侯爵令嬢エレオノーラの優雅な午後
侯爵令嬢エレオノーラ・フォン・ルーエンハイムは、いつだって楽しげであった。
彼女が微笑めば屋敷に花が咲くと人は言い、彼女が一度眉を上げれば侍女たちは蜂のように忙しく飛び回る。それほどまでに、彼女の存在はこの屋敷全体の空気を支配していた。
その日の午後も、黄金色に沈む陽光が高い天窓を通して舞い降り、真珠色の床を照らしていた。
エレオノーラはサロンの大きな窓辺に腰を下ろし、編み込まれた金糸のカーテン越しに、庭の薔薇を眺めていた。薔薇は彼女の趣味であり、誇りであり、そして一種の信条でもある。
「――マリア、あの花壇の角、白薔薇が一本、右に傾いているわ」
声の調子は柔らかく、それでいて否応なく相手を動かす力を持っていた。
侍女のマリアは慌てて窓辺に駆け寄り、庭師へ指示を伝える。だがその一方で、エレオノーラはカップを傾け、透き通った紅茶の琥珀色を光に透かして眺めていた。
「……花は、誇り高く咲いていなければならないのよ。人間も同じこと。わたくしの庭で、下を向く薔薇は許されませんの」
まるで独り言のように、しかし確固とした調子で呟く。
マリアはその言葉に、返事をするかどうか少し迷う。だが次の瞬間、エレオノーラがくすりと微笑んだことで、彼女は思わず息を呑んだ。
それは本当に楽しそうな笑みだった。冷たさではなく、むしろ自信と確信の温かさが滲んでいる。彼女にとって完璧を求めることは苦痛ではなく、むしろ生きる喜びの一部だった。
「お嬢様、まもなくご来客の――」
「ええ、例の方でしょう? ……王都のベルトラン殿。若くして宰相補佐に抜擢された才子とか」
エレオノーラは椅子の背もたれに軽く身を預け、唇の端に笑みを刻んだ。
自分のもとを訪れる男たちの目的など、すべて見抜いている。
だがそれを暴くことも、拒むことも、彼女は楽しんでいた。
――人間がどう動くかを観察するのは、退屈な日々を華やかにする最高の娯楽。
*
応接室の扉が開く。
ベルトランは完璧な礼をもって入室し、微笑を浮かべた。
「侯爵令嬢、はじめまして。お噂はかねがね――」
「噂はいつだって歪められるものですわ。……まあ、紅茶でも召し上がって」
軽やかに言いながら、エレオノーラは優雅な仕草で手を動かした。
侍女が用意した茶器はすべて英国製の銀器、淡いレモンの香りを含んだ紅茶が注がれていく。
陽光に照らされたその光景はまるで絵画のようで、ベルトランは一瞬、言葉を失った。
「――お美しい」
「知っております」
即答。だがそれは傲慢ではなく、まるで「自分の立ち位置を理解している者の冷静な認識」であった。
エレオノーラは少し身を乗り出し、紅茶の香りを嗅ぎながら青年を見つめる。
「さて、宰相補佐殿。わたくしの父に代わって、どんな『有意義な』お話をしに来られたのかしら?」
「……実は、王都に新しい公共劇場を建設する計画がありまして。貴家の支援が得られれば――」
「劇場、ですって?」
エレオノーラは少し首を傾げた。その仕草は優雅だが、目の奥には探るような光がある。
「素敵な計画ですわ。けれど――あなたたちは、劇の台本よりも先に“観客の顔”を見たことがあるの?」
「……は?」
「舞台を立派に作る前に、観る人たちの暮らしを整える方が先ではなくて?」
ベルトランの笑みが止まる。
侯爵令嬢の言葉は一見、皮肉のようでいて、どこか真剣だった。
彼女は優雅な姿勢のまま、淡々と続ける。
「貧しい者たちが腹を空かせたまま拍手を送る劇に、どんな価値があるというの?
