二話 帰国者
言葉はわかるが、心がわからない。
どうしても、言葉がわかるだけに、言葉だけを理解しようとしてしまう。心ほど難信難解なものはない。
彼が日本に戻ったのは、ちょうど春の終わり、梅雨の気配が街を包み始めた頃だった。
アメリカでの暮らしは三十年に及び、英語は流暢とは言えなかったが、日常生活には支障がなかった。むしろ、単語やジェスチャー、目線や表情、仕草で通じ合うことが自然なものとなっていた。
「言葉に頼らなくても、人は伝わるものなんだ」
――それはいつしか、彼の生き方の基盤となっていた。
だからこそ、帰国直後に味わった“言葉が通じる快感”は、解放感に近かった。
レストランでの注文も、駅員とのやりとりも、役所の手続きも、すべてが日本語。思いのままに口にできるというだけで、胸が晴れ渡るような感覚だった。言葉が通じるということが、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
けれど、その安堵はすぐに崩れ去る。
会話は成立している。なのに、何かが噛み合わない。
笑顔の裏には警戒心があり、丁寧な言葉の中に、棘のような冷たさが潜んでいる。
本音と建前という見えない壁が、確かにそこにあった。
「ああ、目を見ても、心が見えない」
アメリカでは、言葉が不自由でも、目の動きや仕草を見れば、相手の気持ちがある程度わかった。けれど、日本では、言葉は通じるのに、心が遠い。
その違和感が、じわじわと彼の中に広がっていった。
最初の数日は、まるで言葉の天国にいるようだった。
スーパーの入り口で店員が「いらっしゃいませ」と声をかけ、コンビニで「ありがとうございました」と笑顔で送り出してくれる。その一言一言が、三十年ぶりの帰国を実感させ、言葉の温かさを再認識させてくれた。
だが、それはほんの束の間だった。
一週間も経たないうちに、彼は気づく。
自分が耳にしているのは、ただの「音」にすぎないのではないかと。
「またご一緒できると嬉しいです」
「ぜひ、また今度ゆっくりと」
「本当に助かりました。感謝しております」
「また飲みに行きましょう!」
その言葉を信じて待っても、誘いが来ることはない。
「何かあったらいつでも言ってくださいね」
そう言ってくれた人に実際に頼ってみると、露骨に迷惑そうな顔をされる。
言葉と行動との間に、どうしようもない溝があることを、彼は思い知らされる。
どの言葉も、文法的には正しい。礼儀も整っている。
けれど、そこに「心」がない。相手の目が、どこか遠くを見ていて、心を閉ざしているように感じられる。
彼は自分に問いかける。
「どうして、こんなに言葉が通じているのに、心が見えないんだろう?」
アメリカでの暮らしは、彼に「言葉を超えた“気配”を読む術」を教えてくれた。
足りない言葉の代わりに、人の視線、声のトーン、指先の震えから、心を感じ取る毎日。
だからこそ、言葉が豊かであるがゆえに見えなくなる“心”に、彼は深い違和感を抱いていた。
ある晩、久しぶりに訪れたバーで、その思いは決定的になる。
店主は「久しぶりだね」と笑顔で迎えてくれたが、その笑顔には、どこかぎこちなさがあった。
「また飲みに行こうか?」と声をかけると、店主は微笑んだまま、すぐ隣の客に意識を向けた。
彼の言葉は、軽い風のように受け流され、どこかへ消えていった。
言葉であふれたこの場所で、彼は逆に孤独を感じていた。
彼が求めていたのは、心からの交流だった――言葉ではなく、心を通わせることだった。
翌朝、彼はカーテンを開ける。
窓辺には、小さな植木鉢が並んでいる。帰国してすぐ、気まぐれで蒔いた種だったが、日々の生活にささやかな彩りを添えていた。
ふと見ると、一つの鉢に、小さな緑の芽が顔を出していた。
ほんの数ミリ、土を押しのけるようにして伸びたその芽が、朝の光を浴びて、かすかに揺れている。
「おお……出たか」
思わず、彼は声に出してつぶやいた。
誰に見せるでもない、小さな発見。
