「腕を買っただけだ」と言い張る無愛想な将軍が、軍医の私の手当てのときだけ大人しくなる理由
針を持つ手は、冷えていても震えてはいけない。
これは自分に課したたった一つの掟だ。指がかじかむのは構わない。けれど震えたら、その分だけ縫い目がぶれる。だから手の冷たさは無視する。野戦病舎の天幕は隙間だらけで、外の雪が容赦なく頬を刺してくる。それでも患者の前で寒がる軍医はいない。寒ければ寒いで、手が温まる頃には傷が一つ片付いている。そういう計算で、わたしはこの冬を越している。
「軍医殿。こいつ、助かりますか」
「黙って押さえていてください。あなたが手を離した瞬間だけ、助かりません」
兵の腹に手を入れたまま、わたしは答えた。糸を結ぶ。もう一度結ぶ。三度結んで、ようやく出血が止まった。指先の感覚で分かる。逃げかけていた命が、首根っこを掴まれて、こちら側に引き戻されてきた。
よし、と胸の中で呟く。一人。
血と薬の臭いが、天幕に満ちている。わたしにはもう、家の匂いみたいに馴染んだ臭いだ。けれどこの臭いを、まるで汚物みたいに嫌った人がいた。
——あれは、王都の夜会のことだった。
磨かれた床に蝋燭の光が落ちていた。貴婦人たちの裾が花のように広がっている。その中でわたしは、薬草の染みがついた指を扇で隠すこともせず、たぶん会場でいちばん場違いな女として立っていた。
「ヨハンナ。婚約は、なかったことにする」
オスカーは笑みすら浮かべていた。医官長ヴェルナー家の嫡男。わたしの婚約者だった男だ。
「血と薬の臭いがする女など、ヴェルナー家には要らぬ。分かるだろう。お前のような女は、貴族の妻には向かん」
周りの令嬢たちが扇で口元を隠して笑った。わたしの指の薬焼けを、爪の汚れを、誰もが見ていた。
不思議と、悲しくはなかった。ただ、目の前のこの男の脈を診たくてたまらなくなった。瞼の縁の浮腫み、唇の色、息の浅さ。——ああ、この人、肝の臓がそろそろ悲鳴を上げている。あと数年だ。医者の頭が、勝手に余命を計算していた。失礼ね、自分でも、と内心で笑う。婚約を切られた当人より先に、相手の死期を案じているのだから。
「分かりました」
わたしは静かに答えた。
「血と薬の臭いがするのは、わたしが誰かを生かしてきた証です。それを要らないと仰るなら、どうぞお返しになって。——臭いごと、わたしはあなたよりずっと長く生きるつもりですから」
令嬢たちの笑いが止まった。オスカーの顔が、わずかに引きつった。わたしは一礼して夜会を出た。振り返らなかった。靴音が一つ鳴るたびに、胸の奥が軽くなっていった。
——ブラケットを閉じる。意識は雪の鉄環峠に戻る。
処置を終えた兵が薄く目を開けた。
「軍医殿……あんた、貴族のお嬢さんだって、本当ですかい」
「子爵家の三女ですよ。とはいえ三女なんて、家の中では薬棚の一段目より影が薄いものです。腕のほうが、よっぽど立派な肩書きですよ」
わたしがそう言うと、兵は痛みも忘れたように笑った。血まみれの天幕で、それは存外、悪くない時間だった。患者が笑える程度に回復している。それがいちばんの予後だ。
その天幕の入り口が、不意に翳った。
外套に雪を乗せた、大きな影が立っていた。表情のない、彫りの深い顔。北方軍の総司令官、アイゼンハルト辺境伯ライハルト。兵たちが「氷の将軍」と呼んで恐れる男だ。
わたしを王都から拾い上げ、この前線まで連れてきた人でもある。
「腕は」
彼が言ったのは、それだけだった。腕は、で文が終わっている。腕は何ですかと続きを待っても、もう次の言葉は来ない。相変わらずこの人は、語彙をどこかの戦場に置き忘れてきたらしい。
「ご心配なさっているのは、患者の腕ですか、それともわたしの腕の冴えですか。——どちらにせよ、助かります。出血は止めました。あとは熱さえ引けば、ひと月で剣を握れますよ」
「そうか」
それだけ言って、彼は踵を返した。労いもない。感謝もない。けれど、わざわざ自分の足でここまで様子を見に来たことには、本人は気づいていないらしい。総司令官が、兵一人の生死を、雪を踏んで確かめに来る。妙な人だ。
