第4話 暗雲
ー フロストヴァルドの港町 ミナート ー
今日は凍てつく港の灰色の海が、どこまでも鉛色に沈んでいた。
水平線の彼方から、よろめくように近づく船団を、
北側のフロストヴァルドの人々は固唾を呑んで見守っていた。
「あれが… エリドールからの…?」
港に集まった人々の間から、不安げな声が上がる。
数週間前、南の国サンフィオーレ皇国による、エリドールへの侵攻の報が伝えられて以来、フロストヴァルドは、対岸の火事を、対岸の悲劇としてのみ捉えることは、もはや許されなくなっていたのだ。
やがて、船は港へ到着する。
そこには、かつての活気あった国民の面影など、どこにもなかった。
甲板を埋め尽くしていたのは、財産を失い、家族を失い、人生に絶望し、恐怖と疲労に満ちた目をした、エリドール公国の戦争難民たちだった。
「可哀想に… あんな小さな子供まで…」
港に集まった人々の間から、今度は、同情の声が漏れる。
命からがら辿り着いた彼らに、手を差し伸べずにはいられなかった。
"さあ、こちらへ! 暖を取りなさい! 食べ物と温かい飲み物を用意しました!"
当初はフロストヴァルドの人々は、我先にと、難民たちに手を差し伸べていた。
凍える子供には、自分の着ていたマントを脱がせて与え、
怯える老婦人には、優しい言葉をかけて、港に設けられた救護テントへと導いていく。
フロストヴァルドの人々は、自分たちの行いを、当然の善意だと信じて疑わなかった。しかし、難民の波は、止むことを知らなかったのだ。
翌日も、その翌日も、地平線の彼方から、難民を乗せたキャラバンが、絶え間なく、フロストヴァルドへと流れ着いたのだ。
港の倉庫は、衣服や毛布、食料で溢れかえり、仮設キャンプは、あっという間に満杯になった。
フロストヴァルドの資源は、底が見え始めていた。
それでも、人々はまだこの危機を、自分たちの善意と努力で、
何とか乗り越えられると信じていた。
しかし、それは、嵐の前の、束の間の静けさに過ぎなかったのだ…。
深まる溝仕事や住居を奪われることを恐れるフロストヴァルドの市民が現れ始める。
「おい、見たか? 港に、また新しい連中が来たらしいぞ」
「あの調子だと、あとどれくらい来るんだ? 」
市場に集まった人々の間で、不安げな声が交わされる。
エリドールの難民を受け入れてから、数週間が経っていた。
当初は同情と善意で包まれていたフロストヴァルドだったが、
人々の心に、徐々に、黒い感情が芽生え始めていた。
港で荷揚げの仕事をしているハンスは、ここ数日、仕事にありつけずにいた。
「おい、ヨアヒム! 今日は仕事はどうだ?」
仲間が声を掛けてくるが、ヨアヒムは、苦々しい顔で首を振るしかなかった。
「ここんとこ、毎日、エリドールの連中が優先で、俺たちの仕事がねぇんだよ。あいつら、タダ働き同然で働くから、俺たちの方が割高になっちまって…」
フロストヴァルドの人々は、自分たちの生活が脅かされ始めているという、
漠然とした不安に駆り立てられていた。
フロストヴァルド市民とエリドール難民との摩擦も、日に日に増していった。
「難民のリーダーがキャンプでの独立宣言をしたらしいぞ、いみがわからないな。」
「難民の一人が店を荒らしたらしいが、生活苦が原因とかでなんと罪を問われなかったそうだ。」
「難民は、『パトロール』と称して、住民といざこざを始めたらしい。」
「難民を批判すると、どこからともなく攻撃される。先日のキウシカの村長の件を見ろ。ただ難民の支援に疑問を投げかけただけで、家を焼かれたんだからな。」
「それに、麻薬の話も聞いたか?あいつらが背後で大規模な流通を手掛けているらしい。街の若者たちがどんどん手を出しているって話だ。」
こうした小さな出来事が積み重なり、
