木村太一と白ワンピース。
そうですか、それじゃ、といい残し、僕は超特急で家に帰った。漫画的にいうと、道路をいく自動車を追い越すぐらいの勢いで。
好きです、ならともかく、嫌いですってどういうことだ。しかも、大がついていた。すなわちダイキライ。
誓って、知り合いではない──と、思う。宇宙人です、と自己紹介をするような知り合いはいない。
「夢だ……」
窓から差し込んでくる朝日に目を細め、そう断定した。
夢だ。そういうことにしよう。
病み上がりで、夢が妙にリアルに感じられてしまっただけだ。三日半も寝込むものではない。
一晩たってしまえば、強烈だった記憶も薄れていた。人に話したところで、だれも信じないだろう。オレ宇宙人にダイキライっていわれたんだゼ、などと。ちょっと話してみたい気もするが。
眼鏡だけ引っかけて、よろよろとベッドからはい出る。四日も休んでしまったが、今日はもう学校に行こう。行くべきだ。熱ももう完全に下がっている。
とにもかくにも、朝ご飯。僕の一日は、それがなければ始まらない。胃腸が弱いということは、一生朝食と付き合っていかなければならないということだ。食べなかったりしようものなら、昼食時に一発ケーオーされてしまう。
部屋を出て、母さんが朝食を用意しているはずの台所へ向かう。食卓では父さんが難しい顔で新聞を読んでいて、母さんが慌ただしくなにやら準備に追われていて──その光景を疑いもせず、僕はガラス戸を押し開けた。
絶句した。
「………………っ、──……?」
見事に声にならなかった。
あるはずのない、何かがある。いや、あるではなくて、いる、が正しい。だがそんなことはどうでもいい。
昨日見たのと同じ、ノースリーブのワンピース。光の下だとより魅力的な、黒く長い髪。
桜坂下桜子。
父さんの隣で、ごく平然と、みそ汁をすすっていた。
「…………えええ?」
人間の語彙の限界を感じた。
それしか言葉が出ない。
とけ込んでいる。恐ろしくあたりまえに、そこにいる。
そうだ、僕の名前を知っていた……ひょっとしたらものすごくタチの悪いストーカーとか、そういう類なのだろうか。いやまて、実は父さんの知り合いのお嬢さんとか、遠い親戚とか、生き別れの兄妹とか。
混乱する僕をよそに、母さんがいつものテンションで、こら、と言葉を投げてきた。
「朝起きたら、おはようでしょう」
そこ?
「いや、ちょっと待って、母さん。えっと……できれば、説明が、欲しいんだけど」
「ああ、桜子さん? 父さんの知り合いのお嬢さんですって。六月の間、うちで一緒に暮らすことになったから」
ああ、ほら。
そうだ、やっぱりそういうことだ。
現実的には、充分にそれってどーよという展開だが、宇宙人よりははるかにましだ。
「おはようございます、太一さん」
にこりと微笑まれてしまった。ダイキライ、が蘇る。
とはいえ、僕はもう十七歳だ。ここは大人の対応をしてやろうじゃないか。
「……おは、よう」
ハードボイルドに告げた。声がちょっと裏返ったのは気のせいだ。
ごく自然な動きで、僕も食卓についた。すかさず、母さんがご飯とみそ汁、焼き海苔を差し出す。
向かい側の父さんが、新聞を折りたたむ。別に僕を待っていたわけではないのだろうが、食事に手をつけはじめる。
「父さん。知り合いって、どういう?」
一応聞いてみた。それぐらい、聞く権利があるはずだ。
「ああ……ちょっと、ちょっとな」
明らかに動揺した。
箸で白米をつまみ、みそ汁に投入している。
「……父さん?」
「お父様、紹介してくださいませんの?」
優しい声が、しかし否といわせない圧力を持って、やんわりと促す。くださいませんの、ときたか。見た目もそうだが、ずいぶんとわかりやすいお嬢キャラだ。
「ああ……ええと、彼女は、桜坂下桜子さん。父さんの、古い友人の娘さんだ。そのう……──」
「宇宙からいらっしゃったのよね」
さらりと、とんでもないことを、母さんがいった。
うちう。
僕の脳裏に、コスモが広がる。
「…………正気で?」
「正気です。昨夜も申し上げました。信じていらっしゃらなかったんですか?」
父さんに聞いたのだが、答えは桜坂下から返ってきた。
それでも、僕は父さんを見続けた。
父さん。
どうか。
嘘だといってください。
「昨日……地球に到着したそうだ。おまえとは同じ歳だ、仲良くやりなさい」
「どこから」
「どこって」
父さんが目を逸らす。僕も引き下がる気はない。
なんだかファンタジーな事態に巻き込まれようとしている。もしくは、壮大なスペクタクルの渦中にいる。または、みんなでよってたかって僕を騙している。
父さんは、決して視線を合わせようとはせず、ハスキーボイスを絞り出した。
「……エム、七十八星雲から」
なにぃぃぃぃ。
ウルトラなお嬢さんですとっ?
