~帰ってきたナーガ、そして王宮へ~
田舎町から戻り、人通りが多くなった街に辿り着くと、街がなにやらざわめいていた。
「おい、聞いたか? 王宮が今野生の竜に襲われているんだとよ?」
「本当かよ? しかしまたなんでそんな事に?」
「そんなこと知るかよ? 竜なんて最近では余り見ることもなくなったはずなのに、今になって出現し始めたのは、やっぱり何かの前兆じゃないのか?
聞いたところによると、王宮は竜人を捕まえたっていう噂も聞いたことがあるし」
街の噴水広間では大勢の人で賑わっている中で、聞いてもいないことが飛び交うように情報を取り売られることが出来るのでありがたい。
竜が王宮を襲撃しているという話に、僕は一つだけピンときた。
これがシュクラの言っていた世界の崩壊の一部なのだろうか?
フォマルの泉の近くにあった渓谷は底が見えないほどの奈落の底ができていたこと、そして、王宮に野生の竜の襲撃と言う話。
王宮よりも離れているこの街にでも届いている程の情報だと言うのなら、王宮は現在危険な状況なのではないのだろうか?
シュクラが言った世界の崩壊と言う言葉はまだ最近聞いたばかりなのに、こんなにもペースが速いのだろうか。
アクセスやフィンは無事なのだろうか?
心配事が増える中で一体なにから取り組めばいいのだろうか。時間は刻一刻と迫ってきているのに、もし決断したことが失敗の連続だったらどうしよう。
まずはナーガを探し出す? 王宮に向かう? 世界の崩壊を止めるのか?
ぐるぐると目まぐるしく回る事柄を考えている時に頬にそっと誰かの両手が添えられる。
「今、自分が何をすればいいのかで迷っているのでしょう?」
優しい声をかけてくれたキーアの声に顔を上げる。
「じゃあ、アドバイス」
「えっ?」
「まずはナーガを取り返したほうがいい。ずっといたパートナーなら尚更よ。一人で王宮に行っても、貴方一人では限界もある。助力が無いうちに行けば、それこそ死ぬ確立が高くなるわよ?」
「でも、皆が………」
「貴方は弱い友達を持っているの? 信頼できない友達を持ったの?」
キーアの言葉に僕は二人の顔が一瞬だけ頭に過ぎる。
「ううん、二人ともきっと大丈夫だと思う」
「そう、なら心配は要らないわ。先にナーガのところに行きましょう」
僕は頷いて人混みを掻き分けながら馬の貸し出しがある場所にやってくる。
馬を一頭借りてからはムシュフシュまでずっと走りっぱなしだった。と言っても馬がずっと走りっぱなしなだけであって、僕達はずっとその背中に跨いでいただけなのだが、それでも歩いてムシュフシュにまで行くよりかはずっと早かった。
ナーガを無事に取り戻した所で王宮に向かうとなると一日二日は掛かる。これもナーガを取り戻したことを前提とした考えでいくと、空を飛べることができるナーガの背中に乗れば山を越える必要がないので、早くて一日という計算だ。
しかし、もしもナーガを取り返すことが出来なかった場合は―――
「あまり、考えるのはやめよう」
綱を握っている手に汗が滲む。どうか無事で居てほしいと願いながら最悪の事態がないことだけを思い描いてムシュフシュの森がある手前まで来ると、馬が突然僕たちを振り落として暴れ狂った。
この森が異様な場所だと動物の本能で悟ったのだろう、暴れまわった馬は僕たちのことを捨てるようにどこかへ行ってしまった。
ここまで乗せてくれたのだ、あまり攻めようとも考えられなかったし、確かにこの馬が感じ取ったように、二年前のムシュフシュよりも今の目の前に広がっている鬱蒼とした森林は異様な気配が漂っていた。
草原が生い茂っている場所と、森になっている場所との境界線がまるで世界と隔離された居場所であることを物語っていた。
その昔、始まりの樹に行った時もそうだった。
何処までも続いていた一本の太い樹が天高くまで聳えていたことも覚えてはいたが、それよりもそれを支えていた根っこの方だ。
この星を丸ごと根付いているかのように地面に潜んでいた根は、周りの草木からの養分を吸収しているかのように根付いていて、命なんてものは始まりの樹以外に何一つとして無かった。
あれも、一つの異空間のような場所だった。
「ここが竜の墓場か、確かにそれっぽいわね」
キーアは異様な森を見て納得したように何度も頷く。竜人だと、なにか感じ取ることが出来るのだろうか?
