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浅野宏典 ――ほしいもの

 ライバルはいつだって自分の片割れだった。

 算数のテストも、徒競走も、ごはんをおかわりする回数も、鉛筆を使いきる早さも、生活の中の思いつく限り全部で俺と和宏はいちいち張り合っていた。というのは正確な言い方ではなく、ただ和宏がなにがなんでも俺に勝ってやろうといきんで競ってくるので、俺もそれを真正面から受け止めるしかなかったのだった(だって、一応「兄貴」だし)。

 小学校中学年くらいまで、俺たちの勝率は五分五分、若干俺の方が上回っている程度だった。でも、高学年、中学校、と学年が上がっていくにつれ、俺が和宏に勝てる事柄はどんどん減っていった。唯一、俺が和宏に勝利を譲ったことのなかった学力面でも、中二の数学で三角形の合同でつまずいてからは他の教科もずるずるできなくなってしまって、気がついたら和宏に追い抜かされていた。

 今、俺が和宏に勝っている部分なんて、たぶん一つもない。

 別に、それでもいいのだ。俺が自発的に和宏と競り合おうとしたことなんて昔から一度もないし、兄貴だとしても双子だからか、弟に負けたところで劣等感もそれほどじゃない。今更あいつに勝ったところで特別うれしくもならないだろうし、第一そんな気力もないし、だから俺はこのままでいい。この先ずっと和宏に負け続ける人生だとしたって、構わない。

 香恵のことを除いては。





「カズに、キスされたの」


 スマホの向こうで香恵の口にした言葉の意味が、理解できなかった。


「どうしよう、どうすればいいの」


 どうしようって、とかろうじて答えた声は自分でも引くくらい微弱でか細くて、スマホを握る指先がずるっと滑った。スピーカーから漏れ聞こえてくる香恵の吐息は、電車の暖房みたいに熱くこもっている。

 年末年始は毎年、本家である俺の家に親戚中が集合する。俺と和宏と同学年で特に仲のいい香恵は、そういった訪問ラッシュより一足早く、冬休みに入ってすぐ、自分の両親さえ置いて一人でうちにやってくる。終業式の時期なんて都会も田舎も大体同じなんだろう、香恵も俺たちも、それは今日だった。だから本当なら明日、香恵はつるんとした顔でうちに来るはずだった。ボストンバッグ片手に笑って、「カズ! ノリ!」と俺たちに手を振るはずだった。

 なのにどうして俺は、こんな話を聞いてる?


「カズ、なにか言ってたかな」


 香恵は泣いていた。声の震えとか洟をすする音とか、そういうのとは関係なく、俺は香恵のことならわかる。わかってしまうのだ、わかりたくないことまで全て。香恵が和宏を見ていることにだって、和宏より先に俺は知ってしまった。


「ねえノリ、助けて」


 助けてって何を。なんで俺が助けなきゃいけないんだよ。そんな、和宏とのことで、どうして俺が何かしてやらなきゃいけないんだよ。俺のことでお前はそんなふうに、泣いたことなんかないくせに。

 俺は「ごめん、わからない」とだけ伝えて電話を切った。砂壁に凭れたままベッドにスマホを放り、立ち上がる。襖を開けて廊下に出たところで、ちょうど和宏も隣の部屋から出てきた。目が合っても、和宏は無視して俺の前を横切っていく、スマホを耳に当てながら。


「ねえ」


 呼び止めると、和宏は床板を鳴らして振り返った。それから「わりぃ、ちょいタンマ」と電話の向こうに告げる。


「ンだよ、今俺彼女とデンワチューなんですけど」


 にやにやしながら、和宏は言った。裸足の裏から冬の冷気が這い上がってくる。各部屋で稼働しているストーブやエアコンの温風が届かない廊下は、底冷えしていた。

 オレンジ色の照明によって陰影をつけられた和宏の顔に、単刀直入に俺は訊いた。


「香恵が、お前にキスされたとか言ってんだけど」


 和宏は一瞬だけ真顔になってから、ああ、と薄笑いを浮かべる。


「したけど、だからなんだよ」


 わりわり、ンでなんだっけ。そのまま、本当に平然と彼女との通話を再開した和宏は、スウェットのズボンをひきずって風呂場の方へと去っていった。その、俺と全く同じシルエットをした後ろ姿に、瞬間的に俺は思う。