わたしを召し抱えたとき、この人が言ったのも、たった一言だった。
「腕を買っただけだ」
——それが、すべて。
この人はわたしを買ったくせに、何を考えているのか、まるで読めない。脈なら触れれば読めるのに、この将軍の心の臓だけは、わたしの指でも届かないところにある。
雪の前線で、わたしの一日は傷の数で計られた。
矢を抜く。骨を継ぐ。熱に浮かされた兵に水を含ませる。宮廷にいた頃、白い手袋をはめて書類を運んでいた日々とは、何もかもが違った。ここではわたしの腕が、そのまま誰かの明日になる。指の一動きが、一人の冬を決める。
悪くなかった。むしろ、肺の底まで生き返るようだった。社交界の作法より、膿の色のほうがよほど雄弁で、付き合いやすい。
「軍医殿。これ、診てもらえますかね」
ベルントという若い兵が、足を引きずってやってきた。まだ十八。膝の傷が膿んでいる。放っておけば、半月で足を失う色だ。
「座って。——いいですか、これから膿を出します。少し痛みますよ。歯を食いしばっていなさい」
「い、痛いのは、どのくらいですか。俺、痛いの苦手で」
「ひと思いに済ませます。長く怖がっているより、ずっと楽ですよ。——ほら、わたしの手元を見ていないで、そこの天井の梁でも数えていなさい」
「う、うわっ……いてっ……」
「はい、もう半分。一の梁、二の梁。続けて」
膿を絞り出し、薬草を練った膏薬を貼って、布を巻く。ベルントは脂汗をかきながらも、最後には自分の足で立った。
「歩け……歩けます。俺、歩けますよ、軍医殿」
「でしょう? 明日にはもう、走って厠まで間に合いますよ。逃げ足の鍛え直しは、それからになさい」
わたしがそう言うと、ベルントは涙目のまま笑った。血と薬の臭いは、誰かを生かした証だ。オスカーがどれだけ汚物のように嫌おうと、この臭いだけが、わたしの値打ちそのものだった。
ベルントが、ふと声を落とした。
「軍医殿。前にいた軍医は、俺たちのことを『数』って呼んでましたよ。何人やられた、何人残った、って。あんたは違う。名前で呼ぶ」
「当たり前でしょう。数を縫っても、数は礼を言いません。わたしが縫っているのはベルント、あなたです。——そのほうが、退屈しないでしょう」
「……俺、あんたが来てから、ここで死ぬのが少し怖くなくなりました」
不意打ちのような一言だった。わたしは縫合の糸を持つ手を止めて、それから、いつもの調子に戻して言った。
「死ぬのは許可しません。わたしの手間が無駄になりますからね」
軽口で受けたけれど、その一言だけは、胸の引き出しの奥に、そっと仕舞っておこうと思った。
翌日、奇妙な患者が運ばれてきた。傷はないのに、脂汗をかいて苦しんでいる。前の晩、敵陣近くの井戸の水を飲んだという。
わたしは脈を取り、瞳を覗き、舌の色を確かめた。指先がぴくりと反応する。これは——知っている匂いだ。
「毒です。井戸に、毒が仕込まれていた」
「ど、毒っ……じゃ、じゃあ俺、死ぬんですか」
「死にません。あなたが慌てて飲んだのが幸いして、量が少ない。吐かせて、これを飲めば、半日で抜けます」
わたしは薬を調えながら、つい早口になるのを抑えられなかった。珍しい毒に出会うと、頭のどこかが勝手に踊り出すのだ。我ながら、医者の業とは度し難い。
「——覚えておいてください。敵は井戸に毒を入れる手を使います。これはレーゲンの薬種商しか扱わない、東の毒。匂いに、ほんのわずか、熟れた杏の甘さが混じるんです。剣の傷より、よほど性質が悪い」
兵は言われた通りに吐き、わたしの薬を飲み、その日のうちに起き上がった。
「軍医殿は、毒まで分かるんですか。鼻がいいんですね」
「戦場の毒は、剣より静かに人を殺します。音もなく、笑顔の裏で。だから、せめて匂いだけは覚えておくんです。——犬と同じですよ。生き延びたければ、鼻を効かせること」
そのときは、それだけのことだった。けれどこの杏の甘さを、わたしはのちに、思いもよらない場所で、もう一度嗅ぐことになる。
その日の午後、前線が小さく動いた。斥候の一隊が傷を負って戻り、わたしはまた血の中に立った。指揮を執るライハルトの声が、遠くで響いていた。短く、無駄がなく、迷いがない。氷のように冷たいその指示で、崩れかけた隊列が見る間に整っていく。
