木村太一とノースリーブ。
「今日から、こちらのクラスでお世話になります、桜坂下桜子です。一週間程度の短い期間になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」
パラレルワールドにでも迷い込んだ気分だった。
朝のホームルームの最初に、桜坂下はそういって頭を下げた。その挨拶一つであっさりと受け入れられ、クラスの端っこに席を与えられ、あたりまえのように授業を受けている。
だれもなにもつっこなまい。教師でさえ、だ。
「どう考えてもおかしい」
昼休み。母さん手製の胃に優しい弁当を広げ、無添加タコさんウィンナーを頭から征服しつつ、つぶやいた。桜坂下はというと、昼休みに入るやいなや姿を消した。手ぶらだったので、昼食の調達にでも行ったのだろうか。
僕の机にイスをひっつけて、向かい側でパンをかじっている友人──今朝、華麗に僕らをスルーしたぐっちゃんこと、田口良樹だ──は、僕の言葉にこちらを見た。
「笑えばいいじゃん」
「古い」
笑う気にも呆れる気にもならない。
「なにがおかしいんだよ。悪いが、それをいいたいのはオレらのほうだぞ。なんなんだ、あの美人」
明太フランスでびしりと僕の鼻先を指す。箸でつまんでそれをよけ、僕は身を乗り出した。
「それだ、まさにそれ。そのツッコミ。なんでそのツッコミが初めて出るのがいまなんだ、おかしいだろう。並んで登校しているときでも、教室に入ってきたときでも、アイツが挨拶したときでも、最初の休み時間でも……いくらでもチャンスがあったろ、違うか?」
「なんだおまえ、つっこんで欲しかったのか?」
意外とかわいいな、とかいわれて鳥肌が立つ。そういういい方をされたら僕が寂しがり屋さんみたいじゃないか。
ぐっちゃんはパックジュースから伸びるストローをくわえ、下品にも手を離した。やつの口からぶら下がる、桃高人気ナンバーワンのアップルマンゴーパインピーチ。振り子のようなそれに目を奪われていると、ぐっちゃんは急に身を屈めた。小声になる。
「そもそも、あの美人がどういう経緯でおまえに惚れたんだ? まずそこから説明しろよ」
………………はあ?
あまりのことに、すぐに声が出なかった。
漫画的に眼鏡がずれる。すげえ、こういうときって本当に眼鏡ずれるんだな。
いや、そうじゃなくて。
「惚れた? 僕に?」
阿呆みたいだが、そう聞き返すしかない。今度は、ぐっちゃんがきょとんとした。ヤツが眼鏡をかけていれば、ずれていたであろう呆けた顔だ。
「……違うのか?」
「初対面でダイキライ宣言されたぞ。自慢じゃないが」
「マジか」
「マジだ」
ぐっちゃんは、細く長く息を吐き出した。瞳を伏せ、天パの頭を左右に振る。それから重々しく右手を持ち上げ、僕の肩をぽんと叩いた。
……なんかものすごくムカつくんだが。
「大丈夫だ、若者よ。青春の憤りは、次の体育でボールにぶつけてこい」
「それは僕が運動全般だめだということを知った上での嫌がらせか」
「じゃあオタクらしくパソコンにぶつけてこい」
それはそれでイヤだな。
というか、オタクはお互いさまだ。ぐっちゃんは新聞部の自称エースで、ウソみたいな話だが、本当に常にカメラと小型録音機を携帯している。最新ニュースはネットに流れた瞬間に把握、もちろん地域ネタや桃校ネタにも深く通じている。
僕は梅干しのタネを吐き出した。完食だ。ブルーの袋に弁当箱を戻す。
もう、昼休みは終わろうとしていた。軽い胃痛を覚えたが、次の授業の準備をすべきだ。僕はロッカーに弁当箱を突っ込み、代わりに体操着を引っ張り出した。
ただでさえ憂鬱な体育の授業は、もはや精神修行の域にまで到達しようとしていた。
女子は屋外でテニス。男子は体育館でバスケットボール。──の、はずなのだが。
「太一さーん、がんばってくださーい!」
体育館二階の手すりから身を乗り出し、細い声を張り上げて、あろうことか名指しで僕を応援する桜坂下桜子。
嫌がらせですか。そうですか。
体育の授業は男女別で行われるので、二クラス合同となる。その分、体育館の男子密度はあたりまえだが高くなる。野郎どもの視線が熱い。間違えた、痛い。