自然の申し子とも言われている竜人だからこそ分かる空気なのだろうか。
「気分悪いわね。空気に当てられるだけで吐き気がする」
「なんで?」
「魂の集まりというか、怨霊の集まりと言うか………なんでもないわ。早くナーガを探して行きましょう?」
顔をしかめつつもキーアは僕を森に入ることを促し、僕も従ってムシュフシュに入った。
二年前は人が沢山この森に入ったからあまり気にならなかっただけなのだろうか? ひんやりとした空気が体中を舐めるように撫でまわされて、あまり気分のいいものではない。
本当にここにナーガがいるのだろうか? キーアの言葉に流されるままここに来てしまったけれど、もし違った場合は一生ナーガと会えなくなることは避けられない。
「ねえ、キーア。このふわふわと漂っている青い玉は何?」
「あら、貴方は見えるの? それは魂魄よ。生き物のね?」
関心するように僕は目の前に浮遊していた魂魄に触ろうとしたときだ。
「触ったら駄目!!」
ビクリと蛇に睨まれた蛙のように身体は硬直し、顔だけをキーアに向けた。表情は本当に怒っていて、魂魄は危険なものなのだと認識させられた。
「ここ、魔素が溜まっていて普通の人に見えない物も見えるけれど、魂魄は普通の人が触ろうものなら祟られる代物なの」
「ご、ごめんなさい」
「まあ、良いけど。少しだけ試してみる? その生き物の一生を垣間見ることになるけれど、頭がおかしくなりそうになるから」
キーアは触っていても別に苦しそうな表情を見せてはいないので実は苦しくはないのでは? と考えてみる。
脅かしすぎている気もしたが、差し出された霊魂を前にやりたくないと言うのも気が引ける。
恐る恐る霊魂に触れると手の平がすっぽりと覆われるような形になった。
「あれ? 特に何も―――」
始めは何も感じなかったが、身体に馴染んできたのだろうか、濁流のように押し寄せてくる怨嗟の類に似た負の感情。
死んでしまった主から離れた竜の魂の声だろう。クズレとなった竜は次の主を見つけるか、野生に還るか、それとも長い時間を持って餓死で死ぬかの三つの選択を強いられている。
この竜は自分の主を守ることが出来ずに見殺すような形で主を殺してしまったらしい。
一生を共に誓った筈の竜は、一番守りたかった存在を目の前で殺されてしまっているのだ。
なんどもなんども届くわけがない謝礼の言葉を呪詛のように謝り続けながらこのムシュフシュに辿り着いたのだろう。
主のことがとても大切な存在だったにちがいない。こんなにも一身で一途だからこそ他の人間とは結ばれたくなかった。だから自殺を選んだ。
「どう? 何が見られた?」
ヒョイと僕の手の平を覆っていた魂を摘み上げると一口でその魂を平らげる。
生きてきた記録は膨大な情報量があり、常人ではその膨大すぎるが故に脳がパンクしてしまいそうになる。それを、この目の前の少女は何年もやっているのだと思うと、竜人の凄さに圧倒されてしまいそうだった。
「竜の声が聞こえた。なんどもなんども主人だった人間に謝っていたよ」
「そう、頭とか痛くない? 短時間だから頭痛程度で済むようにはしたのだけど」
「あ、うん。頭痛程度だけどなんで?」
「あまり、長時間魂に触れていると、狂人になるか、脳みそがパンクして廃人なるかのどっちかになってしまうの。それも個人の差によるけどね」
振り返って前に進んでいくキーアの周りには同じように魂が浮遊しているが、なにやら選びながら食べているような気もする。
「なにか、違いでもあるの?」
聞いてみると、口を動かしながらこちらを振り向く。
「人間か人間ではないものかの違いだよ、ちなみに食べているのは竜の魂だけ」
「それは、なんで?」
「最初に言ったでしょ? 私は星の観測者なの。外界住人の人間なんかは記録する必要がないわけ。お兄ちゃんから聞かなかった?」
竜は先住民であり、人は髪から作り出された外来民。おじさんは確かにそう言っていた。竜神と祟られている神様は天地創造の神様であることもこのあいだ聞かされているけれど、そこでなぜ、神様寄りである人が外来種になるのかというのも、そういえばこの間おじさんが言っていたような気がする。