 殺してやりたい。





 香恵が好きだ。

 きっかけも理由も思いつかないし、「どこが好きなのか」と問われても判然としない。俺は香恵が小二までおむつを卒業できなかったことも知ってるし、冷蔵庫の最下段のひきだしを足で閉めることも知ってるし、絶望的に片づけができないこともだらしなく爪を伸ばしっぱなしにしてしまう癖があることも知っている。俺には平気で体をさわってきたりジュースの回し飲みを強要したりするくせに、和宏におんなじことをされると途端に、あからさまに照れて顔を赤くする光景だって、うんざりするくらい目の当たりにしてきた。幻滅するタイミングなんていくらだってあったはずなのに、実際「こんなやつを好きでいるのはもうやめよう」と思ったことだって何度もあるのに、俺は結局、まだ香恵を好きでいる。仕方がないのだ、だって「宿題手伝って~」なんて都合よく媚びて利用されても、その後で「一緒に食べよ」と頰にアイスをくっつけられたりするだけで、俺は全部を許してしまう。かわいい、と思ってしまうんだから。

 俺の、香恵への感情はもうとっくに俺を構成する一部に組み込まれていて、細胞の一つ一つにしっかりと浸透していて、たぶんそれを欠いたら俺は俺じゃなくなる。崩れる。だから、俺の中から香恵をなくすなんて、不可能なのだ。

 香恵をほしいと思う、それはもう理屈じゃない。


「香恵、来いよ」


 和宏が耳打ちした、香恵は露骨に和宏から目をそらした。

 掘りごたつから抜けて、連れ立って居間を後にしていく。一瞬、和宏だけがこっちを振り返ったが何を言ってくるでもなかった。俺は天板に宿題を広げたまま、二人を見送った。

 日が明けて、香恵は確かに笑顔で手を振った、最寄の無人駅まで迎えに行った俺と和宏に向かって。ボストンバッグを提げて、白いダッフルコートにワンピースを合わせた香恵の笑顔は、でもいつもと違ってぎこちなかった。その原因であるところの和宏は、普段通りに香恵に歩み寄ってバッグを持ってやっていた。

 明らかに挙動不審な香恵と、自然すぎて不自然なくらいいつも通りの和宏。コントみたいな二人の横で、俺は淡々と宿題に取り組んでいた。「淡々と」を演じていないと俺まで香恵に引っ張り込まれそうだった。そんなの、和宏に対する敗北以外の何物でもない。

 二人の消えたこたつにしがみついたまま、俺は想像する。和宏の部屋に、おそるおそる香恵は足を踏み入れる。襖を閉めて畳を軋ませた和宏は、後ろから香恵を抱きすくめる。ワンピースの裾から手を侵入させる。香恵は体を固くする。ベッドに転がされて、昨日、俺に電話した時と同じ成分の涙を目に溜めながら、和宏の肩にすがりつく。

 シャーペンの芯が折れた。ワークの上にできた黒ずみを、指先でこする。

 バカな香恵。和宏には彼女がいるのに。和宏は香恵なんか好きじゃないのに。

 もちろん、自分の空想が現実にならないことくらい俺はわかっている。和宏はきっと、自分の一挙手一投足にいちいち動揺する香恵を眺めて楽しむだけで、香恵を本気でほしがったりは決してしない。香恵自身だって、自分が遊ばれているだけなことにくらい薄々気づいているだろうけど、和宏にされたらしい「キス」とやらが、香恵を盲目にさせている。香恵を本気でほしがってるのが誰なのか、だから香恵は知らないし興味もないだろう。バカな香恵。


 夕飯まで、和宏も香恵も階下に下りてこなかった。夕飯の最中と食後は、香恵はずっと母さんの話し相手をさせられていた(娘がいないからか、香恵が来るたび母さんは無駄にはしゃいで「彼氏できた?」とか言ってからんでいる)。そして、俺が食休みに音楽を聴いたり入浴したりしてるうちに、香恵の姿はどこにも見えなくなっていた。この、いかにも本家然とした古い日本家屋の中の、どこにも。

 もう九時を過ぎている。このへんにはコンビニもスーパーもないから、ちょっと散歩がてらに買い出し、なんてこともありえない。玄関を開けると刺すような季節風が水っぽいにおいと一緒に吹き込んで柱や床を豪快に揺らし、あわてて引き戸を閉めた。

 踵を返す。と、ウィンドブレーカーを小脇に抱えた和宏が式台に立っていた。ジーンズをはいているところからして、まだ風呂には入っていないらしい。俺になんのコメントも寄越さずスニーカーに足を突っ込んだ和宏に、俺は言った。


