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一話 味噌汁が凍る距離

 その日の夕暮れ、窓の外には、淡くにじむような薄曇りの空が広がっていた。


 食卓には、湯気を立てる料理が静かに並んでいる。和彦は黙ったまま、その光景をじっと見つめていた。


 そこに並ぶのは、三週間かけて少しずつ構想を練り、手間を惜しまず準備してきた献立だ。前菜にはエビフライ、鶏もも肉の蒸し焼き、牛たんの塩焼き。そしてメインは特製ステーキ——玉ねぎ、生姜、ニンニクを合わせて二週間寝かせた自家製ダレが決め手だった。さらに、自家製のぬか漬け、毛蟹で丁寧に出汁を取った味噌汁も添えてある。


 ささやかではあるが、和彦なりの“おもてなし”の心を込めたつもりだった。


 今夜は、東京に住む息子夫婦と、横須賀に住む妻・直子の妹夫婦の6人で、ゆっくりと過ごす予定だった。


 ——だが、数日前。直子の、何気ない一言が、その予定を大きく変えてしまった。


「せっかくだから、隣の兄さん夫婦も呼ぼうよ。もう声かけちゃったの」


 人数が増えれば、会話は交錯し、小さなグループが自然と生まれる。誰かが気を遣い、誰かが疎外感を覚える。酒を飲む人と飲まない人。冗談や笑い話が、誰かの心を傷つけてしまうことだってある。そんな“温度差”のある空間の危うさを、和彦はこれまで幾度となく目にしてきた。


「えっ……彼らの分までは用意してないよ。今回は6人だけでって言ってたじゃないか」


「大丈夫よ。私、あまり食べないし。賑やかな方が楽しいでしょ?」


「……そういうことじゃなくて。せっかく作るなら、ちゃんと人数分、心を込めて食べてもらいたいだけなんだ。それに……」


 和彦の言葉は、湯気のように空気に溶けて、跡形もなく消えていった。


 直子は、和彦の表情がこわばったことに気づいていた。けれど、それ以上に、彼が嬉しそうに料理の準備をしていた姿が、もったいなく思えたのだ。


 家族が集まる機会は、年々少なくなっている。誰かが体調を崩したり、娘のお産があったり。だからこそ、集まれるときは賑やかに過ごしておきたかった。


「料理の準備が大変だ」と言う彼に、「私、食べないし」と返した。少しだけ冗談混じりだった……本当は、和彦の料理を誰よりも楽しみにしていたのに。


 迎えた夜。やって来たのは、長男夫婦、妹夫婦、兄夫婦、そしてその娘夫婦。総勢十人。


 賑やかだった。笑顔もあった。


 だが、残念なことに——和彦の胸に渦巻いていた不安は、見事に的中した。


 宴は進み、皿は次々に空になり、笑いが弾ける。だが、和彦の胃袋は空っぽのままだ。料理人とは、得てして料理を出すことで満たされてしまう生きものなのかもしれない。自分の腹を満たす余裕などない。あるとすれば、何度も乾杯したビールで胃袋が膨れていた。今の彼の中にあったのは、達成感と、皆が美味しそうに頬張る姿だけだった。


 賑やかな笑い声と、テーブルの上に立ち上る湯気。和彦の料理は本当に美味しかった。みんなが「おいしい」と笑顔を向けるたび、直子は嬉しかった。


 少しでも場の空気をやわらげようと、和彦は酔った勢いで、軽妙な冗談を飛ばした。どこか漫才のようなやり取り。ボケとツッコミ。相方にされたのは、たまたま隣に座っていた妹の夫――浩一だった。


 笑いが起こるたびに、わずかに空気が緩む。その空気を和彦は信じた。だが、直子だけは気づいていた。和彦の声が、途中から微かに変わっていったことに。最初は気のせいかと思った。でも、冗談が重ねられるたびに、言葉の中に混じる棘が、まるでひっそりと毒を含んだ矢のように、耳の奥に残っていった。


「昔は、もう少し素直だったのになあ」


 笑いながらそう言われた瞬間、言葉よりも先に、そのときの和彦の視線が直子の胸を刺した。優しいはずの目が、どこか遠く、そして冷たかった。


 笑い合っているはずなのに、どこか噛み合わない。まるで目に見えないヒビが、音もなく広がっていくようだった。


 久美と浩一は、アルコールを一滴も口にしない。一方で、酔いのまわった和彦は、昔取った杵柄で冗談を次々に繰り出す。義姉の嫁や長男夫婦がそれに乗って笑い、空気はにぎやかに見えた。だが、酒を飲まぬ妹夫婦は、笑顔の仮面をつけたまま、どこか心ここにあらずだった。