あなたが本当に人々に喜びを届けたいなら、舞台ではなく、まず“生きる場所”を整えるべきだわ」
部屋の中が静まり返った。
外では、午後の陽が沈みかけ、窓の縁に淡い橙色の影が落ちている。
その光を背に、エレオノーラは穏やかな笑みを浮かべていた。
「……どうしたの? そんな顔をして。わたくし、変なことを言ったかしら?」
「い、いえ……驚きました。まさか、そういうお考えをお持ちとは」
「そんなことはございません。――“わがまま”を言っただけですわ」
彼女は紅茶を口に含み、目を細めた。
薄い金の光が彼女の髪を縁取る。まるで、信念そのものが光となって形を取ったようだった。
ベルトランは、その瞬間、彼女をただの高飛車な令嬢とは思えなくなっていた。
噂とは違う。
彼女は確かに誇り高く、そして恐ろしいほどに理性的だ。
「――侯爵令嬢。あなたはこの国にとって、まことに……稀有なお方だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
エレオノーラは淡く笑い、立ち上がった。
背筋はまっすぐで、歩みは舞踏会の女王のように静かで美しい。
ベルトランはその背を見送りながら、なぜか胸の奥に小さな熱を覚えていた。
彼女は紅茶を口に含み、目を細めた。
薄い金の光が彼女の髪を縁取る。まるで、信念そのものが光となって形を取ったようだった。
彼女は確かに誇り高く、そして恐ろしいほどに理性的だ。
「――侯爵令嬢。あなたはこの国にとって、まことに……稀有なお方だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
エレオノーラは淡く笑い、立ち上がった。
背筋はまっすぐで、歩みは舞踏会の女王のように静かで美しい。
ベルトランはその背を見送りながら、なぜか胸の奥に小さな熱を覚えていた。
彼女は紅茶を口に含み、目を細めた。
薄い金の光が彼女の髪を縁取る。まるで、信念そのものが光となって形を取ったようだった。
「――侯爵令嬢。あなたはこの国にとって、まことに……稀有なお方だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
エレオノーラは淡く笑い、立ち上がった。
背筋はまっすぐで、歩みは舞踏会の女王のように静かで美しい。
ベルトランはその背を見送りながら、なぜか胸の奥に小さな熱を覚えていた。
彼女は紅茶を口に含み、目を細めた。
薄い金の光が彼女の髪を縁取る。まるで、信念そのものが光となって形を取ったようだった。
ベルトランは、その瞬間、彼女をただの高飛車な令嬢とは思えなくなっていた。
噂とは違う。
彼女は確かに誇り高く、そして恐ろしいほどに理性的だ。
「――侯爵令嬢。あなたはこの国にとって、まことに……稀有なお方だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
エレオノーラは淡く笑い、立ち上がった。
背筋はまっすぐで、歩みは舞踏会の女王のように静かで美しい。
ベルトランはその背を見送りながら、なぜか胸の奥に小さな熱を覚えていた。
*
夜、エレオノーラは書斎に灯りをともした。
机の上には王都の地図。赤いインクで印された小さな印がいくつも並ぶ。
それは貧民街、孤児院、病院――彼女が密かに資金援助している場所の印だ。
誰も知らない。
彼女が夜な夜な帳簿を見つめ、貴族の浪費を減らし、自らの財を再配分していることなど。
「……“気まぐれなお嬢様”と呼ばれる方が、都合がいいのよ」
彼女は小さく笑い、蝋燭の灯を指先で揺らした。
「善意」という名の飾り立てられた仮面を嫌う彼女にとって、陰で支えることこそが誇りであり、美徳だった。
――それが彼女の信念。
誰にも見せず、ただひとり静かに信じ続ける、美の形。
翌朝、ルーエンハイム侯爵邸の庭は、夜露の匂いで満たされていた。
