第8話 守りたかったもの
ー エリドール公国 首都リプス ー
サンフィオーレ軍の侵攻は、まるで嵐のようにエリドール公国を襲った。
波濤のように軍隊が国境を越え、大地を飲み込みエリドールの都市は次々と陥落していく。
かつては、緑豊かな田園風景が広がり、人々の笑い声が響いていた場所は、
焦土と化していった。燃え盛る炎は、夜空を赤く染め、死者の呻き声が風に乗って漂っていた。
エリドール公国、クゼニュ公は城の塔の上から、その惨状を目の当たりにした。もはや、国を維持することが不可能だと悟り、絶望が彼の心を締め付け始めた。
クゼニュ公はつぶやく。
「ここは撤退しかないな。」
エリドール将軍ポトニャフが、焦った様子で現状を報告した。
「殿下、まだ防衛隊は完全に残っております。」
「わが母国、フロストヴァルドにて訓練を行った我が国の最精鋭のホワイトタイガー隊、ホワイトウルフ隊、ホワイトクロウ隊、ともに戦意は良好です!時間は稼げます。」
クゼニュ公は、ため息をつき、言葉を詰まらせた。
「いや、勝敗は既に決まった。頭が残ればいつでも再起はできる。 今は撤退しかない!」
宰相は、クゼニュ公の決断に驚きつつも、首都リプス陥落の被害を最小限にしようと画策した。
「北方で再度再起を図るか、それともフロストヴァルドへの亡命でしょうか。」
クゼニュ公は、静かに、しかし断固たる口調で、こう宣言した。
「わが国だけではもう戦うことは困難である。フロストバルドへの亡命しかない。」
「今から撤退の準備をいたします。」
「避難民をまず優先するために、防衛隊を結成し、避難路を確保いたします。」
「そんなものは必要ない。」
ポトニャフ将軍は驚き、指示を仰いだ。
「それではどうするので。」
「我々が真っ先に逃亡するのだ。真っ先に自分を最優先にできないで、自分の身は守れん!」
クゼニュ公の決断は、臣下をも絶望の淵に突き落とすものだった。
「どういうことでしょうか、殿下。」
「私たちが逃亡が完了したら、エルスター橋を落とせ」
「殿下! 避難のための橋を壊すのですか?」
将軍は、クゼニュ公の命令に驚き、言葉を失った。
「そうだ。二度言わせるな。北に延びるエルスター橋を壊せ! 我々が逃げきるためだ。
サンフィオーレ軍の追撃を防ぐために、橋を落とすのだ。一刻も猶予はならん!」
国王は、冷酷な表情で、そう命じた。
「しかし、殿下、民衆や、残された兵は…!?」
「民衆は…どうでもいい。退路を断たれた兵は、奮起し勝利するともいわれている。
運命は自分で切り開くべきだ。」
クゼニュ公は、無情にもそう言い放った。
これが後世に語り継がれる「エルスター橋」の悲劇である。
まだ南部の主力部隊が交戦中にもかかわらず、
北上へ避難が可能な北への主要通路のエルスター橋が完全に破壊された。
避難のために橋の上にいたものは川に流され、
橋の近くにいたものはパニックで川に落とされた。
2000人ほどの兵と民衆が死んだ。
この結果、最重要拠点である首都防衛をまかされていたエリドール公国の最精鋭部隊は窮地に陥った。退路も補給路もいきなり断たれたのである。
逃げ惑う民衆は、混乱の中で、家族や友人と離れ離れになり、絶望の淵に突き落とされた。
「助けてください…! 息子を…息子を!」
母親は、混乱の中、息子と離れ離れになってしまった。
「お願いです! 誰か…助けて…」
老人は、力尽きて倒れ込み、絶望の淵へと沈んでいった。
「これは…これは何だ…? クゼニュ公は…?!」
人々は、混乱と恐怖の中で、
自分たちの王が、自分たちを見捨てて逃亡したことを知った。
エリドールの民の心には、怒り、悲しみ、そして絶望が渦巻いた。
クゼニュ公の逃亡は、民衆の怒りと憎しみの対象として、
エリドールの民に永遠に記憶されることになるだろう。
ポトニャフ将軍は、王の命に逆らい、首都防衛、リプス市民の避難のために残留した。
ポトニャフも兵士も、勝利の可能性が一切ない戦いなことは十分承知である。大国であるサンフォーレの正規軍には、小国の精鋭部隊など、紙切れに等しい。強力な魔法防御に守られた完全防備の騎兵やチャリオッツへの対抗手段などあるはずがないのだ。
しかし彼らの前線が一たび破られれば、愛する首都において略奪が始まるのである。彼らの生活、大事にしていた夢、大切な、友人、家族、恋人が、全て破壊されるのである。
許されるべきではないことが、これから行われようとしているのだ。敵の前進を遅延させる一縷の望みでもあるのであれば、彼らは喜んで自らの命を差し出すことだろう。
エリドールの精鋭隊、ホワイトタイガー隊、ホワイトウルフ隊、ホワイトクロー隊は、装備にも補給にも事欠く過酷な環境の中、首都リプスの民を守るために尽力し、特攻に次ぐ特攻を行い、そして全滅した。
そのあと、首都リプスでは残虐のかぎりが尽くされた。
エリドールは総人口の30%をこの戦いで失ったと言われている。
首都を蹂躙され、民を虐殺され、敗戦した兵士のことはすぐ皆が忘れてしまうだろう。このようにして、ポトニャフとポトニャフ率いるエリドールの主力部隊は、壊滅した。
エリドールから、良心が消えようとしていた。
ライプツィヒの戦い:ナポレオン率いるフランス軍は連合国に敗北した。フランス軍は撤退中に橋を落とした。殿を務めたユゼフ・アントニ・ポニャトフスキは取り残され、この戦いで戦死した。