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みおぎ   作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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洪(おおみず)①

たるの動きが止まった。


かなりの速さでここまで運ばれて来た。はらわたが揺れ動いて吐き気がする。


娘の膝と太ももはお行儀の形で縛られ、腕は背中で一つにくくられ、身動きが取れない。


それにもかかわらず、体が壁に叩きつけられていないのは

桶を担いで来たのが、かなりの健脚けんきゃく手練てだれだということを物語っている。


村祭りの田楽でんがくの笛や太鼓の音は、もう聞こえない。


柔らかいちりめんで目隠しをされた。それを幼友達のヨウのいたずらだと思い、一言も発しなかったことが悔やまれる。


それから間もなく、真新しい白木の香りがして、縛られた時と同じように、丁寧に運び入れられ、頭の上で二、三度、トントンと叩くような音がして、桶は動き出したのだ。


娘は歯噛みしていた。

叫んだりしなければ、お囃子の聞こえる方向で、自分のいる位置が分かったかもしれないのに。と、


「かっ雷や!」

唐突に、男の声がした。


ゴロゴロゴロゴロ、


だんだんと近づいてくるのが 分かる。


「行こや。なあ。もう行こや。なあ!」


「黙れや!」

もう一つ別の声がした。


先に喋った方はヨウの兄の仙介。もう一方はそのいとこの熊吉に似ている。


「仙介兄ちゃん。熊ちゃん。助けに来てくれたん?早よ出して!」


ドーン!


「わーっ!」


「ひーっ!」


雷が近くにおちたようだ。地面が揺らぎ、その後不気味な静寂が訪れた。


それっきり二人の声はしなくなった。



雨が降りはじめた。


「おかあ、じっちゃ、探しとるやろな。ケイは、姉ちゃん、姉ちゃんいうて泣きよるやろなあ~。」


またも涙が溢れてくるのはどうしようもない。


雨粒は続けざまに、杉材の蓋を割ってしまいそうな勢いで打ちつけている。


湿った空気のせいか、感覚が研ぎ澄まされたのか、さらに樽の香りが強くなってきた。


ーーあ、この香り、死んだばあさまが梅漬けを作る(たる)の香りに似とるなぁ。そう言えば、樽に入って遊んで、婆さまに叱られたっけ。おヨウちゃんが入ろや言うて、ウチは怒られるけん、嫌や言うたんやけど、おヨウちゃんと根比べなんかウチが負けるに決まっとるし、ーー