「香恵はどこ行ったの」


 靴紐を結ぶためにしゃがんだ和宏は、ゆっくりと俺を振り仰ぐ。


「お前知ってるんだろ。香恵はどこ行ったんだよ」


 和宏はしばらく無言で俺を見つめていた。それから立ち上がって「神社」と言う。


「は、」


 意味がわからなかった。どうして香恵がそんなところにいるのか。でも和宏はそういった説明を一切せずに、俺を手で追い払う。


「香恵待たせてるから。どけよ、そこ」


 どけるわけがない。俺がじっと睨んでいると、和宏は肩をすくめて、こちらを小馬鹿にするような表情を作った。


「あいつがお前じゃ無理だっつってんだから、しょうがねえじゃん」


 そうして、口元だけで笑う。


「続きしたいって言ったのだって、香恵の方だし」


 その、勝ち誇ったような和宏の顔と声音に、俺はなにもかも全部、一瞬で理解した。そうだ、香恵はとっくに気づいていたことだ。

 俺は和宏を突き飛ばした。ふいをつかれた和宏は体のバランスをうまく保てずに、式台にしりもちをつく。和宏がなにか罵倒の言葉を投げつけてくる前に、俺は言い放った。


「お前が好きなのは俺だ」


 和宏の胸倉をひっつかみ、首を締め上げる。はっ、とわざと鼻で笑い飛ばしてやった。


「俺のことが気になって仕方ないんだろ、お前」


 俺は和宏のウィンドブレーカーをひったくって玄関を飛び出した。後ろで和宏がなにかうるさく叫んだが、無視する。街灯のほとんどない田舎のあぜ道を、寝巻きのジャージのまま突っ走った。走りながらウィンドブレーカーを羽織る。ふくらんだ白い息が一瞬で後ろに流れて散っていく。頰を切る空気の冷たさ、耳の中でうなる風、やがて視界に映る、鬱蒼とした杉林。

 あの奥に香恵がいる。俺を待っている。真冬のオリオン座を見上げて、俺はいつのまにか、笑っていた。





「あたし、あんたが好き」


 高校の近所のコンビニで、俺におごらせたホットカルピスをこちらに差し出しながら、長谷川さんは言った。


「あ、返事とかいらないから。ダメ押ししなくていいから」


 寒風の吹きすさぶ駐車場の隅で、マフラーに顎をうずめてうつむいている長谷川さんは、全然知らない人のようだった。俺とそんなに変わらない身長のはずなのに、その日は妙に小さく、しおらしく見えた。俺は受け取ったホットカルピスを、ぐっと握りしめる。


「つうか告るつもりなんか全然なかったんだけど、でもなんか、むかついたししょうがないっつーか」


 長谷川さんが面を上げる。ピアスホールの開いた耳のふちが、赤く染まっていた。とにかくっ、と俺にドアップで迫ってくる。


「あたしが言いたいのは、ふてくされてんなってことっ」


 ベリーショートの髪が強風にぐしゃぐしゃに乱されているのに、長谷川さんは俺だけを見ていた。

 俺が香恵を好きなことを、長谷川さんは知っていた。時々、長谷川さんの方から「いとこの子とはどうなってんの?」と訊かれたりして、だから俺は流れで相談のようなものをしてしまったりもしていた。香恵は俺を好きじゃない、でも俺はどうしても香恵を好きだ、とか、そんな情けない愚痴を。


「振られることわかってるからなんにもしないとかさ、そんなん言い訳にもなってない。現にほら、あたしはちゃんと言ったし。って、まああんたにしたら迷惑なだけかもしんないんだけどさ」


 そんなことない、と否定する隙もなく、長谷川さんは言葉を続けた。


「でも、迷惑だとしたって言わなきゃ、伝わんない。そりゃ、言おうが言うまいが結果は変わんないかもしんないよ、あんたは振られるだけかもしんない。けどさ、」


 コンビニの前を、高校のシールを貼った自転車が何台も通り過ぎていく。長谷川さんのくれたホットカルピスが手の中でどんどん冷めていくのがわかって、でも俺は、長谷川さんの話にじっと耳を傾けていた。

 長谷川さんはほんのりと苦笑して、俺の目を覗き込む。


「言わなきゃ、あんたの気持ちなんて『ない』のと同じだよ」





 神楽殿の階段の途中に、香恵は膝を抱えて腰掛けていた。神社の周囲は墨汁をこぼしたみたいに真っ暗で、時節雲に隠される月明かりと、併設された集会所の玄関灯だけが明滅していた。