どうしてこっちにいるんだ、桜坂下。テニスはどうした、桜坂下。そこまでして僕に胃痛を与えたいのか、桜坂下。──いろいろつっこみたいが、きっとつっこんでも無駄なのだろう。
深く関わらないべき、とだれもが悟るのか、痛い視線は感じるものの、口に出してあれこれ非難するものはいなかった。僕の知る限り、校内でもっとも恐ろしい体育教師、鬼のケンイチ──略して鬼ケンも、これといった注意もなく黙認している。どう考えても、この世の中は美人に弱い。間違ってる。
「よう、眼鏡くん。おまえ、さぞかし華麗なシュートを決められんだろうな」
「カノジョの応援があるもんな。今日はこいつにボール送ろうぜ」
嫌がらせが新たな嫌がらせを呼んでいた。
どうやらビジュアルにそれなりに自信のあるらしい面々からの、いわれなき中傷。くそう、胃が痛い。もうこれ、保健室とかに逃げようかな。そんなこといいだす勇気はないが。結局、黙って耐えるしかないのだが。
この苦しみをあとで小説に役立ててやる。覚えてろよ。
……我ながら暗い。
笛が鳴った。ボールが高く高く放たれる。両チームのやり手が同時に床を蹴り、試合は始まった。
黄色ゼッケンがボールをゲット。そのままドリブルに入ると見せかけて、ブロックの合間から味方へパス。パスを受けたイケメンは、右足を軸に円を描くようにくるりと回って敵を回避、身を屈めてドリブルを開始した。数メートル進んだところで、前方を見る。前方に控えている味方といえば……──
僕ぅ?
「いけ!」
鋭い声とともにボールが投げられる。避けるわけにもいかず、キャッチしようと手を伸ばしたものの、ボールは僕のどっちつかずの指にはじかれ、結局は青ゼッケンの手中に収まった。しまった、失敗した。っつーか頼むからパスしないで欲しい。
「ちっ」
イケメンのあからさまな舌打ち。さすがにもうしわけない気持ちがちらりとよぎる。──とはいえ、僕にパスしてもどうにもならないだろうって予想ぐらいつくだろうに。
「太一さん、ファイト──!」
桜坂下の余計な声援が降り注ぐ。プレイヤーたちが、かすかに殺気だった。
勘弁してくれ。胃が、本当に胃が痛い。
「そらよ、タイチさん!」
いつのまにか、黄色ゼッケンがボールを取り返していた。味方であるはずの彼は、皮肉めいた声をかけ、わざわざ遠くの僕にパスをよこす。さすがに、今度こそ繋げなければならない。
しかし、僕の目の前で、ボールは別の人物にかっさらわれた。敵に取られたのかと思えば、キャッチしたのは同じく黄色ゼッケンだった。そいつはそのままこちらを向き、至近距離でボールを構え──
──ちょ、ちょっと待て!
僕っ? そこから?
「いいとこ見せろよ!」
投げつけた。
構える余裕も、避ける余裕もなかった。
ボールは眼鏡の上から、顔面に直撃。そのまま鈍く跳ね返る。反発し合ったかのように、僕の脳みそも反対側にはじき飛ばされた気分だ。頭がぐわんぐわんと鳴っている。
イジメ。これはもう、軽いイジメなんじゃなかろーか。
イジメ、よくない。
「太一さん!」
桜坂下の悲鳴が聞こえる。ボールがぶつかったのは顔面のはずなのに、なぜか後頭部が痛い。見えるのは、体育館の天井を支える、金属の骨組み。ああ、倒れたのか。
なんなんだ、昨日からどうなってるんだ。
僕が何か悪いことしたってのか。これはなんの罰だ。
「なんて情けない」
忌々しく吐き捨てるような声。ほとんど見えなくなった視界に、男の顔が入り込んでくる。高校生ではない。なんだ、この巨体。どっかで──
──そこで、意識は完全に途切れた。
これが失神てやつか。なんて貴重な初体験。
*
散々な一日が終わろうとしていた。
目を覚ますころには六限も終わっていて、桜坂下が心配そうに僕を見ていた。そのまま、行きと同様、中身があるんだかないんだかよくわからない会話をしつつ、帰宅。
そして、夜。
母さん特製の胃に優しい麻婆豆腐を食べ、デザートのアイスは丁重にお断りして、僕はベランダに出ていた。
木村家は、たいして立派でもなく、しゃれているわけでもなく、どちらかというと古いマンションの三階にある。どこにでもあるマンションだが、僕が唯一気に入っているのはベランダの広さだ。この妙に広いベランダこそが、母さんがマンション購入に踏み切った理由であり、それを裏付けるかのように、ベランダは母さんのやりたい放題の所行によってプチジャングルと化していた。
