浅野和宏 ――カルピス
宏典の作るカルピスは香恵のぶんだけ、他のやつらに振る舞うそれよりいつも、甘い。
「もー! 分っかんない! ノリ教え方チョー下手!」
「逆ギレしないでよ……」
小五の夏休み、俺の家に香恵がいて、三人で宿題をしていた。あの時やってたのは確か算数のドリルで、都会っ子の香恵の宿題は当然俺たちのとは違うやつだったんだけど、内容はあんまり変わらなかった。だから算数の苦手な香恵に、成績優秀な宏典が色々教えていた。
俺は畳に寝っ転がりながら、そんな二人を見てにやにやしていた。俺は宏典が香恵を好きなことを知っていて、だから夏休みが始まる前に、「協力してやるよ」なんて一方的な同盟を結んだりしていたのだ。まあ面白半分ってか、百パー面白がってるだけだったんだけど。
近くの縁側からは風鈴の音とカエルの鳴き声が聞こえていて、その向こうには庭と山、畑の緑がえんえんと広がっていた。俺はちゃぶ台の下で時々宏典の膝を鉛筆でつついたりしながら、二人の会話を聞いていた。
「てかもう算数飽きたー、ノリのせいで」
「人のせいにするなって」
香恵がミニスカの脚をばたばたさせた。あ、パンツ見えそう、と俺は畳のへりに頰をくっつけながら凝視してたんだけど、視界の端に香恵が俺のぶんのカルピスを飲むのが映って、慌てて起き上がった。
「おい香恵っ、それ俺の!」
「えっ、マジごめん!」
香恵はなぜか俺よりはるかに慌てた様子を見せて、ごん、と勢いよく俺のコップを置いた。表面についていた水滴が、流れ落ちてちゃぶ台の上に輪っかを作る。
香恵は自分のカルピスを飲み直しながら、母の日のカーネーションみたいに真っ赤になっていた。なんだその反応、と眉をひそめた俺は、宏典の方を見た。宏典は香恵の赤面を横目に、自分をかばうみたいにして無理矢理笑っていた。それで俺は悟ってしまった。
香恵は、俺のことが好きなんだ。
「ノリ、最近バンド始めたんだってね」
ずっと遠くまでまっすぐに続いている一本道を歩きながら、香恵が言った。両脇は畑と田んぼしかなくて、八月の熱気と一緒に泥のにおいが漂っている。
「前から音楽馬鹿だなって思ってたけど、ついにって感じじゃない?」
今日も練習行ってるんでしょ、とからから笑っている香恵は、前歯だけを使ってアイスキャンディをしゃりしゃり砕いている。俺はさっきから「おー」とか「ん」とか、雑な生返事しかしてねえのに、香恵はそれに気付かないのか、それとも気にしてねえのか。
「明日の祭り、ちゃんと来る気あんのかな? ノリのスーパーボールすくい、毎年楽しみにしてんのにさ」
ブルドーザーみたいだよね、どうやってんだろあれ、と首をかしげている香恵に俺は、「ダメなら俺たちだけで行きゃいいじゃん」って言ってみようか、と一瞬、考える。でも香恵がそんなこと望んじゃいないことは分かっているので、やめた。
俺は縁石の上を辿っているから、ただでさえある身長差がさらに顕著になって、数段高い位置から香恵のつむじを見下ろしている。丸っこい肩、オフショルブラウスを押し上げるでっかいおっぱい、ショーパンからは細い脚を突き出して、太陽を白く反射させている。天使の輪を浮かべたミディアムヘアが風に煽られて、甘いにおいを発散していた。俺のいとこだけあって、香恵はかわいい。
そして香恵は、俺を好きだ。
「ま、でもいいことか。好きなものがあるって」
でも香恵は、宏典との方が仲がいい。
でも香恵は、俺といてもいつもいつも、宏典の話ばかりする。
アスファルトの照り返しとアブラゼミの自己主張がきっつくて、めまいがして、俺は香恵の手首を掴んでいた。そのまま引き寄せてアイスを一口、がっつりとかじる。
「ちょっ、なにしてんのっ」
焦ったように手を引っ込めた香恵は、俺の脇腹を小突いた。でも、俺が真顔のままじっと見つめていたら、ちょっと恥ずかしそうに唇を噛んだあと、べっ、と舌を出した。ブドウ味のアイスを食ってた香恵の舌は、紫色に染まっていた。
「ブース」
その舌を、例えば俺のべろで吸い出してみたら香恵は宏典の話をやめんのかな、とか想像してみたけど、実行には移さなかった。
俺のことが好きなら、おとなしく俺だけ見てりゃいいのに。
俺は宏典の「上」にいる。
宏典が持っていないものを俺は持っている。成績も、運動能力も、人望も、男としてのミリョクも、……彼女も。
明日暇だったら、お祭り行かない?
