ベルリン編#2 仲間と戦い
私は、ペーター・ヴィットマン。ベルリン第4重戦車中隊に所属するティーガー217号車の車長だ。今年で28歳の私は激戦を極めたクルスクを戦い抜き、今は敗北が刻一刻と迫っている故郷の防衛に尽力している。
「昔は、こんな事考えられなかったな」
眼前で休んでいるティーガーを眺めつつ、弾薬が少しはみ出ている木箱に座りながらそんな独り言を呟いた。
大戦が開始した当時のドイツは進撃と勝利を連続させ、誰にも祖国の暴走を止められない状況だった。言うなれば、ある意味現在の連合軍と似ているかもしれない。とにかく、あの頃のドイツは破竹の勢いであり、負ける事を知らなかったのだ。
しかし、ソ連の地で一度負けてからというもの、私達の華々しい活躍はそこで終わりを告げた。
赤軍が攻勢に回ると、こちらの数倍以上の戦力を戦場に投入し、自軍の陣地を守り切れなかった私達は撤退に追われる日々が続いた。その後、東部戦線の至る所で大規模な攻勢作戦を仕掛けたが、ソ連軍の返り討ちに遭ってしまい、貴重な戦力の損失を早める事態となった。それを繰り返したおかげで、ドイツ本土まで追いやられてしまったのだから、ここまで来ると悔しさや怒りよりも呆れの感情が湧き出て来る。何というか、哀れな国に成り下がったと思うのだ。
「昔、か。新兵の時は大変だったな」
過去の記憶をいじっている内に、入隊当初の風景が脳裏に蘇った。
まあ、いいかな。今は少ないとは言っても大切な休憩時間なのだから、昔の思い出を掘り起こすのも別に悪く無いだろう。
私が軍人になろうと思った動機は、先の大戦に衛生兵として従軍していた父親の影響が大きい。
幼い頃はよく父さんから戦時中の話を聞かせてもらっていて、今でも怖くなる話もあれば爆笑する面白い話もあった。
そんな話の中で、私が軍に入隊するキッカケと、後の信念となる言葉を聞いた。
ドイツの力と正義は偉大なんだ――
この発言が、今に至る全ての始まりだった。
頭があまり良くなかった私はその言葉の意味が分からず、言われるや否やすぐに父さんへ質問を投げかけたのだ。
どんな意味? そうだな、簡単に言うと困っている人は敵味方関係なく助けるんだ――
父さんは、自慢げな顔でそう言ったのを鮮明に覚えている。
言葉の意味を聞いた瞬間、私の身体のどこかに強い衝撃が走った。それは何故かは分からない。だけど、心に何かが、今で言う信念が芽生え始めたのは確かな事実だった。
あの日以来、私は常に軍人という存在に尊敬や憧れといった念を抱き始めた。
成人を超えてもその思いが消える事は無く、21歳の時にドイツ国防軍へ志願を申し込んだ。難しい問題が沢山の筆記試験を合格し、何人もの脱落者が出た厳しい入隊訓練を何とか乗り越えると、私はついに念願の軍人へと成り上がったのだ。
西暦が1939年に変わった頃、ドイツが隣国のポーランドへ侵攻した事により、今も続く第二次世界大戦が勃発した。ドイツに勤務する軍人達は各地の戦場へ送られ、私も東部戦線に派遣された。
模擬戦闘ではない初めて味わう本物の殺し合いに怖気付いていた私は、銃やナイフを持つどころか、頭部を保護するヘルメットすらも被れなかった。ずっと手が震えていたのだ。
だが戦闘経験を積んでいく内に次第に戦場での過ごし方にも慣れていき、1941年には38t軽戦車の砲手を任されていた。私は砲手としての職務以外に、負傷した仲間を出来る限り安全な場所へ運ぶ行動を取っていたため、部隊内での評判はよかった。表彰状を受賞した事もある。ただ私は、自分の評価を上げる事が目的で仲間を救出していた訳ではなく、心に在る信念が理由で動いていたのだ。端から見れば私はただの偽善者かもしれないが、それでも人の命が救えるのなら構わないと思っている。