難しい話は極力やめて欲しいのだが、この母なる大地であるセトの本当の人類というのは竜と言うことなのか? それで、竜神はいわばセトの外から人間だから宇宙人と言う事になる。
神様が実は宇宙人だった、なんていう事実は後にも先にも神様と、セトとの間に生まれたこの竜人たちだけしか知らないことだ。
「似たような、というか知っているからこそ、その記録は書き留めたくないということなの?」
「そうね、人間は………人類は、私達からいらない物が出てきた塵が集まって出来あがった者なの。人間の業、人間の感情なんていうものは、私達が最初から知っていることだから、最初からいらない。知りたいのはここの住人が何を考え、何を思って生き、何を目的として人類と共存しているのかだけ。これが、私が唯一知りたいことなの」
その願いは、お姉ちゃんの願いと酷似していた。竜の謎を知りたい姉と、竜の感情を知りたいキーアの願いは同じ願いでありながら、なんて遠い望みなのだろうか。
「今を思えば、これが私の生きていく上での目標なのかもしれないわね」
ニッコリとキーアは笑う。その笑顔は生きてきた年数を重ねても、未だに到達しない願いが叶っていないからか、すごく哀しそうだった。
どれぐらい奥に進んだのだろう、竜の姿は愚か小動物の姿すら視界に入ることがなくなった。
「大分奥に入ってきたけど、何もいないね」
「………」
「キーア?」
キーアは何かを見つけたのか、森の奥を凝視している。同じように目を凝らしてみても、霧が深い為にあまり先々まで見通すことは出来なかった。
キーアに話しかけようとしたが、話しかけづらい雰囲気を醸し出してゆっくりと僕の前を歩く。
「ふむ、この先に居るぞアイン?」
「突然話しかけてこないでよ。吃驚するから」
「はは、すまんな」
僕と同じ風景を見ているのならば確かにこの人も反応は出来るけれど、この霞んでいる風景から見ることが出来るのは、竜人が凄いということなのだろう。
「まあ気を落とすな、俺たちとお前とでは最初から出来ている器が違う。っと、それは別として、アイン。気を引き締めたほうがいい」
「え?」
軽口を叩いていたおじさんの声が低くなる。そしてその意図を察した僕はキーアが進んでいる方向を見つめながらキーアの隣に並ぶ。
「相手も気付いたわね、こっちを見ている」
「そう………」
両手に細剣を作る。牽制用に片手分を投げても良かったがまだ早いような気がした。ピリッとした空気が肌を触れる。
音を漏らさないように集中する。
自分たちより数メートル離れた先に曖昧だが敵の影を投影する。大地を踏みしめて草むらを鳴らし、円を描きながらこちらに詰め寄ってきている。
僕はキーアより前に出て剣を構える。
「キーア、下がって。僕が相手する」
無言でキーアは下がるのを確認した所でもう一度視線を森の方へと向ける。静かに歩み寄ってきている図体の影が白みかかった霧から像として目視できた。
ギラリと赤い瞳がこちらを窺う。敵も中々慎重だ。ただの動物であれば大半は襲い掛かってくる時は何も考えていないような動きをしているが、自分と相対している敵はどうやら考える知能を持っている。
………やりにくいな。
それでも狙われている以上やらなければやられるだけだ。
ぴたりと敵の動きが止まった瞬間、両手に持っていた細剣を敵の影に向かって投げ放つ。しかし、手ごたえは無く、次の攻撃に備えて再び両手に細剣を持つ。
敵の居場所は移動しており見失う。
「―――っく!?」
側面から太くて撓る何かが空気を乱してきた所でアインの身体は反射的に反応した。反り返るようにアインの身体は後ろに倒れるのと同時に敵がいる場所を予測して細剣を投げる。
三本は弾かれたが、残りの三本は不発、だが確かな手ごたえに好機を逃す手は無い。
バキバキと通り過ぎた何かは近くにあった木々を薙ぎ倒していく。
「やっぱり竜なんだね」
今の一撃で整理が付いたアインは敵の正体が一匹の竜である事に確信が付いた。
アインが竜と戦ったことがあるのは何回かあるので王宮の竜騎士よりかは経験が多い。それに魔法を駆使しながらでいけば大抵は一人で倒せるのだが、視界が悪く、致命傷となる一撃を持つ竜の攻撃を交わし続けながら戦うのは不利だ。
