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みおぎ   作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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洪(おおみず)②

娘の住む村は、万年、水不足に悩まされていた。


この夏のように晴天が続くと、流域の村々との水の奪い合いが勃発する。その激しさは、時折ケガ人が出るほどだ。


隣に住むケイのおっとうは、ある日の早朝、川の取水口を見回りに行って、細工をしようとしていた下流の村の若い衆を見咎みとがめ、返り討ちに遭ったことがある。その時のケガが原因で、今も足の調子が思わしくない。


その一方で、一旦まとまった雨が二、三日でも降り続こうものなら、勾配こうばいゆるい川は大量の雨を運び出すことができず、容易に氾濫はんらんしてしまう。


時に家や命までも奪うこの川におそれを抱きながらも、水が引けば、またこの氾濫原はんらんげんに戻る。そんな暮らしを祖父やその前の先祖たちは繰り返してきたのだ。


思えば、天候は順調ではなかった。例年、膝の高さまで降り積もる雪が、先の冬は積もってもくるぶしの高さにとどまり、いつも春を待ってやって来る日用品の行商人が、難なく峠を越えられたと言っていたという。


雪解け水は望むべくもなく、その後の春先の長雨に期待がかかったが、先刻まで思うほどの雨量は得られなかった。


田植え前は大量の水が必要だ。


名主は、雨の見通しと、雨乞いの要否を伺うため、拝み屋の門をくぐった。



拝み屋は、村人に放生ほうじょうさまと呼ばれていた。


本当の名前は、名主の矢治やいじにも分からない。


鎮守ちんじゅの祭りの準備の寄り合いで、放生さまについて矢治の叔父に聞いたところ、還暦に手が届こうとする叔父が物心ついた頃には、放生さまはすでにこの村にいたということだった。


「初め、誰しもが*抜け忍か*走り者かと疑うとったみたいやな。目が鋭かったし、そんな噂が立っても気にするそぶりもなかったようやし、

嫁もおらんけん、自分の食いぶちだけ畑を耕して、細々暮らしとられた。


わしが*こんまい頃、大日照おおひでりがあったんじゃが、


ある日、放生さまはあぜを大声を上げながら走ってきた。普段が普段やけん皆、戸惑うた。やけど本当に戸惑ったのは、そん話の中身よ。」


すでに話に引き込まれていた矢治に「待て」と言うように、シワシワの手を広げ、目の前の湯のみを手に取った。

喉を潤して、軽く咳払いするとまた話始める。


「半月後に雨が降る。恵みどころか、何人も死人が出るような大雨が何日も降り続く。とな、」


聞き返す代わりに矢治やいじは目を剥いた。


「分からんか?せやな。わしも初めは分からんやった。おそらく親父も村の衆も同じやったろな。」


幾月いくつきも雨は一滴も降っておらず、流れから見放された魚が、川底に無残な姿をさらしている現状で、死人が出るほどの大雨に備えろという言葉を信じる方がおかしい。


「親父はそういうことに鼻の効く方やなかった。男は大概たいがいそうや。お袋はその反対。親父はそんなお袋に頭が上がらんやった。

親父は、烟草たばこくさを作る畑と乾燥さす小屋を山に持っとった。その小屋を親父は住めるように作り直した。そして、わしと産まれたばかりの*矢吉やきちを連れて家移やうつり、したんじゃ。」


山の湧き水さえも枯れるそんな時に、乳飲み子を抱えて家移りなど、どれだけ揶揄やゆされたのかは、想像にかたくない。


矢治は、叔父の言葉を待った。

なのに、叔父はタバコをくゆらすだけ。


「雨は降った?降らん?どっちじゃ!」


焦れた矢治は迫る。


叔父はトントンと火鉢の縁で灰を落とし、ニヤリと笑った。


「降った、降った。放生ほうじょうさまが言う通りに、」


名主の家に伝わる書きつけで、この事は既に読んでいた。

そこに書きつけてあったのはこのおおみずで村の三分の二が死んだこと、元の通りになるのに十五年を要したという記述にとどまっている。


命は助かっても、表土が流れた畑では稲は作れず、娘を女郎じょろうにせざるをえなかったり、息子を人買いに売り飛ばしたりした者もあったと聞く。


ーーまさか、あのおおみずにこんな背景があったとは、 ーー




「なんや、うたごうとるんか?」


叔父は、自らのごま塩の不精ヒゲを撫で、ギョロリとしたたいまなこを細め、矢治を見た。


「わしかてな、あんおぞましい有り様を、なんも知らんお前になんかに話しとうないわい!頭、おかしなったてて、言われんも嫌なけんな!けどな、今言うたことは、ホンマにあった事や。間違いない!」


