雪に紅(1)
月が変わって、五月になった。
五月の頭には、学生全てが待ち焦がれる大型連休が控えている。
この頃合いは天候も良くなり易く、気温も高すぎず、行楽に適しているのではあるが、然し総合格闘部の面々は、それを待ち望んではいなかった。
「はいっ、それじゃあ次! 防具付けて!」
「押忍!」
松風 紗織が号令を掛け、五名の部員に指示を出す。
この日、総合格闘部は、練習の強度をやや控えめにしていた。
翌日はこの総合格闘部にとって、初めての大会であるのだ。
市民体育祭という行事が、閉伊宮市には有る。
市民とは名を打つが、誰でも参加できる大会で、優勝したからと言って何かが有るでも無い。その代わり、一通りの種目はやる。
野球やサッカーのような球技は言うに及ばず、ヨットからレスリングから――勿論、高校総合格闘に至るまで。
その大会に、彼等も丸ごと、参加を決めていたのだ。
「いいわねー、今日は動きの確認くらいよー。怪我とか絶対に無し! 疲れを残すのも無し! 鈍らせない程度に動いておきなさーい!」
「おーっす!」
各々防具をつけて、緩やかな打ちあいを始める。
剣条 裕也と高虎 修は、組み技をメインに据えて、それに打撃を散りばめる、正に総合的な練習を行っていた。
裕也が打ち、修がそれを潜って飛び込む。テイクダウンを取れば後退し、修の打撃を裕也が潜って行く。
その折に、打撃の角度を調節したり、組み付く際の体重の掛け方や、掴み方を今一度、一通り確かめるのだ。
この一日の練習で、技術が飛躍的に向上する事は無い。だが、一日動かずに居ると、やはり勘は鈍るものだ。それを防ぐ為の、相手の動作に対してこう動くという約束事を確認する、いわば約束組手であった。
さて、視線を移せば、龍堂 慶次が、浅上 玲と向かい合っていた。
この二人の間合いは、恐ろしく広い。何せ4mも離れて立っているのである。
そして、互いの目を見て、機を計る。
良しと思った所で、二人はほぼ同時に踏み出し、打点の高い蹴りを打つ。
狙いは頭だったり胴体だったりするが、いずれも寸止めである。その寸止めに対し、防御を合わせたり、避けたりをするのだ。
玲は極度に蹴りだけに偏重したストライカーであるし、慶次も玲程では無いが、やはり得意技には蹴りが多い。
こちらが行っているのは、動く的の、目的の部位に打撃を合わせるという一連の流れである。
この二人の場合、何れも背が高い為、頭の位置も高い。だから、上段蹴りなどは、体が硬いものでは到底届かないのだが、彼等は易々と届かせて見せる。日頃の鍛え方の一端が伺えた。
この光景を横に、あと一組――佐渡 御幸が、松風 紗織の胸を借りて、打ちこみをしていた。
「えーいっ!」
「気合は腹からっ!」
そしてここだけ、幾分か平和であった。
踏み込んで、上段に突きを打ち、戻る。戻った場所からまた踏み込んで、突きを打つ。そういう動作を、愚直に繰り返すのである。
突きは左右交互に打つが、その時に、脚も左右を入れ替える。つまり、どの突きも、踏み込んだ足の側で行われる事になる。
空手最速の技、上段順突きの練習である。
尚武館流は総合武術であり、中国拳法系の動きも有るが、打撃は空手の技術を中心に組み上げられている。慶次が学んだのも、また空手である。
相手を殴り倒すのであれば、ボクシング等、威力の高い打撃は幾らでもあるだろうが、初心者がポイントを取る為の突きであれば、これで良い。それが紗織の教育方針であった。
「はい、もっとペース上げて次っ! ……とそれから慶次、受けの腕が体から遠すぎ! もっと引き付けて防ぎなさい! 修くんはタックルを低くし過ぎるから膝貰うの!」
御幸の突きを捌きながら、紗織は視界の端にもう二組を留めて、あれこれとアドバイスを飛ばしていた。
「そういえば、裕也くーん」
「はい?」
「明日の組み合わせ表って出てるの?」
「出てないっす! 明日、受付で貰えるらしいんでー、それまでのお楽しみ!」
「わーお。ぶっつけ本番!」
明日に控えた市民体育祭、高校総合格闘であるが、どうにも参加選手は少ないという。女子のトーナメントに至っては、参加希望者が一名しかおらずに成り立たなかったという程なのだ。
というのも、やはり歴史の浅い競技では有る為、そもそも部活動として行っている学校が少なく、また行っていたとしても、この時期の大会は見逃す学校が多いというのが一つ。そしてもう一つに、閉伊宮市には高校が三つしか無く、その内の一つは実質的に女子高のようなものだ、という事も有る。
別に、市民限定の大会という事でも無いが、優勝した所で何も得られない大会に、わざわざ外から参加する者も少ない。
「来るとしても、閉伊工くらいじゃないですかね。柔道部上がりが何人か入ったらしいですし」
「ふぅん。俺達だと打撃が多いしー、練習に良い感じなんじゃないの?」
閉伊工――閉伊宮工業高等学校。男子校という訳では無いが、女子が数人しか居ないような高校である。総合格闘部は無いが、柔道部はあるので、そこから出て来るのではと修は見ていた。
無論、ルールは全くの別物だが、極論、相手の蹴り足を掴みながら軸足を払えば、それで3ポイントになるのが投げの強みである。専用の練習をせずとも、柔道部はそこそこ戦えるものなのだ。
そういう連中が出てきたら、少し警戒しなければと――三者三様、思ったその時であった。
「んー、明日が楽しみだねー! ……俺は出ないけどー」
