木村太一と麦わら帽子。
六月二十八日、土曜日。
の、朝を迎えてしまった。
昨日は帰宅するなりパソコンに向かい、メシ、フロ、トイレ以外はそこからほとんど動かなかった。いったい何時間パソコンとにらめっこしていたのか、脳内の時計で計算するのが怖いぐらいだ。
一日もあれば二万字の短編小説を仕上げるなどちょろい、とかなんとか、たかをくくっていた当時の自分を、力の限り叱責してやりたい。人間、不調というものがあるのだ。
「眩しい……」
目を細めた。
眩しいのは果たして朝日か。それとも、一晩かけてもまっさらなままの、パソコンのディスプレイか。はたまたその両方か。
その両方だ。
こんな符号の一致、少しも嬉しくない。
「太一さん」
ノックよりも先に声がした。
僕はちょっと身構えた。約一週間の付き合いで、僕のガラスのハート内にかるいトラウマができあがっていた。毎日一緒に学校に行けば、まあそれなりにナカヨシにはなる。なるけども。
毎日くり返される、ダイキライ宣言。朝イチでいわれることもあれば、日付が変わる直前にいわれることもあった。ともかく、一日一回、必ず。そりゃあ、トラウマにぐらいなる。
遅れて、思い出したようにコンコンと軽やかなノック。この、ノック音からも伝わってくる遠慮のなさがすごいと思う。毎日ダイキライといわれれば、ふつーの人間は傷つくって知らないのか?
とはいえ、ジェントルな僕はレディの扱いにはうるさい。青い絨毯をつま先で蹴って、パソコンデスクのイスをくるりと回し、もちろん、入室を許可した。
「どーぞ」
「失礼します」
職員室に入るときみたいに、律儀に一礼して、桜坂下が入ってきた。初日から貫き通している、ノースリーブの白ワンピース姿。一度それとなく聞いてみたが、どうやら毎回デザインの違うものを着用しているらしい。
「おはようございます、太一さん。本日のご予定は?」
直視したら光で溶けるんじゃないかという笑顔で、そんな質問をよこした。休日まで、僕につきまとう気なのだろうか。普段なら取り繕おうという意識も働くのだが、徹夜明けということもあり、僕はあからさまに嫌な顔をしてしまった。
ダイキライなら、僕にかまわないで欲しい。
「この土日で仕上げないと時間ないから……今日はずっとここでこうしてる予定だけど」
「まあ。でも、今日はとってもいいお天気です。今夜から大雨みたいですから、どうせ明日は家から出られないですよ。今日ぐらい、外で羽根を伸ばしてはいかがです?」
「……いや、でも」
なんだ、これも嫌がらせか?
僕を愛するパソコンから引き離すつもりか?
「太一さんなら、明日一日あれば、大丈夫ですよ。今日はお出かけしましょう。ぜひ一度、遊園地というところに行ってみたいのです」
「……ゆうえん、ち」
桜坂下の長ゼリフの意味を理解しようと、睡眠不足の脳みそを懸命に働かせた。
遊園地に行ってみたい、と。ふむ、いいんじゃないでしょうか。どうぞ行ってきてください──ということではないだろう。そうだ、お出かけしましょう、っていいかたは、そういうことじゃないはずだ。
しましょう、ってのは、あれだ、勧誘の意だ。
要するに──
「──一緒に遊園地に行こうってこと?」
「いえ、そうですけど、そうではなくて」
ちがうのかよ。
ああ、もう、わけがわからない。脳みそが悲鳴をあげている。早くも容量オーバー。
「短島スーパーランドの入り口に、正午に待ち合わせということでいいですか?」
……? まち…………は? 待ち合わせ?
なんで?