な、ならばしかたな…………くない、待て、混乱するな!
まったく空気を読まずに、桜坂下桜子が、にっこりと笑顔を向けてくる。
「六月末までの一週間、短い期間ですが、今日から、太一さんと同じ高校にお世話になります。一緒に登校しましょうね」
僕は、全力で机を叩いた。
「断る! そういう悪質な冗談は気に入らない! だいたい、君は僕のことを大嫌いだと、昨夜そういっていただろう! それがどうして、一緒に暮らす、一緒に学校に行く、ということになるんだ! しかも宇宙人って! 宇宙人ってどういうことだ! いいか、いまどきどこのメディアを探してもそんな設定はない。まずない、有り得ない。そこまでリアリティのないものはウケないからだ。根本から見直してこい! 世界中が許しても、将来物書きを目指すこの僕が、そんな設定許さん────!」
──僕は、桜坂下桜子と並んで歩いていた。
いいたいことはぜんぶごっくん完食した。
物書きなんてやってるやつらは、大半がいいたことをいえない性分なのだ。いやごめんなさい偏見です。少なくとも、僕はそうだって話。
ちらりと、隣を見る。
何やら上機嫌で歩いている、楚々とした令嬢。昨日の今日で準備できなかったということなのかなんなのか、ノースリーブの白ワンピースのままだ。しかも手ぶら。
長い髪がゆらゆらと風に踊っている。細い糸のようなそれが撫ぜるのは、まっすぐに伸びた背筋。顔を上げ、前を向き、自分の歩幅で歩いている。
僕の持っていない、けれどひどく大切な何かが、ひとの形をしてそこにあるかのようだった。目眩がしそうだったので、視線をはずした。おかしな魔法にかかりそうだ。
僕の通う私立桃ヶ丘高校は、自宅から地下鉄で十分、駅からさらに徒歩十分程度。中学と高校が同じ敷地内に同居する、マンモス校だ。二つのエリアの中心には大ホールと呼ばれる建物があり、合同のイベントも時々行われる。そんなわけなので、駅を出てしまえば、中学高校とを合わせた生徒ばかりになる。
僕はビシバシ視線を感じていた。当然だ。さえない学ラン眼鏡と、白ワンピースの美人が一緒にいれば、だれだって興味を持つ。
「桜坂下さんは、こっちに何しに来た、の」
ただ黙っているのも、限界だった。僕はどうにかして、話題を捻出した。んですか、といいたいところをむりやり修正。さすがに敬語はおかしい。
「桜子でかまいませんよ」
「……じゃあ、桜子さんは」
「気になります?」
彼女は微笑んだ。ダイキライなわりには、好意的だ。
そんなものはあたりまえに気になる。宇宙から来たといわれ、はぁそうなんですかふぅぅん、で納得できるほど、僕は器のでかい人間じゃない。
とはいえ、気になると正直に答える度胸もないのだ。情けない。
「太一さん、文芸部の部長さんでいらっしゃるんですよね」
黙っていると、向こうから話題を変えてきた。なんでも知っているらしい。
そうだ、原稿どーすんだ。忘れてた。
「一応、そうだけど」
「インターネット上で公開もなさってますよね。読みましたよ、『ボクとキミのコイ』。リアリティのかけらもない設定、完全にご都合主義の展開。大変よくできたお話でした」
……おおっと。
いまさらりと傷つくことをいわれた気が。
たしかに『ボクキミ』は僕が書いた小説だ。うちの文芸部はホームページを持っているので、そこに掲載もしている。
「……君の星からも、こっちのインターネットがのぞけるの?」
皮肉のつもりだった。桜坂下は、ええ、とうなずく。
「地球のインターネットをのぞくのが、いま大変流行しているんです。そうして、気になった方、気に入った方の日々の暮らしを、観察するんです。地球ウォッチといいます。最初に申し上げましたでしょう、あなたをずっと見ていた、と」
……マジですか。
真偽はともあれ、僕は想像してみた。
宇宙にあるどっかの星で、地球ウォッチをする宇宙人たち。そして、僕の小説『ボクキミ』を読んで、僕に興味を持った桜坂下桜子。僕の生活を観察し……──至った結論がダイキライ。なのにわざわざ僕のところまでやって来て、こうして並んで歩いている。
──ムリだ。父さんの知り合いの娘だから、っていうのをここに加えても、ムリだ。どう考えても非現実的。
「ようよう、にーちゃんよう」
そう、こんなセリフをリアルでいわれるぐらいに有り得ない話だ。いまどき、ガラシャツにサングラスにリーゼントで、にーちゃんよう、って。いやいやいや。ないないない。