青葉の上に滴る露が陽光を受けて微かに光り、その間を小鳥が軽やかに飛び交う。
その静かな美しさの中で、エレオノーラは既に馬車の支度を整えていた。
緋色の外套に白の手袋。いつものように完璧な装い――しかし、向かう先は宮廷ではなく、王都の南にある貧民街である。
「マリア、あなたは誰にも言ってはだめよ。特に父には」
「はい、お嬢様……でも、本当にお一人で?」
「ええ。一人がいいわ。見たいのは“飾られていない現実”ですもの」
朝の光が静かにカーテンの隙間を抜け、淡い金の線を描きながら、侯爵家の寝室をゆるやかに染めていった。
磨き上げられた床には白薔薇の花弁が一枚、夜会の名残のように落ちている。
その上を、滑るような足取りでエレオノーラ・フォン・ルーエンハイムが通り過ぎた。
彼女は朝の支度を整えながら、鏡の中に映る自分の姿を静かに見つめていた。
長い睫毛が光を受け、わずかに影を落とす。
その下の瞳は、湖面のような青。冷ややかでありながら、奥に揺らぐ光がある。
絹のナイトローブの上から薄いガウンを羽織ると、彼女はゆっくりと息を吐いた。
「退屈ではないけれど、同じ色の空ばかり見ていても、美は鈍るわね」
そう呟いた声は柔らかく、けれどどこか芝居じみた響きを帯びていた。
高飛車――社交界で彼女を形容する言葉のほとんどはその一語で済む。
だが、誰も気づいてはいなかった。彼女が“完璧さ”を装う裏で、どれほどの覚悟と信念を抱えているかを。
エレオノーラにとって、気まぐれや虚栄は退屈な遊びだった。
彼女の“美”とは、己を律すること、人の目にどう映るかを自ら支配すること、
そしてどんな場所にあっても品位を失わないこと――それが、彼女の生き方そのものだった。
けれど、その完璧な生き方の裏で、彼女はずっと“見えないもの”を見たがっていた。
絹と宝石に囲まれた暮らしでは触れられない、粗く、温かい現実。
それが、彼女の信念にどれほどの真実味を与えるのか――確かめたかった。
その日の朝、エレオノーラはいつもより少し早く起き、侍女マリアに命じて奇妙な支度をさせた。
豪奢なドレスは着ず、代わりに地味な麻の服を。
髪は金糸のような光沢を隠すために古いスカーフで包み、手袋は擦り切れた皮のものを選んだ。
それでも鏡に映る彼女は、どうしても庶民には見えなかった。背筋の伸び、指先の所作、声の調子――
すべてが生まれながらの気高さを宿していた。
「……仕方ないわね。神様がこの身をこうお造りになったのだから」
軽く肩をすくめ、エレオノーラは楽しげに笑った。
マリアは戸惑いと不安の入り混じった顔で、彼女の外套の襟を整える。
「お嬢様、本当にお一人でお出かけになるおつもりですか? あの……万が一、どなたかに見つかったら――」
「見つかるような変装をすると思っているの? 心配しないで。わたくし、ただ“散歩”に出かけるだけですわ」
そう言って、彼女は扇を閉じる仕草で軽く空気を切った。
その動作ひとつに、侯爵令嬢としての誇りがにじむ。
彼女にとって変装とは、己を隠す行為ではなく――
己の信念を、誰の目にも邪魔されずに試すための“仮面”に過ぎなかった。
外に出ると、秋の風が頬を撫でた。
屋敷の庭園には、朝露を含んだ薔薇がまだ香りを放っている。
花弁の間に光が散り、まるで小さな宝石を散らしたようだった。
その中を抜け、エレオノーラは馬車に乗り込む。
御者に行き先を告げるとき、彼女はわずかに口角を上げた。
「――王都の南区へ」
その言葉に御者が一瞬驚いたが、すぐに黙って頭を下げた。
貴族街とは正反対の方角、平民たちの暮らす雑多な通り。
そこへ赴く貴婦人など滅多にいない。
馬車が石畳を離れ、土の匂いを帯びた路地に入るころには、
窓の外の景色はまるで別世界のように変わっていた。
洗練された邸宅も、整列した並木道も姿を消し、代わりに煉瓦の壁と煤けた屋根、
パンを焼く匂いと子どもたちの笑い声が混じり合う、ざわめきの街が広がっている。