しかし、私の信念に亀裂が入る出来事が、あの日起こった。
東部戦線の小さな村を占領した時、私達ドイツ軍は村を防衛していたソ連兵を捕虜として受け入れた。
ソ連兵は皆、まともに食事も睡眠も取れない環境で無理に戦っていたので、顔色が病気を患っている老人のように青ざめていた。身体的な外傷も酷く、野砲の爆風の影響で肉体の一部が吹っ飛び、手足が欠損した兵士が大勢居た。
村の占領者の一員である私の顔をソ連兵は殺す勢いで睨み付けて来たが、その瞳は困惑に支配されていた。
占領に成功した私達は村の家屋や自軍が設置したテントで暖を確保していたが、捕虜となった赤軍の兵士達は馬小屋や道端に放置されていた。怪我の適切な処置や満足な食事も与えられていなかった。ソ連兵はドイツ軍からすれば憎らしい敵なので、杜撰な扱いを受けるのは仕方ないかもしれないが、ソ連兵も人から生まれたれっきとした人間だ。家畜以下の扱い方をされている光景を見て、私は黙っておく事が出来なかった。今こそ、自分の信念を活用するべきだと脳が命令していたのだ。
私のポケットには丁度、夕食時に食べる予定の缶詰が入っていた。潤沢ではない食事を敵に与えるのは如何なものかと考えてしまったが、その思考を薙ぎ払い、目の前に居る餓死寸前のソ連兵を救う事に集中した。
満身創痍となった捕虜の前に立ち、缶詰を差し出すと、ソ連兵は殺されるのかと思ったのか、傷だらけの両手で顔を覆い隠した。私はそんな彼を安心させるために、下手くそな包帯の巻き方をされている肩を優しく叩いた。その行動が予想外だったらしく、捕虜のソ連兵は驚いた表情で顔を上げた。そして、缶詰が武器ではない事を知ったソ連兵は辛そうにしながらも笑みを作り、缶詰を受け取ろうとした。
切れ目から血が滲み出ている指が缶詰の蓋に触れようとする。
あともう少しで、ソ連兵が待ちに待った食事にありつけるという時、悲劇の音が響き渡った。
缶詰には生温かい赤色の液体が付着しており、土の地面には額に小指サイズの穴が空いたソ連兵の死体が横たわっていた。
助けようとした捕虜が何者かに射殺された事が分かると、私は銃声がした背後を振り返った。
そこには、自分の上官が立っていた。片手でルガーP08を構えていて、銃口からは煙が上がっていた。上官が捕虜を撃ったのは確かだろう。
せっかく救える命があったのに、何故殺すんだと思った私は無言で上官に立ち向かった。
上官の前に着くと、早速質問をした。
どうして、撃ち殺したのだと――
ルガーをホルスターに納めると、上官はの表情はこの世の者とは思えない醜悪な笑顔になった。
答えが返って来る。
お前も信念がどうとか言ってるだろ? これがドイツの信念さ。邪魔で間抜けな敵を撃ち殺す。これは実に素晴らしい考えだ――
上官の言葉が耳に入った瞬間、何かが切れる音が確実に聞こえた。
あの時、かつてない程の苛立ちを覚えた。
私の信念は偽善かもしれないが、上官が言う信念とやらはそんな生ぬるいものではなく、悪魔の所業だ。
その事件が起こって以降、私は上官に対する信頼を完全に失った。その理由は単純だ。上官のふざけた理論と、父さんから授かった私の信念を同一視されたからだ。それが、たまらなく嫌だったのだ。
しかし、日が過ぎ去るにつれて、自軍の愚行を次々に目撃してしまった。その内容は、捕虜を柱に縛り付けて石を投げ付けたり、無抵抗な一般人を射撃の的にしたりなどだ。これは信念が云々の話ではなく、国際法に違反しているだろう。そんな行いを、仲間は平然とやっていたのだ。