わたしは思った。この人は本物の将軍だ。兵を駒のように動かしているのに、不思議と、一人も無駄に死なせない動かし方をする。
負傷兵を運んできた古参の兵が、ぽつりと言った。
「閣下はね、軍医殿。前の軍医がいた頃は、傷ついた兵を後送しろと、いつも口うるさく言っておられた。冷たい顔のくせに、誰が運ばれたか、ぜんぶ覚えてる。だから俺たちは、あの方についていくんです」
「……そうですか」
「あんたが来てから、後送しろの命令が減りましたよ。あんたがここで治せるからだ。閣下は、それを分かってる」
わたしは黙って、次の傷に向かった。けれど、胸の奥が少しだけ温かかった。腕を買っただけ、と彼は言う。けれど、その腕が誰の命を繋いでいるかを、あの人はちゃんと見ている。
ベルントを見送って顔を上げると、天幕の外に副官のレオンが立っていた。
「相変わらず見事ですね、軍医殿。閣下が腕を買うはずだ」
「お世辞は、傷の治りを早めませんよ、ベルガー大尉。塗り薬のほうをお勧めします」
「お世辞ではありませんよ。これでも私、嘘が下手なほうでしてね」
レオンは含み笑いをして、声をひそめた。この副官は、主とは正反対によく喋り、よく笑う。氷の将軍の隣に、わざわざ火種を一つ置いておくとは、なかなか趣味がいい。
「ご存じですか。この前線で、あなたの天幕にだけ、上等の炭が回っているのを」
「……炭、ですか」
「ええ。前線で良い炭は、金より貴重です。普通は将官止まり。なのに軍医殿の天幕だけ、真夜中でもぬくぬくと暖かい。妙だとは思いませんか」
言われて、わたしは思い返した。確かにわたしの天幕は、なぜか寒くない。蝋燭も上等で、夜なべの手元がよく見える。前線にしては、いっそ不自然なくらいに整っていた。
「補給係の手違いでしょう。たまたま割り当てを間違えたんですよ」
「その手違いが、毎晩律儀に続くわけですか。気の利く手違いですねえ」
レオンは芝居がかった仕草で肩をすくめ、それ以上は言わなかった。——手違い、ということにしておいてあげる。そのほうが、わたしも考えずに済むから。
その夜も、わたしは遅くまで薬を調合していた。明日の分が足りない。すり鉢の音だけが天幕に響く。
ふと、外の足音に気づいた。雪を踏む、重い靴音。それが天幕の前で止まった。
けれど誰も入ってこない。しばらくして足音はまた遠ざかっていった。
翌朝、レオンがすれ違いざまに言った。
「閣下は昨夜、あなたの天幕の灯りが消えるまで、ずっと外を見ておられましたよ。私が声をかけたら、見回りだと仰って」
「見回りでしょう。総司令官のお務めです」
「軍医殿の天幕の前だけを、雪の中、半刻もですか」
わたしは答えに詰まった。けれどすぐに、頭が勝手に冷静な答えを用意した。きっと軍規の一環だ。大枚はたいて買った軍医が逃げ出さないか、見張っていただけ。そうに決まっている。——そう思っておかないと、なんだか、こちらの脈のほうが乱れそうだったから。
その日、わたしは将軍に薬湯を届けに行った。彼は執務の手を止め、わたしが運んだ椀を、無言で受け取った。
「お疲れでしょう。滋養の薬湯です。苦いですが、ぜんぶ飲み干してください。残すと、明日また同じものを倍量で持ってきますからね」
「……ああ」
彼は素直に飲んだ。脅しが効いたのか、それとも最初から残す気がなかったのか。空になった椀を返しながら、彼はぼそりと言った。
「腕を買っただけだ」
わたしは思わず、椀を受け取る手を止めた。脈絡がない。誰も、何も尋ねていないのに。
「将軍」
「なんだ」
「その『腕を買っただけ』、わたしが数えただけで、もう三度目です。誰も、腕以外のことなど一言も聞いていませんよ。——それとも、聞かれる前に言っておかないと落ち着かない、何かがおありで?」
彼は答えなかった。けれど、視線をわずかに逸らした。氷の将軍と呼ばれる男の頬が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。なるほど。この人は図星を突かれると、目を逸らすのか。——医者の癖で、つい一つ症状を覚えてしまった。
