雪に紅(5)
声援が無い。
誰も、誰かの名を呼ぶ事が無い。
学生の部活動とは、応援の声が会場中に飛び交っている、賑やかなものである筈だ。
然し、試合場に立つ二人の名を、誰も呼ぼうとしない。
二人は向かい合い、じっと動かなかった。
紅は、目の焦点をぼかしている。何処を見ているのか、見ていないのか、それとも全部を同時に見て居るのか――ゆらゆらと両手を動かしながら立っている。
慶次は、噛み付かんばかりの目で、紅の首から上を見ていた。両足の踵を浮かせて、とん、とんとマットにリズムを刻む。
進みもせず、引きもしない。開始時の間合いをそのままにして、じっと二人はそこに居る。
無論、耐えられない。
先んじられる恐怖、相手を討ち果たす希望を前に、じっとしていられる獣二頭では無い。
慶次が左足から、紅が右足から、前へ出たのは同時であった。
慶次の左手と紅の右手が、互いを掠め合い交錯する。
拳と、貫手。
慶次の拳が紅の右肩を打ち、回転を止める。紅の右手は伸び切らず、慶次の顔に届かない。
間を開けずの連撃、慶次は固めた右拳を、紅の左脇腹目掛けて振るった。
ごつごつとした、慢性的な受打で変形している、岩の如き拳である。
軽く当てても骨まで響く拳が、慶次の渾身の力で打ち出されて、紅の左肘を打った。
紅が、肘で脇腹を守ったのだ。
痛みに怯む様子も見せないで、紅はその左腕を蛇の如くしならせ、左手の指を突き出す。
慶次の鳩尾に、貫手が突き刺さる。
防御の為の腹筋そのものを痛め付ける、槍の如き指であった。
距離が近い、ポイントとはならない。然しその距離を、紅は更に詰めて行く。
近づけまいと、慶次が右膝を振り上げる。紅は左腕で防ごうとしたが、その腕ごと、首が天井を向いた。
「けああぁっ!」
左鉤突き。
浮いた顎を、慶次の左拳が、側面から殴りつけるように追った。
それが紅の被るスーパーセーフに届くより速く、紅の頭が低く沈む。
床に穴が開いて落下したかと思う程の速度で、紅は拳から逃れ、目の前の胴体に腕を回す。
慶次の左脇の下に、紅が左肩を押し付けた。
左側頭部が、慶次の背に触れる。
――裏投げか。
「ぬがぁ、ぁあああっ!」
左肘を、一度、二度、振り下ろす。
肘は紅の背に当たるが、距離が近過ぎる上に、脇の下に肩が挟まっていて、可動範囲も狭まる。鍛え上げられた背筋には、如何程のダメージも有るまい。
だが、肘が鬱陶しくて、紅もそのまま投げにはいけない。慶次の左脚に己の右脚を絡めたが、一度踏み止まる体勢が出来ていては、もう倒す事は出来ない。
「ふんっ!」
慶次の右拳が、紅の左脇腹を打った。
両腕で慶次の胴に食いついていては、防ぐ事は出来ない。
ショートレンジの突きであったとて、数が重なれば、これは耐えられない。胴に巻きつく腕が弱まるのを感じて、慶次は更に拳の速度を上げた。
――どうだ、これは。これは効くだろう。
表情は見えないが、聞こえはする。
脇腹を打たれる度に、あの赤い唇の隙間から、ふ、ふ、と息が零れている。
もう一発。もう一発。慶次は拳に捻りを加え、肉に衝撃を沈めていく。
すると突然、慶次の左腕が自由になった。紅がその場に、落ちるように座ったのだ。
紅は左脚を、慶次の股を下から潜らせ、慶次の左大腿を、己の左膝裏で引っ掻けた。そして右脚で、左脚を上から押さえつける――左脚にフックする。
――拙い!
