雪に紅(4)
試合まで、三十分の休憩が与えられた。
その間に修は目を覚ましていたが――多くの言葉は無く、壁に背を預けて座っていた。
怪我は無い。怪我をする程の打撃は受けていないし、絞め技も血管を押し潰しただけで、骨を痛めもしなかった。
傷付いたのは――プライドだろうか。
慶次は、修に声を掛けない。修も、慶次に何かを言おうとしない。ただ、其処に座っているだけであった。
修の力量は、慶次も良く知っている。打撃も寝技も、何れも県レベルであれば、張り合える相手などそうは居ないのだ。
だが、それを上回って、神巫 紅は修を絞め落とした。
――修が蹴りを打たなかった理由が、終わってみれば分かる。蹴り足を取られ、関節技に持ち込まれるのが怖かったのだろう。
きっと、二人は幾度も試合をしている。その度に修は、紅の技を幾度も受け――極度の苦手意識を覚えてしまったのだ。
だから紅は、腕だけで防御が間に合った――修が拳しか使わないと分かっていたからである。
一度組み付いてしまえば、グラウンドの攻防となる。修はどちらかと言えば、組み技を得意とする選手だが、紅は修の得意分野で上回って見せた。
慶次は、己の戦力と、今の一戦で見た紅の戦力を、脳内でぶつけた。
打撃で有れば――空手ルールであれば、勝つ自信はある。
然し組み技であれば、どうにも勝ちの目は見えないどころか、負けないように堪える事さえ難しいのではないか。
組み付かれてはいけない、倒されてはいけない。そうなった瞬間、6ポイントを持っていかれる。
――出来るのか?
慶次は、己に問う。
慶次のリーチは極めて長く、拳も蹴りも遠くまで届くが――その反面、懐に入り込んでしまえば、十分なスペースが有る。
肘や膝が禁じられていないルールと言えど、柔術家に懐に入られて、容易く撃退できるとは思えない。本当に、一度も飛び込ませてはならないのだ。
間違いの猶予は一度。
二度しくじれば、自分は負ける。
そう思わせる相手が、神巫 紅であった。
「……おい」
慶次は軽く体を動かしていたが、背後から沈み行った声で呼ばれる。
「玲か」
振り向かぬままで答えると、玲は慶次の正面に回り込んで、少し遠い位置に立った。
一通りの防具をつけている――試合用の物でなく、打ちこみ練習用の、分厚い胴当てをしている。
「……取りに行ったのか」
「自転車で来ているのは、自分だけだ」
閉伊宮高校まで、会場から徒歩ならば、往復で一時間。自転車であれば、その三分の一で行ける距離だ。
何時の間にかいなくなったと思ったら、わざわざ道場まで戻って、練習用の防具を取りに行っていたのか――慶次は少しの間、何故だと考えて、それからその考えを止めた。
「わりぃな」
「構わん」
慶次は、一度間合いを広く取ってから、飛び込んでの右中段突きを打つ。玲は半歩だけ下がりながら、その拳を胴当てで受ける。
拳が触れた瞬間、慶次が右足での上段蹴りを打ち、それをスウェーバックで避け、また元の距離に戻る。
左右を入れ替えて、それをもう一度。終われば、また右、左と繰り返す。
中段へ意識を振らせてから、高い位置から打ち下ろす蹴りで防御ごと斬り落とすのが、慶次の狙いである。
これで勝てるのかどうか――分からない。然し、身体に染み付いた連携である。
極限まで疲労した時、最後のカードとして自分が無意識に選ぶだろう技は、左上段突きか、右中段突きか、いずれかであると思う。単発では勝てまい、だからもう一つだけでも、繋げられるようにしておくのだ。
「……強かったか」
「自分に、聞くのか」
「すまん」
慶次の問いに、嗜めるかの如き響きを滲ませて返しつつも、玲は平静を保っていた。
