わたくしは悪役令嬢
わたくしは悪役令嬢。
そう言ったのはわたくしの弟。
初めてその呼称を耳にしたのは今から8年前。
弟が生死の境をさ迷っているとき。
おねえさま、おねえさま、といつも着いてくる弟に、ある時少しだけイライラして、中庭を散策中にその手を払ってしまった。
まさかそれが弟を転ばせてしまうとも、寒い冬の日に溜め池に落としてしまうとも思わなかった。
茫然とするわたくしと、悲鳴を上げる侍女と。
庭師が駆けつけて自ら飛び込んで弟を引き上げるのを、沢山の家人が血相を変えてやって来て生気のない弟を運んで行くのを、わたくしへとかけられる言葉も、すべて遠くに感じてわたくしは震えた。
医師がやってきて数日が経ち、誰もが息を潜めていたとき、両親に呼ばれた。
弟がうわ言でわたくしを呼んでいる、と。
両親は泣きはらした目でわたくしの手を取った。
これがお別れになるかもしれない、と。
人払いがされた部屋へ入る。
小さな弟が横たわり、何事かを呟いていた。
『おねえちゃん』
そう聴こえて、ベッドへと駆け寄る。
「いかないで、いかないで、おねえちゃん」
おねえ「ちゃん」だなんて。
そんな庶民的な呼ばれ方は初めてだけれど。
わたくしは熱のこもった弟の手を取った。
「わたくしはここにいます」
目を開いた弟は驚いたようにわたくしを見た。
「…あくやく、れいじょう?」
何を言われるのかと思えば。
確かに、弟にとってわたくしは悪役そのものでしょう。
「…おねえちゃん…おねえさま?あくやく…」
何度も同じことを呟いて、弟は目を閉じた。
それがお別れにはならなかった。
次の日に奇跡的に熱が下がり、回復の兆しを見せたから。
わたくしは部屋でひとりで泣いた。
弟はさらにわたくしにべったりになった。
そしてわたくしが「悪役令嬢」だと述べ、「ぜったいに悲しい目に遭わせない」と少し大人びた口調で言った。
まあ、悪役ですって。
よくってよ、乗ってあげるわ。
悪役らしく振舞うわね。
「あなたは今日からわたくしの奴隷よ。
だから何でも言うことを聞きなさい。
わたくしのことは『お姉ちゃん』と呼ぶこと。
命令ですわ」
少し目を張って、それから弟は微笑んだ。
「『お姉ちゃん』、約束して?ぜったい幸せになろうね」
どうしてか、泣いているように見えたわ。
「もちろんよ、わたくしは悪役令嬢ですもの。
奴隷のあなたがわたくしに幸せを作るのよ」
精一杯悪役っぽく言ったつもりだけれど。
弟は、笑った。
「うん、そうだね」
とても幸せそうに、笑った。