木村太一と宇宙人。
僕は悩んでいた。
提出期限は月末に迫っている。少なくとも今週中には、荒削りでもなんでも書き上げなければならない。
文芸部で定期的に発行される部誌、『のべるん』。そこに掲載すべく、提出が求められているのは二万字以内の短編小説。
それだけのことなら、笑ってしまうぐらいに簡単だ。やろうと思えば一日で書ける。
ただし、今回は少しばかり事情が変わっていた。
『本文中に、必ず星空の情景を入れること』──これが、条件なのだ。
絶望的な気持ちで、夜空を見上げた。目を細め、懸命に、そこにあるはずのものを見ようとした。
「……無理だ」
思わず、つぶやきがもれる。
だって、星なんか見えない。星空ってナニ。
今度のテーマは、その名も「星に願いを」。七夕に合わせての発行が決まっている。僕の所属する文芸部は、総勢三十二人。うち、実際にものを書いているのは六人。僕は二年生にして部長を務める、文芸部のエースだ。
期待されている。
へたなものは書けない。
だからこそ、こうしてわざわざ、星の見えそうな河原まで自転車を走らせてきた。星空の情景を描写するために、実際に見ておこうと思ったのだ。
僕は、ポケットから手のひらサイズのメモ帳を取り出した。インターネットで調べた星座の名が、走り書きされている。
「こと座のベガ……はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル。で、夏の大三角……あれ? いまって夏?」
もうそこからわからない。
見上げた先で自己主張をしている星は、たったの三つだ。まあ、三角に見えないこともない。ということは、あれが、夏の大三角なのだろうか。
なんだか、ばかばかしくなってきた。
山にでも登らないかぎり、星など見えない。わかっていたことだ。しかも、六月といえば梅雨。雲が絶賛隠し中。
満天の星空なんて、プラネタリウムでしか見たことがない。まったく、むちゃな課題を提示してくれたものだ。
今日は六月二十二日、日曜日。しめ切りは今月末──つまり、あと一週間あまりだ。僕は焦っていた。木、金、土と風邪でまったく動けず、パソコンに向かうどころではなかったのだ。今日だって、昼までは完全にダウンだった。やっと動けるようになり、ここまでやってきたというのに。
こんなことなら、家でパソコンを開いている方がましだった。時間を無駄にしてしまった。
「星を、見ているんですか」
不意に、声がした。
僕が話しかけられているなんて、まったく思わない。女性の声だったからだ。
そちらに目をやることもなく、草臭い芝生に寝転がったままで、空を見続ける。とはいえ、耳はダンボだ。……ダンボって古いな。
だが、だれも返事をしない。
っつーか、いまこの河川敷にいるのは僕ぐらいだ。──あれ、これ、もしかして、もしかする?
鈴の鳴るような声──ありきたりだが、その形容のぴったりとハマる上品な声だ──は、遠慮がちに続けた。
「木村太一さん、ですよね?」
──心臓が止まるかと思った。
僕だ。
木村太一。これでもかと平凡な、僕のフルネーム。
実は僕は、幼少のころからテレビや雑誌に引っ張りダコの超ナイスなクールガイ──なわけはもちろんなく、物心ついたときから眼鏡で、ラッパのマークが手放せない胃弱で、ひょろりとしたもやし体型で、三次元の女性とは無縁で、パソコンに向かわないといいたいこともいえない、将来ニート有望の、内弁慶だ。……動揺のあまりちょっといいすぎたが、ほとんど的確に、以上が僕の人物像。
そんな僕に、なぜ声をかけるのか。
声の主を見る勇気が、どうしても出ない。
落とし物か? それともドッキリ的な? いやいや、僕をドッキリさせてだれが得するんだ。
「あのう……」
モロドッキリした。
あろうことか、声の主が、僕の顔をのぞき込んできたのだ。
ノースリーブの白いワンピース。さらりとこちらに流れてくる、長い黒髪。人差し指でそれをすくい、耳にかける。無意識に目で追うと、大きな瞳、控えめな唇が視界に入った。
完全に、混乱した。
どういう状況なのか、わからない。
そっちの方面に疎くてもわかる、十人中十人が美少女というであろう逸材。これはどういうことだ。僕は試されているのか? 試練? 乗り越えたらレベル上がるとか、そういう?
いやレベルって。だめだ、落ち着け。セルフツッコミしている場合じゃない。ここはとりあえず、なんでもいいから言葉を返すべきところだ。うんとかすんとか。すんじゃだめだけど。実際にすんとかいうやついないだろうけど。
「うん」
ぬおおお。それか。よりによってその選択か! むしろすんの方が、まだ! ネタ的に!
宇宙的な僕の混乱をよそに、彼女は安心したように息を吐き出すと、小首をかしげてふわりと微笑んだ。
「よかった。はじめまして、私、桜坂下桜子です」
サクラザカシタ、サクラコ。
僕はもう、何に対してどう反応すべきなのか、わからなくなった。
木村太一と対極に位置する名前のセンスに驚けばいいのか、彼女が笑ったことについて言及すればいいのか、笑顔がかわいいと思えばいいのか、笑顔が眩しいと思えばいいのか、笑顔が魅力的だと思えばいいのか、笑顔が、笑顔が……──ああもう、笑顔しか。
しかし、内心の動揺とは裏腹に、口から出たのはごくまともな問いだった。
「どうして、僕の名前を」
そうだ、そこだ。
よくいった、自分。
彼女──桜坂下桜子は、明らかに、しまった、という顔をした。つい、と目を逸らし、考えるように沈黙する。
寝転がったままもアレなので、僕は身体を起こした。背中についたであろう草の類を払い落とし、彼女の返答を待つ。
「実は」
大きな瞳に真剣な色を宿し、そっと一呼吸。
「ずっと、見ていました」
……いちばんアリエナイ答えが帰ってきた。
「どこから」
僕のこの切り返しもどーか。もう少し何かあるだろうに。何、といわれればわからないが、何か。
しかし、彼女は動じなかった。
「あそこから」
びしり、と上を指し示す。あたりまえだが、見えるのは貧弱な星空。
「……空から?」
「いえ、星から」
──僕は悟った。
この子、ヤバイ子だ。
関わるべきではない。いくらかわいくても。いくら人生初の逆ナンぽくても。
彼女の表情に、なんちゃってテヘ、みたいな雰囲気はない。
本気なのだ。
星から、僕を見ていた、と。
それはつまり──
「宇宙人、とか、そういうことでしょうか」
なぜか敬語になる。
どちらかというと、笑いをとるためというか、場を和ませるためというか……要するに、本気度三パーセント程度の問い。
だが彼女は、重々しいぐらいの間をとって、うなずいた。
「そういうことになりますね。もっとも、私からすれば、あなたが宇宙人ですが」
オーマイガ。
なんということでしょうか、全国の皆さん。
僕はうちうじんに出会ってしまいました。
いやー、最近の宇宙人って、かわいいんですねー。
「ええと……僕に、何か?」
当然、そういうことになる。
僕は非常に複雑な心境だった。関わらない方がいいに決まっている。ということは、特に何も、という答えを期待するべきだ。
とはいえ、ヤバイ子だろうがなんだろうが……甘い何かを、どうしても、望んでしまう部分がある。だってオトコノコだもの。
彼女は頬を赤らめ、うつむいてしまった。
僕は、生唾を飲み込んだ。
これはまさか。
これはまさか。
これはまさか!
意を決したように、彼女は顔を上げた。両の手を握りしめて、震える声で、しかしはっきりと告げる。
「私、あなたのことが、大嫌いなんです」
──だれか夢だといってくれ。