『氷海の灯台守』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
翌朝。
スノウリアの空は、
鉛色だった。
雪は止んでいる。
だが。
空気は重い。
窓の外では、
砕氷船が朝霧の中を動いていた。
ゴォォ……
低い機関音が、
港全体へ響いている。
ユキは、
窓際へ座ったまま外を見ていた。
昨夜聞いた、
港夫達の歌が頭へ残っている。
ミツコが、
湯気立つスープを差し出した。
「冷えるからねぇ」
「ありがと」
ユキが、
両手で器を包む。
その横で。
フィルニアは、
毛布へ丸まっていた。
完全に冬眠体勢。
タマが、
呆れ顔になる。
「お前ほんとダメだな寒冷地」
「南へ帰りたい……」
「まだ二日目だぞ」
⸻
朝食後。
カヤが、
宿まで迎えに来た。
相変わらず、
白い外套へ雪が積もっている。
「今日は港外へ出る」
トシオが、
少し眉を上げる。
「外?」
カヤは頷く。
「北航路見ないと、
この国は分からない」
⸻
港外周区画は、
街中心部と空気が違った。
静かだった。
観光客も少ない。
並んでいるのは、
実用船ばかり。
砕氷船。
警戒艇。
観測船。
船体には、
大量の傷跡が残っていた。
ユキが、
小さく呟く。
「いっぱい削れてる……」
カヤが、
船腹へ触れる。
「氷海は、
海より岩に近い」
「氷塊がぶつかる」
「吹雪で視界が消える」
「時々、
空そのものが割れる」
フィルニアが、
毛布の中から顔を出した。
「最後なんだよ」
「境界の歪み」
短い答えだった。
⸻
一行は、
補給船へ乗せられた。
大型ではない。
細長い北方艇。
船底が異常に厚い。
甲板には、
氷砕き杭まで付いている。
トシオは、
少し楽しそうだった。
船へ乗ると、
空気が変わる。
身体の重心。
風。
揺れ。
全部、
昔の感覚を呼び起こす。
カヤが、
そんなトシオを見て言う。
「慣れてるな」
「まぁな」
トシオは、
ロープを軽く引いた。
結び方まで、
完全に船乗りだった。
船員達が、
少し驚いた顔になる。
⸻
出航。
ゴォォ……
砕氷音と共に、
船が氷海へ出る。
景色は圧巻だった。
白。
銀。
灰。
世界から色が消えたみたいだった。
空中氷海には、
巨大氷塊が浮いている。
山みたいにデカい。
しかも。
ゆっくり動いていた。
ユキが、
息を呑む。
「生き物みたい……」
ミーコも、
静かに氷海を見ている。
音が少ない。
風と、
氷が擦れる音だけ。
その時。
遠くで、
巨大な影が浮かんだ。
ユキが、
思わず立ち上がる。
「なにあれ……」
氷海鯨だった。
巨大。
青白い身体。
氷を纏った背。
空中を、
ゆっくり泳いでいる。
フィルニアですら、
少し見入っていた。
「……でか」
⸻
数時間後。
船は、
北方灯台へ到着した。
巨大だった。
氷海へ突き刺さる、
白い塔。
周囲には、
他に何も無い。
孤立した灯台だった。
カヤが、
短く言う。
「ここが、
北航路最後の光だ」
灯台守は、
年老いた海豹獣人だった。
白髭。
厚着。
片腕義手。
だが。
目は鋭い。
彼は、
トシオ達を見ると頷いた。
「旅人か」
「珍しいな」
灯台内部は、
想像以上に質素だった。
暖炉。
観測机。
古い航路図。
大量の記録帳。
それだけ。
ユキが、
少し不思議そうに聞く。
「一人なの?」
灯台守は、
静かに頷いた。
「灯りを守るのが仕事だ」
「誰かが帰って来る為にな」
⸻
昼。
灯台上層から、
氷海を見下ろす。
遠く。
白霧。
さらに北。
暗い。
普通の吹雪じゃない。
ミーコの瞳が、
少し細くなる。
カヤが、
隣へ立った。
「見えるか?」
「……境界霧」
カヤは、
小さく頷く。
「昔はもっと遠かった」
「でも今は、
毎年近付いてる」
風が吹く。
灯台が軋む。
ユキは、
少し不安そうだった。
「船、
どうしてそこまで行くの?」
灯台守が、
静かに答えた。
「生きる為だ」
「北には、
北でしか獲れない物がある」
「燃料鉱石」
「氷海魚」
「薬氷」
「この国は、
北を捨てたら冬を越せん」
単純な冒険じゃない。
生活だった。
だから。
危険でも船は出る。
⸻
午後。
灯台守は、
記録帳を見せてくれた。
古い航海日誌。
消えた船の記録もある。
ユキは、
少し緊張しながらページを見る。
『第七観測船』
『消息断絶』
『霧深シ』
『鐘音確認』
『以後通信途絶』
別のページ。
『北方輸送艇』
『白霧内ニテ船影消失』
『生存者ナシ』
タマが、
眉をひそめる。
「鐘?」
灯台守は、
静かに答えた。
「最近、
霧の中で鐘が鳴る」
「存在しないはずの航路鐘だ」
ミーコが、
ゆっくり目を閉じた。
嫌な感じだった。
侵食とも違う。
だが。
似ている。
⸻
夕方。
吹雪が来た。
突然だった。
ゴァァァァ……
白。
全部白。
視界が消える。
灯台の光だけが、
辛うじて見えていた。
ユキが、
少し怯える。
「なにも見えない……」
カヤは、
窓の外を見たまま言う。
「北の吹雪は、
世界を消す」
灯台守が、
静かに灯火を調整している。
慣れていた。
長い年月、
ここで光を守ってきた人間の動きだった。
トシオは、
外を見ながら呟く。
「昔の海思い出すな」
ミツコが、
小さく笑う。
「遭難しかけた時?」
「何回かある」
「笑えんよそれ」
⸻
夜。
吹雪は続いていた。
灯台内部では、
静かな食事が始まる。
干魚スープ。
黒パン。
熱い茶。
簡素だった。
だが。
暖かい。
灯台守が、
ぽつりと呟く。
「北ではな」
「明日生きてる保証は薄い」
「だから、
今日を雑にせん」
静かな声だった。
ユキは、
じっとそれを聞いている。
灯台守は、
窓の外を見た。
吹雪。
白霧。
その向こう。
「死ぬ事は怖い」
「だが、
忘れられる方が怖い」
カヤが、
小さく黙り込む。
港夫達の歌。
帰港祝い。
全部、
繋がっていた。
北の人間は、
死を遠ざけない。
隣に置いて生きている。
だから。
帰って来た人間を、
ちゃんと迎える。
ミーコは、
灯台の灯りを見る。
吹雪の中。
小さな光だった。
だが。
確かに、
誰かの帰る場所になっていた。