通販でゲットしたらしい、木製のベンチに腰を下ろす。考えるべきことはいろいろあるような気がしたが、頭が働かない。
空を見上げた。
星は見えなかった。近所のビデオ屋とコンビニのせいなのか、それとも曇っているからなのか、それすらよくわからない。
「どうしたもんか」
実のところ、たいして考えているわけでもなかったが、そうつぶやいていた。もちろんひとりごとのつもりだったが、ソプラノ音がそれに答えた。
「どうかなさったんですか?」
桜坂下だ。ちらりとそちらを見るころには、桜坂下はベランダの戸を閉め、ごく自然な動きで僕の隣に座ろうとしていた。
さりげなくさりげなく、距離をとる。話題、そうだ、なんか話題を。
「食器、洗ってるんじゃ?」
思いついたのはそれだった。夕食後、母さんに自ら手伝いを進言していたはずだ。
「だれに聞いてます?」
「だれって。この状況なんだから──」
「聞こえません」
そういって、そっぽを向いてしまう。なんだなんだ、どういうことだ。
イジメ、やっぱりこれはイジメか?
「じゃあ、いいけど」
別に食い下がる必要もなかった。僕はおとなしく、空に視線を戻す。
こいつと話すと混乱することばかりだ。話さないっていう選択肢が最良だ。
しかし、両の頬をがっしりとつかまれた。ぐい、と力任せに、桜坂下の方を向けられる。あああ、なんという強制スキンシップ。ムンク状態ですけどいいですか。
「太一さん。じゃあいいけど、なんてこと、ありません。私の名前、まだ一度しか呼んでいただいておりません。桜子とお呼びくださいと、申しました」
どうやら怒っているようだった。なんでそんなことで、ここまで。
彼女のいっていることはわかるが、やはり抵抗がある。女の子の名前を呼んだ前例などほとんどないのだ。
「……桜、子さんは、食器はどうしたの」
できうる限り流ちょうに、いい直した。くそう、第二言語でも操っている気分だ。
なにか皮肉めいた返答を予想したが、桜坂下はくすぐったそうに肩をすぼめて、小さく笑った。
「お皿を三枚割ってしまった時点で、お母様に泣きながらやめてくれといわれてしまいました。難しいですね、食器洗い」
「……僕でももうちょっとうまくやるけど」
「そうなんですか? 太一さんは、できる男なんですね」
できる男って。なんだ、その語彙。
宇宙人説が真実かどうかはともかく、やはり見た目どおりのお嬢であることは間違いないらしい。食器を三枚か。壮絶だ。
「それで、何を悩んでいらっしゃったんです? どうしたものか、と聞こえましたが」
ここへ来て、話題を戻してきた。僕はちょっと考えた。すぐに答えが浮かばなかったのだ。
そうだ、星空を見ていたんだ。改めて聞かれてみれば、先ほどのつぶやきの対象が、文芸部に提出しなければならない小説のことだったのだと、自分で納得する。提出期限は来週の月曜だ。今日一日、忘れていた。
「文芸部に出さなきゃいけない小説で……条件は、星空の情景を入れること、なんだ。星なんか見えないから、どうしたもんかな、って」
そう説明すると、桜坂下は首をかしげた。
「どうしてそれで、困るんです?」
「どうしてって……作中に、具体的な星の名前も組み込まなきゃならないんだ。星の知識なんかないし、見上げても星なんてないし──」
「星の知識がなくちゃ、実際に見えなくちゃ、いけないんですか?」
桜坂下は、純粋に不思議そうな顔をしていた。なんだか、答えられなくなってしまった。
桜坂下のいっていることは、よくわからない。よくわからないのだが、なんだろう、なにかひどく重要なことをいわれたような気がする。
「『ボクとキミのコイ』、とってもおもしろかったです」
さらりと話題を変えてきた。
僕は思わず苦笑する。昼間のやりとりを思い出したのだ。
「リアリティのかけらもなかったんだろ」
「でも、夢がありました。リアリティなんて、なくても」
どきりとした。そんなことをいわれたのは、初めてだ。
おもしろかったと、友人や部のメンバーにいわれることはある。けど、この場合は、ちょっと事情が違う。
こんな間近で。目を、輝かせて。
