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雪に紅(3)

「赤、高虎 修!」


「はいっ!」


 審判に呼ばれて、修が試合場に上がる。

 180cm、75kg。組み技選手としてはやや軽いかも知れないが、打撃選手と考えれば、この背でもっと軽くてもおかしくは無い。

 必要な筋肉を選んで付けたような体に、持久力を落とさない程度の脂肪を残した結果、これくらいが動き易かったという重量である。

 生地の頑丈なズボンに、上半身は裸。後は、規定通りの防具を身に付けている。

 普段は空手道着なり柔道着なりの上を着る。一回戦目でも、空手道着を着ていた。だが、この試合では、それは無い。

 開始線の後ろに立った修は、手首と足首をゆっくりと回した。


「青、神巫 紅!」


「はい」


 紅は、滑るように進み出た。

 163cm、64kg。参加選手の中では最も小柄である。

 雰囲気も、周囲を戦慄かせる類のものでは無い。凶暴さで言うなら、連れの正人の方が余程、今にも噛み付いて来そうな凶暴ぶりである。

 柔道着にも似た上着は、黒。袴も黒。帯まで黒いので、衣服の継ぎ目が何処であるのか分かり辛い。

 例えば、布が動けば皺と影が出来るが、これだけ黒いと、影とそうでない部分の見分けが、利かぬとは言わないが難しくなる。ほんの僅かにでも、初動を誤魔化す姿である。

 静かに立って、動きを止めた。


「構えて!」


 修の構えは、常のものと、また少し違っていた。

 両足はベタ足――踵を浮かせず体重を降ろしているが、やはり拳の位置は高い。オープンフィンガーグローブだというのに、ボクシングに近い構え方である。

 普段は背を伸ばしているが、今回は前傾姿勢で、両足を左右に並べず、右足を少し後ろに引いている。

 本来の構えとは少々違う。傍目に見て、そう断言出来る形である。

 紅の構えは、古臭い形であった。

 こちらもベタ足で、足を置く幅は広い。左足が前、右足が後ろである。

 背はかなり前傾にして、まるで自分の左膝に、上体を覆い被せるような体制。胸の前に伸ばした腕は、左右とも開いたままである。 視線は交錯しない。互いに相手の顔を見ないのだ。

 相手の目を見る事を、互いが避けているようで、


「始め!」


 そして双方が前に出た。

 低い姿勢になった紅の顔面目掛け、修の拳が二つ、左、右の順に走った。

 寸分違わず同じ個所、顔面の中心を狙うワンツー。中心過ぎて、左右の何れへ避けようにも、拳の端が顔の端に当たるような突きである。

 倒す打撃では無い――軽い。紅は、左前腕を盾にして、二つを防ぎながら進んだ。

 紅の進み方は、足の前後を固定する、所謂武道的な動きでは無かった。歩くように、左足を前に出し、右足を前に出すやり方である。右足が前に出る折に、紅の右手もまた動いた。

 動きの起点は指先であった。右手の指が、構えた位置から真っ直ぐに、修の顔へと向かってくるのである。

 ――指!?