そう気付き、逃れようとした時には、紅の左腕が、慶次の左足首を脇に抱え込んでいた。
紅が、慶次の脚ごと、体を横へ捩じった。
脚を本来の稼働方向とまるで違う向きに動かされ、慶次はマットの上に、俯せに倒れ込んだ。
「ぐっ――ぅううぐっ!?」
慶次が呻き、のたうった。
アキレス腱固め。
名称とは裏腹に、腱の断裂は難しい。関節を捩じるでも無く、逆に曲げるでも無い、奇妙な関節技だ。
但し――痛い。
腱を壊さないように加減したとて、恐ろしく痛い。
殴られたり蹴られたりとはまるで異質な、酷い痛みが有る。
赤熱した杭を突き立てられたかの如き、耐え難い痛みが、瞬間的に襲ってくるのである。
耐えようと思う暇も無い。どれ程の覚悟を持っていても、それを上回って、体の芯に突き刺さる痛みである。
慶次は、右脚で紅を蹴ろうとする。
マットに俯せにされ、紅の位置は見えない。闇雲に振り回した脚は、紅の背を打つが、速度も重さも、何も乗らない蹴りになる。
まるで躊躇無く、紅は腕に力を込め、背を反らし、慶次に痛みを与える。
慶次は歯を食い縛りながら、声にならぬ呻きを漏らし、脚を振り回し続けた。
脚が幾ら紅にぶつかっても、紅は力を抜かない。
痛みが次第に薄れ、熱と痺れに変わって行く。
絞め上げられる己の左脚が、そこに在るのかどうかも分からなくなる。
脚に噛み付く異常を振り払う、それ以外の事を全て忘れる程の痛みは、ふいに止んで、するりと抜けて行った。
「止めっ!」
審判が介入する。
高校総合格闘はスポーツである。学生の健全な発育を阻害せぬ為に、審判には配慮が求められる。
例えば関節技の攻防の場合、双方が何れも、まだ攻守を転じる可能性を持っていれば、止めはしない。だが今回のように、間違いなく切り返せないと審判が判断した場合、投げやタップと同じ、一本扱いとする――つまり、3ポイントである。
そうせねば、躊躇い、試合が終わらぬ事が有る。
そうせねば、躊躇わず、折りに掛かる者が有る。
神巫 紅はきっと、折りに掛かる人種である。
攻防は中段され、紅はすうと立ち上がり、開始線の向こうに立った。
慶次もまた立ち上がり――左足を引きずって、同じく立つ。
双方、また、あの形に構える。然し慶次の左足は、体重を掛けぬようにか、爪先がマットに触れる程度で浮かせていた。
「青、足関節、一本――始めっ!」
見守る周囲が、ほぅ、と息を吐いた。これまでの攻防に気圧され、息を殺していたのである。
息苦しさが解かれれば、次にはどよめきが伝播していく。
これは本当に高校スポーツのマイナー大会なのか。
拳の圧、技の妙は、おおよそ試合では滅多に見られぬものである。
幾人かは、この違和の理由を知っている。
此処で繰り広げられて居る戦いは、近代スポーツでは無いのだと。
公然とやりあう為に、ルールの中に収まってはいるが、これは立ち合いである。
若き武術家二人が、己の優越を示す為にぶつかり合う、なんとも古風な立ち合いであった。
「おおおぉっ!」
「しゃっ!」
再び交錯する、拳と指先。
何れもが既に、ポイントを稼ぐ打撃を諦めていた。
奪い合うのはポイントではなく、距離。最も打撃に体重を乗せられる距離である。
引き離そうと繰り出される慶次の拳。
近付こうと打ち出される紅の貫手。
互いが距離を奪い合う過程で、それらは互いの腹に幾つも突き刺さったが、然し決まり手とはならない。
立ち木を打つかの如き、後先も守りも考慮せぬ乱打である。
