表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/18

四話 梅の咲くころ、ふたり

 高橋紀子(76)は、長年連れ添った夫・修(81)と別居して半年が経つ。


 とはいえ、紀子はこれまで通り自宅で暮らしている。

 別居といっても、修が体調を崩し、介護付きの施設に入ったことがきっかけだった。


 夫婦ふたりきりの静かな生活には、言葉も少なく、空気のような関係が続いていた。

 それでも、いざ離れてみると、思いのほか心にぽっかりと穴が空いた。


「会いたい」と素直に言えない。

「寂しい」と口にするのも照れくさい。

 それが、夫婦というものなのかもしれない。


 そんなある日、施設にいる修から一通の手紙が届く。


 便箋には、たった一文だけ。


「庭に咲いた梅を見て、君の好きだった味噌漬けが食べたくなった」


 それを読んだ紀子は、思わず微笑んだ。

 修がそんなふうに何かを「思い出して」くれるなんて、もうないと思っていた。


 返事代わりに、梅の実を使った味噌漬けを仕込み、短い手紙を添えて施設に送った。


「変わらないものも、あるのね」


 数日後、また手紙が届いた。


「味噌漬け、美味しかったよ。君の味がした」


 その言葉が、不思議なぬくもりを連れてきた。


 梅の花と味噌漬け。

 ふたりのやりとりは、春先の風のように、優しく心をなでていった。


 老いとともに、夫婦のかたちは変わる。

 だが、変わらず心に残るものもある——そう思えた。


 かつては、修の無口さが紀子を傷つけた。

 すれ違いが積み重なっても、結婚生活は続いた。

 子どもたちを育て、家を守り、それぞれが役割に埋もれていた。


 ——それでも、私たちはちゃんと夫婦だったのかもしれない。


 世間では、老いた夫や妻を「最後まで支えること」が美徳とされる。

 だが、誰もがそうできるわけではない。

 介護はきれいごとでは済まされず、心身ともに追い詰められる現実がある。


 紀子は、自分の手で介護する代わりに、修が安心して暮らせる場所を選んだ。

 それは“見捨てた”のではなく、“守るための選択”だった。


 子どもたちは独立し、それぞれの家庭を持っている。

 もう「夫婦は一緒にいるべき」と無理をする必要もない。


 けれど、完全に離れてしまったわけでもない。

 こうして、手紙を通じて少しずつ心を通わせることができる。


 ——私は、私の時間を生きる。

 そして、彼も、彼の時間を生きている。


 それでも、またどこかで心がふれあえば、それでいい。


 そんな折、三通目の手紙が届く。


「もしよかったら、今度、庭の梅を一緒に見られたら嬉しい。昔みたいに……話はしなくてもいいから」


 それを読んだ紀子は、少し涙ぐみながらも、そっと笑った。


 その日、紀子は久しぶりに庭に出た。


 冬の名残を感じさせる風が、まだ少し冷たい。けれど、梅の枝先には、ほんのりと赤い蕾が膨らみ始めていた。


「……咲きそうね」


 ひとり言のように呟いた声が、庭の静寂に溶けていく。


 思えば、あの梅の木も長い付き合いだ。子どもたちが小さかった頃は、春になるたび、花の下で写真を撮った。修が小さな脚立に上って、剪定していたこともあった。無骨な手で、慎重に枝先を見極めていたあの姿が、昨日のことのようによみがえる。


 紀子はゆっくりとしゃがみこみ、土の感触を確かめるように梅の根元に手を伸ばした。


「来週あたり、咲くかもしれないわね……」


 ふと、携帯電話を取り出し、写真モードに切り替える。蕾のふくらみを何枚か撮って、修に送ろうかと考えた。


 けれど、指は送信ボタンの手前で止まった。


 ——やっぱり、直接見せたい。


 その夜、紀子は便箋を広げ、久しぶりに自分の字で手紙を書いた。


「来週、あなたのところへ行こうと思います。

 もし体調がよければ、庭の梅を一緒に見に行きましょう。

 咲いているかしらね。

 味噌漬けも、また作って持っていきます。」


 封筒に手紙を入れ、ゆっくりと封をする。


 自宅にひとりで暮らす日々は、時に孤独でもある。

 けれど、それもまた、自分の人生の一部だと受け入れられるようになった。

 今、夫と交わす静かなやりとりが、過去をなだめ、未来を照らしてくれる。


 翌朝、ポストに手紙を投函するとき、紀子の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


 春は、すぐそこまで来ている。

 そして、あの庭の梅も、きっともうすぐ——


 その日は朝から、やわらかな陽が差していた。


 紀子は早起きし、朝食を軽く済ませると、包みを二つ用意した。ひとつは、修の好物だった味噌漬け。もうひとつは、庭で摘んだ梅の小枝をそっと包んだものだった。まだ五分咲きの梅だったが、香りは十分に春を運んでくる。