 拳では無い、指。それは、修の常識の外にある打撃である。

 修は左手を顔の前に引き戻したが、その手の横を、紅の一列に並んだ右手指が擦り抜けた。

 かん。

 修の顔を守るスーパーセーフの透明プラスチック面から、硬質の衝突音がした。


「止めっ!」


 どよめきが、ホールの中を覆った。

 此処に居るのは、曲がりなりにも格闘技を嗜む者達だ。人体のどの部位が、どういう用途で使われるかを知っている。

 指先は確かに、打撃に使う事も出来る部位だが、


「……慶次。あの子、半端じゃないわよ」


「……押忍」


 指先での打撃は、貫手ぬきてと呼ばれる。

 腹や喉、場合によっては脇や鎖骨の上、それから目などを狙う、弱い部位を突き刺す打撃である。

 然し、神巫 紅は、顔面を守る防具へ、拳と同じように指先をぶつけた。並ならば指が折れ、爪が欠けている筈だ。

 まるで近代的な武道とは掛け離れた技術であった。


「青、上段突き、有効! 始め!」


 0ー1。

 ただ一度の攻防で、この試合の異常が、ホール全体に伝わっていた。

 次の合図でも、また二人は前に出る。そしてリーチの関係か、修が先手を取り、拳を放つ。

 先の攻防の反省か、拳二つを放つと、直ぐに修は後方に逃れる。直ぐに拳が届かない間合いとなってから、紅を中心とした、時計周りの円を描き始めた。

 左。

 左、左。

 左、左、右、左。

 修は常に紅の右側へ回り込もうとしながら、ジャブを中心としたコンビネーションを放った。

 動き回って、片時と止まらない。打撃のベースは空手であった筈だが、見事なボクシング――アウトボクシングである。

 ただ一点、瑕疵を探すのであればフットワークだろうか。修は意識して、踵を浮かすまいとしているようであった。


「……ちぐはぐだな」


「そうするしか無いのよ、修くんが」


 紅は、修が動くのに合わせて、体の向きを変えながら、両腕で拳を弾き続けていた。

 防具の奥に隠れて表情は見えないが、紅はきっと、あの女のような顔のまま、微笑を続けているのだろうと、慶次は思った。

 紅は中々攻撃に出ない。

 リーチがかなり違う上に、大きく動き回らない事を前提にした立ち方である。動かないというより、動けないのかもと、見ている幾人かは感じただろう。

 然し、対峙する修が、それは違うと、誰よりも強く感じていた。

 ――当たらない。

 中学の頃にも修は、この紅と、東北大会で拳を交えていた――空手でも、柔道でも、である。

 その時は一度も勝てなかったが、あれから自分だとて、技量は磨いた筈なのだ。

 空手では足りないから、ボクシングを学んだし、高校に入学してからは、自分より打撃が上の奴と組手を続けている。拳の速度も、防御の隙間を縫う目も、磨いて来たのである。

 左、右、左、左。

 ジャブ、ボディフック、ボディアッパー、フック。

 頭に向かうものを紅は叩き落とし、腹へ向かうものは直撃だけを避けるように、拳に腕をぶつけて衝撃を殺す。ポイントさえ取られなければ、ダメージは気にしないという防ぎ方である。

 然し、修は愚直に、拳ばかりを繰り返す――蹴りを打たない。

 自分の左膝に覆いかぶさる紅の構えは、下段蹴りの恰好の餌食の筈だ。左脚を潰し動きを止めれば、後は思うように仕留められる筈だが――

 ――出来ない。

 修は元々、打撃より組み技が得意である。だのに今回は、組み付きにも行けず、ボクサーの真似事で留まっているのは、組み技で競えば紅が勝ると、修自身が思っているからである。


「あの子、紅くんだっけ……」


「仙岳無尽流と言ってました」


「……ばりばりの柔術系ね」


 流派の名を聞くや、紗織は酷く顔を曇らせた。


「知ってるんですか、師範代」


「そういう集まりの時、何回か向こうの師範に会ってるわ。お酒が入ると機嫌が良くなって、山ほど有る宴会芸を始める人だったわよ。

 うちみたいな何でも屋の武術だけど、うちが打撃偏重なのに比べて、向こうは組み技が多いわ。……門下生は凄い少ないみたいだけど」


「……理由は、やっぱり」


「練習がきついから。……きついって言っても、あんな無茶な鍛え方だとは知らなかったわよ!」


 鋼の如く鍛え上げられた指先は、拳とは別種の凶器である。然し、凶器として成り立つまでの道程は、拳との比ではなく険しい。

 仙岳無尽流は、その険しい道程を歩く流派である。

 土を突き、砂利を突き、竹を突き、壁を突き、空缶に重りを入れて突き、地面を突く。その過程で爪は幾度も剥がれ落ちるが、再生する度に爪は分厚く変わって行き、指の皮も頑丈になっていく。