エレオノーラは馬車の窓をわずかに開け、空気を吸い込んだ。
それは香水やワインでは決して再現できない、生活の匂いだった。
湿った木の香り、焦げた麦の香ばしさ、遠くで鳴く馬の嘶き――
そのすべてが、彼女の胸の奥を少し熱くした。
「なるほど……これが“生きる”ということなのね」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に、馬車の中の空気がわずかに震えた。
やがて市場に着くと、彼女は外套のフードを深く被り、人々の間へと歩み出た。
通りには果物を積んだ屋台が並び、焼きたてのパンの香りが漂い、
女たちが声を張り上げて布を売り、子どもたちが追いかけっこをしている。
粗野で雑多、けれどどこか温かい――それは侯爵邸の整然とした美とはまるで異なる、生きた色だった。
彼女は立ち止まり、ひとつの屋台の前で足を止めた。
そこには小さな少年がいて、籠いっぱいに積んだリンゴを抱えながら客に声をかけていた。
けれどその声は細く、通行人は誰も立ち止まらない。
少年が焦ったように身を乗り出した拍子に、籠が傾き、赤いリンゴが転がり落ちた。
瞬間、通りの人々は器用に避けて通り過ぎた。
誰も助けようとはしない。
エレオノーラは一度目を閉じ、そして裾を軽く摘んで膝を折った。
突然現れた人の影に、少年が驚いたように顔を上げた。
目の前でしゃがみ込む女の手は、白く滑らかで、泥の上にあるのが不釣り合いに見えた。
指先に光るのは、侯爵家の紋章が刻まれた小さな指輪。
しかし彼女は気づかぬふりをして、次々にリンゴを拾い集めた。
「……汚れるよ、おねえちゃん」
「ええ。けれど、美しさとは時に、泥を恐れないことでもあるのよ」
少年には意味がわからなかった。
けれど、彼女の微笑みを見ていると、なぜか胸の奥が温かくなった。
リンゴを籠に戻し終えると、エレオノーラは自分のハンカチを取り出した。
白地に金糸の花が刺繍された布。
それを少年の手についた泥を拭うのに使い、そのまま彼に差し出した。
「持っていなさい。あなたの手が再び泥に触れても、この布が思い出させてくれるわ。
誇りは、手の汚れよりも深い場所にあるのだと」
少年――ルカはぽかんと口を開け、次の瞬間、小さく頷いた。
彼女の言葉は理解できなくても、そこにある“真剣さ”だけは伝わった。
エレオノーラは立ち上がり、裾を軽く払ってから微笑を浮かべた。
その姿を、通りの人々が思わず目で追った。
庶民の服を着ていても、彼女の中にある光だけはどうしても隠しきれなかった。
午後の陽が傾くころ、エレオノーラはパンを買い、屋台の端に腰を下ろしてそれを食べた。
焼きたての香ばしさが口いっぱいに広がる。
その素朴な味に、彼女は思わず目を細めた。
「――ああ、これは贅沢ね。香辛料も金もいらない。
たった一日の“生”が、この味の中にあるわ」
そう呟いたとき、彼女の中で何かがほどけたようだった。
完璧に整えられた屋敷の中では決して味わえない、素の幸福。
それを胸の奥に感じながら、彼女は空を仰いだ。
王都の空は、貴族街から見るよりもずっと広く、眩しかった。
陽がゆっくりと沈みかけ、通りを黄金色に染め上げていく。
市場の喧噪も次第に静まり、店主たちは布を畳み、籠を抱えて帰路につきはじめていた。
その中で、エレオノーラはまだ通りの端に立ち、去りゆく光景を見つめていた。
昼間に出会った少年――ルカの姿はもうない。
しかし、あの小さな掌の温もりがまだ手のひらに残っている気がした。
彼女は、胸の奥で何かが静かに芽吹くのを感じた。
「わたくしが信じていた“美”は、どうやら半分しか正しくなかったようね……」
呟きながら、彼女は自嘲するように微笑んだ。
いくら完璧に飾っても、誰かの痛みや笑いを知らなければ、
その美しさは空洞に響くだけ。――今日、初めてそれを理解したのだ。
通りの片隅に、小さなパン屋があった。