 施設に着くと、スタッフに案内され、修のいる談話室へと向かう。


「修さん、奥さまが来られましたよ」


 その声に、ゆっくりと振り向いた修の表情に、少し驚いたような、そして少し照れたような微笑みが浮かぶ。


「……ああ、来てくれたんだな」


「約束したでしょう?」


 紀子はそう言って、荷物をベンチの脇に置いた。互いにすぐには手を伸ばさず、ほんの少しの間、向き合ったまま、言葉の代わりに微笑みを交わした。


 談話室の隅には窓があり、外の庭がよく見えた。そこには、一本の梅の木が、まるで紀子の庭から分け合ったように、静かに花を咲かせていた。


「見える? あそこ、梅が咲いてる」


「……ああ。もう、そんな時期なんだな」


「うちのも、咲き始めたのよ。少しだけど、持ってきたわ」


 紀子は包みから梅の枝を取り出し、そっと修の手元に差し出す。修は、少しだけ震える指先でそれを受け取った。


「いい香りだな……昔と変わらない。いや、懐かしさが混ざってるぶん、もっと深い香りかもな」


「そうね。変わっていくこともあるけれど、変わらないものもあるのよ」


 しばらくふたりは、梅の香に包まれながら、黙って座っていた。


 何かを語り尽くすというより、言葉にならないものを、ただ共有しているような時間。


「……一緒に暮らせるかは、まだわからないけど」


 修がぽつりと言った。


「ううん、無理しなくていいの。こうして、会いたい時に会いに来る。それでいいのよ。私たちはもう、そういう季節にいるんだから」


「……ありがとうな、紀子」


 その言葉には、若いころにはなかった柔らかさと、長い時を越えて初めて届くような、深い感謝が込められていた。


 紀子は微笑んで、小さく頷く。


「今、こうして笑い合える。それだけで、十分よ」


 外の梅は、風に揺れて、ふたりの沈黙をやさしく包んだ。


 春は、確かにそこにあった。


 それからというもの、紀子は定期的に修のもとを訪れるようになった。


 決まった曜日に顔を合わせるわけではないが、どちらともなく「この日あたりかな」と思い浮かべ、窓の外を眺める。それはふたりの間で、言葉のいらない約束になっていた。


 施設の庭にも季節は巡り、梅が散ると、桜の蕾がほころび始めた。


 ある日、紀子は少し特別な用事で、訪れる時間を夕方にずらした。


 その日は、長男・元康と会う日だった。


「母さん、最近……よく父さんのところへ行ってるんだって?」


「ええ、まぁ。別に、特別なことじゃないけどね」


 元康は少し驚いたように、そして少しだけ照れくさそうに笑った。


「正直、少し心配してたんだ。母さんが無理してないかって。でも……今日の顔見たら、なんか、安心した」


「そう? なら、よかった」


「俺……子どもの頃、父さんと母さんの関係、よくわからなかった。ふたりとも頑張ってるのに、うまくいってないようにも見えて……でも、あの頃の時間が、今に繋がってるんだなって、ようやくわかった気がするよ」


「うん。うまくいってたかどうかは……今もよくわからないの。でもね、“無駄じゃなかった”って、今は言えるのよ」


 その後、元康は子どもたち──紀子と修にとっての孫──を連れて、修の施設に顔を出すようになった。


 はじめは戸惑っていた修も、孫たちの無邪気な声に顔をほころばせる。


「爺ちゃん、元気にしてた?」


「おう、まぁな……君たちが来ると、若返る気がするよ」


 子どもたちが笑う。修が笑う。紀子が、その横で目を細める。


 ふたりの再会は、子どもたちとの新たなつながりをも生んだ。


 やがて施設から「短期間の外泊許可」が出ると、紀子は庭の手入れを少しずつ始めた。


 修が昔、手を入れていた小さな畑も、草を取り、土を耕し、少しずつ“帰る場所”の気配を取り戻していった。


「帰ってくる家があるって、ありがたいことだな」


 修は、外泊の初日、庭の縁台に座ってそうつぶやいた。


「ずっとあったのよ。あなたが気づかなかっただけ」


 紀子の言葉に、修は深くうなずいた。


 ふたりは、もう“老い”の入り口ではなく、その真っただ中にいる。


 けれどその先にも、静かで温かな日々が続いている──そう信じられる時間を、今、ふたりは生きている。


 いつかまた、一緒に暮らすかもしれない。あるいは、今のように“時々”が続くかもしれない。


 それでもふたりは、無理をせず、できることを、できるかたちで支え合っていく。


 家族というかたちが変わっても、絆が色褪せることはない。


 春の次に、また春が来るように。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