日常的に起こるその光景を見て、もしかすると父さんが言っていたドイツの力と正義は嘘なのではないかと、あの時になって疑ってしまった。でも、父さんはよく冗談を抜かしていたものの、自らの体験談を語る時は真面目な態度を取っていたので、あの言葉に偽りが含まれていない事はすぐに分かった。
ドイツの信念と、私の信念。どちらが正しいかは、自分にも分からない。それが長年の悩みで、私の心の中では二人の自分が頻繁に論争を巻き起こしている。私が正しいとか、ドイツが正しいとか、そんな子供みたいな口喧嘩ばかりだ。だが、私としてはどうしても気になってしまうのだ。理想としては、自分の信念が正しくあってほしいが、実はドイツの信念が正しいのではないかとも考えてしまうのだ。
ただ、これだけは言える。
父さんが言っていた通り、ドイツは偉大な国家だ。どの国にも負けない程の逞しさと美しさを兼ねている。だから、ドイツのどこかには私が追い求めている信念が存在していると信じている。もちろん、そのような根拠は証明出来ないが、何となくそんな気がするのだ。
ドイツは多くの蛮行を犯している。敗戦後には、悪党として連合国に裁かれるだろう。威厳を失った祖国の姿は見たくないが、どんなに酷い有様になっても、私は祖国を愛すると決めている。
生きるか死ぬかは分からない。しかし、敵に捕らえられて如何なる屈辱を受けようとも、私の信念には指一本触れさせない。
「おいペーター、終わったぞ」
昔と今にじっくりと浸っていると、東部戦線の頃から付き合いのあるエルンスト・カリウスに声を掛けられた。彼は私の大切な戦友でありながら、ティーガーの操縦手を務めている。エルンストは長年戦場で働いている事もあって、操縦技術は誰よりも秀逸だ。
ティーガーから汗水を垂らした兵士が、いや少年達が降りて来る。
その数は三人。成人にも達しておらず、体格も顔も幼い。着ている軍服も大きさが合っていない。
三人の彼らは、実は志願して兵士になった訳ではない。長きに渡る戦闘で多くの軍人を失ってしまい、それを補充するために政府が非常招集を発令し、ドイツ国内に住んでいる未成年者を徴兵し始めたのだ。徴兵制度が施行された情報を耳にした時は、争いとは無関係な一般市民を兵士に仕立て上げるとは何事かと思ったが、冷静になって考えてみれば、こうなったのは私達が原因だろう。赤軍に連勝を重ね続けていたら、非常招集なんて行われていなかった。だけど、負けが連続したせいで、軍人が守るべき国民を戦争に参加させる事態に発展したのだから、これは志願兵からすればかなりの皮肉だろう。
私は、戦争に無関係な一般人を、それも未来のある子供をティーガーに押し詰めている事実に罪悪感を覚えている。だから私は、自分が生きている限りは三人の面倒を最後まで見続けると決めている。そんな些細な行動で罪が清算されるとは到底思えないが、何もしないよりかは気が済むのだ。
……と、今は自分の罪に向き合う時ではないと思い、余計な考えが詰まった頭を振り払った。
「点呼を始めるぞ」
その一声に、三人の子供達が横に一列に並ぶ。
左から呼ぶか。
「ミハエル」
初めに呼ぶのは、砲手のミハエル・ミューラーだ。彼は17歳で、数週間前にこの部隊に配属された新人だが、腕前は新兵にしては上出来だ。当然、熟練の戦車兵と比べると見劣りしてしまうが、彼ほどの射撃技術を持つ新兵を私は見た事がない。
「はい!」
ミハエルの元気な、良い意味で子供らしい声を聞くと、次の名前を呼んだ。
「オットー」
「はい!」
これまた元気に返事をする少年の名前は、オットー・クニスペル。彼もミハエルと同時期に配属された新兵で、力が部隊内で最も強いので装填手を任せている。リンゴを片手で潰せるぐらいの力を持っている彼は、その自慢の怪力で排莢と装填の作業が捗るのだ。
