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喧嘩も華の一つ(6)

「慶次!」


「押忍!」


 裕也が呼ぶと、待ち兼ねたとばかり、慶次は吠えて立ち上がる。

 開始線の向こうで待つ玲と比べると、その高校一年生らしからぬ巨体は特に際立った。

 身長差、7cm。体重差、7kg。何れも慶次が上。然しリーチで言うならば、この二人には、ほんの2、3cmの差しか無い。

 それを、他ならぬ慶次は、先の一分でたんと見極めていた。


「構えて!」


 玲は、左脚を引き、右半身を慶次に向けて構えた。先の試合と左右逆の構えだ。

 ――左腕は、それだけ効いたか。

 慶次は普段と何も変わらず、ずっしりと重たい、正道の構えを取った。左拳が前、右拳が鳩尾を守り、腰を落としての構えだ。


「始め!」


 慶次は、道場を揺らさんばかりの音を鳴らして、前へ少しだけ進んだ。

 それでもう、慶次の間合いである。

 玲は、自分より長い間合いを持つ相手に出会った事が無い。だからこそ、迎え撃つスタイルが確立している。

 だから、相手が自分の領域に踏み込んでいないというのに、攻撃が届くだろう予感が有る――そういう状況に、仕掛けられずに居た。


「おおおおぉっ!」


 慶次は、先手を取りに行く。選んだのは、修がそうしたのと同じ、飛び込みの左上段突きであった。

 玲も同じに、右下段蹴りを返す。

 然し、今回の炸裂音は一つだった。


「止めっ!」


 慶次は、左脚を確りと持ち上げ、脛で玲の蹴りを受けていた。

 修と慶次では、フルコンタクト競技の経験が違う。

 その上で慶次は、先の一戦で、玲の技を見ていた。

 来るだろうと予測していれば、幾ら玲とて、飛び込み上段に合わせて蹴りの軌道は変えられまい。防ぎ得るのだ。


「青、上段突き、有効……始めっ!」


 0-1。

 慶次は再び、突き進んだ。

 玲が、慶次の突進を止めようと、中段に右前蹴りを打つ。左腕前腕で受け止め、押し返した。

 慶次が間合いを詰める。視界の左端に何かが見えた――咄嗟に左腕で頭を守る。突き刺さる蹴りは、腕の骨まで響く、鋼の鞭のようであったが――

 ――これなら、見える。

 正確な表現では無いかも知れないが、蹴りには腕を用いる。

 無論体全体を使うのだが、腕の位置や振りで、蹴りの速度は大きく変化するし、軌道も変わる。

 玲の腕を下げた構えは、玲自身が自分の足を制御する為に最適な位置であり、これが揺らげば蹴りも揺らぐ。

 修が与えた左腕の痛みは、巡り巡って玲の蹴りを鈍らせていた。

 右中段突き。玲は体ごと後退する。

 それを追って慶次が進み、右上段突きを放つ。先の突きをフェイントとした、爆発的な速度の突きが、玲の防具を打ち抜いた。かこんと、どこか硬質な音が響いた。


「止めっ! 青、上段突き、有効! 始め!」


 0-2。

 慶次はギアを上げる。

 右足を左足に寄せてから、左足を前へ進める、日常では用いない歩方。試合ならばむしろ、一般的な進み方である。

 肩の上下が少なく、構えも崩れない。慶次がそうしようと思い構えたのなら、そこに隙など、そう見出せるものでは無いのだ。

 慶次の間合いになり、玲の間合いになる。玲が自ら動いた――動かされた。

 左足前蹴り――左下段払い受け。

 足を降ろさず上段前蹴り――右外受け。

 左中段回し蹴り――


「今!」


 紗織が叫ぶより先に、慶次は動いていた。迫る左足の足首に左手をあてがい、上半身を僅かに引きながら、玲の左膝の裏に右肘を押し当てた。すると玲の左脚は、慶次の右肘を内側に巻き込むように折り畳まれる。

