小泉さやか ――陸上競技
ねえ、その子は誰?
私がそんなことを考えている間にも、和宏の姿はお祭りの人だかりに埋もれて、どんどん遠ざかっていった。点になって完全に見えなくなってしまうまで、和宏は、ずっと笑っていた。私といる時とは違う、開けっぴろげで無防備で爆発したような笑顔で、楽しそうに隣の女の子の肩に手を置いていた。
祭囃子と屋台のかけ声、子どもの泣き声と、無数の人たちの笑い声。喧騒の中、私は立ち止まる。後ろから歩いてきたカップルに不審そうな、いやそうな顔をされたけれど、私は彼らを避けもせず屋台街のまんなかに棒立ちになっていた。タコ焼きと煙のにおいが風に乗って漂ってきて、ああ和宏って粉物が好きって言ってたな、と思い出す。
――ごめん、用があるからムリ。
昨日、三時間近く迷った末に意を決して送ったお誘いメールには、そんな返信があった。送信からたったの十五秒後のことだった。用があるならしょうがない、お祭りなんて来年もあるし、そんなふうに言い聞かせながら「こっちこそごめん」なんて平気そうに再返信をして、でも本当は泣きそうだった。うざいと思ったかな、せっかくの休みにめんどくさいと思ったかな、私のことなんてついさっきまで忘れてたかもしれないのに、来年も私が和宏のそばにいられる保証なんてないのに。後ろ向きな感情は際限なく私の胸を侵食して、なのに和宏はそんなこと全然知らないで「自撮り送って」なんてバカなメールを寄越してきた。
「迷子になってんなよさやか!」
いつのまにか、眉をつりあげた凌が私のワンピースの裾を伸ばしていた。随分先に歩いていってしまったと思ったのに、戻ってきてくれたらしい。私を呼び捨てにする年の離れた生意気な弟を、はいはい、となだめすかしながら、私はもう一度振り返る。
もちろん、和宏の後ろ姿なんてどこにもなかった。
中体連の市大会、スタジアムのトラックを誰より気持ちよさそうに走る和宏に、私はほとんど一目惚れだった。
当時、私は陸上部のマネージャーを務めていて、二〇〇メートルの決勝を観客席から見守っていた。ピストルの音とともにクラウチングスタートを切った選手たち、その中に一人、あからさまに目を引く選手がいた。しゃんとしたフォーム、涼しげな横顔、彼のレーンにだけ追い風が吹いてるみたいな身軽さ。体重なんてないみたいで、実は彼の足は一ミリくらい宙に浮いて空を飛んでるんだ、と言われても私は素直に飲み込んだと思う。むしろそっちの方が納得できるってくらい、彼は断トツに綺麗だった。自分の学校の応援すら一瞬忘れて、私は彼に見入っていた。
彼は一着でゴールした。けれどもそれは、私が感じていたより圧倒的な勝負劇ではなく、大会新記録が出たわけでもなかったし、二着と大きな差をつけてゴールを決めたわけでもなかった。なんだか脱力してしまった私の首裏を、七月の太陽がじりじり焼いていた。
彼は一着という結果に大喜びするでもなく、かといってどうでもよさそうでもなく、顎の汗を手ですくいながら、ただにやにやしていた。電光掲示板に名前とタイムが表示される。「浅野和宏 桂芳中三年」。
県大会出場を果たした和宏は、そんなの当然だとでも言わんばかりに、やっぱりにやにやしていた。
高校に進学して、同じクラスに和宏を見つけた時には息が止まりそうだった。でもそんな私を、彼はあっさりと落胆させた。私はまた陸部のマネになったのに、和宏は陸上をやめていて、帰宅部の彼は放課後、毎日毎日遊び歩いているようだった。先輩もふくめて、いろんな女の子にさっそく告白されているという噂も聞いた。でも、そんな和宏と廊下ですれ違うたび、私の頭には律儀にあの時の風を切る横顔が浮上してこびりついて、私はどうしても彼を好きなんだと思った。
告白した。和宏は簡単に「いいよ」と受け入れた。その日のうちに私たちは手を繋いでカラオケボックスでキスをして、和宏はセーラー服の上から私の胸にさわった。五月、GWに突入する直前の出来事だった。
「さやかってさあ、うなじがエロいって言われね?」
夏休みが明けて最初の放課後デートで、頰杖をつきながら和宏が言った。私はバニラシェイクをすすっていたストローを、勢いあまって噛んでしまった。