声にならなかったが、表情から充分にナゼナニ感は伝わったようだった。桜坂下は、僕の反応を楽しむかのように、はにかんで笑う。
「待ち合わせって、してみたいんです。一緒に行くのもいいですが、またちょっと違った趣向でしょう? では、正午に短島スーパーランドの入り口ですからね。遅れないでくださいね」
念を押して、失礼しましたとやっぱり一礼して、桜坂下は僕の城から出て行った。
置いてけぼりになったのは僕の理解と、かすかに甘い香。
要するにあれだ。
いまのは、いい逃げってやつじゃなかろーか。
予想を超えた角度からのアプローチに、拒否の言葉を叩きつける隙を見逃してしまった。いや、たぶん、隙なんてなかった。
「……やられた……」
頭を抱える。
いまのこのやりとりのどこに問題点があったのか、僕は何に絶望しているのか、頭が働かなくてわけがわからない。自分の感情の所在も曖昧だ。ああ、でも、とにかく時間がない。これだけは確かだ。
*
短島スーパーランド。地元民ならタンシマで通じる、総合レジャー施設。園内には、遊園地、巨大流水プール、ついでにアウトレットモールがあって、結構遠くからもわざわざ遊びに来る客がいたりするらしい。ちょっと身近すぎて、そのあたりのことはあまり実感がないのだが。
いい逃げの待ち合わせなど無視して、家でパソコンに向かっているという選択肢もあった。こちらの都合もお構いなしに決定した約束なんて無効だ、で押し切ってしまえばそれでいいような気もする。
の、だが。
時刻は十一時五十分。
僕は、あれからすぐにシャワーを浴び、着替えて、電車の時刻を調べてかるく荷物をまとめて家を出て、タンシマの入場口前に突っ立っていた。
自分でも、どうしてここにいるのか、よくわからない。
そうだ、きっと、徹夜のせいで思考力が鈍っているんだ。そうに違いない。そうじゃなきゃ、おかしい。なぜいいなりなんだ。
晴れの土曜ということで、タンシマはどうやら大盛況らしかった。サマーフェアの看板の隣で、ヒト型看板のように景色と同化している僕には目もくれず、子連れの夫婦やら学生のカップルやら女子の集団やら大柄男やらが入り口をくぐっていく。……大柄男? なんだ? まあ、いいか。
陽炎が見えそうなぐらい熱せられた空気に、ふいに別の何かが混じった。
こちらに流れてくる人垣の、その向こう側を見る。眼鏡をかけてもあまり自信のない視力を補うため、目を細めた。
豆粒みたいな段階で、わかってしまった。
なんてことだ。これじゃ、待ち望んでいたみたいじゃないか。いや、でも、さっさと乗り物一巡して帰ってしまって、早いとこパソコンに向かいたいんだ。そういうことだ。
ノースリーブの白いワンピース。腰のあたりまでを縁取るような、長い髪。日焼けとは無縁な白い肌、大人びているけど本当は子どものような、大きな瞳。かご型のかばんを右手に提げ、頭には同じ色の麦わら帽子を乗っけていた。麦わら帽子なんて、最近じゃまともに見たことがないような気がする。けれど、完璧な姿を前にしてしまっては、その頭に収まるのは麦わら帽子以外にないような気がした。
その姿がだんだん大きくなってきていることに、気づかなかった。太一さん、といつもの声で呼びかけられ、やっと我に返る。いつのまにか、彼女は目の前にいた。
「ごめんなさい、待ちましたか?」
桜坂下は、汗ひとつかいていなかった。頬が少し赤い。
「いや、いま来たとこ」
いってしまってから、マニュアルにあるようなばかげた返答だったと気づく。しかし、桜坂下は気にしなかったようだ。
「よかった。さ、行きましょう。私、ガイドブックとクチコミ調査で、オススメポイントをチェックしておいたんです。今日は、乗りたいもの、ぜんぶ乗りますよ!」
かご型のかばんから、ポケットガイドと『マル秘調査書』なるものを取り出し、桜坂下はにこりと笑った。
「騙された──────!」
絶叫マシンの代名詞、天下無敵のジェットコースターにくくりつけられ、僕は文字通り絶叫していた。
僕は絶叫マシンと呼ばれる類の乗り物が恐ろしく嫌いだ。嫌悪といってもいい。
わざわざ好きこのんで怖い思いをするという発想がまずわからない。絶叫マシンから人が落ちただの、途中でストップしただのというニュースを目にするたびに、「それみたことか」を勝ち誇るぐらいだ。
「楽しいですねー!」
車輪がレールを爆走する、ぎゃりぎゃりという音に混ざって、桜坂下の心底楽しそうな声が聞こえてくる。表情までは見えないが、容易に想像できるというものだ。ものすごい笑顔に違いない。
絶叫マシンというものに乗っかってしまうと、僕はもう目を開けることができない。目を閉じた方が余計怖いとだれもがいうし、実際そうなんだろうなと思いつつも、どうしても開けられない。景色がものすごい勢いで迫ってくるあの感覚に、何度も心臓を潰されるぐらいなら、目を閉じて、これは夢これは夢、と唱えていた方がマシだ。
そのうちに、スピードが落ちてきた。耳を襲っていた爆音のような音も和らいでくる。
やっと、目を開けた。
車両は、起伏のないレールの上を、惰性に任せるようにゆっくりと進んでいた。スタートでありゴールでもある、火山を模した黒い建物が、口を開けて待っている。
耳障りな金属音を残し、止まった。