雨は周りの空気を冷やしていた。

さっきからしているゴウゴウという音が気にならないわけでもない。

しかし娘は幼い頃の記憶に優しく癒され、眠りの魔王の誘惑に引き込まれていった。




頭がぼんやりとしていたのは、一瞬。

すぐに自分の体が斜めになっていること、目の前が薄明るくなっていることに気が付いた。


はすの体勢を利用して、首をクイっとひねり光の方向を見た。蓋を留めていた何かが外れかけている。蓋がずれてそこから明かりが漏れているようだ。


夜が明けていた。


叫んだ。


つもりだった。なのに出てくるのは蜂の羽音ほどのかすれ声。


カラカラに乾いた唇をモゴモゴと動かし、舌を湿らせ、


もう一生声は出なくてもいいと喉を振るう。


「誰かー、誰かー。樽の中におりまーす。」


割に大きな声が出せた。


ドン。


思わず脱力し背中を預けてしまったその方向へ樽が動き始める。


グググー、ガツン、ガツン


かつてなく慌てる頭の中で、今唯一の世界である、この樽に起きていることを考える。

昨夜より大きくなったゴウゴウ唸る音。どこまでも落ちていくような感覚。樽の木材が軋み、底に何か硬いものが当たる衝撃。


その時、大きく樽が動いた。

そして、体が一瞬ふわりと浮き上がる。


ゴウゴウという音にチャプリチャプリという音が加わった。


「ウチ、川に落ちてしもたんや!」


そう思うが早いか、樽は川にめり込むようにに娘の背中側に一旦沈みかける。


「ひぃーぃぃぃ」


娘は悲鳴をあげた。


しかし、川が立てる轟音ごうおんは、その声をかき消し、娘はそのまま気を失ってしまった。


普段の流れなら、全く脅威とはならない段差も、今日ばかりは滝のよう。

樽は段差を落ちる時、大きく沈み込みはするものの、やがて浮き上がり、娘が背にする方を船首と決めて流され続ける。

樽は何度も岩に接触していて傷だらけ。それでいてビクともしない。

これも、梅漬けの名産地である娘の村の緻密な職人技のお陰だが、押し込められた娘には、そうは思えないに違いない。





流され始めて、*四半刻しはんときは経った頃、

娘が目を開けた。


と、樽をかつぐために取り付けられていた、*七尺ほどの天秤棒てんびんぼうがスルリと抜け落ちた。

近くにあった岩に当たり、カラン、カランと軽い音を立てる。


ぼーッと空をさまよっていた娘の目が、その音ではっきりと開いた。


頭の上を見上げる。


蓋は完全に無くなっていた。


下手に動くと、樽は転覆してしまうかもしれない。もうすっかり感覚のなくなった膝に力を入れて、体が転がらないように必死に耐える。


時々首を伸ばしては、この川がどこの川なのかを探ろうと目線を上に上げると、鉛色の雲ばかりが広がっていて、


やがて、蓋をなくした樽の中には、容赦なく雨が吹き込んできた。


唇に当たった雨粒は、喉の渇きを思い出させる。そう言えば、昨日の夕食ゆうげ白湯さゆを飲んだっきりだ。


娘は空に向かって大きく口を開けた。


いかに大雨でも、口に入る雨粒は大したことにはならない。


一向に収まらない渇きに焦れ、疲れた首を休めようと、樽の中に目を落とした。


足元にわずか水溜まりが出来ている。


とっさに娘はその水を口にしようとうつむいてしまった。


その刹那、樽は勢いよく回転を始める。


娘が動いたため、川底の石の具合で流れに大きな落差が生まれている箇所かしょに落ち込んでしまったようだ。


樽は大きく揺れ、先ほどまで空しか見えていなかったものが、時折、河川敷の雑草の緑まで見えるほどにかしぐ。


「だれか!だれか〜〜」



何か目に付くものを振り回したいと思った娘だったが、わずか四尺五寸よんしゃくごすんほどの身の丈である。手を伸ばしたところでした姿勢では、指先ですら表から認める事は出来ないであろう。


娘は、意を決した。


両の膝を縛っていた腰紐こしひもは、とうに外れていた。


こぶしをつぶてに握り、かじかんで動かないももに打ち付けて、心までふるい立たせる。


それから、指をふちにかけ、慎重に立ち上がった。


ーとにかくおらんで、叫んで、叫ぶ!ー



ーーもう、何もかんもかまん。せやけど、何もせんと死ぬるんは嫌や。

そいはお天道様おてんとうさまに顔向けでけん。ーー


聴衆ちょうしゅうの居ない芝居。お天道様と二人だけの興行こうぎょう。そんな錯覚におちいる。


半ば恍惚こうこつとしていた娘の顔を眩しいものが照らした。


思わず見上げると、あれほど厚かった雨雲に一箇所いっかしょ切れ込みができ、陽の光がさしている。


直接光を見て目の前が暗くなり、娘はまぶたをしばたいた。


はるか先に、黒いものが動いたような気がした。


今の娘には、それが陽光の残像か動物か見分けがつかない。


「オ、オーイ、スワレースワレー!」


声まで聞こえてきた。


ーーあ、お天道様のお声・・・ーー




*七尺ななしゃく…212センチほど

*四尺五寸よんしゃくごすん…136センチほど

*四半刻しはんとき…30分位


















































































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