~旅立ち~
はじまりの樹の周りは岩壁に囲まれた荒地しかないと思っていたけれど、一面が草の絨毯で敷き詰められたような場所もあったんだなと、目の前に広がる光景を眺めながらそう思った。
草むらと言っても、せいぜい足元の辺りまでしか生え揃ってはいない。つまるところ身を隠すところはこの草原のどこを行こうが意味をなさない。
草原のど真ん中、吹き荒れる風がミーナの着物を揺らす。耳元で唸るように、寄せ付けないように、僕の前からは風が猛っていた。
ミーナに近づくにつれてその風は強くなり、僕を拒絶している。
来ないで、近寄らないで、御免なさいと、そう言っている。
でも、僕は拒まない。ミーナの意思を否定し、目と鼻の先まで近づいた僕は、ミーナの体を背後から抱きついて言う。
「ただいま、ミーナ。僕……ちゃんと出来たかな?」
ぴたりと風は止まり、周りの空気さえ止まってしまったかのように静かになる。
ぎゅっと、力いっぱい抱きしめて僕は返事を待った。
「………ちゃんと、出来たのかって? うん、アインは立派に目的を果たしたわ」
回していた僕の両手に、ミーナの細い指先が触れる。か細くて、精錬で、それでいて力を入れれば砕け散ってしまうような硝子細工のように弱い。
「ごめんねアイン。私……さっきはどうかしてた」
「別にいいよ。気にしてないし……」
そんなものは嘘だ。
自分が殺されかけていたのに、動揺を隠しきれるわけがない。僕みたいな子供が些細な嘘を付いたところでどうにかなるわけでもない。ミーナだって分かっているだろう。
「卵…手に入れたんだね」
ミーナは振り返り、はじまりの樹で手に入れた竜の卵を見て言う。背負っていた卵を下ろしてミーナに見せると、そっと指先が岩のような殻を撫でる。
「なんだ、もうすぐ生まれるわね。この子」
「そうなの?」
ミーナは頷いて、ここに来て初めて僕と視線を交わす。
「一人ではじまりの樹に登って、どうだった?」
「それは、大変だったよ。暗闇の中で前を進むのも大変だったし、何より、竜を倒してくるというのが、一番大変だったし………」
「それじゃあ、一時の目的を達成した時は、どう思った?」
「――?」
ミーナは何を言っているのだろう? 僕に何を言わしたいのだろう?
僕は考える。目覚めたらはじまりの樹から出ていたし、記憶の欠落があって何が起こったのか、僕は理解できていないのだ。
竜を倒してくるという目標が果たせたのかなんて、実感が湧いていないに等しい。
「実感が湧かないっていう顔ね。まぁ、それもしょうがないか…」
そう言って一人で納得したミーナは僕と同じ目線を合わせ、僕の頬に手を添える。
「それじゃあ、アイン。貴方はこれから何をするの?」
「なにを?」
決まっている。アルマと再会を果たすこと。これが、今の僕自身がやらなければいけない目標だ。
「ま、知っているわよ。アインがやりたい事なんてね?」
「へ?」
暗い雰囲気が一変し、声に明るさが戻る。いつものミーナだと思いながら話を聞く。
「そうね、アルマ……だっけ?」
「え? なんでその名前を…」
「まったく、私はあなたの保護者なのよ? それくらい分かって当然!」
誇らしげに胸を張るミーナ。たゆんと、胸が揺れるのを僕が気にしていることを他所に、ミーナは話を続ける。
「アルマにもう一度会いたいのなら、王宮に行きなさい」
「王宮?」
「うん、アルマは王宮の人だからね。いや、だった人かな?」
アルマはそんなことを一度も言わなかった筈なのに、どうしてミーナが知っているんだろう?