「えっ」
慶次は思わず、首をぐりんと旋回させて、裕也の顔を見た。
裕也は相変わらず、陽気で他の全てを塗りつぶすような笑みを、顔一杯に浮かべている。そんな顔で言われてしまえば、それこそ頭に入ってこないような言葉であった。
「なんでまた」
「ちょっとねー、用事が出来た!」
修が問うも、裕也は答えを返さず、軽く言い放ってそれで終わらせ、
「ま、問題無い、問題無い! あんた達強いしー、三人の誰かが優勝するでしょ! ちゃんと録画しといてねー、後で見るからー」
「お、押忍……」
常日頃、制御できない人間だと言うのは、慶次も良く知る所である。もはや、何か言う事は諦めた。
その代わりに、思う事は有った。
――そうか、〝誰か〟だよな、と。
市民体育祭での高校総合格闘は、個人のトーナメントで行われる。これに参加するとなれば、当然だが、一人が勝ち抜くまで試合をする事になるのだ。
勝ち上がれば何処かで、ぶつかる事になる。
然も、参加するのは三人。決勝に進むのは二人。必然的に、誰か一人が最初に脱落する事になる。
「……修、玲。どっちと、決勝で当たるだろうな」
「どちらとも当たらない、という可能性を考えておけ。自分は勝ち進むがな」
練習中にはあまり口を開かない玲が、サンドバッグの方を向いたまま、ぼそりと呟いた。
全員が、もう滾ってしまって、明日を待てずに居るのであった。
そうして、次の日になる。
市民体育館は、よほど予算を余らせているのか、近代的な外見の広い建物であり、その中の第二ホールが今回の試合場である。
春の暖気が通りきらない屋内ではあるが、寒いとも言えず、少し準備運動などすれば、心地よく感じる程度の温度。そういう空間に、人間が幾人も収まっていた。
鉄扉は両開きで、くぐってしまえば自重で閉じる仕組みであり、防音がよほど聞いているのか、廊下の音は殆ど聞こえなくなる。
「はーい、先生がトーナメント表もらってきましたー。みんな見て見てー」
受付を済ませた折、沙織が、閉伊宮高校分のトーナメント表を受け取った。引率の教員と間違われたらしい。
ざら紙をホチキスで留めた安上がりのトーナメント表は、少し滲んだ印刷ではあるが、シンプルに分かりやすい作りである。手元で開いた紗織の肩越しに、慶次と玲が覗き込んだ。
「……少ないな」
「こんなもんじゃないの? 試合数も少なくていいでしょ」
慶次が呟いた通り、参加者は極めて少なかった。
何せ、閉伊宮高校から三名が参加しているというのに、トーナメントの参加者は六名である。
あまり人数が少ないので、慶次は一度勝てば決勝進出であるし、玲も修も、二度の勝ちで決勝であった。
「柔道とかならねー、もっと沢山来るんだろうけど。で、どうよ。知ってる名前はある?」
「いや……おーい、修」
「ん?」
修は少し離れた壁際に部員の荷物を纏め、道具一式が揃っているかの点検を行っていた。慶次が呼んでも振り向きはしないが、返事をした辺り、耳は向けていたものだろう。
「お前の相手。閉伊宮商、鈴木 猛」
「中学の時、柔道で見たな。170cmくらいの痩せた奴だろ」
「……俺の試合はシード扱いなんだが、同じく閉伊宮商の山口 明良っていうのは」
「それも柔道部だった。袈裟固めだけ上手い変な奴だったな、四角い顔の」
「……お前、なんでも覚えてるのな」
成程、会場を見渡すと、その二人に該当するだろう姿が、引率の顧問と共に有った。
どちらも柔道着姿で、帯は黒。真剣に打ち込んでいるらしく、筋肉がしっかり乗った体つきである。
だが慶次から見れば、そう苦戦する相手とも思えなかった。普段から相手にしているのが、例えば修のような万能型グラップラーであったり、玲のような蹴りの持ち主だったり、裕也のような何を仕出かすか分からない輩だったりするのである。
「玲、こいつなんでも知ってるぞ。お前の相手も聞いてみたらどうだ」
「確かに興味ぶかい。自分の相手は……ん?」
試合の前の玲は、眼鏡を掛けている。親指と薬指でフレームを押し上げながら、小さな文字を読む為に、トーナメント表に顔を近づけた。
「……白波高校とは、何処だ?」
「しらなみ? 市内じゃないよな……わざわざ来たのか?」
玲の対戦相手の、所属高校の記載欄を見ると、まるで見覚えの無い名前が有った。市内どころか、県内でも聞いた事の無いような名前である。流石にこれまでは知りもすまいと思いながら、慶次は修の方へ顔を向け――
「白波高校……!?」
――修が、両目を見開いていた。
どんなフェイントを掛けても、まず見られぬような顔をして、修が玲の元へ行く。そして、無理に頭を割り込ませるように、トーナメント表を覗き込んだ。
「……まさか、これまで知っているのか?」
「青森の高校だ……中高一貫の」
記述を幾度も見て、間違いでは無いと確信したか、修は強張った表情のままで立つ。
第二ホールの鉄扉が、静かに開いたのはその時であった。
足音も立てず、少年が二人、入り口で立礼をしてからホールへ入る。
いずれも背の低い少年であった。
より低い方は、160cmも無いだろう。高い方だとて、裕也よりまだ背が低い――165cmは無い筈だ。
より背の低い方は、恐ろしくきつい目で、ホールの全員を一通り睨んだ。一方で少し高い方は、満足気に微笑して、それから同じようにホールをぐるりと見渡し、
「……ふふ」
微笑を崩さぬまま、修に向かって手を振った。
女のような笑みを浮かべる少年であった。




