夢の確定申告
会見は短く、資料は分厚かった。
背面スクリーンに新しいロゴが浮かぶ——夢益課税。
「睡眠中に得られた発想・発明・企画等、経済価値を持つ成果については、翌年申告をお願いします」
語尾は柔らかく、スライドは硬い。
ぼく——矢田は、その日の午後から夢税審査官になった。枕元メモの写真と脳波ログを照合し、夢と現実の継ぎ目に税率を当てる仕事だ。
国税庁 夢益課税ガイド(抄)
第1条 夢益:睡眠中に得た発想・発明・企画等に起因する所得
第4条 証憑:①睡眠ログ(脳波・心拍・レム判定) ②起床記録(手書き可) ③第三者価値評価
第8条 控除:悪夢により回避された損害見込額は損失として控除可
但し 過度の自己誘発は対象外(※判定は審査官)
最初の申告は、発明家からだった。
提出書類の角は丸く、メモの字はとがっている。
「ネジの頭を三角に」——単純だが、既製の作業工程を短縮するアイデア。睡眠ログには深いレムが二回。翌週には部品メーカーの発注書が添付された。
ぼくは査定額を入力し、税率のセルを押した。キーの音は軽い。
次の申告は、コピーライター。
スローガンは短く、売上は長かった。
脳波は浅いレム、起床後一分での記述。
ぼくはまたセルを押した。押すたびに、夢が数字に変わる。
*
制度は早く産業になった。
夢コンサルは講座を開き、「儲かる夢の見方」を売る。
夢インボイス番号が配られ、請求書には「D-12-45132」の印字。
昼寝ルームの請求を仕入控除にできないかと問う企業が増える。
就業規則には**「昼寝分の権利帰属」**が追記された。
ぼくの机の上に、インボイス、ログ、メモ、そして相談状が積み上がる。積み上がったものは、よく倒れる。倒れた書類を拾い、また積む。
庁内通達
件名:共同睡眠の取扱い
・共同睡眠(複数名による発想セッション)で得た夢益の按分は、本人の睡眠ログ比による。
・寝言の録音のみは証憑として弱。手書きメモまたはデジタル記録を伴うこと。
ぼくは寝言の波形を見ながら、手書きの字に印を付ける。
紙のインクは乾いている。夢のほうが湿っている。湿気は税務上、考慮しない。
*
三か月目、統計速報が出た。タイトルは短く、内容は長い。
統計局 速報
件名:悪夢経験と翌日行動の相関
・悪夢(N1〜N3)を見た群で詐欺・事故・炎上の発生率が有意に減少
・当該減少は「用心深さの増加」によると推定
結論:悪夢を通じた損失回避は利益ではなく損失の縮小であり、控除対象とするのが妥当
庁内の空気がわずかに変わった。
悪夢控除という語が正式にメニューに加わると、相談窓口にホラー音源や疑似体験アプリのチラシが混じり始めた。
人は賢く、制度は学習する。学習すると、穴を覚える。
悪夢の品等級(審査用)
N1:転倒・紛失の疑似体験(軽微)
N2:詐欺・炎上の未遂(中)
N3:災害・事故の軽度再現(重)
※覚醒後10分以内に情動回復が見込めないものは不適
窓口の青年は、耳栓を出した。
「昨晩、これでN3を見たので」
ぼくは耳栓を見た。形は普通だ。
「どう再現したのですか」
「波の音に、低周波を混ぜるやつで」
「過度の自己誘発は対象外です」
青年はうなずき、パンフレットを持ち帰った。
うなずきは、控除にならない。
*
節税産業は方向を変えた。
安全な悪夢のレシピが売られる。
「軽く怖い」「すぐ回復する」「用心深くなる」
企業の研修に悪夢体験が組み込まれ、朝礼では「昨夜の学び」が共有された。
庁内では数式が増えた。
損害見込額×回避確率×寄与率=控除額
寄与率は見えない。だから審査官が決める。ぼくは端数を切った。端数は、眠りと似ている。切り過ぎると朝が早い。
国庫の線は、うっすらと青に傾いた。
会議室の空調が強くなる。
そして、政策が用意された。
公的悪夢 配布要領(案)
・配布頻度:年2〜4回、生活安全週間に合わせ実施
・内容:転倒/詐欺/炎上/自然災害の軽微疑似体験
・安全基準:覚醒後10分以内に情動回復/トラウマ誘発は不可
・目的:用心深さの社会的底上げと医療・治安コストの抑制
・配布方法:睡眠アプリ経由の軽刺激(音・光・触覚)
議論は短く、賛否は長かった。
賛は財政の数式を示し、否は眠りの質を示した。
結局、どちらも示し終えて、可決した。
*
夜、ぼくの家にも通知が来た。
〈公的悪夢 配布予告〉