「丁度いいじゃないか、二年前の授業と行こうぜアイン?」
シュクラの声がアインの頭に響き渡る。シュクラの授業とは、二年前にムシュフシュにやってきた時、アルマの竜と交戦した際に防御の授業という名目で開始された戦闘だ。
確かに二年前と同じ状況であり、同じ場所であるのならシュクラの言っていることも間違いではない。
だが、アインはシュクラの授業を受けようとは思わなかった。
「嫌だ、もし、この竜がナーガだったらどうするのさ?」
「それは知らん。俺は竜が嫌いだっていうのを言わなかったか?」
言っていたような気がするとアインは昔のことを少しだけ思い出してみる。
「むっ!」
下手な思考はしないほうがいい、気を張らなければならない相手に余裕を持つことなんて死期を早めるだけだ。
鋭い爪が振り下ろされ、靄が切り裂かれる。人間が使う剣も最近は動物の素材から作り出されているが、竜の爪は段違いの切れ味を誇る。
竜同士の戦いでも、竜の堅牢な鱗を切り裂くほどの切れ味は人が食らえば細切れされるレベルだ。
手がそこにある、なら胴体はすぐ自分の目の前にある。
アインは思考と同時に次に移す行動を選択、前に進んだ結果、竜の胴体が視界を覆うように現れる。
「はっ!!」
短く声を吐き出して細剣を竜の身体に突きたてる。だが竜の鱗は頑丈でありしなやかさがある為に、アインが作り出した細剣は容易く砕け散った。
嘲笑うように竜の視線がアインを捕らえる。
竜の口が大きく開かれると、溜め込むように空気を大きく吸い込んでいく。この動作にアインの脳裏に過ぎったのは、火竜が火を噴く前の初動作であることだ。
体中に魔力を巡らせて身体強化を行う。大地を掴むような感覚で下半身のバネを使い竜の前方から跳躍した。
竜の息吹が森を赤く染めるがアインの姿を吐き出す瞬間に視界に納めていた竜は、ブレスを出した直後でもアインを見失わない。
反応が早く、飛べる翼と火炎袋を備えている火竜の混合種であるから迂闊に跳んでしまえば的になる。
だが、竜であろうと弱点は頭ということには変わりなく、そこを叩きさえすればこの戦いを有利に変えることが出来る。
幸い竜の造形は二足歩行をするタイプではなく、四足歩行型の種類のため上半身を起こしている二足歩行よりも頭部の位置は低めにある。
アインの身体が陽炎のように揺れる。次に繰り出される【雷鳴の鉄槌】の動作に入るアインの姿に動じずに警戒を高める竜だが、意識外から繰り出される一撃を防ぐことは出来ないはずだった。
雷が落ちたかのような轟音が森を響き渡った。
「そんな!?」
驚きの言葉を上げたのは技を繰り出したアインの方だった。アインの技が当たる瞬間、竜の太い柱のような尾が頭部を守ったのだ。
魔力で身体能力を底上げしたアインの動きには目で追うことは至難の技に等しい。しかし、この竜はアインの攻撃を目で追えたわけではない。ならば何故アインの攻撃を防げたのかというと一つだけ行き渡る結論があった。
「やることを分かっていた?」
竜との距離を取ったアインは、目前の竜をじっと見つめる。
飛竜種で火竜種、自分の技を知っている竜、咄嗟の防御だったとはいえ、完璧に近い対応。
ブレスによって森に広がっていた霧が晴れだして互いの居場所を見失わない状況になる。
四つん這いの格好でも家の二階に相当する大きさ、翼は閉じてはいるが飛び上がってブレスを吐かれたらひとたまりもない。
日を跨ぎ過ぎてしまったのか? 僕の顔を忘れてしまったのか?
アインは目の前にいる竜が、かつての相棒ナーガだということに確信を持った。
「ナーガなんでしょ?」
攻撃の構えを解いて無防備に立ち尽くす。竜を相手に警戒しないということは自身の死を悟った瞬間でもある。だが、アインとてそれは知っていることだ。無防備に立っている様に見えて、実質全ての攻撃を交わせるように警戒を解いてはいない。
名前を言われた竜の身体が一瞬だけビクつく。
理性を失っているだけなのか? それとも、このムシュフシュにやってきたせいで亡霊たちの生前の記憶を不可抗力で見てきてしまったのか?
