憐れな犬とカゴの鳥(三十と一夜の短篇第56回)
ハレンチで倫理不在です。ご注意ください。
高級そうなマンションの一室。ここは広くて暖かい。家具はどれも上等で、ほのかにいい匂いがする。俺には縁もゆかりもない場所だ。
目の前の女性がくすりと笑った。
「汚い格好。おいでなさい、お風呂に入れてあげるわ」
そう言って女の人は俺の服をすべて脱がせ、きれいなバスルームへと連れて行った。少し熱めのシャワーを頭から浴びせながら、ゆっくりと汚れを落としていく。細い指先が肌を撫で、湯がすべり落ちた。風呂はホームレスの暮らしをするようになって滅多に入らなくなった。今の俺はだいぶ汚いはずだ。でも彼女は楽しそうだった。一度目のシャンプーはぜんぜん泡が立たず、ただ汚れたお湯が流れるばかり。彼女は自分が濡れるのも構わずに俺を隅々まで洗う。俺はされるがままだった。
両親が自殺した。彼らの残した借金で追い詰められて、大学を放棄しホームレスのような暮らしをしていた三ヶ月。野ざらしの生活は俺からいろんなものを削ぎ落としていった。やる気とか根気、あらゆる気力が底をついている。ふと見れば、濡れて肌に張りついたシャツが、女の人の下着を浮かび上がらせている。でも性的な興奮も欲求も感じなかった。
風呂から出れば、身体を拭くようにタオルを渡される。清潔で柔らかいタオルだ。俺が着ていた服は無くなっていた。汚かったし、たぶん捨てられたんだと思う。とりあえずで着せられたのは白いバスローブで、下が裸だから落ち着かない。
「ごはん食べる?」
女の人が機嫌良さそうに言う。俺は無言で頷いた。お腹はすいている。でもしゃべるのはひどく億劫だった。言われるがまま部屋の隅にあるラグの上に座って待っていると、差し出されたのはペット用のトレーに入れられた固形フードだった。犬用、それとも猫用か。茶色い小さな粒がステンレスの餌入れにこんもりと入れてある。女の人はかがみこんでニコニコと俺を見つめていた。嬉しいでしょ? と言わんばかりだ。俺は少し考えたあと、手を伸ばしてその茶色い粒を口に入れた。噛み砕くとぽりっと軽い音がした。
「おいしい?」
その眼差しは期待に満ちていた。この人はいったい何なんだろう。どうして俺にこんなことをするんだろう。
「……おいしくは、ない」
感想を求められたので正直に答えた。久しぶりにだした声はずいぶん掠れていた。
「あら。犬はしゃべらないのよ。やり直して」
俺は犬で、しゃべってはいけないらしい。おいしいかと再び問われたので、俺は首を横に振った。
◇
女の人の名前は沙世というらしい。長く艶やかな髪を背に垂らした美人だ。年はわからない。いつもおしゃれな格好をしていて、年は俺よりも少し上だと思う。
見た目はきれいだけど、変な人だ。
彼女は見ず知らずの俺を……ホームレスみたいな汚い俺を、拾ったのだ。まるで捨て犬を持ち帰るかのように。
「前に飼ってた犬がね、いなくなっちゃったの。かわいい子だったのに」
あれから新しく服を与えられたので全裸暮らしはまぬがれた。もともと着ていたようなグレーのパーカー、それに黒のジーンズだ。そして彼女は俺に黒くて細い首輪をつけた。
彼女は気まぐれに世話をやく。ボールを投げてきたり、頭をわしわし撫でたり、そうかと思えば前触れもなく二、三日家を開けることもある。時たまドッグフードを持ってきて「食べる?」と機嫌良さそうに言うので、その時はひと粒ふた粒食べた。おいしいかと聞かれては毎回首を横に振る。
掃除や食事の準備はお手伝いさんがしているので、食いっぱぐれることはなかった。俺のことをどう説明しているのかはわからないが、食事はちゃんと人間用だ。でも沙世さんと同じテーブルで食べることはない。俺はあくまで犬だから。
沙世さんは普段、部屋でゆったり過ごしている。仕事をしているようには見えない。金持ちなんだろうなぁと思っていたが、本当に金を持っているのは沙世さんの恋人のようだった。名前はたぶん結城。バリバリ仕事をしそうで、どこかの社長だと言われてもすんなり納得できる雰囲気だ。沙世さんが持っているものは全てこの結城さんが与えているようだった。金も仕事もあって、俺の持ってないものを全部持ってる。……そうか、俺は持っていないから犬なのか。