焼きたての香ばしい匂いがまだ残っている。
彼女は懐から数枚の銀貨を取り出し、若い店主に差し出した。
「明日の朝、余ったパンがあれば、孤児院に持っていってくださらない?」
「え? あ、あんた……」
「あなたがパンを配ってくださる?子供に食事を与えるのは当たり前のことでしょう。代金ならお支払いするわ、お願いね。」
そう言って、エレオノーラは軽く会釈をした。
店主は呆気にとられたように彼女を見つめていたが、やがて顔をほころばせた。
その瞬間、彼女は自分の中に確かな充足を覚えた。
――他者に微笑みを与えること。
それもまた、“美しく生きる”ということの一部なのだと。
*
屋敷に戻ったのは、夜の帳がすっかり降りたあとだった。
廊下に並ぶ燭台の光が彼女の足音を優しく追いかけてくる。
マリアが慌てて出迎え、安堵と叱責が入り混じった声で言った。
「お嬢様……ご無事で何よりです! 本当に、もう、心臓が止まるかと思いました!」
「まあ、そんなに心配することでもないでしょう? 人の世界を見ただけよ」
「“人の世界”って……お嬢様だって人間です!」
マリアの言葉に、エレオノーラは少しだけ笑った。
そして、ドレスの裾についた埃を払うように手を動かしながら言った。
「ええ、たしかに。けれど今日、やっと“そうであること”を実感した気がするの。
わたくしも、この世界の中で息をしているただのひとりなのだと」
その言葉は軽やかだったが、確かな重みがあった。
マリアは黙り込み、そっと紅茶の香りを漂わせるポットを差し出した。
湯気の向こうで、令嬢の横顔はどこか穏やかに見えた。
*
夜半、エレオノーラは書斎にこもっていた。
机の上には、侯爵家の財務記録が整然と並んでいる。
その一冊を開き、彼女は静かにペンを取り、数字の横に小さな注釈を書き加えた。
――「王都南区孤児院への寄付金、匿名扱いにて」
ペン先が紙を走る音だけが、夜の空気を切り裂くように響いた。
彼女はその音を聞きながら、昼間の街のざわめきを思い出していた。
笑い声、風の匂い、少年の瞳、焼きたてのパンの味。
どれもが、彼女の中に新しい色を添えていた。
「わたくしは今日、ほんの少しだけ、美に近づけた気がするわ」
ぽつりと呟いたその声は、まるで自分への小さな祈りのようだった。
*
翌朝。王都の孤児院では、子どもたちが歓声を上げていた。
パン屋の男が荷車いっぱいのパンを運び込み、院長が目を丸くしている。
子どもたちは我先にと手を伸ばし、あたたかな香りの中で笑っていた。
その輪の中で、ルカがひときわ高く手を上げた。
「ほら、見てよ! 昨日のおねえちゃんがくれたハンカチ!」
金糸の花が刺繍された布を、陽光に透かすように掲げる。
それは、まるで小さな旗のように輝いていた。
院長が微笑みながらその光景を見つめ、そっと胸の前で手を合わせた。
「――天の祝福がありますように」
*
一方そのころ、ルーエンハイム侯爵家の庭園では、朝露を帯びた白薔薇がいっせいに開き始めていた。
エレオノーラはその中を歩き、ゆっくりと一輪を摘み取る。
指先で花弁をなぞりながら、彼女は小さく微笑んだ。
「ねえ、薔薇。あなたも見たでしょう? あの街の色を。
わたくし、昨日あの場所で、初めて“人の笑い”というものがどんな香りかを知ったの」
風が吹き、薔薇の花弁が一枚、彼女の頬に触れた。
それを受け止めるように、彼女はそっと目を閉じた。
完璧であろうとすることも、美を求めることも、きっと悪くはない。
けれど――美の本質とは、誰かの幸福を見て自ら微笑める心。
そのことに気づいた令嬢の微笑は、朝の光に溶けていった。
遠く、街の教会の鐘が鳴る。
エレオノーラは顔を上げ、その音を聞きながら呟いた。
「今日も良い日になりそうね」
その声は柔らかく、どこまでも晴れやかだった。
まるで、世界そのものが彼女の微笑みに頷いているかのように、
白薔薇の花弁がひらりと風に舞い上がり、空へと消えていった。