もしそうだとするのなら、理性など容易くパンクしてしまう。主人であるアインの名前を忘れてしまったというのも過言ではない。
名前に反応したという事は、やはりこの竜はナーガであること、しかし、自分のことを忘れてしまっているのに、どうやって思い出させてあげればいいのだろうかと思考を張り巡らせる。
「僕だよ、アインだよ?」
アインは両手を広げてナーガに近づく。無防備すぎる少年を今ここで屠るのは竜にとっては容易いはずだ。
しかし、この竜は前に出ることを躊躇い、近づいてくるアインを前に逃げるようにじりじりと後ろに下がっているのだ。
竜自身もただの子供に何故自分が後退を強いられているのだろうかと、竜のプライドが拒もうとしていた。それでも少年が近づいてくるだけで、勝手に足が逃げているのにはなにかしらの畏怖の念を持っているからなのだろう。
「本当は分かっているんでしょ? もし、君がこの名前を知らないのならそんなに君は僕みたいな子供に恐怖なんか抱かない。
僕のことを覚えているから、そうやって逃げているんでしょ?」
「ぐるるぅぅ」
「迎えに来たよナーガ?」
「ゴアアアアアアアアッッッッ!!!?」
ナーガの爪が大きく振り下ろされる。先までの攻撃的な態勢ではないために爪の速さが初手よりも大分遅い。
少しずつ思い出しているのか、ナーガの理性が取り戻されつつあるが後一歩のところでナーガも目の前の少年が自分の主人だったのかと疑問を抱きつつある。
地面を抉るほどの破壊力だった爪も今では見る影も無い。牽制しただけの攻撃にアインも竜が自分を嫌がっているのを察する。
「もう、絶対に一人にさせないよ」
屈めていたナーガの頭を優しく抱きとめると、暴れていたナーガの身体がぴたりと収まった。
頬を撫でる手の平の感触、正気に戻ったナーガの霞みかかっていた意識は戻り、視界に入ったのは、身体がまだ小さかった頃のお気に入りだった金色の髪の毛。
幾多の苦難を共にしてきた主の細い腕は、こんなにも強くたくましくなっていたのだろうか。
笑顔を浮かべても、それはただの作り物のような笑顔。いつも話しかけてくれた主は何かに怯え、何かを憎み、何かを救おうとしていた。
その痛々しい姿を共に過ごしているだけでも心が張り裂けるような痛みに苛まれていた。どうすれば主は人形から解き放たれてくれるのだろうか。
どうすれば、人間達と同じように笑ってくれるのだろうかと、毎日考えていた。
でも、なにも考えられず、ナーガは盗賊たちに捕縛されて、洗脳めいたうわごとを執拗に繰り返されていたが、主が死んだと言う言葉はすべて無視し、フォマルの洗礼によって身体の鱗が以前より一層頑丈になっていたことに気がつき、火竜としての火炎袋も強くなっていた。
成竜となったナーガは行動に移した。盗賊たちを殺した後、アジトの中にいた一匹の陸竜を相手に戦ったが、苦戦する事無く致命傷を与え、アジトを出たナーガは行き場所を失っていた。
何処にいけば主の元に戻ることが出来るのだろうか、そう考えたナーガだったが、頭に過ぎった場所はあのムシュフシュだった。
今まで主と共にした旅の中でナーガの思い出の場所といえば、皮肉だがこの竜の墓場だけしかなかったのだ。
人形のようだった主が始めて友達という存在を認め、感情が入った笑顔を見せた瞬間でもあり、たった一人の肉親であるアルマを相手に悲しんだ時の表情は今でも忘れられなかった。
竜は本能的に自分の居場所がなくなるとこのムシュフシュにまで足を運ぶという言い伝えがあったが、ナーガもその一人となっていたようだ。
ここに来てしまった事により、ナーガの意識は今も尚彷徨っていた竜や人間達の霊魂によって精神が蝕まれ狂ってしまった。多くの竜は死に体でムシュフシュに来るが、傷ついてもいない肉体であれば霊たちの格好の餌食となる。
もがき苦しみぬいた先で、ようやく一番に会いたかった主に抱きとめてもらうことでナーガを取り巻いていた霊魂も消え去ったようだった。
アインの顔をナーガは舐める。
「思い出してくれたの?」
ナーガの頭を解放してじっとアインは視線を交わす。その瞳には悪意という感情はひとつもあらず、雲が掛かっていない青空のように澄みきった瞳だ。