けれど、その小さな命が確かにそこにあるというだけで、胸の奥に温かいものが広がっていった。
言葉では説明しきれない喜びだった。
芽が出るまでの数日間、水をやりながら「育つだろうか」と気にしていた日々が、無駄ではなかったと初めて思えた。
たとえ言葉が宙を漂い、相手の気持ちがわからなくても、自分の手で育てたものは裏切らない。
そこにあるのは、静かな確信だった。
彼はしゃがみ込み、芽の根元にそっと指を添えた。
土はまだ冷たかったが、その中に宿る命の感触は、確かに伝わってくる。
「焦らなくていい。ゆっくりでいいから、育ってくれよ」
まるで、自分自身に語りかけるように、彼はつぶやいた。
言葉は、ときに曖昧で、裏切ることもある。
でも、行動には嘘がない。
気持ちを込めた行いは、たとえ相手に届かなくても、自分の中に確かな輪郭を残してくれる。
これからも、すれ違うことはあるだろう。
言葉の壁に戸惑う日もあるだろう。
けれど、こうして毎日水をやり、光を浴びながら生きていく中で、
彼は少しずつ、自分なりの「言葉」と「心」の形を育てていけるかもしれない。
そしていつか、その言葉が、誰かの心に、そっと根を下ろす日が来ることを願いながら。
彼はその日も、小さな芽に水をやってから、近所の商店街へと足を運んだ。
アパートの一角にあるその八百屋は、昔ながらの木製の棚に野菜が並び、年配の店主が笑顔で声をかけてくれる、そんな場所だった。
「今日はいいナスが入ってるよ。ほら、張りが違うだろ?」
言葉は型通りかもしれない。でも、その目が、声が、ほんの少しだけ温かかった。
もしかしたら、そこには「本音」が含まれていたのかもしれない。
そう思えるだけで、ほんの少し心がほどけた。
「じゃあ、それを三本。あと、トマトも」
袋詰めのあいだ、ふと、店主が言った。
「引っ越してきたばかりかい? なんか、不器用そうだけど、ええ顔してるわ」
「……え?」
彼は一瞬、聞き返した。
「ほら、人と話すの、苦手だろ? でも、目がちゃんとしてる。そういうの、案外伝わるんだよ。俺たち、長年やってりゃ、野菜の傷み具合だけじゃなくて、人の気持ちもなんとなくわかるからな」
その言葉に、彼は言葉を失った。
優しいのでも、励ましでもない。ただ、ありのままを言われた気がした。
それが、なぜだか、嬉しかった。
「……ありがとうございます」
短い一言が、いつもより深く自分の中に響いた。
帰り道、レジ袋の中でナスがゆれる音が、どこか懐かしかった。
アパートに戻ると、また小さな芽を覗き込む。
そのとき、ふいに思い出したのは、アメリカで近所に住んでいた老婦人のことだった。
いつも玄関先のバラに話しかけていた彼女。
「言葉は届かなくても、心は伝わるの」と言っていた。
――言葉は道具。心はその中身。
それを取り違えていたのは、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。
数日後。彼の部屋のドアがノックされた。
開けると、向こうに立っていたのは、小さな女の子だった。
「おじさん、こないだ、ハンカチ落としたでしょ。ママが拾って、洗ったの」
女の子の後ろに、若い母親が立っていた。
「あの、あまりに汚れていたので勝手に洗ってしまって……」
「……ありがとう。大切なハンカチだったから、助かりました」
そのハンカチは、アメリカを発つときに、友人が贈ってくれたものだった。使い込んで色も薄くなっていたが、それでも彼にとっては大切な記憶だった。
「よかった。じゃあ、またね!」
女の子が笑って手を振ったとき、彼は初めて、心のどこかで何かが動くのを感じた。
それは確かに「通じた」という感覚だった。
――言葉だけではなく、行為があり、心がある。
そんな当たり前のことを、もう一度思い出した。
彼は静かにドアを閉めると、植木鉢を窓辺に並べ直した。
小さな芽は、少し大きくなっていた。
その成長が、自分自身の歩みに重なるような気がした。
言葉ではなく、育てていくもの――
それが、心なのかもしれない。