木村太一と桜坂下桜子。
「よう、太一」
目を覚ますと、もう日が暮れていて、なぜかぐっちゃんがいた。
誰かが──もしかしたら、ぐっちゃんが運んだのか、僕はベンチの上で寝ていたようだ。ふらふらと立ち上がる。
「なんで、ぐっちゃんがここに」
「取材だよ。交換条件だ」
ぐっちゃんはにやりと笑って、『マル秘調査書』を指差す。僕ははっとした。そうだ、こういうわけのわからないリサーチは、新聞部自称エースのぐっちゃんの得意とするところだ。
それにしても、交換条件?
まだ、記憶の大部分が眠っているようだった。考えがまとまらない。桜坂下を泣かして、どういうわけかガラシャツに殴られたんだ。
「おまえさー、ほんとはぜんぶわかってんだろ。へタレもいい加減にしないと、タイムリミットはもうすぐだぞ。オレは手助けしてやることはできないけどさ、応援はしてるんだ、これでも」
……?
何いってんだ?
僕が疑問符そのもののような顔をしていると、ぐっちゃんは大きく息を吐き出して、肩をすくめた。帰るわ、といい捨てて、本当に僕を置いていってしまう。
なんだか、ひどく情けない気分だった。
ぽつぽつと、雨まで降り始める。考えるのは後回しにして、ともかく、帰路につく。
家にはいつもどおり、父さんと母さんがいた。けど、桜坂下は、帰っていなかった。
一晩中、考えた。落ち着いて考えれば、少しずつ、からくりが見えてきた。僕は目を逸らしていたのかもしれない。無意識のうちに、思考から逃げていたんだ。
翌日から、僕は取り憑かれたようにパソコンのキーボードを打ち始めた。
書くべきものは、もう、頭の中にあった。
なんとなくそんな気はしていたが、日曜になっても、月曜になっても、桜坂下は帰ってくることはなかった。
*
六月三十日、月曜日。
ここ二日間と同じように、パソコンデスクに向かった状態で、朝を迎えた。
今日は、文芸部の原稿のしめ切り日。そして、桜坂下桜子がここにいる最後の日だ。
原稿は出来上がった。
覚悟も、決めた。
「よ、太一。原稿できたか?」
「愚問」
教室に入るなり、ぐっちゃんが声をかけてくる。一言答えて、印刷済みの原稿を突き出した。文芸部入部当初から、提出前に目を通してくれているのだ、このありがたい友人は。
「さすが。パソコンに向かって思いのたけをぶつけるのは得意だな」
……それは皮肉か?
何やら、視線を感じた。どこか遠回しな視線だ。教室内の空気がぴりぴりしているような気がする。桜坂下と一緒にいてもそうだったが、いなくてもこうなのか。だいぶ鍛えられたものの、やっぱり胃が痛い。
あたりまえのように、桜坂下の姿はなかった。一週間教室に溶け込んでいた白いノースリーブがいないのは、なんだか妙な気分だ。
「なあ、ぐっちゃん」
「なんだよ、オレはいま忙しいぞ」
嬉しいといえば嬉しいことだが、ぐっちゃんは立ったままで、早くも僕の原稿を読み始めている。聞きたいことがあったんだが。まあ、二万字程度、読み終わるのにそれほど時間はかからないだろう。その後で聞けばいい。
タイムリミットは、今日だ。何が本当で何が嘘かわからないやりとりばかりだったが、それだけは多分、疑いようがない。今日のうちに、行動を起こさなければならないのだ。
担任がやってくる。月曜の一限目はレクリエーションだ。修学旅行の日程がどうのと、いまの僕にとってはどうでもいい話をしている。
うちの修学旅行はちょっと変わっている。中学三年生と高校二年生が合同で修学旅行へ行くのだ。行き先も毎年違うので、中学のときにいった場所へ高校でまた行く、ということは滅多にないらしい。まあ、僕は高校からの合流組なので、詳しいところはわからない。
その合同説明会を、一限目にやるということらしい。場所は、大ホール。
一斉にガタガタとイスが地面をこする音。完全に遅れたが、僕も立ち上がった。色々考えたい日に限って、こういう面倒なイベントがあるのだ。呪われているのだろうか。
「読んだぞ」
ぞろぞろと大ホールに向かう人波のなか、ぐっちゃんが小声で囁いてきた。もうぜんぶ読んだのか。それって流し読みじゃないか?