「ヨハネス」
「え、あ、はい」
二人とは対照的に、どこか情けない声で返事をするのは、私が率いる部隊に数日前に配属されたヨハネス・ベーケだ。ヨハネスは兵士としての経験が一番浅く、人が死んだり殺したりする光景に恐れを抱いている。私はそんな彼の精神を考慮し、他部隊や本部との情報交換を図る無線手を任せているが、状況によっては無線手は車載されている機関銃で敵兵を制圧する場合があるので、ヨハネスにもその内人を殺す機会が訪れるかもしれない。
全員の点呼を終えると、これからの事を話した。
「分かっていると思うが、ドイツはあと少しで降伏する」
私が放つ言葉に、三人は悔しさを噛みしめながら静かに頷いた。
「お前達の気持ちはよく分かる。私も虚しいからな」
さらに頷く三人。
「ただ、これは頭に入れておくんだ。どんな時も、ドイツの力と正義を信じろ」
その言葉に、ミハエルとオットーは納得してくれたのか小さい声で、
「分かりました」
「ええ、そうします」
そのような返事をした。
ところが、エルンストとヨハネスの反応は違った。
「そんなの信じられない。どうせ、ここで皆殺しにされますよ」
「そうだなぁ、俺はまだ死にたくはねえが、このままだとヨハネスの言おう通りになりそうだぞ」
「お前ら……」
力と正義は私の信念を構成している要素であり、それを二人に否定されたが、反論する余地はなかった。何故なら、二人の言っている事は正しいからだ。私の信念が間違っているとも言えないが、実際、今のドイツには希望も栄光もない。待ち受けているのは、崩壊だけだ。悲しいが、それは紛れもない真実だ。
「ペーターはこんな時だってのにやる気があるんだな」
「やる気ではない。自分の信念が無事だからだ」
「へいへい、そうかそうか――――!?」
呆れながら言葉を続けようとするエルンストを邪魔するかのように、砲撃音が市街地の方から鳴り響いた。
この砲撃は音からして、ソ連が保有するTー34だろう。何度もTー34と遭い、交戦した事があるため、その戦車の特徴を完全に把握しているのだ。
砲撃は鳴り止まず、音はどんどん増えていく。
基地内が困惑に陥っていると、柱に設置されている粗悪な造りのサイレンから誰かしらの声が聞こえて来た。
「議事堂付近にソ連の歩兵部隊及び戦車部隊が接近中! 近くの部隊は、直ちに現場へ――だあっ!? もう敵が――」
慌てながらもマイクに声を吹きかけていた人物は敵兵に見つかったそうで、緊急放送はそこで途切れてしまった。
議事堂ことライヒスタークには少数の歩兵と数両の装甲車両しか配備されていなかった筈だ。ライヒスタークは軍事的にも政治的にも重要な施設なので、ソ連軍に占領されてしまうとベルリンに展開しているドイツ兵達は今よりも厳しい戦いを強いられるだろう。
事態の重大さをすぐに理解した私は、仲間に命令を下した。
「乗れ! 何としてもライヒスタークは死守するぞ!」
だが、ミハエルとオットー、ヨハネスは無反応だった。いきなり発生した戦闘に脳の処理が追い付いていないのだろう。
「おい、早く乗るぞ!」
最初に動いたのはエルンストで、戦いにそこまで慣れていない三人に指示をした。
エルンストは誰よりも早くティーガーに走って行き、三人もその背中を追いかけた。
自分以外の仲間がティーガーに乗り込もうとしている様子を見て、車長たる私も小走りでティーガーへ向かった。
キューポラに立つ寸前、私は無意識に独り言を漏らした。
「ドイツの力と正義を信じている――――」
私が呟いた言葉は、慌ただしい基地の騒音にかき消された。耳にした者は誰も居ないだろう。