 砂利を踏み鳴らす音に気づいたらしい香恵が、はっとして顔を上げた。カズ、と俺を呼ぶ。静寂に沈んだ境内に、それはよく響いた。

 香恵の目の前に立つ。香恵は驚きをにじませた表情で、首をそらしていた。


「和宏じゃないよ」


 香恵は消えそうな声で、なんで、とつぶやく。俺はそれには答えない。


「和宏は来ないよ」


 言いながら、なんだか迷子のお迎えに来たみたいだ、と思う。そういえば小さい頃の香恵は土地勘もないくせにそこらへんを走り回っては迷子になって、そのたびに俺が毎度迎えに行ってやっていた。そんなことを思い出したらなんだか笑えて、そしたら香恵にいぶかしげな顔をされてしまった。


「どういうこと? ノリ」


 剣呑な声で訊かれる。だから俺は顔の筋肉を、元に戻した。


「和宏は香恵を好きじゃない」


 香恵の髪が風で持ち上がる。白いダッフルコートにワンピース、昼間とおんなじ格好の香恵は、でも今夜こんなことになるなんて、きっと予想もしていなかったろう。

 俺はその場に中腰になって、香恵と視線を合わせた。幼児に説得するみたいに、語りかける。


「香恵だって、わかってるだろ?」


 香恵は目尻を張りつめさせた。俺は香恵の肩に手をかけて、自分の胸に寄せる。


「香恵を好きなのは、俺だよ」


 俺の腕の中で、香恵はしばらく硬直していた。何も言わなかった。香恵の手も頰も首筋も凍傷寸前に冷えきっていて、俺はそんな香恵をあたためてやりたくてさらにきつくきつく、抱いた。こんなにも寒くて暗い場所に、一秒だろうが香恵を一人にしておける和宏なんか、香恵にふさわしくない。絶対に。

 やがて香恵は、俺をそっと引き離す。思いつめた、見たこともないような深刻で毅然とした瞳の色で、俺を見つめ返す。


「私は、カズが好き」


 ごめん、という謝罪の言葉は、かすれきっていた。香恵は立ち上がって、帰ろう、と提案し、歩き出す。

 やっぱりバカだ、香恵は。和宏なんかただやりたいだけだ。ただ、俺が香恵を好きだから、香恵を自分のものにしようとしているだけだ。俺に勝つための「手段」として、香恵を利用しているだけだ。俺は違う。俺は香恵だけを好きなのに、どうしてそれがわからない?


「お前じゃ無理なんだよ!」


 俺を追い越して境内を後にしようとしていた香恵が、振り向いた。俺はまくしたてる。


「和宏はお前なんか好きになんねえよ! あいつにはもう彼女がいて、それでもお前にキスするような、そういう適当な男なんだよ!」


 夜闇の中で、香恵のコートだけが発光するように浮き上がっている。俺は息を切らしながら、とにかく叫んでいた。


「ほんとに大事に思ってんなら、こんなところにお前を一人で待たせたりするわけねえだろ。あいつはお前がどうなろうがどうでもいいんだよ、気づけよっ」


 香恵は口を閉ざしたままだ。その態度が、必死になって香恵を繫ぎ止めようとしている俺を嘲笑ってるみたいに感じられて、俺はまた、苛立ちを煽られる。

 過ごした時間は変わらないはずだろう。俺と和宏と、お前にとって何が違う?


「お前はっ、和宏になんとも思われてない、」

「わかってるよ!」


 俺をさえぎって香恵が怒鳴った。涙声だった。


「そんなことわかってるよ! カズが私のこと好きじゃないとか、好きにならないとか、そんなこと私が一番わかってる!」


 洟をすすって、香恵はこぶしで目元をぬぐった。俺は香恵からの思わぬ反撃に気圧されていた。


「でも、しょうがないじゃん。好きなんだもん。どうしても好きなの。好きじゃない状態になんて、戻れないの」


 香恵の声が震える。俺が香恵を泣かせた、でもその涙は、俺のためのものじゃなかった。


「好きでもないのにキスされたりとか、ふざけて胸さわられたりとか、なにされたってカズをきらいになれないんだよ。自分のことバカだってわかってるけど、でも、どうしようもないんだよ」