「では、もう一杯。これは脈が落ち着く薬湯です。あなたには、ちょうどよさそうだ」
「……要らん」
「飲んでください。わたしの天幕では、患者の選り好みは受け付けておりません。どうぞ、ご名答の将軍閣下も等しく」
彼は、わたしの差し出した二杯目を、しばらく睨んだあと、結局は黙って飲み干した。氷の将軍が、軍医の言うことだけは聞く。それを壁際で見ていたレオンが、肩を震わせて笑いをこらえていた。わたしも、危うく一緒に噴き出すところだった。
——気のせい。きっと、気のせい。わたしはそう思うことにした。けれど、思うことにする回数が、少しずつ増えていた。
戦が動いた。
国境の向こう、レーゲン公国の軍が一斉に押してきた。三日三晩、傷病者が途切れなく運ばれてきた。わたしは眠らなかった。眠れば、その間に死ぬ者が出る。
矢を抜く。傷を縫う。熱を冷ます。手が止まれば、また一人。手が動く限り、一人多く助かる。それだけの単純な計算で、わたしは三日を越えた。
水も、ろくに飲まなかった。食事の記憶もない。気づけば、自分の指がどの兵の血で汚れているのか、分からなくなっていた。
「軍医殿、少しお休みを」
誰かがそう言った気がする。けれど休めば、その間に運ばれてきた兵が死ぬ。わたしは首を振って、次の傷に向かった。
四日目の夜だった。
縫合の糸を結ぼうとして、指が思うように動かなかった。視界の端が、墨を垂らしたように黒く滲む。おかしい。今、わたしは何を結んでいた。誰の傷だった。
床が、ぐらりと傾いだ。
——ああ、これは。患者ではなく、わたしのほうが倒れる番だ。
他人の限界はあれほど正確に測るくせに、自分の身体の勘定だけは、いつも忘れる。困った医者だこと。最後に他人事のようにそう呆れて、わたしの意識は、ふつりと途切れた。
……熱い。
頬に、何か固いものが触れている。手の感触。不器用に、けれど必死に、わたしの額の汗を拭おうとしている、誰かの手だ。
半分閉じた瞼の向こうで、声が聞こえた。
「軍医を呼べ。早く。——なぜ気づかなかった。四日も食べていなかったのだぞ」
その声は荒れていた。低く、震えて、いつもの凍りついた響きがどこにもなかった。
「だから見ていろと……灯りが消えるまで、見ていたのに……」
ライハルトだった。
氷の将軍が、わたしの枕元に膝をついていた。自分の外套を脱いでわたしにかけ、慣れない手つきで額の布を替えている。普段、無駄な動きを一つもしない人の手が、今は迷い、震えていた。
わたしを呼ぶ声があった。
「ヨハンナ。ヨハンナ、聞こえるか。——頼む。目を開けてくれ」
頼む、と。
あの人が、頼むと言った。腕を買っただけの女に。
わたしはそれきり、また眠ってしまった。けれど、その手の温度だけは、はっきりと覚えていた。
目を覚ましたとき、天幕には誰もいなかった。けれどわたしには上等の外套がかけられていた。枕元にはぬるくなった水と、誰かが用意したらしい粥が置いてあった。
しばらくして、ライハルトが入ってきた。いつもの無表情だった。昨夜の声の主と同じ人とは思えなかった。
「起きたか」
「……はい。すっかりご迷惑を。患者を治す側が寝込むなんて、軍医失格ですね」
「軍医が倒れては困る。それだけだ」
彼はそう言って、わたしと目を合わせなかった。例の、図星のときの目の逸らし方だ。
「腕を買っただけだからな」
わたしは布団の中で、こっそり笑ってしまった。四度目。数えるのが、だんだん楽しくなってくる。
この人は、自分がわたしにだけ甘いことに、本気で気づいていないらしい。あんなに取り乱して、外套を脱いでかけて、頼むとまで言って。それでもまだ「腕を買っただけ」の一枚看板で押し通そうとしている。看板の塗りが、もうとっくに剥がれているのに。
不器用な人だ。気持ちという気持ちを、ぜんぶ行動に両替してからでないと、外に出せない人なのだ。——まったく。翻訳するこちらの身にもなってほしい。そう呆れながら、わたしはなぜか、その翻訳の仕事を、嫌だとは思わなかった。