胴当ての上からでも腹筋が縮み、内臓が揺さぶられる程の衝撃の押収である。
次第に均衡が崩れ始めた。
押されて居るのは、打に勝る筈の慶次であった。
小刻みに間合いをずらしながら打って来る紅に対して、その間合いを保とうとする動きが、明らかに遅れて居るのだ。
誰もが原因を足首と見た。紅に散々に絞め上げられた、アキレス腱が痛むのだろうと。事実慶次の動きは、前に出るにも後ろに下がるにも、右足を起点にしていた。
紅の刺突が速度を増す。
精密性を捨て、速度と威力に重きを置き、紅は慶次の腹を執拗に打つ。
慶次は打ち合いを捨て、両腕で腹を庇った。
然し紅の指は、突く場所を選ばない。分厚い筋肉を束ねた慶次の腕もまた、紅からすれば的なのである。
太い腕に、指の痕が刻まれて行く。
爪も指先も全て一つに纏まって硬化した、異形の指が、肉を打つ。
五か、十か。慶次の両腕が下がった。空隙へ、紅の右手が伸びて行った。硬く握りしめた右手であった。
この試合で初めて、拳を作っての打撃は、空手のように捻りを加える事は無く、それでいて最短距離を真っ直ぐに走る。
低い背の中に溜まっている力が、みな湧き出してぶつかって行くような真っ直ぐさである。
そういう拳を――拳ごと、慶次の左脚が薙ぎ倒した。
ホールの中に、音が戻っていた。
幾つもの雑多な音が入り混じって、一つ何とは聞き取れないが、その内の幾つかは、明瞭な言語を用いずに叫んでいる。
――歓声。
音の雨を浴びながら、慶次は、倒れ伏す紅を見下ろしていた。
振るったのは左足で、上段回し蹴りであった。
左足が使えぬ振りをして攻め込ませ、ガードを下げ、待つ。これ幸いと打ちかかって来る瞬間、突き出す腕が作る紅の錯覚から、脚を割り込ませて切り落とす。
攻撃の瞬間、人の視界は狭まり、また手も一つは塞がってしまう。これより他は無く、これ以上も無い一撃であった。
当たれば立てぬ筈の感触を、振り抜いた左足に感じつつも、慶次は息を整える。
――終わる筈が無い。
もはやそれは、確信である。
息を深く吸い、腹の奥で一度留めて、ゆっくりと吐き出す。それを三度も繰り返した頃、紅は、操り人形が糸で引き起こされるような奇怪な動きで立ち上がった。
おお、嗚呼と、会場のどよめきが増す中で、慶次は開始線の後ろに下がり――
「押忍っ!」
顔の前で、両腕で、斜めに十字を切った。
両拳を腰まで引き、会場を揺さぶらんばかりの大音声。
「……ふふ、はは」
応えるように、紅が笑った。
始めは静かに、ふつふつと湧き上がる感情を抑えながら、それでも溢れたものだけ通すかの如く。
次第にそれが狂い始める。
身を仰け反らせ、けたたましく紅は笑った。
山間を風が吹き抜けて鳴らす音にも似た、突き刺すような笑声であった。
笑い、咽て、息を吸い、また笑う。
紅の笑声は、他者の笑顔を奪い取る声であった。ホール全てが凍て付き、狂に呑まれまいと、心の内に壁を張る。
「し……静かに! ほら、戻って構えて!」
審判が、紅の体を、開始線の向こうに押しやった。
自分の理解の及ぶように、状況を整えたいのである。
再び訪れた間合いが、ただ一人慶次には少し寂しく感じた。
もう少し近くで、あの狂声を浴びていたかった。
「赤、上段蹴り、一本! 始め!」
3-3。
開始の合図と同時に、慶次は前へ出る。そして、右拳を真っ直ぐ、紅の顔面へと突き出した。
当たった。
重い衝撃音と同時に、紅の首が横を向く。