アナウンスが注意めいたことを告げ、僕らを拘束していた黒いベルトが勝手に外れる。隣の桜坂下が、心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。
「だいじょうぶですか?」
だいじょうぶなわけがない。乗る前にだいじょうぶじゃありませんと宣言したのに。騙されたと思って乗ってみてくださいと散々説得され、渋々乗ったのだ。見事に騙された。
「……なんとか」
ダメダメだと正直にいってもどうにもならない。僕はなんとか立ち上がる。
うおお、ものすごい目眩が。だめだ、これ。なんの修行だ。
「さ、まだまだ序盤ですよ。次はここ、ブラックサイクロンへ行きましょう。だいじょうぶです、騙されたと思って、乗ってみましょう!」
その勢いはどこから来るのか。とりあえず、逆らうのムリそうだ。
僕は苦笑しながらも、彼女のいうままに死の修行を続け──
──夕方。
何度か川を渡りかけた。
「さ、これで、残るはあとひとつですよ」
僕の生気を吸い取っているのでは、と錯覚するほどに、桜坂下はどんどん輝いていった。息を乱すこともなければ、髪型だって乱れない。不思議すぎる。女性の神秘。
僕はといえば、玉手箱を開けた浦島さん状態だ。外見的に。いま鏡を見て、髪がぜんぶ白くなっていても驚かないだろう。ああやっぱり、とか思いそうだ。
「次は、どこに行くの」
もう無我の境地というやつだ。こうなったら宇宙にでもどこにでも連れて行ってくれ。
桜坂下はちらりとふり返り、何やら嬉しそうに微笑んだ。僕の手をぐいぐい引いて、歩いていく。
日が暮れようとしていた。さすがに昼と比べれば、客の数が減っている。夕方からは格安で入れるというサービスがあるためか、心なしかアダルティなカップルが目につく。
握られている左手を、急に意識した。そうだ、これは、ハタから見れば完全にデートなんじゃないだろうか。実は修行だなんてだれも思うまい。
「ここが最後です」
そういって、あまり長くない列の最後尾で、桜坂下は立ち止まった。
「観覧車……」
「遊園地といえば、最後は観覧車なんでしょう?」
『マル秘調査書』を片手に、得意げにそんなことをいってくる。──そうか? そういうもんか?
目の前にそびえる、巨大な観覧車。まあ、絶叫系より数倍マシだ。
「それって、自分で作ったの?」
「いいえ、いただいたんです。クチコミ調査を元に作成してくださいました」
……だれが?
貸して、と手を伸ばすと、断られるかと思ったが、あっさり渡してくれた。プリンタで印刷された文字。調査に基づいたグラフ、なんてものまである。
詳しく見ようと思ったのだが、それよりも早く順番が来てしまった。係員にしては異様にガタイのいい中年が、不機嫌そうな顔で僕らを促す。
観覧車に乗るなんて、いつ以来だろう。この、動き続ける部屋に乗るタイミングが難しいのが嫌なんだが、桜坂下がうしろにいるので、どうにかして乗り込む。係員が、無言で扉を閉めた。ぐらぐらと揺れる。
乗ってしまって初めて、現実に気づいた。
二人で観覧車に乗るということの、意味。
これって……これって、あれだ、密室ってやつなんじゃなかろーか。一周するまでは、完全に二人っきりってやつなんじゃなかろーか。なかろーかどころか事実実際現実的に、そうなんじゃなかろーか。ダメだ、混乱してきた。
嫌な汗をかき始めた。どうやら今日は、徹底して精神修行を強いられる日らしい。何を話せっていうんだ、この状況で。
「太一さん」
向かい側に座った桜坂下が、柔らかい声で僕を呼んだ。僕は、もう子どものようにびくりとしてしまった。あ、足が震える。
「今日は、ありがとうございました。お忙しいのに、ちゃんと来てくれて。それに……怖い乗り物、お嫌いなんですよね? それでも、私の乗りたいものぜんぶに付き合っていただいて、私、嬉しかったです」
一言一言を、ゆっくりと、声にしていく。なんだか拍子抜けしたような気分で、僕はバカみたいに口を開けた。返事が出てこない。
そんなに──そんなに、本当に、単純に、遊園地に来たかったのだろうか。嫌がらせなのかと思っていたが、そういうウラがあるわけではなくて。
「私……」
ためらうように、桜坂下は言葉を切った。その表情に影がさして、胸がざわめく。こどもめいた動機は治まっていた。
恐ろしく長い沈黙が訪れた。観覧車は、もちろん止まることなく動き続け、景色が下へ下へと遠ざかっていく。しかし、そんなものを見る余裕などなかった。
何をいおうとしているのか。どうして、そんな思い詰めたような顔で。
いいたいことがあるなら、なんでもいえばいい。
僕と違って、桜坂下には、それができるんだから。
「……私は、月曜日には、帰らなくてはなりません」
顔を伏せ、重い声でそういった。すぐに上げられた顔は、笑みの形をしていて、それがどこか痛々しかった。なんていうか、らしくない。
「太一さんは、明日は一日執筆なさるでしょうから、こうして一緒にいられるのは、今日が最後ということになります。本当は、悔いがあるんです。でも、そんなことは、もういいです。とっても楽しかった。来て良かったです」
「悔い?」
思わず聞き返した。
悔いって。まだ、やりたいことがあったってことか?