な、なんなんだ、この急浮上。また突き落とされるのか。期待するな、期待するな、木村太一。
「主人公の『ボク』は、両親を亡くしてひとりで生活する不幸少年。とりたてて頭がいいわけでも、顔がいいわけでもない。そこへ訪れる、大富豪の娘である『キミ』。現実にはありえないような事件の数々を乗り越えて、結ばれる二人……──このお話を読んだとき、最初は、あんまりのご都合主義に頭にきたんです。そんなストーリー、あるはずないって。でも、私、いつのまにか物語に引き込まれていました。何度も読み返しました。なんだか、キラキラしているんだって、気がつきました。お話が、自分で光ってるみたいに」
自分の小説について目の前で語られるのは恥ずかしいものだったが、それよりも嬉しさが勝った。どうやら、ヨイショしといて突き落とす、という下心はないようだ。
こういうとき、どういう顔をすればいいんだろう。なんだか居心地が悪い。
手放しで褒められるよりも、響いた。実のところ、僕は自分の文章力やストーリー構成にそれほど自信があるわけではない。まあ、文芸部のエースと呼ばれ、オレにマカセロ的な態度をとっているわけだが、実際はいつも不安なのだ。
僕の書きたいものは、本当にこれなのか。
僕が描きたかったのは、本当にこうなのか。
「ほら、あの星、見えます?」
桜坂下が、夜空の一点を指した。はっと我に返り、指先を追う。
月さえない、どんよりとした空。
「……見えませんが」
「見えますよ。ちゃんと見てください。一番輝いているのが、タンポポ星。その隣の小さいのが、スミレ星。もっと向こう側の──ほら、あれです、あのちょっと赤みがかったのが、バラ星です。スミレ星とバラ星は仲良しなんですよ。三つを合わせて、お花座っていうんです」
「それ、適当にいってない?」
思ったままを口にしていた。別に星の知識などなくても、一般常識レベルで、おかしいとわかる。
「私の星では、そういうんですよ」
……本当かよ。
なんともいえない顔をする僕にはかまわず、桜坂下は続けた。なにもない空を指し示しながら、星の名を唱えていく。あの星とあの星は夫婦だ、とか、昔は仲良しだったがいまでは喧嘩ばかりだ、とか、実は生き別れの兄弟だ、とか……そんなストーリーまでくっついてくる。
そのうちに、星が見えるような気がしてきた。途切れることなく飛び出す、星や星座の名。そして、その逸話。
星が見えなくても。星の知識がなくても。
いくらでも、想像することができる。いま、桜坂下がそうしているみたいに。
……なんだか、変な気分だ。小説を書き始めたばかりのころは、僕だってこんな目をしていた気がする。いつの間に、こっち側に来てたんだろうか。
ネタが尽きたのか、そのうちに桜坂下の勢いがしぼんでくる。ちょうど、そろそろ部屋に入れという母上の指示が聞こえてきた。
もう夏も近いとはいえ、さすがに夜は冷える。ただでさえ僕は病み上がりだし、相変わらず桜坂下はノースリーブ姿だ。風を引くのもバカらしい。
「入るか」
腰を上げる。
しかし、何かをためらうかのように、桜坂下はうつむいてしまった。手を差し伸べるのもなんなので、そのまま待つ。なんだ、どうしたんだ。
十数秒。じりじりと、時が過ぎる。
その短い間に、さっきまでのぜんぶが、少しずつ虚実に変貌していくようだった。熱を逃さないままに、家のなかに入ってしまいたかった。しかし、ひとりでそうしたって、何の意味もない。まとわりつくような、妙な浮遊感。
居心地の悪い沈黙を挟んで、桜坂下は顔を上げた。
「太一さん」
ひどく思い詰めたような顔だ。嫌な予感がした。
彼女の口から出たそれは、浮上してしまっていた僕を突き落とすには、充分なものだった。
「ごめんなさい。私、太一さんのこと、大嫌いです」
それから、数日間が過ぎた。
桜坂下は毎日学校についてきて、僕の行くところ行くところに顔を出した。
初日のゴタゴタから容易に想像できたとおり、僕の周囲は決して穏やかではなく、嫌がらせが嫌がらせを召還しまくる悪循環。当然のように、僕の執筆はまったく進まなかった。
そうして、桜坂下桜子は──
──これについてあまり深く考えたくないのだが、必ず毎日、僕に告げた。
ダイキライ、と。