粥を食べ終えた頃、レオンが顔を出した。
「お加減は」
「おかげさまで。……大尉。昨夜のこと、教えてください」
「何を、とは」
「将軍が、どんな様子だったか」
レオンは少し迷って、それから笑った。
「私が閣下のあんな顔を見たのは、六年お仕えして初めてです。あなたが倒れたと聞いて、執務の書類をぜんぶ放り出して走られた。雪の中を、外套も着ずに」
「……そうですか」
「あの方は、言葉が下手なんです。だから全部、行動でやる。炭も、見回りも、外套も。本人は『軍規だ』『見回りだ』と言い張るでしょうが。——軍医殿。あなたはもう、お気づきですよね」
わたしは答えなかった。けれど、その日からわたしは少しだけ、彼の沈黙の翻訳ができるようになった気がした。
体が動くようになって、わたしはまた天幕に立った。倒れた翌々日、薬湯を届けに行くと、ライハルトは執務の手を止め、わたしの顔をじっと見た。いつもなら、椀を受け取ってそれで終わりだ。けれどその日は違った。
「顔色は」
「もう大丈夫です。ご心配なく」
「……まだ青い」
彼はそう言って、机の引き出しから何かを取り出した。布に包まれた、干した果実だった。前線では、まず手に入らない貴重品だ。それを、わたしの手に押しつけるように渡した。
「食え。倒れられては困る」
「将軍。これは、いったいどこから」
「軍規だ」
わたしは知っている。王国の軍規のどこを開いても、軍医に干した果実を配れという条項など、一行も書かれていないことを。この人は、心配だと言えない代わりに、いつも別の言葉で自分を武装する。心配を「軍規」と呼び、独占を「効率」と呼び、気遣いを「見回り」と呼ぶ。ご立派な辞書だこと。中身は全部、同じ一語の言い換えなのに。
「では、ありがたく頂戴します。——将軍も、半分どうぞ」
わたしが果実を半分に割って差し出すと、彼は一瞬、本当にどうしていいか分からないというふうに手を止めた。それから、ぎこちなく、無言でそれを受け取った。氷の将軍と薬の臭いがする女が、執務室で干し果実を半分こにする。傍から見れば、さぞ奇妙な光景だろう。けれど、わたしはその静かな刻が思いのほか嫌いではなかった。果実は、ほんの少し杏の味がした。——いや。これは甘いほうの杏だ。問題ない。
わたしがなぜ軍医になったか。それは、誰も診ようとしない者を診たかったからだ。身分のある令嬢が血の中に立つなど、と皆が眉をひそめた。けれど、わたしは数ではなく名前を診たかった。
この前線で、わたしは初めて、自分の値打ちを「要らぬ」と言わない人のそばにいた。
戦線が膠着し、束の間の静けさが訪れた頃。王都から宮廷医官の一団が前線を訪れた。
その先頭にいたのは、オスカーだった。
「これはこれは。血と薬の臭いがする女が、まだ軍にいたとはな」
彼はわたしを見つけると、わざと聞こえるように言った。後ろの令息医官たちが薄笑いを浮かべた。
「女が血まみれで男に混じるなど、見苦しいとは思わんのか。まあ、お前にはお似合いの場所だ」
わたしは言い返さなかった。脈を診なくても、声の張り方一つで分かる。この男は、相変わらず中身より家格のほうが重い。せっかく前線まで来たのだから、ついでに肝の臓でも診てやろうかと思ったけれど、やめておいた。きっと、いい顔色はしていない。
ベルントが、わたしの背中に小声で言った。
「軍医殿。あの方、なんだか嫌な感じですね。俺、ああいう人に診られるのは御免です」
「黙っていなさい、ベルント。患者は医者を選べないものですよ。——もっとも、あなたの足を守った医者がどっちかは、ちゃんと覚えておきなさい」
「へへ。そりゃあもう、忘れませんとも」
その夜、事は起きた。
ライハルトが、倒れた。
夕餉の後、執務室で意識を失ったのだ。わたしが駆けつけたとき、宮廷医官たちが既に彼を取り囲んでいた。
「過労による衰弱だ」オスカーがもっともらしく言った。「ここ数日、戦の指揮で根を詰めておられた。安静にしていれば、じきに回復する」
わたしはライハルトの傍らに膝をついた。許しも得ず、彼の手首に指を当てた。
脈が、おかしい。
