。
僅か二分の攻防で、これである。
然し向かい合う二人は、寧ろこれからと、心臓に更なる負荷を押し付けていた。
柱のような慶次の右脚が、紅の胴を薙ぐ。左腕を胴の間に挟んで衝撃を殺す。
受けながら飛び込んだ紅が、右の貫手で慶次の腹を狙う。間に右拳を割り込ませて受ける。
二度、三度、二人は同じ技を繰り返し、同じように防ぎ合う。
根競べ――痛みをどちらが、長く耐えられるかを競っているのである。
無論、これでは永久に決着を見ない。この試合が続く限り、二人はきっと腕が斬りおとされようと、痛みを覚えぬままに打ち合うのだろう。
然し、打撃を与える事で姿勢が変わり、流れが変わる。
慶次の蹴り足が戻るに合わせて、紅が慶次の懐へ飛び込んだ。
迎撃の左拳を、下を潜って抜けて、肘さえ振るい難い至近距離へ。正面から腰に腕を回し、慶次の鳩尾に額を当てた。
腰を引き寄せながら、腹や胸を後ろに押してやると、上体が反り、踏み止まれなくなる。
紅が前へ出る。押され、慶次が後退する。
堪えようと、紅の頭を押し返しながら、両足を突っ張る。
瞬間、紅が左手のクラッチを解き、その手で慶次の左襟を掴みながら、右脚を軸に反転した。
慶次の腰と襟を掴んだまま、慶次の左横に立つ形になり――低く屈み、そして前転する。
「おっ――」
紅が回転すれば、襟を捉えられている慶次も、思い切り前へと上体を引かれる。その僅かな隙を縫って、紅の右脚が慶次の股下を、正面から背面へと通るように潜り、左膝裏に絡み付こうとして来た。
「――っわ、ぉおわっ!?」
咄嗟に慶次は、左膝を直角に曲げ、左足に体重を乗せつつ、右足を紅と逆方向に突っ張り、左前屈立ちの形となる。
そこから、拳を振り上げ、仰向けになって足取りを狙う紅の、顔面へと振り下ろす。
首と上体をうねらせ、紅がそれを避ける。
ずどん。
マットを拳が叩く音は、踏み込みの音にも負けぬ衝撃である。
ず、ずん。
二度、三度、立て続けに、慶次は拳を打ち下ろす。
床を叩き、拳が痛む事など、まるで懸念していない。
寧ろマットの上から、床板を叩き割るのではないかという威力である。
そして四度目の振りおろしが、紅の顔面を捉えた。
がん。
透明な防護プラスチックを、打の圧力が突き刺し、そして後頭部へと抜けて行く。
紅の動きが鈍った。
もう一つ、もう一つ、慶次は拳を続けざまに落とす。
慶次の腕は伸び切っておらず、ポイントに数えられはしない。然し拳の衝撃は、間違いなく紅に蓄積する。
紅は慶次の左脚に絡めた足を解き、足の指で、慶次の喉目掛けて突きを放った。
――見えているぞ。
寝転がった体勢からの蹴りなど、慶次ならば防ぐ事も容易い。左肘で打ち払い、そして突き下ろした。一際大きく、がん、と音がした。
「止めっ! 10、9――」
慶次を押しのけながら、審判がカウントを始めた。
開始線の後ろへ下がりながら、慶次は己の行為に、震える程の歓喜を覚えていた。
――今、俺は何をした?
