キメダマ☆ドロップ
高校一年生になったときのことだ。
僕らの野球部が地方大会の優勝候補になったのは。
別に特待生を取っているわけでもない学校がそんなことになったのは、ひとえに僕の幼馴染が原因だった。
彼の名前は藩 英斗。
完全無欠のピッチャーだ。
僕らが、というよりは英斗が入学を決めた瞬間、野球部は優勝を狙えるチームになった。
中学の頃から彼はすごいピッチャーだった。
彼のおかげで僕らのチームは全国大会で優勝できたと言っていい。
そして、いくら全国大会だからといっても、中学生の試合で高校のスカウトだけでなく、プロのスカウトまで見に来ているなんていうのも初めて見た。
十五歳ながら、プロでも即戦力として通用する。それが、スポーツ雑誌での彼の評価だった。
そんな彼がどの高校に行くのか、野球関係者はどこも注目していた。
まさか、野球では無名の高校の入学式で彼と一緒になるなんて、思いもしなかった。
クラス分けの掲示板を確認していたら、後ろから声をかけられた。
「また一緒だな」
笑いながら話しかけてくる聞き覚えのある声。
「なんでいるの?」
本当にそう思った。この高校の野球部はお世辞にも強豪とは言えない。
「家から自転車で通えるからさ」
彼がこの高校を選んだ理由は僕と一緒だった。
喜んだのは野球部の監督だ。棚からぼたもちとはまさにこのことと、長年の夢であった甲子園の出場を目指して、選手以上に燃え始めた。
部員たちにも火は燃え移り、二回戦止まりだった野球部はその年の夏の予選でいきなりベスト4にまで躍り出た。
そんなことがあって、とうとう僕らは三年生になった。最後の夏である。
ピッチャーは申し分ないものの、打撃と守備が振るわず、苦渋を飲んできた。だが、それも昔の話。
三年間を費やして、チームの力は底上げされ、総合力は目に見えて上がってきた。雑誌では毎年のようにワンマンチームと書かれ、実際その通りであったのだが、今年は違う。みんなそう思っていた。
三年目の今年、監督は本気だった。年功序列で決めていたスターティングメンバーについて、今年はセレクションを行うと宣言した。三年生の中には、その言葉に動揺するものもいた。
誰だって? 僕だ。
今や注目度抜群のスターチームになんで僕がいるのか不思議だった。運動はもともと特別得意ではなかった。父が野球好きだったから。これ以上の理由はないかもしれない。
学校の体育ですら、平均より少し上くらいの僕だ。セレクションで落とされる上級生がいるとすれば、それは僕ぐらいのものだった。
思えば、不釣合いな場所に僕はずっといた。それは僕の幼馴染のおかげなのだけど。
初めて野球を始めたのは、小学四年生のとき。父がどこからかチームを探してきて、僕は勧められるままに軟式の野球チームに入った。その同じ時期に入ってきたのが英斗だ。
いつだって、彼はヒーローだった。初めはその大きな体格からキャッチャーをしていたのだが、その肩の強さからピッチャーもいいのではと、練習試合で投げさせてみれば、コントロールもよく、いきなり完封試合をやってしまった。
そこから本格的にピッチャーとしての活躍が始まった。たしかに体格は良かった。しかし、彼に関して才能だからと言う気には僕はなれなかった。
ある日のことだ。僕だって上手になりたいという気持ちがあったから、体力づくりのために練習のない日もランニングをすることにした。家の近くの川沿いの道を走っていたのだが、川の反対側の道を英斗が走っていた。ああ、あいつも自主練してるんだ。と、そのときは簡単に思っていたのだが、いつ行っても彼は川の向こう側でダッシュやランニングを繰り返していた。雨の日はもちろん、雪の日や台風の日だって彼を見かけた。彼は努力を怠らない男だった。
小学校の頃の英斗はすごいピッチャーではあったものの、他のチームにも何人か英斗と同じレベルのピッチャーはいた。彼の真価は中学生になってから発揮された。
中学校に上がったとき、また父がどこからか野球チームを見つけて、僕をそこに入れた。中学校の軟式の野球部でも僕は良かったのだが、父が見つけたクラブチームは硬式野球をやっていた。父曰く、今のうちから硬球に慣れておけば高校でも即戦力になれるとのことだった。