だが桜坂下は、質問に答える気はないようだった。あいまいに笑い、続ける。
「私、本当に、ここに来て良かった。太一さんに会いに来て、良かったです。ありがとうございました。いくら感謝しても、感謝しきれません」
気のせいかもしれない。なんだか、泣きそうな目をしていた。それでも、笑っている。
心臓が、また、うるさくなった。
桜坂下は、何をいおうとしているんだろう。まるで、告白でもされている気分だ。
──告白?
自分の発想に失笑した。何を馬鹿な。最初に会った日から、昨日までの六日間、毎日ダイキライといわれているのに。
今日はまだ、いわれていない。こうやって持ち上げて、最後にいうつもりなのだろうか。また僕を突き落として、そういう嫌がらせをするつもりなのだろうか。
来るなら来い、という気になっていた。
期待とかしないぞ。してたまるか。
だが、こっちが受け入れ態勢になっているというのに、なかなかいってこない。なんだかむずむずしてきた。ひどく居心地が悪い。
いつのまにか、観覧車は頂上を通過し、下降を始めていた。もう、この場でいわれたほうが楽だ。向こうが切り出さないなら、いっそ。
「桜子さん」
呼びかけると、桜坂下ははじかれたようにこっちを見た。初めて見る表情だ。驚いているような、何かを期待しているような。
「今日は、いついうの」
「え?」
本気でわからないのだろうか。目を丸くして、聞き返してくる。ここまで来て、引き下がるつもりもなかった。理由はよくわからないが、僕はひどく意地の悪い気分になっていた。
「忙しいっていってるのに、今日一日連れ回して。嫌いだっていう絶叫マシンにも乗せまくって。嫌がらせの最後は、いつものセリフで終わるんだろ、ダイキライって」
自分の口が、何かに操られたかのように、そんな言葉を吐き出した。吐き出すと同時に、嫌な気持ちが湧いた。おかしなことはいってない、いってないはずだ。けれど、口のなかが粘ついている。出してしまったものは、もう引っ込められない。
なんだろう、この罪悪感。
「…………太一さん……」
桜坂下の方を見られない。視線を窓の外に移した。もうすぐ、一周する。ばかげた茶番も、これでおしまいだ。
名を呼んだきり、桜坂下の声が続かない。胸の芯が、すっと冷えるような嫌な感覚を味わっていた。取り返しのつかないことをしたかもしれない。ひどいことを、いったのかもしれない。
意を決して、正面に向き直る。
見るんじゃなかったと、すぐに、後悔した。
大きな目をさらに大きく見開いて、桜坂下はぼろぼろと涙を流していた。真っ白なはずの肌は、いまでは真っ赤になっていた。
「桜子さ……」
何をいおうというのだろう。名を呼ぼうとしたのだが、それすらうまくいかない。
桜坂下は、ゆっくりと目を閉じた。その拍子に、信じられないほどの大粒の涙が落ちた。まぶたを持ち上げ、赤い目で、僕を射抜く。
「大嫌い」
震える声で、いつもよりもずっと低い声で、彼女はそういった。
ほとんど同時に、観覧車の扉が開く。一周してしまったのだ。このタイミングで。
桜坂下は、うつむいたまま走り出した。驚く係員の脇をすり抜け、そのまま走り去っていく。
追うべきか? こういうときは、待て、とか声をかけて、僕も走り出すべきなのか?
しかし、それは叶わなかった。
急いで身を起こし、揺れない地面に足をつく。瞬間、ものすごい殺気を感じた。係員に、手首をつかまれる。
「──あの?」
抗議めいたことを口にしようとして、見てしまった。
巨体の係員は、まさに怒り狂っていた。赤い顔で、目をつり上げて、僕を睨みつけている。
──この、顔。
ついでに、この巨体。
一気に記憶が繋がった。
サングラスしてないけど、こいつ、いつかのガラシャツ男──!
「許さん!」
おっさんが拳を振り上げる。
脳天にものすごい衝撃。わけもわからず、そのまま、何も見えなくなった。