沙世さんは、俺のことを新しい犬だと紹介した。ニコニコと話す彼女に、結城さんは「仕方がないやつだ」と困ったように笑った。そして愛おしそうに彼女を見つめてはキスを落とす。つい見入っていたけど、視線もやらずに手で払われたので俺は静かにリビングを出た。どこに行こうかと考えて、浴室へ向かう。はじめてここへ来た時に沙世さんに連れられた場所だ。このマンションは豪勢だから、トイレは三つあって浴室も二つある。普段沙世さんが使っているのはもうひとつの広い方だから、きっとここにはこない。俺は空っぽのバスタブの中で膝を抱えて、しずかに目を閉じた。
「ここにいたのね。結城さんは帰ったから、こっちにいらっしゃい」
沙世さんが俺を見つけたのは次の日の朝だった。
俺の頭を撫でると、腕をひき、リビングへ連れて行く。抱きついたりくっついたり、いつも以上にかまって俺の機嫌をとっているようにも思えた。……あるいはそうやって自分の気持ちを落ち着かせているのか。
「食べる?」と申し訳なさそうに与えられたドッグフードは、やっぱりおいしくはなかった。
俺は、俺に優しくしてくれる人がほしかった。ずっと能天気に生きてきて、いざ苦境に立たされるとすぐに逃げ出した俺。周りに合わせる顔がなくてアパートを飛び出し、さまよった。周りをうらやんだし、自分を恥じた。どうしようもない人間だ。でも、だから、沙世さんの手を払えない。
◇
結城さんは沙世さんの部屋を訪れると、彼女をたいそう可愛がる。俺は家具と同じと思われているのか、まったく眼中にない。お土産をたくさん買ってきて、甘ったるい言葉をささやいて、そして彼女の肌に触れる。胸に、腰に、脚に手を滑らせ、衣服を一枚ずつ床に落としていく。最終的には寝室へもつれ込むものの、その間ずっと沙世さんは彼の腕の中で鳴いていた。俺は場を去るタイミングを逃して、広い部屋の隅でずっと座っていることもあった。
沙世さんのマンションに訪れるのはお手伝いさんと結城さん。そして葛西という男だった。身体が大きくて、沙世さんなら軽々と抱き上げることができるだろう。
葛西はボディガードのようなこともするし、予定を伝えたり、身の回りの世話もしている。沙世さんが外へ出かけるときはだいたい一緒に行っていた。お目付役なのかもしれない。でも——
「……ちょっと待って、あの子が」
「犬のことなんてほっとけよ」
葛西が沙世さんの腰を抱きよせた。そして首筋に顔を埋める。
「しょうのない人」
二人はお互いの唇を重ねた。俺の存在なんて空気なんだろう。俺はこっそりバスルームに移動してため息をもらす。バスタブに腰をおろし、膝を抱えた。頭も伏せて、できる限り視界をシャットアウトする。耳もふさごう。それでも、彼女の甘く切ない声がかすかに届く。……翌朝、沙世さんが迎えに来てくれるまでずっとそうしていた。葛西はもういなかった。
「葛西はね、私を抱くことで優越感に浸っているの。あの人を出し抜いた気になるんでしょうね」
いつの日か沙世さんがそう話していた。大きなソファに二人してブランケットにくるまっていた時だった。
「ふふ、バレたらどうなるんだろ。葛西も結城さんも、二人ともいい気味」
沙世さんを後ろから包み込みように座っている。彼女の体温は心地よかった。とても不穏なことを言っているけれど、俺はひとことも発することなくただただ彼女の言葉を聞き流す。俺は犬だから。
「おまえとは寝ない。だっておまえは犬だもの」
そう言われたのはいつだったか。あの日、沙世さんはリビングの床で倒れていた。結城さんが来た次の日のことだった。頬がはれ、唇は切れて血が滲み、四肢は投げ出されぐったりとしていた。下着のような恰好で、情事のあとなのか体のあちこちがベタついる。俺は犬の領分も忘れて手当をした。なにか薬を飲まれたのか、沙世さんの意識は朦朧としており、俺を俺と認識できなかった。「こわい」と言い続ける彼女がすがるように抱き着いてきたので、俺はそれを受け止めた。落ち着いたのを見計らって風呂にいれ、ゆったりとした服を着せてベッドに寝かせる。腕をはなす瞬間、彼女の体温が捨てがたかった。もう少し触れていたい気がしたんだ。そのとき俺がどういう表情をしていたのかわからない。でも沙世さんと視線がからんだ瞬間、彼女は言ったんだ。