 何をどう盛り上げ、どう冷めたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、帰り際に見た皆の笑顔を見て、「楽しかったんだな」と、和彦はひとりで納得していた。


 帰ったあとに部屋に残されたのは、使い終えた皿の山と、どこかぽっかり空いた沈黙だった。直子は静かにエプロンの紐を結び直し、狭い台所に立った。洗い物の音だけが、夜更けの家に響いていた。すべてを終えたとき、時計の針はとっくに日付をまたいでいた。


「和彦さん、ありがとう。兄と妹のために、ここまでしてくれて……ほんとに感謝してるわ」


 そう言った直子の声は、疲れと、どこか哀しみをにじませていた。


「何言ってるんだ、そんなの当たり前だろ。俺は料理ができるんだから。元シェフなんだぜ……それより、片づけ大変だったろ。ご苦労さん」


 和彦は、何も食べずに酒ばかりをあおり、悪酔いしてそのまま横になった。

 直子はそっと電気を消した。闇の中、もう一度だけ、手元に残ったグラスを拭いた。磨かれたガラス越しに映る自分の顔は、どこか知らない誰かのように見えた。



 翌日——携帯が鳴った。画面に映ったのは、妹・久美の名前。

 直子が通話ボタンを押すと、すぐに久美の声が飛び込んできた。冷たく、とがっていて、まるで刃のように鋭い非難だった。


「……どうして、あんなこと言うの? あれはお姉ちゃんだけに言ったのよ。まるで私が、浩一さんを笑いものにしたみたいじゃない」


 言い終えても、久美は荒い息を吐いていた。

 直子はしばらく沈黙したまま、耳の奥で脈打つ自分の鼓動に気づいた。


「え?……何のこと? それ、たぶん久美が、浩一さんと和彦と4人で食事したときに言った話よ。いつだったか忘れたけど……。もし気になるなら、浩一さんにも聞いてみたら? 彼もその場にいたから」


 そう言い返しかけたが、言葉は口の中で止まった。何でも受け止めてしまう直子は、やはり黙っていた。


 胸の奥に滲んでくるのは、じわじわと広がる悔しさ。誤解されたことよりも、「そんなことを言う姉」だと思われたことが、何よりも堪えた。


 電話を切ったあと、直子はそっとリビングの窓を開けた。夕暮れの風がカーテンを揺らし、心の波立ちを少しだけ静めてくれる。


 胸の内で、何度もつぶやく。「……喜ばせたくて、頑張ったんだけどな」


 そのやりとりを電話の向こうで聞いていた和彦も、同じ言葉をそっと繰り返した。


「……喜ばせたくて、頑張ったんだけどな」


 その日から太陽のような直子は、雲空になり、寝込んでしまった。表面は明るく振る舞っていても、実は打たれ強くはない。すぐ曇り空になってしまう直子なのである。


 ふと、和彦は母の口癖を思い出した。


「味噌汁が冷めない距離が、家族にはちょうどいいのよ」


 けれど、今の和彦の胸に浮かんでいたのは——


「味噌汁も凍るくらいの距離なら、こんなふうにお互いが傷つかずに済んだのかもしれない」だった。



 ──あれは、一か月前のことだった。


 あの日のやりとりが、まさかこんなふうに心に爪痕を残すとは、誰も想像していなかった。


 久美が電話で、直子に言った。


「兄の家に、挨拶に行こうと思うの」


「そう。じゃあ、帰りに寄ってって。あなたたちが来るって言えば、うちの人、きっと張り切るわよ」


「え? ステーキ?」


「そうよ。浩一さん、前に“食べたい”って言ってたじゃない」


「よく覚えてるわね」


「当然よ。姉ですもの」


 ──何でもない、姉妹らしいやりとりだった。ただ、笑いながら交わした言葉の一つひとつが、まるで伏線のように、その先の出来事に繋がっていくとは、誰も思っていなかった。


