本編#8 下車
私専用の椅子に登り、ハッチを上に押し開ける。
キューポラからゆっくりと頭を出すと、ベルリンの大都会風景とは全く違う、どこまで続くのか分からない森が辺りに延々と広がっていた。木々に生えている葉の間からは太陽の光が差し込んでいて、個体によっては林檎のような果実も枝から自生していた。近くからは川のせせらぎが聞こえ、ベルリンでの疲れが癒される気がどことなくした。地面には一面が落ち葉で覆われており、ここで昼寝なんかをすると気持ちよさそうだ。
この森は今までで見た中で一番綺麗だ。私が知っている森は野砲陣地や機関銃陣地だらけで、綺麗とは程遠かった。
広大な自然に圧倒されながらもティーガーから降りる。
地面に着地すると、柔らかい土が靴を包み込んだ。
「調査が済んだら、エルンスト達にも言わないとな」
「どんな反応をするんでしょうね」
「まあ、絶対に驚くだろうな。ベルリンとは真反対な場所だから」
ミハエルと雑談を交わしながら、自然の大地を歩く。
しばらく歩いていると、木々の隙間から河原が見えた。その奥には、美しい音を放っている川が流れていた。
「行ってみよう」
邪魔な草木を銃の先端部分でかき分け、川に接近する。
河原に足を踏み入れた。
流れている川の大きさはそれほどないが、水は透き通っており、何匹もの魚が泳いでいた。ゴミの一つも浮いておらず、人の手が加わっていない、ありのままの自然だ。
「飲み水と食料は確保出来そうですね」
「そうだな。あとで、残りの仲間をここに呼んできて、皆で食事を取ろう」
川の水も見た感じでは清潔だし、魚も沢山生息している。食料には困らないだろう。
すると、恥ずかしい事に私の腹から「グ~」という間抜けな音が鳴った。
「腹が減っているみたいだな……」
腹部に手を置きながら言った。
「ミハエルは減ってないか?」
「いや、ちょっと空きましたね……」
何時かは分からないが、空腹なら今後の行動のためにも食事を早い内に取っておいた方がいいだろう。どこの国の言葉かは忘れたが、腹が減っては戦が出来ぬということわざもあるぐらいだ。食べる事に損はしないはずだ。
食料である魚を釣るために、私はその辺に落ちている枝で粗末な釣り竿を自作しようと考え、程よい長さの枝を探し始めた。銃を持っているのだから射撃で魚を捕獲する方がいいのではないかとも思ったが、弾薬を無駄に消費したくないのでその案は止めた。
適当な大きさの枝を探っている際中、向こう岸に興味深いものを見つけた。
「あれは、看板か?」
人工物。そう、ここに来て初めて人間が造った物体を目にしたのだ。
竿作りに参加しているミハエルに声を掛ける。
「ミハエル、あそこに行かないか?」
対岸に見える看板を指さしながら問う。
「そうですね。目的は食事じゃなくて調査と捜索ですし、行ってみましょうか」
私の誘いに、ミハエルは快く応じてくれた。
「ここから先は何があるか分からないから、絶対に離れるんじゃないぞ」
「分かってますとも」
私とミハエルは身を寄せ合い、穏やかな流れをしている川に足を運んだ。
川に両足を突っ込んだ途端、冷え込んだ水が衣服を通り抜けて足を刺激した。その感覚に思わず身体を震わせてしまったが、慣れると心地よかった。いつもは蒸し暑いティーガーで過ごしている事もあってか、この冷たさは私からすると新鮮なのだ。
この川で水浴びをするのもアリだなと思っていると、対岸に渡り終えていた。
水を吸ったズボンが重くなりながらも看板まで進み寄る。
看板の前に着く。
「何て書いてあるんでしょうか……」
ミハエルが看板の隅から隅まで、舐めるように見渡していた。
「どれどれ」
私もミハエルの看板調べに加勢する。
看板には、主にソビエト連邦で使用されるキリル文字が書かれていた。ロシア語を話したり読んだりする事は出来ないが、ソ連軍の戦車にロシア語で何かが描かれているのをよく見たため、文字の形は理解しているのだ。
看板を調べていると、あるおかしな事に気が付いた。
「これ、本当にキリル文字か……?」
記されている文字はキリル文字だと思っていたのだが、もっと詳しく見てみると、私の知るキリル文字ではなかった。かといって、漢字やラテン文字でもない。どう説明したらいいのか分からないが、キリル文字に似た何かなのだ。大よその形は同じなのだが、細かな箇所が本来のキリル文字とは異なる。また、看板は状態が悪く文字が所々消え掛かっているため、ロシア語に精通する人物がこれを見ても全てを読み取るのは不可能だろう。
まあ……看板について調べるのはこれぐらいまでにしておこう。
「車長、見てください」
ミハエルが視線を向ける先には、ほとんど道の役割を果たしていない、どこへ続く通路があった。
その道はどこか恐ろしい雰囲気を漂わせているが、足を踏み込まないと調査と捜索が進む事はないだろう。
私は腹をくくる。
「ミハエル、行くぞ」
「ええ、進みましょう」
再び身体を寄せると、神秘的ながらも不気味な道に踵を入れ込んだ。
道を歩いていると、今までに何度も嗅いだ臭いが鼻に流れて来た。
「火薬の臭いだな」
「誰かが戦ったんでしょうか」
ミハエルは、ここで何者かが争ったと推測を立てる。
火薬が用いられる弾薬や砲弾は人間の命を確実に奪う事の出来る最恐の武器だ。しかし、弾丸と言ってもピンからキリまであり、中には狩猟に使われる弾薬もあるので、必ずしもこの場所で人間同士の戦いがあったとはまだ断言出来ない。
靴の先端の固い何かが当たる。感触からして、金属のような物体だ。
気になった私はそれを拾った。
掴み上げた物体が分かった瞬間、私は少し驚いた。
「薬莢だと……?」
それも、狩に使用されるものではなく、戦場で使われる軍用弾薬だ。
それは大きさからして、機関銃の薬莢だろう。機関銃の弾丸で狩猟を行うのは流石に過剰と言える。
持っている薬莢を草むらに投げ入れ、続く道を見ると、光る物体があちこちに散り落ちていた。それが何か説明するまでもない、今拾った薬莢の仲間達だ。
やはり、この道は異様だ。仮にこの場で誰かが動物を狩っていたとしても、無作為に薬莢が投棄されている事はあまりにも異常だろう。
最初はミハエルの仮説を否定していたが、これでは彼の憶測を信じるしかなさそうだ。
「家が見えますよ」
散っている薬莢に思わず目を奪われていると、ミハエルが私にそんな事を伝えて来た。
顔を上げると、彼の言う通り道を抜けた先に家屋らしき建造物がちらほらと確認出来た。
「早く行こう。何かあるかもしれんぞ」
「住人が居たら話しましょう」
会話を短く終わらすと、私達は一刻も早くこの気味悪い道から抜け出したい一心で、足を動かす速度を早めた。