雪に紅(2)
ホールには十分な広さがあり、審判も人数は足りている。進行を迅速に行う為、一試合目は、三試合全て、同時に行う事になっていた。
とは言え――市のレベルでは、あまりに力の差が有りすぎた。
「止めっ! 赤、上段蹴り一本、赤の勝ち!」
慶次は9-0で、つまりは上段蹴りが三度で、山口 明良に勝ちを収めた。
互いに礼をし、試合場から降りる。面を外して深呼吸を一度すれば、それだけで鼓動のリズムは元に戻った。
「お疲れー。慶次、もうちょっと突きを使ってもいいんじゃないの?」
「押忍っ!」
返事は、押忍だけでいい。はいも分かりましたも、全部が押忍――それが尚武館である。その流儀に合わせて試合を終えた慶次は、さて、と他の試合を見ようとした。
が、一つは既に終わっていた。修はきっかり8ー0で、鈴木 猛に勝利を収めていた。
「修は、どうやって?」
「開始と同時に上段ワンツーで技有り。その後、投げで一本からマウント取って終わり。十秒ちょっとじゃない?」
「……はっや」
組技はやはり、一気にポイントを稼ぐ手段があるから強い。修と当たるなら、やはり組み付かれない手段を考えねば――慶次はそういう算段を立てていた。
そこでふと、別な事に思考を回して気づく。試合の終わった修は何処だ、と。とはいうが、所詮は同じホールの中。少し目を動かせば、すぐにそこに見つかった。
「お、修――」
「見てろ!」
慶次が声を掛けると、修は試合場を指さして、語気も荒く言った。
試合場では、玲が、あの二人組の少年の片方と対峙していた。二人の内の、背の高い方。修に手を振った方だ。
上着は柔道着に近いが、真っ黒で、少し生地が堅そうだ。腰から下は袴で、これも黒。松風 紗織のスタイルによく似ている。
どういう試合展開かと、慶次は得点版を見て――
「……マジかよ」
2ー7。
玲は、一方的に追い詰められていた。
玲が、鞭のような蹴りを乱打する。それを相手の少年は、見事に両腕で捌いていく。
上段の蹴りも、中段の蹴りも、下段に至るまで、腕だけで――脚を持ち上げて脛で受けるような事もせず、避ける。
容易く出来る芸当では無い。
腕と脚なら、脚の力が勝るのは当然の事。だから蹴りを腕で捌くのは、力の向きに応じて、上手く流してやる必要があるのだ。
玲の蹴りは、矢継ぎ早に、あらゆる角度から繰り出される。膝を狙った蹴りが軌道を変え、頭の上から落ちて来るような事さえ有る。それを少年は、事も無げに受け流しているのだ。
「どうなってるんすか……?」
「最初に玲が、中段蹴りで技有り。後はあの子が……ひたすら、上段突きと中段突きだけで、有効七つよ」
同時に複数試合を見ていた紗織が、顛末を短く説明する。
蹴りでなく突きか――それも、慶次を驚かせた。
玲と、対戦相手の少年は、25cmは身長差が有る。玲の脚と相手の腕だと、リーチ差は30cm以上にもなるだろう。それを埋めて打ち込むという事は――
「修、あいつは誰だ」
呟きを、聞いたものだろうか。試合中であるのに、その少年は、慶次の方へ顔を向けて、あの微笑を零した。
横を向いた頭へ、玲の蹴りが迫る。
右足、上段、後ろ回しの踵蹴り。
それを少年は掴み、軸となる左足を払って、玲を背中から落とした。
「神巫 紅……柔術が専門だが、空手も柔道もやっていた」
2ー10。
試合が終わり、試合場を出た紅は、修と慶次の方へ、また笑いかけて手を振る。
「俺が東北で勝てなかったのは、あいつが居たからだ」
手を振りかえす余裕などは無い。修は拳を握りしめ、両肩を震わせていた。
三分間とは言え、高校総合格闘は、運動量の多い種目である。
また、防具の上からでも打撃を加えるとなると、試合中は良くとも、その後で不調を訴える者も、稀に出る。そういう事があるので、試合と試合の間には、比較的長い休憩時間が設けられている。
修は、一人で何処かへ、準備運動に行ってしまった。玲は――恐らく、帰ってしまったのだろう。紗織と御幸が昼食を取る姿を横目に、慶次は、二人でぽつんと座っている、背の低い少年達の元へ向かっていた。
何故か――理由は良く分かっていない。
玲が負けたからと言って、その恨みを吐くつもりはないし、修の為に何かを聞き出そうというつもりでも無い。
初対面の人間と会話が弾むような、社交的な人間に育ったつもりも、毛頭無い。
ならば、何をしに行くというのか。
「なあ」
声を掛けると、合わせて四つの目が、慶次に向いた。
二つは穏やかで、先程まで誰かと争っていたとは、とても思えないような目であるが、さて一方は、躾けの悪い犬のようであった。
「なんだ、あんた」
「尚武館流、龍堂 慶次」
「喧嘩か!?」
160cmも無い少年は、立ち上がり、今にも慶次に掴みかからんばかりの形相である。生来きつい作りなのだろう目が、余計に角度が吊り上っている。