「おまえとは寝ない。だっておまえは犬だもの」
俺に言っているようで、自分自身にも言い聞かせているようだった。
小さく頷いて、俺は彼女の部屋をでた。
◇
最近は二人くっついてソファに座ることが多くなった。俺が窓辺でぼーっとしていると沙世さんがこっちへこいと呼ぶのだ。言われるがままに膝をかしたり腕をかしたり。今日は背中あわせに座っている。沙世さんは本を読んでいるみたいだった。穏やかな時間だ。
でも長くは続かなかった。突然玄関の扉があき、誰かが足音を響かせこちらへやってくる。
「なに犬っころと戯れてんだよ」
「葛西……」
少しイラだった様子の葛西だった。ここに来るのは久しぶりだろうか。
「来いよ」
「やめて、いま疲れてるの」
葛西は乱暴に沙世さんの腕をつかむと、無理やり寝室へ連れて行こうとする。俺はたまらなくなって立ち上がり、沙世さんを背中に隠した。
「んだよ、番犬気取りか?」
こちとら犬だからな。沙世さんが嫌がっているならやめてほしい。そう思って相手を睨みあげる。葛西の顔が不快そうに歪んだ。そして腕を振り上げ、次の瞬間に俺は床に倒れていた。頬がズキズキと痛む。殴られたのか。そう思っていたら次は強く蹴られた。思わずうめき声がもれる。
「やめて、その子に手を出さないで!」
「うるせえ。だまってろ」
情けななく床に倒れている俺を、葛西は容赦なく蹴り上げる。沙世さんが必死に叫んでも、葛西の暴力は止まらない。痛い。苦しい。吐きそうだ。しかしそれは急にやんだ。ぴたりと葛西の動きが止まったので、どうしたのかと見上げると、奴は沙世さんの唇を貪っていた。沙世さんはぎゅっと目をつぶっている。葛西の大きな手は彼女の体をまさぐると乱暴に服をはぎとっていった。葛西の興奮した息づかいと沙世さんの小さなうめき声がリビングに響いている。
「犬にみせつけてやろうぜ」
俺は動けなかった。脳と体の神経がつながっていないんじゃないと思うくらい、指先ひとつも動かせない。そして沙世さんは、俺の目の前で乱暴に抱かれた。愛情のかけらもないそれは、もはや凌辱だ。やめろ、やめてくれ。そう叫びたいのに声がでない。彼女はずっと泣いていた。俺は痛みと悔しさで頭がどうにかなりそうだった。
事が終われば用は無しとばかりに、彼女はカーペットの上に打ち捨てられる。しばらく結城さんは来ない旨を言い捨て、葛西は出て行った。
しばらくの間二人とも動けなかった。まるで死体だ。でもどちらとも言わず、少しずつお互いに手を伸ばした。指先がふれ、絡ませ、ついには抱き寄せて、静かに泣いた。二人ともボロボロだった。差し出せるものなんてなにもない。それでも互いの空白を埋めるように抱き合って泣いた。
◇
沙世さんを連れてここから逃げよう。あれからそう思いついては首を横に振っている。逃げてどうする。逃げた先が幸せとは限らない。でもここにいたって、待っているのは破滅だ。
あれから葛西はこない。ぱったりと姿を見せなくなったが、きっと何かあったんだ。代わりに結城さんが頻繁に顔をだすようになった。以前は俺のことなんて空気のような扱いだったのに、時おり憎々しげに睨まれるようになったのは意外だ。それと同時に、沙世さんへの扱いがひどくなった。嫌いになったわけじゃないと思う。表面的には前よりも甘ったるくて優しいくらいだ。でも、その瞳にはどこかほの暗さがあって、蛇のような執念を孕んでいる。結城さんが帰ったあと、沙世さんの肌には様々な痕がついていた。それは噛みついた痕だったり、ベルトできつく締められた痕だったり。彼女の表情はだんだんと暗くなっていった。俺に出来るのはそばに寄り添うことくらいだ。沙世さんの内側はだんだん空っぽになっている気がする。
「……沙世さん、俺と逃げよう」