速く、浅く、そして時折、奇妙に飛ぶ。皮膚は冷たいのに額には脂汗。瞳孔を見た。光に対する開き方が鈍い。
これは過労ではない。
「毒です」
わたしははっきりと言った。
「遅効性の毒。心の臓をゆっくり弱らせる類のものです。数日かけて飲ませれば、誰もが疲労と見誤る。けれど脈の飛び方と瞳孔が、毒だと告げています」
医官たちがざわついた。オスカーの顔が、一瞬、強張った。
「馬鹿な」彼は声を荒げた。「女軍医の妄言だ。私が診たのだ。過労に決まっている。お前のような者の見立てを誰が信じる。私は医官長の子息だぞ」
「では、医官長の子息のあなたは、この脈をどう説明なさいますか」
わたしはライハルトの手首を彼に示した。
「正常な疲労では、脈は規則正しく弱るだけです。こんなふうには飛びません。これは心の臓に作用する毒の徴です。わたしは戦場で、毒を盛られた兵を何人も診てきました。見間違えません」
オスカーは、答えられなかった。
「答えられませんか。では、わたしが続けます」
「だ、黙れ。お前の言うことなど」
「黙りません。患者が死にかけているのに、黙る医者がどこにいますか」
わたしは一歩、前に出た。
「あなたは医官長の子息です。けれど、子息という肩書きは、毒を見抜けません。脈も読めません。心の臓も止められません。——わたしの腕は、肩書きを持っていません。けれど、人を生かせます」
居並ぶ将官の一人が、低く言った。
「……軍医殿に、診させろ。閣下の脈を読めぬ宮廷医など、ここでは要らん」
オスカーの顔が、目に見えて青ざめた。
彼に毒の知識がないことを、わたしは知っていた。彼が宮廷で出してきた診断の多くは、もとはわたしの所見だった。婚約者だった頃、わたしの見立てを彼が自分の手柄として上に報告していたのだ。
わたしは立ち上がった。
「処方を組みます。解毒の手立てはあります。けれど時を逃せば心の臓が止まる。——どいてください」
「待て。勝手は許さん。お前にライハルト閣下を診る権限など——」
「あります」
わたしは彼を見据えた。
「わたしはこの方の軍医です。腕を、買われましたから」
病床から、かすれた声がした。
「……ヨハンナに、任せろ」
ライハルトだった。意識の薄れる中で、彼はそれだけを言った。氷の将軍の一言に、医官たちは口を閉じた。
わたしは、走った。
調合棚から、心の臓の毒に拮抗する薬草を選び出す。量を計る。煎じる時間を計る。一度でも誤れば、解毒の薬がそのまま毒になる。指の震えを許さなかった。震えていても手元は正確に、と自分に言い聞かせた。
「大尉。手伝ってください。火を絶やさないで」
「お任せを。——軍医殿、勝てますか」
「勝ちます。負ける手当ては、はじめからしません」
薬を煎じながら、わたしは毒の正体を逆算していた。
数日かけて少量ずつ飲ませる遅効性の毒。前線の将軍にそれを盛れるのは、夕餉に近づける者。そして毒の知識を持ちながら、それを「疲労」と偽れる立場の者。
——宮廷から来たばかりの、医官。
「大尉。将軍の夕餉に、ここ数日、近づいた者を調べてください。それから、オスカー・ヴェルナーが王都を発つ前、誰と会っていたか。——彼は、敵に通じているかもしれません」
レオンの目つきが変わった。
「……根拠は」
「この毒はファルケンでは手に入りません。レーゲン公国の、国境の薬種商しか扱わない種です。匂いで分かります。——杏の甘さが、わずかに混じる。井戸に仕込まれていたのと、同じ毒です。彼は東から来た毒を持っていた」
薬が、煎じ上がった。
わたしは椀を持ち、ライハルトの口元に運んだ。一滴ずつ、慎重に、飲ませていく。心の臓の鼓動を指で確かめながら。長い夜だった。
だが、最初の半刻が過ぎても、脈は整わなかった。むしろ、飛びが激しくなる。冷たい汗がわたしの背を伝った。
間違えただろうか。毒の種を読み違えただろうか。
「軍医殿。脈が……」レオンの声が掠れた。
わたしは目を閉じ、王都の夜会で診たくなった澱んだ顔色を、戦場で看取った毒の兵たちの脈を、ひとつずつ頭の中で並べ直した。違う。種は間違っていない。量だ。この毒は思ったより深く回っている。薬が足りていない。