 尚武館流足取り技、『束鎌』。相手の蹴り脚を折り畳み、引くも蹴るも出来ぬように留める技術。


「……!」


「おおおぉ――っぉおおお!!」


 逃れられぬ玲の頭を、慶次の右上段回し蹴りが襲う。

 玲の蹴りが鋼の鞭であれば、慶次のそれは超重量の斧である。188cmの玲の体が、棒倒しのように傾いた。


「止めっ! 青、上段蹴り、一本! 始め!」


 0-5。

 時間を十分に残し、あと上段蹴り一つで勝てる――そういう所まで、慶次は玲を追いつめた。

 開始の合図と共に、慶次はぐいと前へ出た。

 玲が一歩だけ後退するが、それを追って、前へ、前へ。慶次の長大なリーチから考えれば、近すぎるまでに近づいた。

 慶次には、手技がある。上段蹴りばかりでない、玲の頭を掴んで引き下ろし、膝を当てるという手段も有る。残り40秒、それは十分過ぎる時間に思えた。


「っしゃ!」


 踏み込んだ、その時であった。


「慶次!」


 修が、血を吐くような声で叫んでいた。

 秒にも満たない刹那、慶次は、その声を理解した。

 甘く見るなと、修は言っていた。

 慶次は、右拳で、玲の顔面を狙っていた。


「――――――っ!」


 迎え撃つ玲は、喜悦に顔を歪めていた。


 ――俺の好きな顔だ。

 昔から、この顔が好きだった。

 骨のある奴と殴り合うと、皆がこの顔をする。

 道場で出会った先輩達も、隣県や遠方の選手も、師範代の紗織だってそうだ。

 裕也さんも、陽性の笑みに、そういう顔を混ぜる。

 そして――修が、特にそういう顔をする。


 慶次の口が裂け、牙を剥き出しにした。

 目を見開いて、二条の鋼鞭とも見紛う、玲の両脚を睨み付けた。

 玲の左足が翻る。

 顔面狙いの拳の上を、玲の左足が通り過ぎた。

 その足は、慶次の視界の左端で、軌道を逆さに巻き直した。

 舞い戻る左足――脹脛が、慶次の喉へ食い込む。


「ぎっ――」


 歯を食い縛りながら、涼しげな顔に獣笑を張り付けて、


「――ぁああああアアアアァッ!!」


 玲が、雄叫びを上げた。

 玲の左足が、慶次の首に絡みついたままで引き下ろされる。抱えられた慶次の首が、玲の足に従い、マット目掛けて振り下ろされる。

 ――投げ技。

 それは、真っ当な格闘技に存在する技術としては分類出来ない、異形の脚技であった。


「一本! 赤――」


 裕也は、中断を宣告しようとした。だが、その言葉は、実際には告げられず、


「――継続!」


 玲は、倒れた慶次の脚に、脚を絡めに行った。

 慶次は両足を振り回して抵抗し、隙あらば頭に蹴りを叩き込もうという算段である。

 獣の顔になった玲は、慶次の右膝の上に、己の左膝裏を当てがいながら、右膝を慶次の右脹脛に当てた。


「ぉっ……!?」


 脚だけを用いての関節技――これも、名も無き無形の技。慶次は咄嗟に手を伸ばし、その脚を外しに掛かる。

 フックは甘い、容易く外れたかに見えたが、玲はするりと、起き上がった慶次の肩に乗っていた。

 直観的に慶次は、左手を喉の前に置いた。すると、その挙動にほんの僅か遅れて、玲の右膝裏が慶次の首に巻きつく。

 更に、右足を左膝に挟んで、両脚で慶次の首を絞め上げ――


「……なんだありゃ……!」


 修は、半分もマットの内側に身を乗り出しながら、その技を目に焼き付けていた。

 形状としてはチョークスリーパーに近い。だが、用いるのは腕では無く、脚である。

 高校総合格闘のルールでは、腰から下へ、手を用いての打撃は許されていない。つまり掴んで引き剥がす以外、脱出の方法は無い。

 然し――俗に、脚は腕の三倍の力が有るという。慶次と玲の、元々の力の差を考えたとて、慶次の両腕が生む力は、玲の両脚の力には及ばない。


「ギブアップ? イエスならタップして!」


 首は振れないし、頷けもしない。裕也の意思確認に、慶次は目でノーを返す。

 絞められながらも慶次は、試合を見つめる紗織と、それから修の顔を見た。

 ――師範代も驚いてる。羨ましいでしょう。

 残念ながら、あと20秒は俺が、こいつを独り占め出来る。

 ――すげえ顔になってるぞ、修。

 俺を勝たせたいのか、こいつに勝たせたいのか、お前はどっちなんだ、修。

 よく見れば、修の口が動いていた。何を言っているのか、二回は聞き逃した。

 三回目に、て、と一音だけ聞き取れて、


「立て! 慶次!」


 無茶を言っていると、良く分かった。

 ――こいつを首に巻きつけたままでか。

 何処かのバラエティ番組で、巨大な蛇を首に掛けるように、浅上 玲を巻きつけたまま、俺に立てというのか。

 良いだろう。慶次は、その無理を呑んだ。

 まず、うつ伏せになった。首に掛かる重量が増したが、マットに手を着いた。

 上半身を浮かせ、隙間に足を割り込ませ。足の裏を、まずは右、次に左と、踵までべったり触れさせる。

 ベンチプレスだスクワットだというなら、80kg程度、どうという事も無い。然し人間は、重心の問題も有り、簡単に浮かせはしない。増して首を絞められていては、その重量が倍にも、三倍にも感じる。

 持ち上がらない。

 残り時間は何秒だ。もはや、それを数える事など忘れていた。

 これで立つのは、地獄の苦しみだ。酸素不足の脚と腰が、首が、ぎしぎしと悲鳴を上げる。

 こうまで疲労を積み重ねて、こいつを持ち上げる理由は何だ。

 ――構うか!

 筋肉の出力は足りている。ならば、上がらないのは、俺の意思が故だ。

 理由は一つ、そういう流れだからだ。

 廃部がどうだとか、入部がどうだとか、過保護がどうだとか、そういう背景が有って、俺はこいつと戦っている。

 然し、その背景が今、この瞬間に無くなったとしても、俺はもう手を止められないのだ。

 一度始まった試合の中で、俺が倒れて、絞められ、立ち上がれと言われたから、立ち上がろうとしている。

 それ以上の余計を考えるのは、あの獣笑に失礼だ。

 同じ獣になったから、俺も〝最初のあれ〟が楽しかったのだ。

 立つぞ、俺よ。

 俺は、立つ。

 首にもこめかみにも血管が浮く程に、慶次は歯を食い縛り、立った。

 195cmの慶次が、玲を肩に乗せて、立ち上がった。

 両腕が、上へと延びる。

 左手が玲の後ろ襟を、右手が帯を掴んだ。

 引き剥がしはしない。寧ろ、逃がさぬように捉える。

 ――見たか。

 玲の頭を、2m以上の高度に掲げ、慶次は勝ち誇った。

 そこで、脳の血が足りなくなった。

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