「ようよう、聞こえてんだろーがよう。そこのメガネのモヤシくんよう」
いやいやいやいや。
そうだ、これは夢だ。
おかしい。おかしいよね。絶対にこれはおかしいよね。
「聞こえてんのか、ああ?」
「き、聞こえてます!」
胸ぐらをつかまれ、僕は両手をあげた。なんて理に適ったポーズだろう。降参です、を全身でアピール。
その体勢のまま、完全にフリーズした。
いまやテレビでも見ないような「キケンなヒト」が、剣呑な目つきで僕を見下ろしていた。小柄な僕の五倍──人並みな父さんと比べても、その三倍はあろうという巨体。ガラシャツの上からでも、筋肉が盛り上がっているのがわかる。色のついたサングラスごしに見える、ぎょろりと半分飛び出したような、自己主張の強い目玉。それが、不快感を露わにして僕に向けられているのだ。
下腹が悲鳴をあげた。ああ、こんなときでもまず胃にダメージ。
「にーちゃんよう、コーコーセーの分際で、こんなマブイねーちゃんつれてどうしようってんだ。二人でイチャイチャ授業でも受けようってか? なめてんなよ、ああん?」
「い、いえ、そんな」
ことはもにょもにょもにょ。
舌がうまくまわらない。なんてこった。昨日から僕はおかしい。いや、僕のまわりがおかしい、確実に。
このおっさんのイチャモンもわけがわからない。桜坂下といっしょに歩いているのが気に入らないって、要するにそういうことか?
筋肉隆々の右手で軽々と持ち上げられてしまった。チッスができそうなぐらいに顔面が近い。ああ、目を逸らしたい。きっと逸らしたら怒られるんだ。いっそチッスしたら見逃してもら……──いや、その時は命がないと思え、僕。
「きゃ、やめてください!」
悲鳴に、反射的にそちらを見た。
ガラシャツ男は一人ではなかったようだ。似たような風貌の大男が二人、桜坂下に群がっていた。
「ねーちゃんよう、学校なんてやめて映画でも観に行こうぜえ」
「んまいもんでも食いに行こうぜえ」
「やめてください! 助けて!」
……なんて状況だ、これ。
こんなならず者っているもんなのか? いきなり女の子をつかまえて、映画やら食事やらに誘うもんなのか? こんなところで?
もう、学校まではあと少しってとこだ。制服の連中がうろちょろしている。だれかが先生呼びに行ったり、警察呼んだり、そんなアクションを……
……期待できないことがよくわかった。
だれとも目が合わなかった。
ちょっとまておまえら──と、思わずツッコミそうになる。
スクールメイトであるはずの少年少女たちは、みごとに僕らを避けてずんずん前進していた。障害物にもめげずに流れ続ける川のようだ。
だれもこちらを見ていない。というより、明らかに目を逸らしている。あさっての方向を見て歩いていくもの、わざわざスクールカバンで顔を隠してそそくさと通過するもの。
お、あの天パはぐっちゃんだ。
おい!
君の友人が、なにやら世の中の不条理に巻き込まれております!
どうか!
恵まれない僕に、愛の手を──!
「百面相だな、にーちゃんよう。どうした、カノジョ助けなくていいのか?」
再びチッス距離にまで顔を近づけて、ガラシャツが囁いてくる。助けを求めることもできず、悲鳴の類すら声にできず、もちろん桜坂下を助けようなんて思いつきもしない自分が情けない。
くそう、せめていってやりたい。その色メガネ似合ってねーよ、ガラシャツも時代遅れなんじゃねーの。よくみれば、父さんといい勝負の中年じゃねーか。
「なにかいいたげだなあ?」
「いや、そんな」
急いで首を振った。処世術ってやつだ。
「ちっちぇぇにーちゃんだな。カノジョも助けらんねーのか」
「いやあ」
そんなこといわれても。
このまま見つめ合っているのはツライ、それだけの理由で絡まれ中の桜坂下をちらりと見る。最悪なことに、目が合った。大きな瞳が潤んでいる。
見るんじゃなかった。なんて顔してんだ。
「太一さん!」
呼ぶなぁぁぁ。
続きが予想できて、僕はもう両手で耳を塞いでしまいたかった。しかし、そのまま逸らすことなどできない。耳を塞ぐことももちろんできない。
桜坂下の目から、涙がひと筋流れる。
「助けて……!」
あああ。
いってしまったか、その禁句。
僕は目を閉じた。ほんの刹那の瞑想。どうするべきだ、どうするべきだ?