「……堪えてねぇように見えた」
「実感が無い」
初めて玲が、蹴りを返した。ほぼ無拍子に、慶次の顎を狙う右爪先は、指一本分の空間を開けて止まり、床に引き戻される。
「自分が、あれと戦ったのは確かだ。負けたのも確かだ。然し、実感が無い。自分があれの突きや投げを、防ごうとしていたのか、定かでないのだ」
「……」
「あまり技量が離れていると、こういう事もあるのだな。負けた事に気付かないままで負けたようだ。……あれは別だろうが」
「修か」
玲は頷き、続ける。
床を離れた右足が、二度、三度と翻って、全て慶次の頭の手前で寸止めされる。
「あれは、自分より意地が強い。それに……己が負けた実感のある顔だ」
「何を言えば良いと思う?」
「何も言うな」
踏み込み、慶次が胸を突く。玲は、何も防がず、ただ受けた。
そうだ、何も言えない。
慶次は、技と力をぶつけ合うのが好きだ。だが、勝つのも好きだ。負ければ、歯軋りする程に悔しいとも思う。
だが、修の気性は、腹の底に抱えた本性は、慶次にも勝って熱い。
始めた理由はどうでも良い。一度、武で他者と競い合うと決めたからには、己の負けが我慢ならないのだ。
慶次が入部を決めた日の組手で、意識を刈り飛ばされてから、修がどれだけ打撃の練習に時間を割り振っていたか、慶次は良く知っている。
ただ一度、公式の場で無い負けだとしても、次は負けぬと食らいついて来る、修の目を知っている。
絞め落とされる寸前、片腕でマットを這う修は、その目をしていた。
――勝ちたかったのか。
勝ちたいと、一語で済ませられる感情では無かった筈だ。
幾度も、幾度も負けを重ねた相手を、例え心の底に勝てぬという意識がこびり付こうとも、今度こそはと火を宿して行った筈だ。
そうして燃え盛った修に、どうして声を掛けて良いだろうか。
その火が修の中で収まり、煙では無く言葉を発するようになるまで、慶次は修を見る事さえも、してはならぬのだと思った。
「それにしても、玲」
「なんだ」
右、正拳。
顔の、本当に一寸(3cm)手前で止めて、慶次はウォーミングアップを終えた。
程良く体は暖まった。心は未だに、火が着き切ってはいない。
然し、思った事も有るのだ。
元より試合というものは、自分と相手の二人だけでやるのである。
試合に至るまで、自分の上に誰かがどれだけのものを積み重ねたとしても、戦うのは重ねた誰かでは無く、荷を支える自分だ。
然し、荷の重さで動きが鈍る事も、また軽くなる事もある。
「お前、色々見てんのな」
「……おかしな事を」
慶次の冷やかしを受け流し、玲は眼鏡のフレームを、親指と薬指で押し上げた。
玲が乗せ、修が乗せた荷は、慶次を激させはしない。その代わり、心の曇りを拭った。
負けると思うな、俺は勝つ。
己に言い聞かせて、ぐっと、拳を握った。
「赤、龍堂 慶次!」
「押忍!」
――もう始まるのか。
審判に呼ばれるまま、答え、試合場へ進み出る。
畳とあまり変わらない強度で、凹凸は限りなく少ない10m四方のマットを踏み、中央までを行く。
スーパーセーフは平常より、幾分か視界を狭める。目に入る人間の数が少なくなる。
他校の生徒が二人、顧問が一人、大会の運営だろう中年も二人ばかり、視界の端の方にちらちらと映る。これを、思考から切り捨てる。
正面のぐっと奥の方を見てみれば、小さな番犬のような顔をした正人が、今にも自分が戦いに出るのかという顔をして、床を踏み締めて仁王立ちをしている。これも、意識から切り捨てる。
俺の後方には、どっかり胡坐を掻いた師範代も、両手を胸の前で握り合せた御幸も、棒立ちで見ている玲も、そして修も居るだろう。