「足ります。煎じ直します。——大尉、火を強く」
わたしは薬草の量を倍にした。煎じる時間を縮める。賭けだった。濃すぎれば、解毒の薬がそのまま心の臓を止める。けれど薄ければ毒に負ける。
一瞬、指が止まった。読み違えていたら、この一杯がこの人を殺す。そう思った途端、喉の奥が干上がった。
——震えるな。医者の頭が、怯えた手を握り潰した。震えていても、手元は正確に。それだけだ。指の感覚だけを頼りに、ぎりぎりの一点で椀を満たした。
もう一度、口元へ運ぶ。一滴。鼓動を確かめる。また一滴。
明け方近く。
飛んでいた脈が整い始めた。冷たかった皮膚に、わずかに温もりが戻った。瞳孔が光に応えた。
戻ってきた。命が、こちら側に。
「……死なせません」
わたしは汗だくのまま囁いた。
「わたしがいる限り、まだです」
ライハルトが目を開けたのは、陽が高く昇ってからだった。
病床の周りには、宮廷医官たちと北方軍の将官たちが集まっていた。レオンが、調べ上げた事実をその場で告げた。
オスカー・ヴェルナーが、レーゲン公国の密使と通じていたこと。東の毒を持ち込み、将軍の夕餉に数日かけて盛ったこと。前線の指揮官を失わせ、戦線を崩すための内通の謀だったこと。
「ち、違う」オスカーは後ずさった。「私は知らない。嵌められたんだ。その女が、その女が私を陥れようと——」
「ヴェルナー殿」
わたしは静かに遮った。
「あなたが持ち込んだ毒の包みを、大尉が見つけました。レーゲンの薬種商の封蝋が押してあったそうですね。わたしが匂いで言い当てた毒と、同じものです。——医官長の子息ともあろう方が、毒の出所も隠せないとは」
将官たちの視線が、一斉にオスカーへ集まった。誰かが低く呟いた。「将軍を、毒殺しようとしたのか」。ざわめきが広がっていく。それは怒りの色をした、低い波だった。
オスカーの顔から血の気が引いた。言い訳の言葉が続かなかった。彼が拠り所にしてきた家格も、医官長の子息という肩書きも、この場では何の盾にもならなかった。
彼を縛り上げる兵の足音を聞きながら、わたしは思った。
血と薬の臭いがする女など要らぬ、と彼は言った。けれど、その臭いがする女だけが、彼の毒を見抜き、彼の標的を生かした。彼が見下したものが、彼を裁いたのだ。
わたしは手を下していない。彼は自分の浅さで、自分を裁いた。
病床のライハルトが、身を起こそうとした。
「閣下、まだ安静を」
わたしが押し留めようとすると、彼はわたしの手首をつかんだ。いつもの無表情のまま、けれど、その手は強かった。
「ヨハンナ」
彼は居並ぶ将官たちの前で、わたしの名を呼んだ。
「お前でなければ、困る。——私が」
短い言葉だった。けれど、その「私が」の一言に、彼が今まで隠してきた全部が詰まっていた。
腕を買っただけ、ではなかった。困るのは軍ではなく彼自身だと、初めて、はっきりと言った。
居並ぶ将官の前で、氷の将軍が、わたしの手首を握ったまま、わずかに頭を垂れた。誰にも膝を折らないと言われた男が、ただ一人、わたしの前で。
宮廷医官たちが息を呑むのが分かった。「血と薬の臭いがする女」と笑った者たちは、もう、誰も何も言えなかった。
わたしは、握られた手を握り返した。
「……承知しました、将軍」
軍医らしく、短く答えた。けれど声に温度が乗るのは止められなかった。
「ですが、その握り方ですと脈が乱れます。安静が、まだ必要ですよ。——患者として、おとなしくしていてください」
彼はふいと視線を逸らした。氷の将軍と呼ばれる男の頬が、今度は確かに赤かった。
「……腕を買っただけだ」
「もう、何度目ですか、それ」
わたしが笑うと、傍らのレオンがこらえきれずに噴き出した。
「軍医殿。それ、もう私は数えるのをやめましたよ」
レオンはわたしとライハルトを見比べて、嬉しそうに目を細めた。それから、わざとらしく一礼して見せた。
「閣下の脈、これで安静になりますかね。担当の軍医殿しだいですが」
外では、雪がやんでいた。鉄環峠の冬はまだ長い。けれど、この前線の天幕は不思議と暖かかった。