同時に慶次の視界へ天井が飛び込んだ。顎を、紅に蹴り上げられたのである。
二つの打撃は同時であった。
膝を揺らしながら、紅は慶次の右手首を掴んだ。
慶次の左拳が、もはや間合いもフォームも関係なく、滅茶苦茶に紅を殴りつける。
当たれば良い――頭だとか胴体だとか、もはや慶次は何も狙わない。ただ、手の届く限りを殴りつけた。
その、拳の暴風の中に、進めた右脚を軸として、体を反時計回りに旋回させながら、紅が飛び込んでいった。
駒の如く回った身体の速度が、左肘に乗り、慶次の胸へ突き刺さる。
肺打ち――吸い込んだ空気を無理に吐き出させ、瞬間的に動きを止めさせる打撃。
次の瞬間には、慶次の右腕を両手で掴み、紅は一本背負いを敢行した。
慶次の足が浮く。
長い脚が、紅の胴体に、背中側から絡み付く。
もつれ合い、そのまま前方に倒れこめば、四点ポジションになった紅に、慶次が後ろから組み付く形になる。
――どうする。
本来であればこの体制は、圧倒的に、慶次に有利である筈だ。
然し慶次は、立ち技を主体とするファイターである。この姿勢から紅に掛ける技が無い。
有ったとして――高虎 修に勝る組み技の持ち主を、どう崩せばよいというのか。
慶次は立ち上がろうとした。然し、その発想に至るまでに、ほんの僅か、思考をした。
秒未満を争う戦いの中に、思考の猶予はない。
慶次の体の下で、紅が仰向けになった。
慶次の後ろ襟を右手で引きながら、両足の裏を、慶次の左右の大腿へ――バタフライガードを取る。
目の前に後頭部が有った筈が、気付けば正面から顔を見られている――慶次は我に返り、顔面目掛け拳を振り落した。
――届かない!?
慶次の拳は、幾度も空を切った。
慶次の下に組み敷かれる形でありながら、慶次の動きを制しているのは紅である。襟を掴んだまま、自分と慶次の上体を逆方向へ動かしてやるだけで、間合いは狂って拳は空振りする。
加えて、大腿を踏む両足が曲者である。
これが少し上に上って、脇や胸を足で押しやる事で、慶次は間合いの主導権を、完全に奪われている。
足を手で払って外そうにも、そうすると襟を掴む手が、慶次の体を引き寄せ、間合いを潰して来るのだ。
この位置取りでは勝てない――慶次は、紅の胸を左手で抑えながら立ち上がる。
正確には、足の裏をマットに着け、両脚をぐんと突っ張った。腰から先を折り曲げた姿勢になったのだ。
そこから、より速度を付け、瓦も叩き割る下段突きを放つ。
紅が、慶次の襟を掴み、引いた。
前のめりになった慶次の首を、紅の左腕が、脇の下に抱え込んだ。
フロントチョーク。
無抵抗で受ければ絞め落とされると、首を駆け上がる悪寒が伝える。
慶次は思い切り前のめりになり、それを耐えようとした。
慶次の腹に、紅の右足が触れた。
「りゃあっ!」
巴投げの要領で、慶次の体が浮き上がる。
回転する慶次の襟を掴んだまま、紅もまた後方へ回転した。
――来るか!?
身を捩り、完全に背から落ちるのを避ける。技有り、と宣告が聞こえたが、攻防はまだ続いている。
マットに落ちた慶次は、紅が自分の腹の上に着地しようとするのを見た。
咄嗟に膝を曲げ、着地地点の間に挟みつつ、両腕で思い切り突き飛ばす。
いかに技術巧者とはいえ、地に足が着く前では踏み止まれない。紅はマウントを取れぬまま、1mも後方へ転がって、そこで漸く立ち上がった。
「止めっ!」
3ー5。
一撃で終わる、危険域に踏み込んでしまった。
それが慶次には、心地よくてならなかった。