「よかった、本当によかった」
涙ぐみながらアインはもう一度ナーガの温もりを確かめるために身体を抱きしめた。
ああ、今までこの人に使えてきたけれど、こんなに涙を流しているのを見たのは初めてだったかもしれない。
まだ仔竜だった時はお互いに親元から離れ、右も左も分からないような関係だった。それでも主は自分のことを主従関係としてではなく家族として見てくれていた。
これで本当に気持ちが伝わっているのかと度々、ナーガの表情を窺うように見つめてきて一線の距離を置いているようにも感じ取れた。
それはきっと、この人自身が愛というものがよく分かっていなかったからだろう。主の生い立ちは断片的にしか聞いたことが無いからどういう出で立ちなのかも実は良く分かっていない。
だが、いままでを共に過ごしてきて感じていたことはただ一つ、この人は人形みたいだと思ったぐらいだ。
だから今この瞬間が余りにも新鮮であり、余りにも嬉しかった。
「はーい、ナーガも正気を取り戻した所で、早く行きましょうか王宮へ?」
物陰に隠れていたキーアが姿を現す。キーアの言われたことを思い出したかのようにアインは頬を伝っていた涙を拭いきると、凛々しい表情へと変わりナーガに懇願する。
「聞いてナーガ。あのね、今世界は滅びかかっているの。多分これはアルマの仕業なんだ。止めるために僕はナーガやみんなの力を貸してほしいんだ」
真っ直ぐナーガを見つめてくる瞳に嘘を付いている素振りはない。それにナーガ自身明確な目的を持った主の願いをどうやって無下に出来るだろうか。
ナーガは二歩後ろに下がり頭を垂れる。それは了承の合図でもあり、再び忠誠の意を示す証でもあった。
「決まりね、それでは行きましょうか」
率先してナーガの背中に乗り込むキーアに続いてアインも乗り込む。成竜となったナーガの大きさなら人間であれば三人まで乗ることが出来るほどにまで成長していた。
ほんのニ三年前の時は逆の立場だったことを懐かしむようにアインは笑う。翼が躍動するように大きく羽ばたく。
一回の羽ばたきで周りの森林が薙ぎ倒されるような勢いで軋みあげるがなんとか持ちこたえている最中で、ナーガの翼がもう一度羽ばたくのと同時に地を蹴り上げた。
抉り取れる土をよそにナーガ達は地を離れ空中へと浮かび上がる。二度三度ナーガの翼が空気を仰ぐと上昇していき、ムシュフシュの森が一望できる高度にまで辿り着いた。
「うわぁ」
初めて空に浮かんでいる感覚にアインは目を輝かせる。なんどかナーガが小さい時にも試してはいるものの、山と一緒の高さまで飛んだことはない。
地平線の先まで続く大地の広さに自分はなんてちっぽけな存在なのだろうかと思いふけているとナーガの首がこちらに向き直る。
命令をしてくれと促しているのだろう、アインは頷いて命令をナーガへと下す。
「目標は王宮、行こう!」
ナーガの咆哮が地上に響き渡る。地平線の先には天空までそびえ立つ始まりの樹がうっすらと影として揺れていた。
あれが最後の旅の終着点なのだろうと、アインは今までの目的を思い出す。
始まりはあの村でミーナが僕を助けてくれたときに世界の凄さを見せ付けてくれると豪語していた彼女だった。
村から出て、町を点々と歩き回りながらミーナと一緒に身体を鍛えながら、はじまりの樹へと竜の卵を取りに行く最中にあるレーゲン湿原で、自分自身の目的を決めた思い出の場所で彼女―――実の姉に出会ってから、旅をする明確な設定が決まったのだ。
姉が言っていた竜の謎を一緒に説き明かそうといった、他愛ない口約束だったけれど、目的がなかった当初の僕は、その約束を守ろうと姉をずっと追いかけ続けてきた。
追いかけ続けた先で待っていた現実は、世界を滅ぼそうとする罪人という世界に認識されてしまった存在であり、望みを捨ててしまったアルマの姿だ。
世界のせいで精神まで汚染されてしまった姉は、自分の中に潜んでいる寄生竜を使って世界を滅ぼすことに決めた。
崩壊していく世界、野生の竜が王宮へと向かっているということは、どう考えても崩壊への序章が始まったということだ。
旅の終着点、僕の目的は三年前に誓ったあの日と変わらない。
―――唯一の姉をこの手で殺すことを。