下段突きを、防具を身に付けた相手にとは言え、人の顔へ、思い切り振り落としたのだ。
有段者の拳は、瓦を数枚積み上げて粉砕する。
鍛え続けたならば、氷塊であったり、コンクリートブロックであったり、おおよそ正気とは思えぬ対象を破壊する拳が仕上がる。
十年を空手に費やした慶次の拳は、まさに凶器であった。その拳で、下段突きを放ったのだ。
――正気の沙汰じゃない。
ルールの上では、何も間違ってはいない。禁じられているのは、マウントポジションからの打撃であって、相手の体を自分で制さず放った拳は、何も違反をしていない。
慶次が己の狂気を自覚したのは、今の突きに、何一つ後悔が無い事であった。
寧ろ、悦びさえ感じている。
下段突きを全力で打つなど、これから先の人生で、幾つ経験出来るかも分からぬ事だ。武の道を歩いてさえ、一度も行わずに死ぬ者が多かろう。
良し、と。慶次はそれだけを思って待った。丁度眼前で、七まで数えた所で、紅が立ち上がって構えを取った所であった。
「赤、下段突き、一本! ……続けられるね?」
6ー5。
審判が紅に、継続の意思を確認した。
既に二度、紅はダウンしている。その二度とも、頭部への渾身の打撃である。
並であるなら、もう立つどころか、目を開けている事も出来ない。
だが紅は、逸る気持ちを抑えられぬという風に、幾度も審判に頷いてみせた。
「始めっ!」
――嗚呼、幸せだ。
まだ打たせてもらえるのだ。慶次は愈々、昂りを腹の中に留めて置けなくなった。
汗が目に流れ込むのも厭わず、丸く目玉をひん剥いて、唇も捲れ上がり、悪鬼羅刹の面となる。
近づけば、間合いを測る事も無しに蹴りを打つ。
当たる場所は、足の甲でも脛でも、膝でも良い。効かなければもう一度打てばいいのだ。
向かって来る紅の腕を蹴る。
胴体を蹴る。
肩も、脚も蹴る。
20kg以上も軽い体が吹き飛ばず、踏み止まって向かって来る。
「おおぉっ!」
紅が吠える。
幾度目かの攻防で、遂に紅が、慶次の蹴り足を捉えた――右脚である。
左脇の下に足首をがっしりと捉え、左腕を巻き付けて保持した。
――またアキレス腱固めか?
否。
もはや痛みで勝てぬ事は、紅が良く知っている。
残り時間は、もう僅かだ。そして二度のダウンにより、体力もかなり削られている。
慶次と紅の視線が交錯する。
――良い顔だ。
そう、慶次は思った。
変わらず、綺麗な顔をしている。
雪原に花が咲いたような美人だ。
白い肌に、目と眉と睫毛が黒くて、唇だけが紅い。
その顔に、大きな痣が出来ている。
汗が額にも鼻にも浮いている。
歯を食い縛りながらも、酸素を欲する肺に命じられて、唇は捲れ上がっている。
だが、紅は笑っていた。
整った顔を崩しながら、紅は微笑をかなぐり捨てて、顔一杯に笑っている。
目尻も唇も、歪に吊り上がって、ぞっとするような美人になって――
「かあああああぁぁっ!!」
――まるで、獣だ。
牙を剥き出しにして、紅は跳ねた。
両脚を、慶次の右脚へと巻きつけに掛かる。
そうだ、痛みでは止まらない。
ならば壊して終わらせてやる。
抱えた足首を、前後逆になるまで捩じり上げ、腱の断裂する音を響かせてやる。
もはやルール上の勝ち負けなど、紅にはどうでも良かった。目の前の男を打倒する事以外に、何も考えてはいなかった。
ヒールホールド――激痛以上に、迅速に腱を断つ、人体破壊術。
捉え、後はマットに背が落ちれば――
「うぉあらあああああぁっ!!」
――まさか。
紅は、視界の右端に、何か迫るものを見た。
慶次は、紅が跳躍するのにほんの一瞬遅れて、左足一本で跳躍していた。
体を捩じれば、左足は大きな弧を描く。
その行く先は、紅の頭部であった。
慶次は右足を抱えられたまま、左足だけで飛び、その足で紅の頭を狙ったのだ。
がこっ。
足の甲が、紅の顎を打つ。
二人は同時に、マットの上に落ちた。
慶次の足首を、平常より数度外へ捻じ曲げたまま、紅は意識を飛ばしていた。
顔に張り付いた獣の笑みは失せて、初めて紅は、素の顔を他者に晒した。
微笑さえ剥がしてみれば、眠る顔は、やはり女のように白かった。