 香恵がしゃくり上げる。俺はそこでやっと自覚した。俺が香恵にぶつけた言葉は全部、俺自身に返ってくるものだ。俺が俺にぶつけた言葉だ。


「……ノリのこと、好きになれない」


 ごめんね、でも、と嗚咽混じりにむりやりしゃべろうとする香恵を、俺はもう一度抱き寄せた。ごめん、とささやく。香恵は浅くうなずく。ノリ、ときちんと俺を呼んで、俺の肩口にすがりつく。

 香恵の背中を意識してやわらかく撫でながら、俺は「これから」を想像していた。俺たちは並んで家に帰る。俺と和宏と香恵、この冬休みの間くらいは気まずい状態が続くかもしれない。でもそこを乗り越えればもうきっといつも通りで、香恵は和宏を追いかけるだろうし、俺は香恵を見つめているだろうし、和宏は俺に無意味な対抗心を燃やし続けるんだろう。これまでと変わらない「これから」が、俺の頭の中にははっきりと描かれている。長谷川さんが俺に告白した、その前後でこれといった変化が訪れなかったみたいに、俺たち三人の間にも、変わったことなんてなんにも起こらない。

 そこまで考えて、俺は香恵を抱く腕に力をこめた。

 そんなの、俺たちの今この瞬間にはなんの意味もない、と言っているのと、おんなじじゃないか。


「香恵」


 ゆっくりと、香恵が顔を上げた。至近距離で目が合う。香恵はまつげも鼻の下もぐじゅぐじゅに濡らしていて、俺はそれに少し笑ってしまいながら、香恵の前髪を直した。


「そんなに和宏とセックスしたかったの?」


 香恵の全身が強張る。え、とやっぱり泣きそうな声を漏らした香恵の腰に、俺は自分の下肢を押しつけた。


「香恵から誘われたって、和宏が言ってた」


 固まったままの香恵の体にてのひらを這わせて、俺はコート越しに香恵の内腿にふれた。香恵が瞠目する。


「俺も、体はあいつとそんなに変わらないつもりだけど」


 ねえ、と、香恵の下着を探り当てる。


「俺でもいいだろ?」


 瞬間、突風が吹いて、香恵は俺を突き飛ばした。よろけた俺を愕然と見ながら、小刻みに体を震わせている。俺の体温がなくなって、寒いのかもしれない。


「なに、言ってんの?」


 ノリ、としぼり出すように紡ぐ。俺は微笑んで、香恵ににじり寄る。香恵の髪に手を伸ばす。


「俺は香恵としたいよ」


 その手は勢いよく叩き落とされた。首を何度も横に振って、やだ、と香恵は一歩後退する。


「ど、したの、ノリ。変だよ」


 変じゃない。これが本当の俺だ。俺の本音だ。ただ、それをお前が知らなかったってだけで。

 身をひるがえして逃げ出そうとした香恵を、俺は背後からつかまえた。暴れる香恵の、顎を下から摑み上げる。

 ノリ、なんて、俺なんかに無邪気に笑いかけるから。バカな香恵。


「和宏とキスすんの、気持ちよかったんでしょ」


 そのまま俺の方を向かせる。香恵は俺を見上げて、なぜだか「やめて」とあえかにつぶやく。


「俺も香恵としたら、気持ちいいのかな」


 杉林がざわめく。いつだったかここでかくれんぼをしたことが、唐突によみがえってきた。確か俺は鬼で、神楽殿の下に身をひそませていた和宏と香恵を、二人まとめて発見した。あの時香恵たちは二人っきりで、俺に隠れて、何をしていたんだろう。

 ……なんて、そんなこと。もう、どうでもいい。


「宏典、」


 俺が香恵の唇を覆う直前、香恵は俺の名を呼んだ。本当に何年ぶりかわからない、もしかしたら初めてかもしれないと錯覚するほど久々に聞いた、俺の、正しい名前を。

 ふれ合わせて、離れる。ついばみ、ねぶり、噛みつく。接着させ舌を引きずり出す。唾液の音、香恵は俺の胸を弱くはたく。やがて脱力して、俺を受け入れる。香恵の顎をつまんだ俺の指先に、なまぬるい水滴が染み込む。好きだ、と思う。和宏とはきっと一度しかなかったであろう行為を、俺は繰り返し何度も、奪う。


 ――言おうが言うまいが結果は変わんないかもしんないよ、


 そんなの願い下げだ。俺は香恵を手に入れる。何をしたってどんなことになったって、香恵が俺を軽蔑したって「死ねばいい」と願うほどに拒絶したって、俺はこれまでの延長線上にしかない「これから」なんか、いらねえんだよ。

 気に入らない「結果」なんか、いくらだってねじまげてやる。

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