「はあ?」
「いやだってさ、マジやっべえよ。俺体育ん時めっちゃむらむらしてるもん」
勃起三秒前って感じー、と隣のテーブルにちっちゃい子どもがいるにもかかわらず、和宏は大袈裟に身をくねくねさせた。私は心底引いて、バカじゃないの、と悪態つく。それにすら和宏は「もっと言って!」とふざけていた。
時々、なんでこんなやつとつきあってるんだろうと我に返る。エロいこととバカなことしか考えてないし、いちいち下品だし、真っ昼間のファストフード店で平然と「勃起」なんて口にするような男だ。サイテー以外の何物でもない。保育園児の頃憧れてた童話の王子様だったら絶対にしないようなことばっかり、まるで狙ってるみたいに和宏はする。
溜息を吐き出した私の左脚を、テーブルの下で和宏の両脚がふと絡め取って引き寄せた。私を上目遣いに覗き込んで、薄く笑う。
「あんま、他の男に見せんなよ」
それだけで私は喉をつまらせる。何も、なんにも言えなくなる。
そうして、どこまでも目立つ存在で抜群に運動ができて一学期の通知表のクラス順位が一位だった和宏を、空を飛ぶための羽根を持っている和宏を、やっぱりとてもとても素敵な男の子なんだ、と思う。
「あーん、して」
そう言って大きく口を開けた和宏に、私は自分のフライドポテトを一つつまんで餌づけした。和宏は咀嚼しながら、「これ塩ききすぎじゃね」と笑った。
私は訊けない。お祭りの時の女の子が誰だったのかってことも、「用」っていうのはあの女の子とのデートのことだったのかってことも、あの女の子のことが好きなのかってことも、私のことをどう思っているのかってことも、本当に訊きたいことのなにもかも全部、訊けない。
私のこと、好き?
なんて、そんなこと死んでも訊けるわけがない。
だから私は、きっと和宏を幻滅させるだろう質問たちを全部おなかに押し込んで隠して、なかったことにして、「もう一口」とねだる和宏に応えるのだ、笑顔を取り繕って。
部活の後、駆け込んだ私鉄で誠志郎と乗り合わせた。ドア口に凭れかかるようにして立っていた彼の脇のつかみ棒を握って、私も立つ。全身にぐっしょりとかいた汗が、冷房に当たって心地いい。電車がゆっくりと走行を始める。
「久しぶ、り?」
眼鏡の奥の目をしょぼしょぼさせながら、誠志郎が小首をかしげた。その、間の抜けた、カピバラみたいな雰囲気が中学時代の彼そのまんますぎて、私は笑ってしまう。「そうだね、久しぶりだね」とうなずいておいた。
「調子はどう?」
誠志郎の足元に投げ置かれていたエナメルバッグに目線を落として、私は言った。
「ぼちぼちですかね」
頭を掻きながら、やっぱり無気力に返答した誠志郎は全然見えないけど中学の頃は陸部の部長をやっていて、今も走り幅跳びの選手だ。うちの高校には幅跳びがないのに、大会なんかでついつい結果を気にしてしまうのは、私がそこに誠志郎の名前を探しているから。
「そっちは?」
水を向けられて、反射で体が強張った。でもすばやく、笑みを作ってみせる。
「別にこれと言って。まあマネージャーだしね」
「そうですか」
「そうそう」
中学に戻ったようなノリでへらへらと答えながら本当は、この「変わってない」誠志郎の前から、私は今すぐにでも逃げ出したくなっている。
ねえ、私は変わっちゃったよ。もう処女じゃなくなったんだよ。彼氏が浮気してるかもしれないのに、離れてしまうのが怖くて、なんにも言えないんだよ。
その時、電車が急停車して激しく揺れた。アナウンスとレールの音が車内に響く。体のバランスを大きく崩した私を、誠志郎がとっさに抱きとめてくれた。びびった、とつぶやいた誠志郎の、私の腕や肘に添えられた両手はかすかに震えていて、私の目頭には急速に熱がともる。
和宏は、こんなふうに私にふれたりしない。もっと適当に傲慢に自信満々に、私を動かして暴く。
「――さやか?」
うつむいたまま微動だにしなくなった私を不思議に思ったらしい誠志郎が、名前を呼ぶ。私はそれでとうとう、涙をあふれさせてしまう。
――さやかってさあ、うなじがエロいって言われね?