そのクラブチームで野球を始める初日。僕と日を同じくしてチームに参加してきたのが英斗だった。小学校のうちからチームメイトであったし、中学校も同じだったから、チーム内では自然と英斗と一番仲が良くなった。この頃ぐらいから学校でも、よく話すようになった。
ある日、英斗がバッティング練習のときに、試したい球があるんだと言った。ピッチャーマウンドに立つ英斗。バッターボックスには僕。何を投げるのかと構えていると投げられたボールはすごい勢いで僕の頭に向かって飛んできた。硬球は本当に硬くて痛い。思わず避けてしまったのだが、キャッチャーをやっていた先輩が今のストライクだぜと言ったのを聞いて信じられなかった。
バッターボックスに立ちなおし、もう一度構えた。英斗がモーションに入る。投げられた弾は再び僕の顔面目がけて飛んできた。また体を反らして避けた。しかし、今度はボールから目を切らないようにした。僕は視力がとてもいい。よくよく見てみるとボールにかなりの回転がかかっているのが見て取れた。そのまま見ていると信じられないほどよく曲がって、内角低めギリギリに入っていった。まさに魔球だった。
ここで投げられたこの変化球が、高校生になった今も彼のウイニングショットになっている。
彼の決め球はドロップボール。
初めて魔球を投げたあの日の帰り道、英斗からその正体を聞いた。
「今日のあの球って何? カーブ?」
「いや、ドロップボール」
「ドロップボール?」
「そ、カーブよりも縦に大きく曲がるのが特徴かな」
「そんなのよく投げれたね」
「教えてもらったんだ」
「誰に?」
「じいちゃん」
彼の野球のルーツがおじいさんにあるのだと、そのとき初めて聞いた。あのとき教えてもらったドロップボールという球種について調べてみると、その名前が使われていたのは一九七〇年までだったと知った。今では、ブレーキングカーブとか、縦カーブとか、そんな名前が主流になっている。英斗にそのことを話すと、それでもドロップって言い方の方が好きなんだと、言っていた。たしかにドロップの方が特別な感じがする気がする。
その後、中学校の試合で使い始めるとその魔球は猛威を振るった。大抵の打者はのけぞって見逃しの三振になったし、頑張って打とうとしたやつも内角低めギリギリの球に打球を詰まらせて平凡なゴロになった。つまるところ、試合でその球をまともに打たれているのを僕は見たことがなかった。
さて、一方の僕はと言うと、小学校の頃から今まで、まさに平凡という言葉の似合う成績しか残せていない。打順は大体後ろの方。小学校も中学校も最終学年になってようやくレギュラーに入れるようなていたらくである。そんな僕でも家族が責めずに応援してくれるのが嬉しかったから野球は好きなのだが。
守備位置はショート。これだけ聞くと守備はうまいのかと思われがちだが特にそんなことはなく普通だ。なんでショートなのかと言えば名前が翔斗だからだ。小学校のときの初めはライトだったのだが、ショートの選手を呼ぶといつも僕が返事をしてしまったので、お前もショートに入れ、ややこしいからと、言われてからはずっとショートをしている。だから特に守備がうまいなんて言うことはないのだ。普通なのだ。
だからこそ今回のセレクションは僕にとってかなりまずい。最終学年だからとたかをくくっていたわけではないが、今まで年功序列であったから、両親には最後くらい試合姿を見せられると思っていた。どうもそうはいかないようだ。これでも必死に三年間頑張ってきた自負はあるので、普通の高校一年生には負けないと思っているのだが、それでも僕は三年生の平均的な実力だけしか持っていない平凡プレイヤーなのだ。
そして、今回レギュラー争いをする一年生の中には、英斗に匹敵するスタープレイヤーがいるのだ。しかもポジションはショート。僕の競争相手は彼だ。冷静に見て、実力は僅差だ。しかし、三年生の実力と一年生の実力が僅差というのはかなり問題なのだ。それはつまり三年生としての平均的能力を一年生のうちにすでに身につけているということだ。私は平凡だが、一年生の彼がその実力を持っているのは非凡である。おまけに彼は私が持っていないパワーを持っていた。ちなみに礼儀正しい男だ。実力の対して変わらない僕にも決して驕ることなく、気を遣ってくれる。これで性格でも悪ければ、ボロクソに言ってやるのだが、そうもいかない。彼はいい奴なのだ。だからこそ正々堂々と戦わなければ。