それを、紅が、手で制した。
手で制するばかりで何も言わぬのは、その口の中は、握り飯で埋まっていたからである。もごもごと頬を膨らましたりへこましたりしながら、目つきの悪い少年の袖を、ぐいと引いて座らせた。
「んっ、んん。……ふぅ」
喉が動いて、どうやら飲み込んだと見える。水筒を口に付け、咥内を空にして、やっと紅は一息付いた心地で、
「正人、座りなさい。……多く作りすぎたんですけど、食べます?」
「お……おう」
慶次に、特大の握り飯を差し出した。
取り立てて断る理由もなく、慶次はそれを受け取ってしまう。立って食うのもなんだったので、その場に胡坐を掻いた。
その間に紅は、こちらも同じくらいの大きさの握り飯を、もう一つ手に取って食べ始める。二人が食事を始めたので、残された正人――目付きの悪い少年まで、やはり握り飯をかっ食らい始めた。
味は薄いが、塩。具は、缶詰か何かだろうが、ツナが入っている。
割と美味い。
割と美味いのだが、俺は何をやっているのかと、慶次は良く分からなくなった。
そもそも、此処へ来た理由も分からないまま、身内でなく、何処かの赤の他人と昼飯を食っている、この状況が分からない。
食いながら慶次は、目の前の二人を観察していた。
いずれも小柄で、だが骨格は出来上がっているように見える。背は殆ど伸びきってしまっているようだ。
肩が分厚く、腕も強そうだ。だが、特に目を引くのは、指先である。
指の関節が太く、爪が短くも分厚い。指先の皮膚が硬質で、爪との継ぎ目があいまいになっている。
「……すげえ手だな」
思わず、慶次は言った。
日常的な使い方どころか、普通の格闘技を学んでいたとて、こういう手は仕上がらない。指先を、特別に鍛えない限り、こんな手は完成しないのだ。
「指相撲でもします?」
「……いや、いい」
紅は、友好的に手を伸ばして来る。ほんの一瞬だが慶次は、受けてもいいかと血迷った。正人が今にも噛み付きそうな目をしていなければ、実際に一戦始めていたかもしれない。
指を抑え込んだり、抑える指から逃れるように、紅は親指を動かしてみせた。
こういう茶目っ気は、裕也に似ているかも知れない。
けれど裕也の陽気は、子供の無邪気と残酷の和だ。楽しさという絶対の基準を元に動く、大きな子供が、裕也である。
紅は、少女の洒落気を帯びていた。
少女という生き物は、ただ笑って咲いているだけで、人の目を惹く花になる。
子供であれば賢しいと、大人であれば幼いと、嘲笑われるか細い線の上を、よろめきもせずに歩くのが、少女である。
「尚武館流、でしたっけ?」
「おう」
「私の所は、仙岳無尽流と言いまして」
――俺は何を考えている。
紅の指は、骨に肉が被さるのではなく、骨が太くなって、そこに殻が被さったような指である。
こんなものを備えているからには、こいつは紛れも無く、武術家なのだ。
スポーツ格闘技とは一線を画す、現代では用いる場所も無い技術の持ち主。無益の労を嬉々として積み重ねたのが、この少年なのだ。
「……大仰な」
意識を引き戻さんが為、無理にでも、何か言葉を繋ぐ。
「ですよねぇ」
それでも、手で口元を隠し苦笑する紅は、女のようだった。
髪も――これは正人もそうなのだが――男にしては、少し長すぎるようにも見える。
それを見ていると、紅が、慶次の視線の正面に移動した。
「まずは手で、次が髪。気になります?」
「長えよな、とは思うが」
「掴みやすそうだと思います?」
右手に己の髪を乗せ、左手には正人の髪を乗せ、常人ならば思わぬだろう事を言った。
――師範代と、同じ種類の生き物だ。
高校生が行うあらゆる競技で、対戦相手の髪を掴むのは反則行為であろう。本来ならば警戒さえ、不要な事象である。
「このルールはいいですね、頭髪を防具の内側に隠せる。……私はどうも、長い髪が好きでして」
「掴めるのなら、掴むのか」
「貴方はどうです?」
言われて、慶次は腕を組み、首を捻った。
「……やるかもなぁ」
「でしょう?」
慶次自身は、相手の髪を掴むという発想は、あまり持ち合わせていない。だが、例えばそれが許されるルールの中で、そういう必要が有ったら、反射的に掴んでいるのではないか。
それでも慶次は、殴る蹴るで勝ちたいという人種だ。掴んでやろうと思って、相手の髪を掴む事はするまい。
然し目の前の、女のような顔をしたこいつは、そういう事を自分からやるだろうし、される事を想定しているのだ。
「高虎 修さん。貴方のご友人ですか」
「…………」
「私が勝ちますよ」
握り飯が無くなった頃、紅は、天気の話題をするかの如き気軽さで言った。
「お前、やりあうのは好きか?」
慶次が、そういう風な聞き方をすると、
「ええ、とっても」
手の甲で口を隠し、神巫 紅は上品に笑った。