僕だってオトコノコだ。女の子が泣いて助けを求めているのならばなんとかしたい。というかこのままなんともできないのはかっこ悪すぎる。とはいえ、腕力には自信満々で自信がない。まず勝てない。
こんなとき、僕にはなにがあるんだ? 僕にあるのは、小説と……漫画とゲーム。うおお、頼りない。いや、しかし、まさに二次元的な展開なわけだ。こんなとき、どうする? キャラクターはどう動く? 作者なら……僕なら、人物をどう動かす?
──これだ!
浮かんだ案は、残念ながら、僕が作者ならありきたりすぎて却下したであろうものだった。だが、この場合はそんなことはいってられない。
タイミングをはかろうと、ガラシャツを見る。だが、タイミングも何もあったもんじゃない。こういうのは決意の問題だ。生唾を飲み込んで、僕は動いた。
ずっと降参ポーズだった右手をさっと下げ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。手元を見ずに片手で開いて、四桁の数字を入力し、ロック解除。普段から使いこなしている指先の感覚を信じ、四つのボタンを押した。一、一、〇、発信。
「なんだてめえ、ケータイなんか出して助けを呼ぼうとしたって……」
「助けてください、殺される!」
携帯電話を持ち上げ、できるだけ明瞭に、それだけ告げた。ガラシャツ男が舌打ちし、右手を打ち払うようにして僕の身体を放り出す。僕はアスファルトに背中を打ち付けた。痛い。衝撃で眼鏡がずれるが、いまの僕にはそれを直すだけの余裕があった。
「クソガキ、だれに電話かけやがった」
男が携帯電話を取り上げる。黙っていてもよかったが、僕は教えてやることにした。
「警察です。し、知ってますか、最近のケータイからだと、かけただけで位置わかるんですよ」
カッコつけるには絶好の機会だったのに、ちょっと噛んだ。でもまあ、上出来だ。
ガラシャツは、ほんの一瞬、驚いたような顔を見せた。頬の筋肉が、すぐに不快そうに歪む。
「……警察」
どちらかというと無感情に吐き捨てて、僕と桜坂下とを見た。数秒の沈黙の後、携帯電話を地面に叩きつけると、行くぞ、と一声発して歩き始める。桜坂下に群がっていたガラシャツ二人も続き、そのまま去っていった。
なんというか、予想とは違う反応だった。バカにされたというか……おかしな話だか、見放されたような気分になった。
いや、でも間違ってないはずだ。良くやった、自分。
尻の砂を払って、携帯電話を拾い上げる。周囲を見回すが、徹底してだれもこちらに注目していない。何ごともなかったように歩いていく制服の群れ。
桜坂下は、ワンピースが汚れるのも厭わず、アスファルトに座り込んでいた。口を開け、呆けたような顔でこちらを見ている。頬がほんのりと赤く、前髪が額に張りついていて、汗ばんでいるのがわかる。その姿を前に、なにやら妙に緊張したが、放っておくわけにもいかない。僕は右手をズボンで拭って、一応、差し出してみた。
「だい、じょうぶ?」
ええい、なぜもっとスマートにいえんのか。
桜坂下の潤んだ目が、僕の右手に落ちる。イヤな沈黙。ひ、ひっこめたいがタイミングが難しい。
「ありがとう」
僕が手を引く決意を固めるよりも早く、桜坂下は目を細め、やわらかく微笑んだ。その、白いワンピースに負けないぐらいに白い手が──僕とは別の生物みたいに、ひたすら細くて小さな手が、無骨な手を握った。
意識と関係のないところで、心臓が絶叫する。あたりまえだ、心臓っていうのは循環器官なわけだから、無意識に活動を……だってこんなふうに笑って手を握られたらだれだって…………ああ、混乱してきた。
おかしなぐらいに動悸息切れが激しくなっていた。病気、病気だ。これはやばい。だれか救急車。
「警察に、通報したんですか?」
僕の手を引くようにして立ち上がって、桜坂下が小首をかしげるようにして聞いてくる。現実を思い出して、僕は混乱から距離をおくことに成功した。
「知りませんでした。携帯電話からの通報だと、場所をいわなくてもいいなんて」
「最近のは、IP電話っていって……」
いいながら、さりげなく右手を離す。何かのいいわけを探すように、携帯電話をもう一度取り出した。
……あれ?
変だな。まだロック状態のままだ。
「どうかなさいました?」
「いや……電話、してなかったみたいだ」
ロックを解除して、発信履歴をチェックしてみる。最新の履歴は、一週間ほど前に自宅にかけたものだった。ロック解除の段階で失敗していたらしい。情けない。
ふと、疑問に思う。ガラシャツ男は、通報が成功していないことに気づかなかったのだろうか。──でもまあ、結果オーライだ。