全て、忘れる。
三十分はあっと言う間だ。結局、勝ちの目などは見えないままで過ぎて、良く分からぬ内に試合がやって来た。
どうしてか俺は、これからやりあう相手と自分が殴り合う姿が、明確に思い描けないでいた。
思えば、先の二つの試合もそうだった。
目の前で戦う姿を見ているのに、何故か靄が掛かったように、あいつの腹の中は見えない。
少し覗き込もうとすると、微笑で誤魔化されて、分からない内に時間が過ぎる。
――もしかして、化かされているのか。
口元を手で隠して笑い、長い髪を指で梳く。そんな振る舞いが違和感を生まない。
雪国生まれの白い肌――紅を差せばきっと、見事に女に化ける筈だ。
もしかすると、思考に掛かる霞は、あいつが子守唄にしていた吹雪なのかも知れない。
ひょう、ひゅおう、唸りを上げる風と、睫毛も凍る風の中に、一輪、紅い花が咲いている。
そこに在る筈も無い花だ。だから、見つけてしまうと、どうして良いのか分からなくなる。
俺は今、雪原に花を見つけて、このまま眺めていれば良いのか、摘めば良いのか、それとも背を向ければ良いのか分からなくなっている男だった。
「青、神巫 紅!」
「はい」
――そうだ、そういう名前だ。
足音も無く、紅は、開始線の手前までやってきた。
黒の道着、黒の袴、黒の帯。影を隠し、動きを悟らせぬ戦装束。ルールに乗っ取って身に付ける、スーパーセーフやオープンフィンガーグローブまで黒である。
身長は、165cmも無い。俺とは30cm以上の差が有る。体重も20kg以上の差が有るだろう。
この体格で、あれだけの強さを積み上げる為に、どういう鍛え方をして来たのか、知らないし、想像も付かない。
知っているのは、強いという事だけだ。
俺とこいつと、どちらが強いかは、これから決める。
――そうだ。これから、それを決める為に戦う。
「構えて!」
ざん、と、音が二つ。
一つは俺が、一つは紅が立てた。
俺は腰を落とし、右足を後ろに、左足を前に置き、両足に均等に体重を乗せた。右拳を鳩尾の前に置き、左手は手刀にして、顎の高さに、体から離して置いた。つまり、普段と同じ形だ。
紅は、両足を前後に開いた上で、前に出した左膝に、上体を被せるような前傾姿勢になる。両手は胸の高さで、開いて浮かせている。修との試合の形、そのままだ。
俺も紅も、思わず笑っていた。
近代的な競技の場だというのに、なんとも古臭い構え二つだ。
種目もまるで違う。
空手と、柔術である。
殴る技術と、投げる技術である。
いや、その表現は、正確には違う。
殴って勝ちたいのか、投げや絞めで勝ちたいのか、である。
途中にどういう技を挟もうとも、最後に決着を付ける時、どういう技で勝ちたいのか。少なくとも俺は、拳で片を付けたい。
こいつは、何で勝ちたいのだろう。
俺の腕を折りたいか。
襟を掴んで投げたいのか。
その槍のような指で、喉を思い切り突き刺したいのか。
そう考えると、俺は玩具売り場の子供のように、舞い上がって走り出したくなる。
――やっと、この感覚が来た。
時間が掛かったが、試合には間に合った。
戦う以外の事がどうでも良くなって、聞こえる音が減って行く。胸郭を突き破って、心臓が飛び出す錯覚まで有る。
強い奴と思う存分、二人きりで戦える。
これから三分間、こいつは俺のもので、俺はこいつのものだ。
「両想いですね」
透明プラスチックの防護面の向こう、紅が微笑んでいる。
「だな」
自然と頬が緩み、牙を剥いた。
「始めっ!!」
俺は最初から、獣の顔になっていた。