「正直、感動した。オレ、おまえに協力できないっていったけど、取り消すわ。全力で協力する」
「いや、なんかおまえ勘違い……」
本当のところは勘違いでもなんでもない。が、一晩かけてかき上げた恋愛小説を、心情的ノンフィクションだと公認されてしまうのは問題だ。それはよくない、大変よろしくない。
小説の題名は、『織姫彼女』。事実を元に構成したフィクションです。本当です。そうじゃなきゃ恥ずかしくてやってられるか。
「な、ぐっちゃん。桃ヶ丘の理事長ってさ……」
ナチュラルに話題を変えてみた。これが、ぐっちゃんに聞きたかったことだ。日曜日にインターネットで調べたので、理事長がだれなのかは知ってる。だが、問題はそこじゃない。
質問の途中だったのだが、いわんとしたことがわかったのだろう、ぐっちゃんはにやりと笑った。
「遅えよ、バカ。太一サンのご推察の通り、いらっしゃいますよ、中学三年生の一人娘が」
……やっぱり。
そういうことなら、説明がつく。
大ホールの入り口は、ぜんぶで八つ。混雑しないように、各入り口から生徒たちが速やかに入場していく。なんだかんだいってエリート校だ、教師の指示に従い、ごく短時間で整列。ぐっちゃんと僕は、本当は前後ではないのだが、ぐっちゃんはこともなげに僕のうしろにひっついた。これだけ人数がいれば、そう厳しくチェックされるものでもない。
靴音も完全に消え、ホール内が静まりかえる。
舞台の上に、鬼ケンが現れた。こういうときは、眼孔の鋭い教師が立つものなのだろう。
何やら始まる、前口上。桃ヶ丘の修学旅行の伝統がどうの、意義がどうの、得るものがどうの。まるで、聞く気にならない。
「では、我が校の修学旅行の理念について、理事長からお話を──」
そのセリフに、思わず反応した。
理事長。
思い返せば、ここ一週間で何度か目撃した。うち一回は絡まれ、一回は殴られた。
小柄な僕の五倍、父さんの三倍はあろうという巨体。ガラシャツとサングラスがいやにはまっていた、大男──
──桜坂下智蔵。
灰色のスーツに身を包んだ理事長が、鬼ケンに呼ばれて舞台姿を現す。重々しい足取りで、中央に向かっていく。台に置かれたマイクに、手を伸ばす。
おっさん、ガラシャツの方が似合ってたんじゃ。
「理事長──!」
ものすごくよく通る声が、ひどく近くから聞こえた。
だれもが、こちらに注目した。教師陣も例外ではない。
声を張り上げたのは、僕のすぐ後ろの、ぐっちゃんだった。
「先々週の木曜日に通達のあった件で、重要なお話があります」
生徒たちが、一斉にざわめき出す。
先々週の木曜日? それって、僕が風邪で学校を休んだ日じゃないか。
その日に、通達があった?
ガラシャ……じゃない、理事長から?
「──まさか」
恐ろしい可能性に思い当たった。だがそれを確認するよりも早く、ぐっちゃんは僕の背中をぐい、と押した。そのまま、前方に押し出される。どういうわけか、だれもが道を空けるのだ。真剣な顔、笑っている顔、楽しそうな顔──間違いない、僕は、注目されている。
恐らく、いまに限ったことではないのだ。
先週の月曜日、家を出た瞬間から、始まっていたのだ。
……やられた!
「もちろん、お話があるのは、木村太一くんです!」
何がもちろんなのか、ぐっちゃんはそう宣言した。そのころには、僕は列の一番前にまで来ていて、いったいぜんぶでいくつあるんだかわからないほどの生徒の目にさらされていた。
ふり返ると、憎たらしいほどのいい笑顔で、ぐっちゃんが親指を立てている。きょ、協力って、これか?
「木村、太一くん」
不機嫌さを隠そうともしない声で、理事長が声をかけてくる。それだけで、無意識に背筋が伸びた。
「重要な話……が、あるのかね?」
そんなものはないといえ、なんでもいいからひっこんでいろ──理事長の声からは、そんなニュアンスがひしひしと伝わってくる。殴りつけられた拳が蘇り、身がすくむ。しかし、それよりもはるかに大きい何かが、もう僕の内にはあった。
そうだ、ここまで来てしまった。
だぶんどうせ、みんなぜんぶ知っているんだ。だったら、もう、悔いのないようにやることをやるしかない。
息を吸い込んで、吐き出す。下腹部に、ぐっと力を入れる。
「はい」
届くように、そう返事をした。理事長が眉を跳ね上げるのが見える。
勢いが消えてしまわないように、舞台脇の階段を駆け上がった。理事長の巨体を前に立ち上がり、深く深く、一礼した。失礼します、と告げて、手を差し出す。小さく舌打ちし、それでもマイクを手渡してくれた。
「僕は──」
マイクを通して、一言。
気ばかりが焦った大声に、キィンと耳障りな音が響く。
その音に、我に返ってしまった。
現実が見えてしまった。
そこにいる全員が、僕を見ていた。じっと、僕の言葉を待っていた。
どうしようもなく、足が震え出す。閃光弾が炸裂したみたいに、頭の中が真っ白になる。なんだ、僕は、何をいおうとしたんだ?