両者の間の溝は、急速に深まっていった。
教会関係者は、事態の沈静化に躍起になった。
街頭では、教会関係者が演説を行い、難民への理解と協力を呼びかけた。
しかし、人々の不安と不信は、簡単に拭えるものではなかった。
見えない恐怖と、静かな怒りが、
フロストヴァルドの街並みをゆっくりと、
しかし、確実に覆い尽くそうとしていた。
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ー フロストバルド最南端都市 ティアモ ー
「今日は特別にガレス様からの恩恵がある!」
ある日、キャンプ内にて親衛隊達が高らかに宣伝をし始めた。
彼はガレスの名を告げ、キャンプ内の広場に難民たちを集めた。
隊員たちはパンなど生活必需品を運び込み、
まるでガレス自身が慈悲深くそれを提供しているかのように振る舞った。
「ガレス様のご厚意で、これらの物資を皆さんに特別に配布する!」
広場に集まった難民たちは、感謝の声を上げた。親衛隊の隊員たちは、笑顔を浮かべながら次々と物資を配り、その場を盛り上げた。
まるでガレスが英雄であるかのように、親衛隊は彼のカリスマ性を高めるために全力を尽くしていたのだ。
「ガレス様、ありがとうございます!あなたのような方がいてくれて、本当に幸運です!」
その言葉を耳にした親衛隊達は、満足げに微笑んだ。彼らは、難民たちがガレスに対して感謝の念を抱くようになっていく様子を見て、満足をしていた。
ガレス親衛隊の行動を遠巻きに見ていたエリザとガストールは、広場に響く感謝の声に対して違和感を覚えた。難民たちが受け取っている物資は、本来ならば全員に平等に行き渡るはずの配給品であり、特別な恩恵などではないはずだった。
エリザは眉をひそめながらガストールに囁いた。
「これはおかしいわ、ガストール。あの物資は、貧しいフロストヴァルドの民が、血潮をかけて集めた配給品のはずです。ガレスがそれを特別なものとして配っている…一体どういうことなのかしら?」
ガストールも周囲を見渡しながら、静かに答えた。
「配給品の配り方を難民に一任しているからかと思われます。物資が足りなくなっているという話を耳にしていましたが、こうして大量に配られているのを見ると、さもありなんと思います。」
エリザは視線を親衛隊に戻し、その動向を観察し続けた。
ガレスが英雄視されるような状況を作り出すためにの『崇拝者』としての役割が、ガレス親衛隊なのだ。
配給の後、ガレスは高台に立ち、威圧的な声で演説を始めた。彼の言葉は激情的で、難民たちやフロストヴァルドの市民に向けて、力強く『理想』を語っていた。その背後には、ガレス親衛隊が控えており、彼の言葉が発せられるたびに、大げさな拍手や歓声を上げていた。
「我々は、新しい秩序を築くのだ!自由と権利の為に!共に未来を掴み取ろうではないか!」
ガレスが叫ぶと、親衛隊は一斉に歓声を上げ、拳を振り上げた。その熱狂は、広場に集まった難民や市民に伝播し、いつしか彼らも声を合わせて叫び出す。
「配給品を横領しておいて、どの口が自由や権利を語れるのかしら。」
と半分あきれながら、エリザはこの光景を遠くから見つめていた。ガレスのカリスマ性が『崇拝者』としての親衛隊によって増幅され、集団心理が強烈に働いているのを感じ取った。キャンプ内にはこの光景に違和感を覚えるものもいるだろうが、民衆の多くは、自らの考えを持たず、群衆の雰囲気に流されるものである。その集団心理の恐ろしさが、エリザの心に重くのしかかった。
大戦前、ナチスは「突撃隊」と呼ばれる集団を用いていました。
エルンスト・レーム率いる突撃隊は、「パトロール」をして住民と衝突を繰り返し、ある日は政治集会に妨害要員として、そして護衛としてナチスの政治活動を支えました。