セレクションの内容は守備、走塁、打撃の三つだ。おそらく、守備と走塁は互角だろう。打撃だ。彼もパワーがあり、得意としているが、打撃でどうにか上回らないと、僕のレギュラー入りはないだろう。
その日は来た。思ったとおり、守備と走塁で大きな差は見受けられなかった。やはり、打撃でどうにか上回らなければならない。
そうこう考えている内にバッティングが始まった。外野の選手から始まって、とうとうショートの選手たちが呼ばれた。ヘルメットやバットなどを準備していると、バッティングピッチャーが変わった。
「おいおい、マジかよ」
ピッチャーマウンドに立ったのはうちのエース様だった。すでにバッティングを終わらせたやつらがほっとした顔をしている。薄情なやつらめ。
だが、やるしかない。小学校からずっと見ているやつの球。あの魔球を打たなきゃ僕に勝ちはない。ここで引き分けても、もともとバッティングの評価はあの一年生の方が上だ。守備や走塁で差をつけていない分、バッティングでは何が何でも打たなければならなかった。
それにしても、と思う。マウンドに上がったあいつは本当に格好いい。普段の人懐っこい笑顔もそれはそれで女性を引き付けるものがあるが、マウンド上のあいつは表情がまるっきり変わって、その迫力が目に見える。睨まれたら死ぬんじゃないかってくらいの鋭い視線だ。傍から見ていて男でも憧れる格好よさだった。
見た目も性格もいい英斗は僕にとって、自慢の友達だったが、一つだけ恨んでいることがある。高校に入って、僕は好きな子ができた。美人で気さくな彼女はクラスの人気者で、当然誰もが憧れた。僕は好きだったが、僕の顔は父親譲りの魚顔で、要するに平均以下だった。初めからあきらめていた。だけど、思ってもないところで接点ができた。学校の班活動だったと思う。偶然にも彼女と同じ班になった。班のみんなで話をしてみると、趣味が同じであることが分かった。僕はジャズをよく聴いていたのだけど、彼女はロン・カーターが好きなのだと言った。マイナーだったかなと、ぎこちなく笑う彼女は最高に可愛かったね。僕はすぐに食いついて、ベーシストの? と、聞いた。彼女が嬉しそうに、知ってるの? って言ってから話が盛り上がった。生まれて初めて女の子のメールアドレスを教えてもらって、それ以来、朝の挨拶をするようになったし、CDの貸し借りもするようになった。要するに彼女にとっての一番の友達になれたわけだ。男子の中で。
そんなある日にメールで呼び出されたんだ。いつもとだいぶ違う雰囲気で、文面から緊張してるのがわかった。もしかして、と思って柄にもなくドキドキした。呼び出しの場所に行くと彼女が一人でいて、僕はいよいよ心臓が破裂するかと思った。彼女は手紙を持っていて、それを僕に渡すんだ。そして、顔を赤らめてこう言った。これを英斗くんに渡してほしいのって。一気に緊張が解けた。ああ、何だこういうことか。
英斗くんと一番仲がいいよね? って重ねて聞かれた。僕はすぐに微笑んで、うん。必ず今日中に渡すよ。って言ったよ。彼女ほっとした顔をしてね。こんなときなのに可愛いなって思っちゃったよ。
彼女と別れたあと、よっぽどこの手紙を破ってやろうかと思った。だけど、彼女の気持ちを踏みにじりたくないし、英斗だって何一つ悪いことをしていないわけだから、そんなことはするべきじゃないと思って、しっかりと英斗に渡したよ。
あいつに渡したら、顔を真っ赤にしちゃってさ。英斗は顔も性格もいいくせに野球バカだし、こういうことにはにぶいやつだったから、初めてだったらしいんだ。こういう手紙をもらうのが、恥ずかしそうなんだけど嬉しそうで。返事があったら伝えるよって僕が言ったら、電話番号を教えてくれって言うんだ。もちろん教えて、頑張れよって言った。その日は家に帰ってからテネシーワルツとジャストフレンドをずっと聞いてたよ。