夕方、珍しくさやかからメールが来たと思ったら、そんな内容だった。自室の布団に溶けていた俺は、おっけ、と即レスしかけて、思いとどまる。
市内最大規模らしい盆祭りは例年うちの近所の神社で行われていて、俺は毎年宏典と香恵と三人で出向いているのだった。もちろん明日もその予定で、昼間の香恵もそんな話をしていたことを思い出す。
兄弟といとことド健全に過ごすか、彼女とのデートか。後者の方が絶対有意義だろうに、俺は「ごめん、用があるからムリ」と返信していた。だって俺がデートに行ったら、あいつらは二人で祭りに行くことになる。
オレンジ色をした西陽が、畳と一緒に俺の瞼を焼いていた。カーテンを引こうと起き上がったところで、返事が届く。「そっか、こっちこそごめん」。
なんとなく悪いことをした気分になって、俺は話題を変えた。窓の下の学習机に着いて、「今なにしてんの? てか自撮り送って」と、ささっと打つ。
やだよ、いいじゃん、のやりとりが何回か続いたあと、根負けしたさやかから「しょうがないなあ、はい」と写メが届いた。微妙にカメラから目をそらしたさやかと、バックにはもう何度もお邪魔したさやかの部屋が写っている。それを確認して俺は、あーーー、とダミ声で咆哮して、回転椅子をぐるぐる回した。やっぱ、さやかはいい。
高校に入学してすぐにできた彼女のさやかは、美人だし、香恵ほどじゃないけど巨乳だし、めんどくさくないし、なによりエロい。俺が触るたびに、雪みたいに白い肌がその触れた一点だけ、花が咲くみたいにぽっと充血したりすると、俺は体面とかなにもかも全部どうでもよくなってがっついてしまう。
体育ん時ポニーテールになってたりすっと、うなじがまたエロいんだよなあ、舐めたくなるっつーか……と、意識を馳せていたらさやかに会いたくなったので、俺は財布と携帯だけクロップドパンツに突っ込んで部屋を飛び出した。居間にいる俺と香恵の母ちゃんにバレないよう板張りの廊下を抜けて、三和土で潰れていたサンダルに足を突っ込む。
引き戸を開けたところで、ギターを背負った宏典とかち合った。「バンド」から帰ってきたらしい。
「どこ行くの」
普通に無視して宏典の横をすり抜けたら、呼び止められた。砂利を鳴らして振り返ると、宏典は能面みたいな顔をして立っていた。
制服の袖から、がりがりの腕が透けている。ひょろくてもさい宏典に、ギターは似合わない。そういうのって女関係でバンドぶっ壊すようなイケメンがやるもんなんじゃねえの、と思う。俺みたいな。
「彼女んち」
答えると、宏典はあからさまに眉根を寄せた。
「夕飯は?」
「いらねえ」
「あっそ」
自分から訊いてきたくせに興味なさげに吐き捨てて、宏典は家に入っていった。俺が踵を返したところで、「あ、ノリおかえり」という香恵の声が、した。
翌日、空が夕方と夜のグラデーションを帯び始めた頃、俺と宏典、香恵は祭りの屋台街を闊歩していた。あちこちでソースやビールのにおいが撒き散らされていて、食いもんを売ってる屋台からは煙と湯気が立ち上って外気と混じり合っていた。あっちい。
「いやー、ノリやっぱすごいわ。もしかして過去最高記録じゃない?」
「ん、どうだろ」
宏典が握っている小袋は、スーパーボールで今にもはち切れそうに膨らんでいる。香恵はそれを指差しながら、楽しそうに笑った。何がそんなに楽しいのか、俺にはよく分からない。
余所見したらはぐれそうなほどの人混みなので、俺は前を進む二人にぴったりついていた。香恵はさっき俺が買ってやったベビーカステラを、うまそうに食っている。俺は背後からその肩に腕を回して、耳元で媚びた。
「なー香恵ー、一個ちょーだい」
屋台の照明が当たってるせいとかじゃなくて、香恵の頰は赤い。
「も、う。分かったから腕どけてって」
差し出されたベビーカステラを、香恵の指先ごと銜える。唇を離す瞬間に舌先で爪をつついたら、香恵は「ばかっ」と小声で叫んだ。その間宏典は、刺すみたいに強く香恵の横顔を見つめていた。