 当然だが、痛みは尋常では無い。自らの意思で指を潰し、爪を剥がし、肉を裂くのだ。

 痛みに耐え兼ねて、途中でその道を投げ出す者は多い。そして、そも門を叩く母数は少ない。

 然し、その痛みを潜り抜けて仕上がった指の破壊力たるや――


「しゃっ!!」


 紅が、この試合で初めて吠えた。

 顔へ向けて飛んだ修の左拳を、下から手首を指で跳ね上げ、避ける。


「ぐっ……!」


 手首の腱と血管を、硬い指先で突きあげる。修が痛みに呻き、咄嗟に左手を引いた。

 その隙に、紅が割り込んだ。

 引いて行く手を追い掛け、或いは追い越すかという速度で踏み込み、紅の左手が修の左手首へ伸びる。

 右拳――修の右手が、向かって来る紅の顔面へと突き出される。紅は首を右に傾け、紅の左肩の上を、修の右拳は背中側へ抜けていった。

 紅は、修の腹へ右肩をぶつけながら、右脚を、修の左脚に絡める。そして、修に体重を預けるのではなく、共に横へ倒れ込んだ。

 有効の判定は無かった。投げの判定は下りないが、止めもされない。縺れ合ったまま、攻防の舞台は低きに移った。

 高校総合格闘のルールであれば、グラウンドの攻防で、一番疲労せずにポイントを取れるのは、マウントポジションである。然しこれは、双方の力量差が大きくなければ難しい。

 技量が同等の者であれば、まず『不利な姿勢にならない』事を、双方が優先する。修は咄嗟に、紅の体を組み敷き、抑え込もうと動いた。

 仰向けになった紅の胸を、側面から胸で押し潰しながら、修は紅の左腕を狙う。右手で手首を掴みに行きながら、左腕を紅の左肘の下へ通し――最後に、自分の右手首を、左手で掴もうとする。柔道で言うなら、腕がらみの形だ。こういう関節技は、完全に決まれば、タップする以外の抜け方は無い。

 そればかりで無いのは、修の形相から伺えた。

 試合場の外から見ていた慶次は、防具の向こうで、修の顔が変わるのを見た。

 ――あいつ、折る気だ。

 絡め取った腕を修は、そのまま圧し折ってしまえという勢いで締め上げに行く。

 相手が素人であるなら、もう相手の肘は、逆に曲がって、骨が皮膚を突き破り飛び出していただろう。だが、紅は素人では無い。そして、尋常の枠に収まる武術家でも無い。

 紅の左腕が伸び切る手前で、その腕が、修の手を振りほどいて引き戻された。そう見えた時には、紅の小柄な体が丸ごと、修の背中側に回り込んでいた。


「速――っ!?」


 持ち上げて隙間を作り、体を引き抜き、回り込んで覆いかぶさる。一連の動作が慶次には、奇術か何かかと思う程の速度であった。

 背後から、修の両脚に、紅の両脚がフックされて動きを阻害する。

 修の首に、紅の右腕が巻き付く。

 左腕が、修の後頭部を押し下げた。


「修!」


 慶次は思わず立ち上がっていた。

 本当に全てが、気付けば進んでいて、何が起こっているのかさえ分からない。

 分からないが、何時の間にか修が、1ポイントも取らぬ内に背後を取られて、首を絞められている。


「立て!」


 自分が、玲に絞め技を掛けられていた時とは逆に、慶次は修に立てと言った。

 無理だ――そうも分かっている。

 玲は慶次の首だけを絞めたが、紅は修の首を絞めながら、脚の動きをも殺している。立つどころか、膝を上半身の下へ入れる事さえ出来まい。

 紅の腕を掴んで引きはがそうにも、がっちりと首に食い込んだ腕は、鋼の錠の如く動かず――抵抗する手の動きも、次第に弱弱しくなっていく。


「立て!」


 修の目が、慶次を見た。

 引き剥がす為の手をマットに置いて、上半身を無理に浮かせて――両手で、二人分の体重を引きずる。


「そうだ、来い、こっちだ!」


 慶次は足を踏み鳴らし、自分の所まで来いと、修を鼓舞する。

 場外に出れば、試合は止まる。もはやそれ以外に、この絞めから抜ける術は無い。


「来い! 修!」


 紅の左腕が、修の首から離れ、修の左肘を巻き取る。

 紅の右手が、紅自身の道着の襟を掴み、外れた左腕の代わりのフックとする。

 たった一つ、自由になる右手で、修は1mを進み――そして、動かなくなった。


「止めっ! 青、絞め技、一本!」


 審判が駆け寄り、修の首や口元に手をやる頃には、紅は開始線の後ろでスーパーセーフを外し、伸ばした髪を自由にさせていた。

 絞め技で落ちれば一本、3ポイント。その後、20カウントの間に立ち上がらなければ、試合続行は不能と見なされる。始まったカウントを、紅はもう、聞くまでも無いと待っていた。そして実際に、20を読み終えても、修は意識を失ったままであった。

 試合終了。たった六人のトーナメントで、決勝に進む二名は決まった。

 ――あれは。

 慶次は、意識を失ったまま戻ってきた修に、たった一度目を向けただけで、紅の背を追い掛けた。

 タオルを持った正人が、慶次と紅の間に割り込む。小さな番犬は、歯を剥き出しに唸り、


「次は貴方ですね、龍堂 慶次さん」


 紅は汗をタオルで拭いながら、口元を右手の甲で隠す。


「お兄さん程に強いのか、どうか。私を愉しませてください」


 女のように――それも、色目を使う女のように。

 長い睫毛で、流し目で、紅は慶次を誘って微笑んだ。

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