落ち着け、落ち着け。
そうだ、ここにパソコンがあると思え。なんて打つんだ。僕なら、僕に、なんていわせるんだ。どういう展開にするんだ。
考えれば考えるほど、酸素が足りなくなったみたいに、息苦しくなる。
思わず目を閉じてしまいそうになる。
だが、僕は、見つけた。
探したわけではなかったが、僕の視界に、その姿はごく簡単に、映し出された。
ノースリーブではなく、セーラー服だったけれど、間違えようがない。
大きな目は、また、泣きそうになっている。
泣き虫め。
僕は、震える肺に、これでもかと空気を送り込んだ。
「桜坂下桜子さん!」
名を叫ぶ。ほんの一瞬の間。
いいたいことはいっぱいある。本当に、いっぱいある。
だが、いうべきなのは、一言だけだ。
息継ぎをする必要はなかった。残ったすべてをその一言に託し、僕は力の限り叫んだ。
「好きだ────!」
──しん、と静まりかえった。
音の波が、さざ波のように消えていく。
長いのか短いのか、よくわからない沈黙。余韻が壁に吸い込まれる。
「いった────!」
次の瞬間、どっと、ホールが沸いた。男どもは歓声をあげ、女子たちは抱き合って飛び上がった。見ると、教師たちまでもが、手を取り合って喜んでいる。テンションに着いていけないのは、僕と、理事長ぐらいのものだ。
……えーと。
この、みなさんの喜びは、どういう?
「説明、聞く?」
よっこらしょ、とステージ上に登り、ぐっちゃんが歯を見せる。
「本日午後発行がたったいま決定した、桃ヶ丘新聞の記事を待つ、という手もありますが」
待ってられるか。そんなもん、いまここで洗いざらい話してもらわなきゃわりが合わない。
そういおうと思ったのだが、事情が変わった。
「あとでいい」
そういい捨てて、ステージから飛び降りる。桜坂下が、ステージのすぐ下にまで来ていた。
真っ赤な顔をして。まるで僕がいじめてしまったみたいに、しゃくり上げて泣いている。
「桜子さん」
ちゃんと名前を呼んだ。それだけなのに、彼女の目からいっそうの涙が溢れる。
もう、言葉はいらないような気がした。
全校生徒が注目しているのは知っていた。けど、ここまで来て、我慢なんてできるわけがない。
僕は床を蹴り、彼女を抱きしめた。
*
その日の午後に緊急発行された、桃ヶ丘新聞。
放課後、桃ヶ丘テラスで早速入手。記事を読んで、僕は苦笑するしかなかった。僕以外の全員が、ほとんど何もかもを知っていたのだ。
『理事長令嬢、桜坂下桜子さん(中三)。六月十九日、木村太一くん(高二)の不在中に、大ホールにて演説。「私は、木村太一さんを愛しています」から始まった衝撃の演説は、六月中にある条件下で木村太一くんに愛を告白されることができたなら、交際を認めるという理事長の約束を示し、全校生徒、及び教師に協力を要請するためのものだった──』
とんでもない記事だ。恥ずかしいにもほどがある。いや、恥ずかしいのは桜坂下の演説の方か。その演説内で、僕のストーカーである事実なども赤裸々に告白したらしい──っていうかやっぱりストーカーだったのか。
記事にある条件というのが、桜坂下自らが、一日一回必ずダイキライと告げることと、友人からのサポートは決して受けないこと──これは逆らった場合はペナルティありと、強面の理事長が脅したらしい──そして理事長ズからの妨害、及び監視を黙認するということ……もはや、なんとコメントすればいいのかわからないぐらいの一大イベントだ。
『──六月二十二日深夜。全校生徒及び教師に、桜子嬢自ら緊急連絡網にて通達。木村太一くんとの初対面にて、緊張のあまり自分が宇宙人であると嘘をついてしまったため、状況に応じて口裏を合わせて欲しいとのこと──』
嘘でした、の一言の方がよほど楽そうだが。
『──六月三十日。ヘタレで有名な木村太一くんは、大ホールのステージ上から桜子嬢に愛を告げるという偉業を達成。さらに、自身の思いの丈をつづった小説、『織姫彼女』も七夕に発行される。作中で、タンポポ星やスミレ星を前に想いを交わすシーンは秀逸であり──』
……アノヤロウ。
ぐしゃりと、新聞を握りつぶした。
何はともあれ、あの小説を書き直すことが先決だ。
「どうかなさったんですか?」
隣に座っていた桜坂下が、小首をかしげるようにして、僕の顔をのぞき込んでくる。ちょっとためらうような仕草をしたかと思うと、僕の腕をそっとつかみ、身体を寄せてきた。
──こ、これは!
嬉しいとか、そういうの以前に、胃、胃が……!
必死になって胃痛を堪えながらも、桜坂下に視線を落とす。
長く、黒い髪。大きな目。最初に会った時から、何も変わらない。
宇宙人だとかどうとか、そんなことはどうでもよかったんだ。
彼女の肩に手をまわそうとして、直前で停止。数十秒の後、そのまま引っ込めた。
代わりに、ほんの少しだけ、彼女の身体に体重を寄せる。
本当は一目惚れだったと白状するのは、胃痛が治まってからにしようと、ヘタレた決意を秘めながら。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
恋愛をからめるというのが大変苦手でして、初挑戦のラブコメディ……のつもりが、ほとんどラブにならず。至らない点も多々あったかと思いますが、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
お気軽に感想等いただけると、全身全霊で嬉しいです。