本日 2:00〜2:15 の間に、軽度の疑似体験を配布します。
内容:N2(詐欺未遂)/情動回復目安 5分
体調不良の方は、設定から辞退を選択してください。
辞退ボタンは小さかった。
小さいボタンは、押されにくい。
ぼくは枕を反転し、目を閉じた。
午前二時、枕元でわずかな震えがあった。
夢の中で、見知らぬ口座に金が落ちる。
知らない手が伸び、ぼくはカードをしまい、通話を切る。
夢の中のぼくは、用心深かった。
目が覚めると、心拍は少し高く、喉は乾いていた。
五分後、乾いた。
翌朝、庁舎に向かう途中、電柱に貼り紙があった。
「公的悪夢反対」
剥がれかけた角が風に揺れる。
角があるものは、剥がれやすい。
ぼくはその角を見て、信号が青になったのに気づいた。
横断歩道を渡る。
昨夜の悪夢は、ぼくに左右確認を二度させた。
*
窓口は、眠そうな人で満席になった。
悪夢控除の相談は列になり、夢益課税の申告は細くなった。
パン屋の主人は言った。
「昨夜の怖さで、釣り銭を二度数えるようになりました」
「よいことです」
「売上は増えません」
「控除があります」
主人はうなずき、控除額の小ささにうなだれ、パンを一つ置いて去った。
うなだれは、課税にも控除にもならない。
午後、ひとりの女性が来た。
書類は薄く、言葉は短い。
「昨日、知らないURLを踏みませんでした」
「はい」
「悪夢のおかげです」
「はい」
「控除をお願いします」
ぼくは脳波ログを確認し、目線の軌跡を見た。
彼女はリンクの手前で指を止め、そのまま眠った。
結果、何も起きなかった。
何も起きなかったことは、書類にしづらい。
起きなかったものに、金額を当てるのが、仕事だ。
審査メモ(内部)
事案:フィッシング回避・悪夢N2
証憑:睡眠ログ・翌朝メモ「リンク注意」・端末操作履歴
回避額:平均被害額×遭遇確率×本人寄与率=¥18,000
控除額:¥18,000(可)
承認ボタンの角は丸い。押しやすい。
押しやすいことと、眠りやすいことに関係はない。
*
公的悪夢は生活に混ざった。
スーパーのアナウンスは、配布予定を穏やかに告げる。
「本日は0:30よりN1:転倒の疑似体験が……」
子どもは眠り、親は通知を隠す。
中には辞退を続け、申告に来る人もいる。
「辞退率によって税率が変わるのか」
「変わりません」
「では安心だ」
安心は、翌晩には忘れられる。
民間悪夢は、予告なく過激になった。
窓口で、トラウマを訴える申告者が増え、却下と医療への案内が増えた。
線引きは、紙より薄い。
ぼくは机の角で紙を揃え、線を太くするふりをした。
*
終わりは、静かにやって来た。
夕方、古い靴を履いた男が申告に来た。
職業は、運送。
書類は、一枚だった。
夢の確定申告(簡易)
申告者:三村
事案:交差点での巻き込み事故回避
夢の内容:荷台のベルトが緩んでいて、角で振られる。歩道の女の子が泣く。
翌日の行動:ベルトを二度確認。別ルートに変更。
証憑:ドライブレコーダ・荷台写真・睡眠ログ(N1)
備考:悪夢で目が覚め、麦茶を飲んだ。
ぼくはドライブレコーダの映像を見た。
角の先に、何も起きていない道路が映っていた。
何も起きていないことは、長く続くと、良い。
ぼくは控除額を算定し、ハンコを押した。
男は礼を言い、靴を鳴らさずに帰った。
夜、ぼくは久しぶりに何も見ない夢を見た。
朝、机に政策評価が置かれていた。
政策評価(要旨)
・夢益課税:課税ベースは横ばい
・悪夢控除:社会的損失の抑制に寄与(医療・治安コスト低下)
・睡眠満足度:微減(配布頻度に比例)
・総合:制度は機能。運用の微調整を継続
評価は、眠りをくれない。
ぼくは窓口の札を本日も開庁に裏返し、端末を立ち上げた。
画面の通知に、小さな文字があった。
「次回の公的悪夢は二週間後」
その下に、さらに小さく。
「安心して、おやすみください」
安心という語は、よく使われる。使い過ぎると、眠りが軽くなる。
午後、ひとつの申告が届いた。
差出人の欄に、見覚えのある名前——矢田。
ぼく自身の申告書だった。
昨夜、青信号でも左右確認を二度した。
理由は、配布されたN2。
何も起きなかった。
申告の理由は、何も起きなかったから。
ぼくは書類の余白に短く書き足し、判定欄に印を置いた。
「本件、悪夢控除適用」——国は、今夜も少しだけ怖い夢を配った。