おんなじ「さやか」なのに、誠志郎の「さやか」の方がよっぽど丁寧で穏やかなのに、どうして私は和宏じゃないとダメなんだろう。どうして、和宏がいいんだろう。
わかんないのに、私は和宏がいい。どうしても、和宏がほしいの。和宏じゃなきゃいやなの。
「……ごめん」
か細い声の後、誠志郎の手がそっと離れた。後頭部に視線が弱く降るのを感じながら、電車が私たちの最寄駅に到着するまで、私はただ泣いていた。謝りたいのは私だった。
和宏の横顔が、部室の窓から注ぐ陽光を浴びている。九月も終わりに差しかかって、気温はまだまだ高いし猛暑日も続いているけれど、太陽の色には秋の気配が混じり始めていた。とはいえ、ほとんど密閉空間と化している昼休みの部室の中は、底抜けに暑い。
「やっべー、めっちゃ久々だわこの感じ」
ロッカーだのストップウォッチだの、部室のあらゆるものをそわそわと観察している和宏の足元はローファーだ。私は、床に転がっているジャージを部活用のスニーカーのつまさきで少し蹴って、動かしてみる。
「和宏さ、」
言葉を区切った私の顔を、和宏は見つめる。
「もう、走んないの?」
無意識のうちに呼吸が浅いものになってしまっていたことに気がついて、ゆっくりと、深呼吸した。背骨に沿って玉の汗が伝う。和宏はベンチにどっかと腰を下ろして、脚を組んだ。
「なんで?」
「だって、中学ん時県まで行ったんでしょ」
私が陸部のマネだと知った時、和宏はうれしそうにそんな自慢をした。知ってるよ、と思った私だったけど、悔しくてなんとなく言えなかった。和宏は私に、「どうして自分を好きになったのか」なんて質問を、一度だってしたことがない。
「和宏がいてくれたら、私も楽しいし」
笑顔をはりつけて、平静を装って、告白した。本当は心臓を吐き出しそうなほど緊張していて怖かった。
しばらく無言で私を見上げていた和宏は、はっ、と鼻を鳴らして私の腕を引いた。ベンチに膝をついた私の目と鼻の先に、和宏の顔が迫る。
「いくらさやかちゃんのお願いでも、それはヤダ」
ごめんね〜、と言って私の前髪を分ける和宏の手首を、私は摑んだ。
「でも、もったいないって」
走ってよ。まっすぐに前だけ睨んで突っ走る和宏を、もう一度見せてよ。
また、和宏が黙った。ごまかされたくなくて和宏の拘束から逃れようとしたのに、和宏はものすごい力で私をつかまえたままでいた。つららみたいに冷たくて鋭い真顔で射抜かれて、私は目をそらしてしまう。
和宏が私の髪を撫でた、次の瞬間にはそのままぐっと引っ張られた。
「走んのとか、めんどくせえじゃん」
ぱっと手を広げて、口角だけでせせら笑う。
「つーか、もう必要ねえし」
それよりさぁ、と私の腰を抱き寄せた和宏に、私は抵抗できない。鎖骨に唇を押し当てられても、スカートの中に手を入れられても、金縛りにあったみたいに振り払えない。
私が一番ほしい和宏を、和宏は与えてくれない。和宏にとって私にはその程度の価値もない。
下着の隙間から指が滑り込んでくる。私は和宏の肩にしがみついて呼気をこぼす。汗を吸って地肌を透けさせている和宏のシャツは、和宏の体温は、熱い。
「すげえいいよ、さやか」
私の耳元で、わざと低音でささやく楽しそうな和宏は、私が泣いていることになんてきっと気づかない。気づいたって、拭ったりなぐさめたりやさしく抱きしめたり、そんなことはしてくれない。
私が好きになった「浅野和宏」と目の前の和宏はもう別人で、どんなに試行錯誤を施して角度を変えたってたぶん、重ならない。
和宏の胸に顔を押しつける。和宏は私をまさぐってえぐってひっかいて、私で遊んでいる。遠く校舎の方から、五限の予鈴が聞こえてくる。
「終われねえわ」
半笑いの声音、和宏の指は勢いよく私をこじ開けた。私は和宏の頰を挟み込んで、強引に唇を寄せた。
あの女の子にも、和宏のこの唇がふれていたとしたって、この指が這っていたとしたって、この腕が抱いていたとしたって、今この瞬間は、私だけのものだ。今この瞬間、和宏は私だけを見ている。もう、それでいい。それ以上なんか望まない。望んだら、終わってしまう。
「好き、」
好き、大好き、かずひろ、すき。うわごとのように繰り返す。もしかして私は自分に言い聞かせているだけなのかもしれない、と一瞬、考える。和宏の舌が私の口内に侵入して、そんな疑問はすぐに忘れる。
なんでもいい。だって私はどうしたって、和宏が好きなのだ。