祭りの本部が設置されている神社に到着すると、香恵は「お参りしてくる」と言って一人で拝殿の方に駆けていった。残された俺と宏典は、一の鳥居で待機する。
周囲を鬱蒼とした杉に囲まれた神社は、一年で今日この時だけ賑やかになる。ガキの頃はよく三人で境内に侵入したりしていたけど、今はもう、俺たちも祭りの日にしか訪れない。
「和宏ってさ」
鳥居の周囲を走り回ってるガキどもを眺めていたら、ふと、宏典が口を開いた。
「なに考えてんの?」
はあ? と目をすがめて訊き返しても、宏典はそれ以上何も言わずにカルピスを飲んだ。販売している屋台を、わざわざ探し回ってまで買う程度には宏典はカルピスに執着している。
喧噪に沈んでいる宏典の表情は、なんの感情も宿していない。
悔しかったら、お前もやりゃいいじゃん。
宏典が俺みたいにできないことを分かった上で、俺は言ってやろうと思った。でもその前に、香恵がワンピを翻して戻ってきた。
「ノリノリノリ、カルピスちょうだいカルピス。カステラで喉渇いちゃった」
「自業自得じゃん」
と、呆れながらも宏典は香恵にカルピスをやる。ありがと、と言って口をつけた香恵には、少しのためらいもなかった。その態度は俺のジュースを飲む場合とは、明らかに違った。
俺が宏典に劣っている部分なんて、一ヶ所もない。
体育は、昔から俺の方ができた。友達が多いのも女子にモテるのも俺で、「かっこいい」と持て囃されるのも俺。あいつが唯一俺に勝っていた勉強も、中二の後半くらいからは俺の方ができるようになった。学校で宏典を見かけても、あいつはいつもノミみたいな存在感でただそこにいる。
なにより、宏典の好きな香恵は、俺を好きなのだ。
祭りから帰って、しばらく部屋で休憩してから階下におりたら、濡れ縁で香恵が涼んでいた。脚を外にぶらさげて、耳からはイヤホンが垂れている。もう入浴を済ませたらしく、ラフなスウェット姿だった。
おどかしてやろうと思いついた俺は忍び足で香恵に近づき、後ろから思いっきりイヤホンを引っこ抜いてやった。
「っ、なんだぁ、カズか」
振り返った香恵は、ほっとしたように脱力した。俺は香恵のそばにしゃがみ込んで、「なに聴いてんだよ」と尋ねながらイヤホンを耳に挿入した。じいちゃんの趣味にしたがって造られた庭は、家の明かりが注いでいる木や石だけ、夜に飲み込まれずにいる。
「ノリのバンドの音源。もらったんだー」
とても聴けたもんじゃねえ音が、イヤホンからあふれ出していた。一方のイヤホンを自分の耳につけ直した香恵は、笑っている。宏典のことで、嬉しそうに。
「正直下手だけど、なんか楽しそうなのが伝わってくるよね」
俺は香恵のほっぺたに唇を押しつけた。
一瞬硬直した香恵は、よっぽど動転したのか泣きそうな声で「え?」と絞り出し、その後視線をぐるぐるとさまよわせた。それから真っ赤になって俺から距離を取ろうとしたので、俺はウォークマンを放り投げ、香恵を畳に押し倒した。髪の毛が、ひまわりみたいに散らばる。
じいちゃんや父ちゃんたちは祭りの実行委員手伝いとして出払っているので、俺たち三人しかいない家の中は静かだった。祭囃子が、遠雷みたいに山に反響している。風呂場から水音がするので、宏典は風呂に入ってるんだろう。
頰に触れると、香恵はぎゅっと瞼を閉じた。もう一度開かれた瞳には涙の膜が張っていて、こいつはたぶん、期待している。
今この瞬間、宏典がここに来ればいいと思った。自分の好きな女が他の男に欲情している光景を目の当たりにして、こてんぱんに打ちのめされりゃいい。絶望すればいい。
お前は、俺に、一生勝てないんだよ。
「かずひろ、」
唇が触れる直前、香恵が俺を呼んだ。宏典の欲しがっている香恵は、今、俺だけを見ている。
香恵の唇から、かすかにカルピスの味がした。