語尾の最後、叔父の目が光る。


矢治は、大きく頷き息を吐いた。


そして、父親てておやより顔も性格も良く似ていると言われるこの叔父に、放生ほうじょう様に下った今回のお告げを全て話すことにした。




「で、その庚子かのえね生まれの娘は、見つかったんか?」


矢治やいじはうなずいた。


「誰か聞いてもええか?」


再び矢治はうなずく。


「二人おる。仙介せんすけの妹のおヨウ。そして、タキ・・・や、」


叔父は、わずかに目を見張った。


矢治も見返す。


「おヨウは、たしか・・・堤方つつみかた(河川工事をする役職)の真鍋まなべ様の側女そばめだとワシの耳にも聞こえているんじゃが・・・」


矢治は、できる限りの渋面を作った。


丁子ちょうじ沈香じんこう麝香じゃこう白檀が焚き染められたあの、非日常の空間。

持って回ったような、放生様のもの言い。


そんなものに惑わされはしない。普段の矢治なら思った事だろう。

しかし今の矢治は、それが嘘、まやかしであると、誰かに言って欲しかった。


叔父が口を開く。


「それで、いつ、やるつもりや?」


「村祭りの日に・・・

田楽でんがくが鳴ってる間に、樽かかごに乗せてそのまま運び出す・・・」


うめくようにして矢治が話すのを腕組みして聞いていたが、


「して、お前はそれでええんか?」


叔父がボソりと言う。


矢治は、キッ!と叔父を見据えた。


叔父貴おじきが、今の今、それをいつやる?聞いたんじゃろ?ほやから俺は答えちゃったんやろが。それだけじゃが!

ここで、なんで、俺がどう思うかて話になるんよ!」




ーー「お前は、ええんか?」やと?!

このに及んで、何を言うかと思えば、俺の思い何如いかんで、どうにかなるもんでもなかろうに、

そら、気はとがめるわ。人一人の命が要るんやからな!ーー


叔父の家を出て、村の中心に向かって歩きながらも、矢治の怒りは収まらない。

目尻に向かって上がる黒々とした眉毛が未だヒクついている。


年長者に比較的従順なたちの矢治にしては本当に珍しい事だった。


今回、村の長老に請われ、放生さまが下ろしたお告げは、叔父の話と似通っていた。

違うのは、人柱ひとばしらを立てるべしとされた点だ。


長老は年齢からいって、あのおおみずの経験者。お告げを聞いた時の青ざめた顔がそれを物語っていた。


その日の内に庚子かのえね生まれの女児が判明したのを見るにつけ、これはもう逃げ隠れなど叶わない決定事項だと分かる。




タキの父親と矢治やいじの母親は、従兄妹いとこ同士で、矢治は年の離れたタキを妹というよりまるで娘のように可愛がった。


タキは母親に似ているが、白い肌はさらに白く、野良仕事をしていても、ちっとも日に焼けない。髪の毛は日に透かすと麦わらのようにだし、目は栗の粒をめたよう。


三人並みより多少器量の良い程度のヨウに、役人さまの手が付いたことで、矢治は焦り、村の祭りや行商人の出入りなど、タキがよそ者の目に触れぬようにと、これまで細心の注意を払ってきた。


放生ほうじょうさまは言わなかったが、人柱にされる娘は、生娘きむすめでなければならないと聞く。


ーーそんなことのためにわしは・・・ーー


矢治は、ようやく吹きはじめた涼風にハッと我に返り、秋の降りそうな星々を見上げた。


ーー 生き物の命は人の手には負えない。

日照りも大雨も人の手には負えない。ならば、・・・ーー


矢治はきつく握った拳を振り解いた。


叔父に向かって声を荒立てみて、矢治やいじは冷静さ得たようだ。


それも叔父の手の内かも知れない。そう思うと失笑が漏れた。





*抜け忍…逃亡した忍者

*走り者…小作を脱するため、生まれた村を離れる百姓のこと

*こんまい頃…小さな頃

*矢吉…矢治の父親。

*堤方つつみかた…河川工事をする役職

*田楽でんがく…豊作に感謝し神仏に奉納する踊りやお囃子はやし

*庚子かのえね陰陽五行いんようごぎょうを元に干支えと(十二支)と十干の組み合わせを日々に当てはめた、六十干支ろくじゅうかんしの内の一つ。

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