僧正②
「門口で転がっておられるあなた様をお見かけしたのでな。懐かしゅうてお声をかけさせて貰いましたのじゃ。」
倫鉄はそれを聞いて訝る。
旅から旅へ明け暮れる日々。関わる殆どが町人、百姓、山の民といった*例他人である。僧侶と交わるなど、僧籍を置く高野山に年に一度や二度立ち寄る時くらいなもので、位階の高い僧と会話する機会はさらに限られる。倫鉄のそのわずかな記憶の中にもこの高僧はいないのだ。
すると、倫鉄の疑念が伝わったか、高僧が手をひらりとさせて苦笑した。
「いやいや。そのような旨意で申したのではない。儂も学呂から寺付きの承仕に転じるまでのわずかの間、あなた様のように旅をしたのじゃ。寺の軒先を借り、百姓に水を分けてもらい、狩人と共に火に当たり、とな。」
なるほどそういう意であったかと、納得した。
周りで遠巻きにしていた弟子たちは初耳だったのであろう、目を丸くして師僧を見つめている。
「申し遅れましたな。儂は、ここから西の方にあります石手寺という社寺で勤めております、良顕と申しますが、あなた様は?」
「私は、高野の山の学呂に籍を置きます、倫鉄と申します。」
周りの弟子たちの間から、「ほぉ。」という声が上がった。
遠くからは、「山伏ではなかったのか。」という声も聞こえる。
「チッ。」
倫鉄は思わず舌打ちをしてしまった。
周りが「はっ!」と息を呑んだ。
はっとしたのは倫鉄も同じ、
しかし、倫鉄はその誇り高さから、良顕の顔色を伺うことはできない。
ぎりりとした気配の、高まり切ったと思われるその時、
「わっはっはっは。」
目の前の、身の丈四尺八寸が弾けるように笑い出したのである。
倫鉄はこれまで、僧という僧が声を立てて笑うのを見たことが無かった。
むしろ、笑いさえもないその窮屈さ故、*僧伽を敬遠してきたというのに、
その権化のような良顕が、*例他人のように笑ったのである。これにはさすがの倫鉄も声の出し方を忘れてしまうほどであった。
「これは失礼。余りに御心に真っ直ぐなお方なのでな。清々しゅうて、思わず笑うてしまいました。ご容赦下され。」
そう言って笑い涙を人差し指の背でそっと拭う。
倫鉄は、*放念の意を表すためただ頭を振った。
「*かてて加えて、」
良顕はすっくとすっぽんのように首を伸ばして弟子たちを一瞥し、それから倫鉄に目を据える。
「我が弟子が要らぬ勘繰りを致しましたこと、こちらもお詫びせねばなりません。
どうか平に平に平にこの通り、」
そう言って畳に手を突き、額を擦り付けんばかりに頭を下げたのだ。
その姿に慌てたのは弟子達である。
「ああ、*権之様。誠に申し訳ございません。」「権之様」「ああ、なんと、」
その場に十余名の剃髪がそぞろ、畳に頭を擦り付け始めたのであるから、
日頃、物事に動じることのない倫鉄も泡を食ってしまう。
「いや、どうか御手を。礼、失するは拙僧も同様。どうか御手をお上げください。」
その声に、漸く良顕がゆるりと首を上げる。
倫鉄は思わず「ほぅ。」と嘆息し、滅多に見せない笑みなど浮かべてしまった。
※僧伽…仏教の修行集団。僧の集団。
※例他人…普通の人々、市井の人々。
※放念…忘れた。気に留めない。
※かてて加えて…そして、
*権之様…私、新井 燃え香が考えました。良顕の別称です。