 久美はそのまま浩一に伝えた。


「来週ね、直子姉さんの家で晩ごはんなの」


 そのとき、浩一の胸にふと小さな緊張が走った。


 義理の家族との食事会。嫌いではない。けれど、言葉を選び、笑顔をつくり、誰かの“期待”に応えようとする自分に気づくと、胸の奥が少しだけ重くなる。


 久美も浩一も、酒を飲まない。だからだろうか、酒席の“ノリ”には、どうしても馴染めない部分があった。輪の中で笑っていても、ふと、自分だけが浮いているような、心もとない気持ちに襲われることがある。


 ──当日。和彦の料理は、まさに見事だった。


 テーブルには、レストランのようなごちそうが並んでいた。ステーキ、グリル野菜、ソースも手作り。浩一は思わず、「お店みたいですね」と感嘆の声を漏らした。


 けれど、その裏にどれほどの手間や時間がかかっていたのか、浩一にはまだ実感がなかった。料理をしたことがないわけではない。だが、もてなしというのは、ただの作業ではなく、相手への思いを重ねる営みだということを、まだ知らなかった。


 宴が進み、酒が入る。


 和彦が冗談を振りはじめた。ボケとツッコミ。浩一は自然とツッコミ役に回った。場は和んだ。誰かが笑い、皿の音が心地よく響いた。


 だが、ある瞬間、空気が変わった。


「あれ? それって、あの時話してたやつじゃない? ほら、あの話──」

 何の気なしに放たれた言葉に、久美の笑顔が引きつるのが浩一にははっきりと見えた。


 ──それは触れてほしくなかった話題。


 和彦は気づかず、話を続けた。けれど、誰かがそっと目を伏せたとき、誰かがグラスを持つ手を止めたとき、場の温度がわずかに下がったのを、浩一は確かに感じた。


「……それって、浩一のこと、言ってるのかしら?」

 久美の声は低く、乾いていた。


 誰も答えなかった。ナイフが皿に触れる音だけが、やけに大きく耳に残った。


 ──そして、翌日。


 久美は電話越しに、怒りをぶつけたのである。

 直子は黙って受け止めた。浩一はその横で、何も言わずに聞いていた。


 家族というものは、ふしぎだ。

 血がつながっているからこそ、言えないことがある。遠慮がないぶん、傷つける言葉もある。近いようで遠く、遠いようで、どこか似ている。


 誰かの「気持ち」をすくい上げるというのは、時に──

 水面に映る月を、そっと両手で掬おうとするように、難しい。



 ──そして二週間が過ぎた。

 久美と浩一は、久しぶりにステーキハウスを訪れた。


 ジュウ、と鉄板に落ちる肉の音。立ちのぼる香ばしい香り。あの日のことが、ふいに蘇った。


 和彦がふるまってくれた、あのステーキの味。

 その奥にあったものに、ようやく気づいた。

 料理の手間。盛りつけの工夫。ひと皿ひと皿に込められた、“喜ばせたい”という気持ち。


 浩一は思った。

 ──あれは、もてなしだった。

 ただの晩ごはんではない。

 あの夜、和彦なりの愛情が、確かにあの食卓に並んでいたのだ。


「……ちゃんと、話そうかな。もう一度」

 浩一の言葉に、久美はゆっくりとうなずいた。


 わだかまりは、少しの勇気で解けることがある。

 言葉で、心をつなぎ直すことができる。

 糸は絡まることもあるけれど、結び直すこともできる。

 家族とは、そうして育っていくものなのかもしれない。


 未来は、まだ白紙のまま。

 でも、その余白に、ふたりはそっと希望を描き始めた。


 新しい絆を信じて。

 心からの「ありがとう」を、今度こそ、まっすぐに伝えるために。


 ──そしてその頃、直子と和彦もまた、静かに胸の中で思っていた。


 家族とは、すれ違い、遠ざかり、ときには傷つけあうもの。

 でも、それで終わりではない。


 誤解の裏にある想いを信じること。

 沈黙の奥にある優しさに、耳を澄ませること。

 その一つひとつが、また絆を結び直す力になると。

 完璧でなくていい。

 不器用なままでいい。

 ただ、誰かを想う気持ちが、たとえ言葉にならなくても、確かに届く──そう信じていた。


 寄り添うこと。

 それだけで、人はまた明日へ向かって歩き出せる。

 小さな祈りの灯火が、四人の胸の奥に、そっと、温かくともっていた。


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