気になることはいっぱいあるけれど、それを聞くのは野暮だ。
「見なかった? アルマの顔写真、街のそこらに貼られていたのよ? あ、その顔は知らなかったっていう顔しているな?」
ケラケラと笑うミーナ。
ミーナの言うとおり、僕はその顔写真を見たことなかった。風景の一部分でしか捉えられなかったのもそうだろうけれど、世界の御尋ね者ということになるアルマに、あの木の下で会えたことすら奇跡だ。
「旅立つ時ね………アイン」
いつの間にか俯いていた僕は、上から聞こえてきたミーナの声に反応して顔を上げた瞬間。
「んむっ!?」
自分の目の前で何が起こっていたのか理解すら出来なかった。ただ、覚えていたのはミーナの顔がすごく近かった事だけ。
口の中には蛇のような軟体動物が激しく動き回っていて、締め付けて、吸い上げて、体中の神経が溶かされるような衝撃に奔流する。
頭の中が真っ白に染め上がり、体が支えられなくなりミーナの肩にしがみつく。膝から崩れ落ちた反動でミーナは開放してくれた。
「堪能、堪能! いやぁ、久しぶりに満足しちゃった!!」
顔を赤らめながら笑っているけれど、まだ脳みそが意識と繋がらない。靄がかかったみたいに視界もぼやけたままだ。
「もしかして、アインの初接吻って私なのかな? あ、勿論異性限定ね」
「素直にファーストキスって言おうよ……」
「いやぁ、キスっていう単語がなんか恥ずかしのよね? どうだった? 大人の味は?」
「………」
「照れるな照れるな。まだちょっとアインには激しすぎたかな? でも、知ることも知識だよ」
「うん…」
「だからね、最後に一つだけ、私からアインに一つだけアドバイス」
ミーナはそう言って優しく抱きしめ、耳元で囁きかける。
「これから先、貴方は一人で生きていかなければならない、勿論パートナーとして竜もいるけれど、一番大切なことは友達を作ること。信頼できる人を作ること。一人だけではどうにもできないことが、どうしてもアインの前には立ちはだかるわ。
でも、そんな時こそ、友達がいればその苦しみを分かち合えることができる。けれど、貴方もその友達の悩みを受けなければならなくなる。だからってそれが不幸っていうわけではないわ。
お互いに乗り越えて、また新しい壁にぶつかって、そしてまた乗り越えられるわ。
アインがこれからやるっていう目標を立てたのなら、それを真っ直ぐ進みなさい。無理だと言って目を背けては、辿り付けることも出来なくなる。
いい? 未来は貴方が作り出すの。意思で変えられる。掴むことだってできる。
だから、アイン………」
ミーナの声が震えている。同調するように腕の力が強まってくる。
「強く、強く生きなさい。負けちゃダメだから」
そう、ミーナが口にした瞬間、卵が辺りを包み込むほどのまばゆい光が迸る。
パキパキと岩のような殻が割れて、出てきたのは小さな仔竜だった。僕の頭一つ分くらいの大きさで、翼も生えている。
仔竜は腕に巻きついてくるように僕の肩を登ってくると頬をぺろりと舐め上げた。
「うわ、くすぐったいって」
仔竜は僕の頭の上に乗っかって体を丸める。頭が重くなって首が疲れるが、仔竜はお構いなしだ。
「こら、ナーガ。寝るのはダメ。ちゃんと歩きなさい」
ナーガというのは今考えた名前だ。直感的に名づけたのだけれど、意外と気に入ってくれたナーガだった。
「ミーナ、生まれた………よ?」
そういえば、いつの間にかミーナの姿が見当たらない。
辺りを見渡しても、見えるのは緑の草原だ。草しかない。人の姿は僕だけだし、竜は一匹だけど、どこを見渡してもやはりいない。
「ミーナ?」
いつの間にか走っていた。分かっているはずなのに、僕は走っていた。探しているのにミーナの姿は見つからない。
涙がボロボロと流れる。そばにいて当たり前だと思っていた。でも、そんなことはないということを改めて気づかされた。
「くるるる?」
ナーガが小さく鳴いて、肩に登って来ると、またその頬を舐め上げる。
ああ、そうか、僕はもう一人じゃないんだ。
ナーガを抱きしめて立ち上がって空を見上げると、雲一つない青空だった。
ふと、目を凝らしてみると一筋の白い紐のようなモノが体をひねりながら遠ざかっていく。
僕はなぜか、白い物体がミーナだと思った。根拠なんてないけれど、もしかすればミーナの竜としての姿があれなのかもしれない。
空に響き渡る竜の咆哮。
その声は、まるで一歩踏み出せない子供の背中を押すような声で、一言。
―――ガンバリナサイ
そう、言っているように感じた。
「うん、頑張るから。僕……頑張るから。だから、また会おうねミーナ」
竜が地平線の先まで消えるのを僕はナーガを抱きしめながら見つめていた。
ずっと、ずっと。