誰かが毎晩、上等の炭をくべてくれているからだ。本人は、きっと今日も認めないだろうけれど。
オスカーは、王都へ送り返された。敵国との内通と、将軍暗殺の謀。医官長ヴェルナー家の威信は、地に落ちた。彼が盗み続けたわたしの所見も、すべて明るみに出た。彼が宮廷で誇った診断のいくつが、本当は誰の頭から出たものだったか。それを今さら知った医官府は、もう、わたしの名を笑えなかった。
わたしは王都に戻らなかった。戻る気もなかった。
ベルントが、すっかり治った足で天幕にやってきて、得意げに言った。
「軍医殿。聞きましたよ。将軍を毒から救ったって。前線中、その話で持ちきりです」
「噂は薬になりませんよ、ベルント。それより、膝の調子はどうです」
「もうばっちりです。それより聞いてくださいよ。俺、自慢して回ってるんです。俺の足を守った軍医が、将軍の命まで守ったんだぞって。鼻が高いったらないです」
「あなたの鼻が高くなる治療はしていませんけどね」
わたしがそう返すと、ベルントは声を上げて笑った。血と薬の臭いがする女が、誰かの自慢の種になる日が来るとは、王都にいた頃のわたしには、とても想像できなかった。
その夜、ライハルトが天幕に来た。回復した彼は、もう病人ではない。けれど、わたしの前では、相変わらず言葉が下手だった。
「炭は」
「足りています。——将軍が回してくださっているのでしょう。もう、隠さなくていいですよ」
彼はわずかに目を逸らした。それから、ぼそりと言った。
「……寒いと、お前の手が冷えるからな」
針を持つ手が冷えてはいけない、と言ったのは、わたしだった。あの言葉を、この人は覚えていた。わたしの手のことを、ずっと案じていた。
「将軍」
「なんだ」
「ありがとうございます。——その気持ちは、ちゃんと届いています」
彼はしばらく黙っていた。それから、わたしの冷えた指に、自分の大きな手を、そっと重ねた。言葉はなかった。けれど、その温度が、何よりも雄弁だった。
翌朝、レオンがすれ違いざまに、にやりと笑った。
「軍医殿。閣下の脈、ここしばらく、ずいぶん健やかでいらっしゃるようで」
「ええ。患者が素直になると、脈は落ち着くものですよ」
わたしがそう返すと、レオンは声を立てて笑った。
「『腕を買っただけ』が、ついに四度目を越えなかった。それだけのことです。——いい診立てだ、軍医殿」
鉄環峠の冬は、まだ長い。けれど、わたしの天幕は、もう寒くない。
血と薬の臭いがする女を、この前線のただ一人が、誰よりも欲しがってくれているからだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「腕を買っただけだ」と言い張る、無愛想なツンデレ将軍のギャップ溺愛です。冷たい言葉の裏で全部用意してある——そういう不器用な人を、惚れられる側のヨハンナの目から描きました。
気持ちを言葉にできず、行動でしか示せない人がいます。ライハルトは、毎晩こっそり上等の炭を回し、灯りが消えるまで天幕の前に立ち、彼女が倒れた夜には初めて声を荒げる。それでも口では「腕を買っただけ」と言い張る。彼が一度だけ取り乱す場面と、衆前で「お前でなければ困る」と言う一言の落差が、この話でいちばん書きたかったところです。
そしてもう一つ。血と薬の臭いは、誰かを生かした証です。それを「要らぬ」と切り捨てた男を、当の臭いがする女が見抜き、裁く。手を下さなくても、彼は自分の浅さで自分を裁きました。侮蔑された値打ちが、衆前でひっくり返る——その爽快を、軍医の知で組み立てたかったのです。
◇◆◇ 「溺愛シリーズ(ギャップ溺愛)」 ◇◆◇
規格外の男が、有能な令嬢にただ一人だけ甘い——。
ヒロイン視点で描く、ギャップ萌え溺愛の短編シリーズです。
冷徹も、傲慢も、人外も、政略も——一作ごとに違う「彼」が出てきます。
次は、陽気な獣人王×料理人令嬢の予定です。
「契約だけ」と言った夜、私の作る菓子の前でだけ尻尾を垂れる王様の話を。
毎週更新中!
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




