立つ瀬なし
過酷な暑さの夏が過ぎ、あれほど深緑を誇った夏草が嘘のように勢いを忘れ、秋の気配をそこはかで感じられるようになった頃、とうとう息子は看護学校への皆勤が崩れてきました。
「ススちゃん、最近の調子はどうなの? 何だか学校に行くのも辛そうに見えるんだけど……」
日曜日の昼下がり、食事の用意のついでに遠慮がちに訊いた私の声にビクッとした彼は、朝から自分の部屋を一歩も出ずに、日がな一日スマホを弄っているようでした。
「いや……何でもないよ。確認テストの成績も悪くなかったでしょ? 僕なりに毎日頑張ってるつもりだし……」
「母さん、前に担任の先生から聞いた話が信じられなくてね。看護師を目指す娘って、そんなにキツイ人達ばかりなの? 私がお世話になってる、ほら! そこの総合病院の外来にいる看護師さんなんて、みんな親切丁寧な上に優しそうで……いつも笑顔を絶やさないような、しっかり者ばかりよ……ススちゃんのお嫁さんも、こんな人達だったらいいのに、といつも思ってるほどだし……」
そこまで我慢して聞いていた息子は、わなわなと震えがきたかと思うと突如豹変し、伸びた前髪から僅かに見える細い両眼を嘘みたいに見開きながら叫んだ。
「何言ってんだよ! 母さんは、何も分かっちゃいない!」
自分自身の大声に我に返った息子は暫く固まると、皮下脂肪に覆われた胸元を黄ばんだTシャツの上から掻きむしり、前より幾分冷静となった口調で語ったのです。
「と、とにかく色々と口出しないで……。ちゃんと将来を考えてるから……」
そんな突然の感情の昂ぶりに面食らった私は、それ以上の詮索は無理でした。
そして最初の学年が終わる頃、実習の時間に決定的な事が起こったのです。
「――今日は採血の実習を行います。え~、各自隣の席の人とペアを組むように。お互いの腕で採血の練習を行いますので、静かに願います」
ベテラン教員の説明に一部の生徒がざわついた。
「え~! いきなり生きた人間から採血かよ~。ヒトに針刺すのも、刺されんのも嫌だ」
騒がしい南の、色白で整った顔が嫌悪感に歪む。
「そこ! 静かにって言ったでしょ! さっさと隣とペアを組みなさい」
しぶしぶ南が睨み付けた隣の席には、顔面蒼白となった黒川進が微動だにしなかった。
そして数分後、南は中西と採血ペアを組み、黒川はクラスでポツンと残され孤立したのだ。
「ちょっと、コラ、そこ! 南さん! 隣の黒川さんとペアを組みなさい」
「ぜって~嫌だ! 何で男と組まされンですか? 黒川に腕を触られたくないし、触りたくもない。この御時世にセクハラに対する考慮もナシなんですか?」
押し黙った教員が周囲を見回すも、目を逸らされた。当然のように、誰も黒川と採血練習したい者などいないようだ。
「……分かりました。奇数なので誰かは余る予定でしたから。私と組みましょう……ね、黒川さん」
「……………………」
その日、黒川進は体調不良を理由に早退し、それから二度と学校に姿を現わす事はなかった。