夜更、俺はベッドで休む沙世さんの部屋を訪れてそう言った。最初は眠たそうにしていたけれど、俺の言葉が飲み込めたのか、彼女はやわらかく笑った。
「だめじゃない。犬はしゃべっちゃいけないのよ」
「そんなこと言ってる場合じゃない。このままだと、沙世さんが死んでしまう」
「ここから出て行っても死ぬわ」
沙世さんはきっぱりとそう言った。悲観しているわけでもなく、自虐的でもない。当然のことだと言わんばかりに。
「飼われてる鳥はね、カゴから逃げ出してもすぐに死んじゃうのよ」
彼女の手が俺の頭を撫でる。そして頬をすべり、腕をたどり、手を握った。あたたかい。しんとした暗闇のなか、二人の息遣いだけが聞こえてくる。……どうして無理にでも連れ出せないんだろう。俺が守ると言い切れないんだろう。情けなさすぎて泣けてくる。
「ねえ、優しくておバカなわんちゃん。最後に私のわがままを聞いてくれるかしら」
沙世さんは握った手を自分の方に引き寄せる。最後ってなんだろう。なかばベッドに倒れ込もうとする俺の頬を、沙世さんの両手が捉えた。正面から見た彼女の瞳はすごく悲しそうで、俺は思わず見入ってしまう。
「おやすみのキスをして」
沙世さんは笑ってそう言った。
◇
次の日の夜、結城さんが来た。いつものように沙世さんにべったりとくっ付くのだけど、彼女は小さくそれを制する。「ねえ結城さん」といたずらっぽく笑い、視線もよこさず俺を指さす。
「この犬ってば生意気なの。もういらないから、もといた場所に捨ててきて」
突然のことに俺も結城さんも目を見開いた。
「でもね、その子お金に困ってるみたい。後でまとわりつかれても嫌だから、その辺ちょっと面倒見てあげて?」
沙世さんの言葉が信じられない。彼女はいったい何を言っているんだ。どういうつもりだ。結城さんは訝しげに俺を見た。なんの価値もない男に金を工面するのか。顔にはそう書いてある。あまり乗り気でない結城さんに、沙世さんはすがった。
「も、もうペットを飼いたいなんて言わないわ。あなたの言う通りにする。なんでも言うこと聞く。……だからお願い。この子にお金をあげて、それから捨てて」
しばしの沈黙ののち、結城さんは沙世さんの手をとり、見せつけるように口付けた。その顔には怖いくらいの笑みが張り付いている。
「わかったよ、僕のかわいい沙世。君のお願いだ。あと腐れのないようにこの犬は捨ててやろう。代わりに何を聞いてもらおうかな。……どこにも行けないように、足を切り落とすとかどうだろう」
本気で言ってるなら、こいつは頭がイカれてる。でも沙世さんはそれを受け入れた。あなたがそれでいいなら、と笑顔さえ見せる。
「沙世、さん」
ダメだよ。こんなことしちゃ。一緒に逃げようよ。
目が合うと彼女は顔を横に小さく振った。
「ほんとにだめな犬。しゃべらないで」
そう言った沙世さんは、透き通った涙をひとつ流して笑った。
あれからすぐスーツ姿の男たちに連れられ、俺はやすっぽいホテルへ連れてこられた。そして告げられる。家賃の滞納分や借金の返済など、俺の金銭トラブルは全て解決しておくと。さらに手切れ金と言って札束をぽんと渡された。あまりのことに理解が追いつかない。しかし男たちは構わずに帰っていく。残された俺はただただ呆然とするしかなかった。
家賃未払い、音信不通の状態で半年近くアパートを開けていた為、契約解除のうえ俺の家財いっさいはすでに処分されていた。今の俺はなにも持っていない。手元にあるのはあの時渡された現金のみだ。またホームレスの暮らしに戻ったが、借金の問題がないぶん、気持ちは楽だった。
今でも思う。あれは本当に現実だったんだろうかと。異常で歪で甘美な日々だった。たぶん、俺たちは互いに依存していた。苦しくて満たされたあの暮らしはもう戻ってこない。
俺は駅前で人の行き来をぼーっと眺めながら考える。そのうち彼女がひょいと現れるんじゃないかって。にこにこ笑いながら俺に手をひろげ、「おいで」って言うんじゃないかって。
でもそれはきっとない。
彼女はあのマンションで今も暮らしている。
羽をもがれた鳥のように、飼われているんだ。
「沙世さん」
俺の嘆きは雑踏へと消えていった。