次の日、学校に行ったときに彼女が満面の笑みで、ありがとうって言ってきてね。すごく痛かった。それからも彼女とはよく話すけど、これで本当に友達になったんだなあと思った。
さて、そろそろだな。大事なときに変なことを思い出したな。この甘酸っぱい恨みも込めて球を跳ね返してやらなきゃ。
どうやら、僕の打席はメンバーの中じゃ最後みたいだ。後輩たちが英斗に挑戦するけど、どんどん三振していく。手加減はしていないみたいだ。決め球のドロップも使ってる。かすりもしない。
次は期待の新人くんだ。英斗の球によく食らいついてる。ファールが何球か続いた中に鋭い当たりもあった。そろそろ来るだろう。あの一年生もわかってるはずだ。英斗はワインドアップの構えから、大きく振りかぶって投げる。やっぱりだ。ボールは頭めがけて飛んでいく。でも、一年生は微動だにしない。よく見てる。ここからだ。変化するのは。ボールがぐんと落ちて内角ギリギリへ。一年生も反応して、バットを低めに持っていった。ボールとバットが当たるか。と、いう瞬間。さらにボールは落ちてワンバウンドした。でも、バットは止まらない。ブンッと大きな音がして、バットは空を切った。あまりの変化にキャッチャーが後逸してる。急いで取りに行って、ボールを持ってくる。振り逃げせずに呆然とする一年生にタッチ。アウト。記録は三振だね。
さて、僕の番か。左手にグラブをはめてから、バットをギュッと握る。そのままヘルメットをかぶった頭にバットをこつんとぶつける。目を閉じる。落ち着け。心臓はいつもより早く動いているみたいだけど、大丈夫。できるはず。バッターボックスに立つ。マウンドのあいつは迫力のせいで、目の前にいるみたいだ。
ワインドアップの構えから、足が上がる。投げる。ストレート。一球目はアウトロー。見逃す。ボール。すぐに二球目が来る。キャッチャーからボールを受け取り、さっと構える。僕は確信している。次に来るのは。ボールが僕に向かってくる。ストレート。インハイ。狙い通りだ。バギンと音がして、サード側のネットにあたる。読んでいたのにバットの根本にあたってしまった。あいつはドロップだけのピッチャーではない。新しいボールをあいつが受け取る。構える。次に来るところもわかっている。モーションが始まる。僕は左足を右足よりインに構える。球が飛んでくる。ストレート。アウトロー。これも狙い通り。打て。ゴンと音がして、ボールはライト線に低空を飛んでいく。白線より右。ファール。さあ、追い込まれた。次は多分、来るだろう。わかりやすいシチュエーション。あとはイメージだけ。小学校の頃からずっと球筋は見ているはずだ。思い出せ。しかし、と、ここで僕は思った。僕の頭にはあの魔球しかない。もしあれ以外の球が来たら反応できるのか。別の球種を入れてくるのではないか。急に疑心暗鬼に陥ってしまった。よく見ろ。探せ。球種がわかるヒントを見つけろ。打たなきゃレギュラーになれないんだぞ。父さんを喜ばしてやりたいじゃんか。今年は甲子園だって狙える。甲子園に出て、俺だけ応援席じゃ格好がつかないだろう。よく見ろよく見ろよく見ろ。ワインドアップの構え。モーションが始まる。右腕が体の後ろへ。そのとき、見えた。ドロップだ。あの握りだ。球が放たれる。顔に向かって飛んでくる球。もうほとんど球なんて見ていない。この高さからここまで落ちるはず。もうすでにバットの位置は決まっている。ボールが変化しきる前に、バットを、前へ。バットに吸い寄せられるようにボールが近づいてくる。ボールがバットに当たってひしゃげる。のが、見えた気がする。振り切る。バットを前に前に振り切る。目線は切らない。目の前からボールが消える。打った感触はなかった。だが、当たったはず。バットが背中にあたってから、ようやく前を見る。三振ではない。走れ。全力で走ると、ファーストに止められた。ファールだったか? 全力で走らなくても大丈夫と言われた。落ち着いて周りを見渡す。誰も僕を見ていなかった。見ているのはレフトのフェンスの更に向こう。
僕は背番号6をもらった。
落ち着いてからよく考えてみた。あのときの投球を。僕は英斗の握りを見て、ドロップを確信した。しかし、あいつがそんな初歩的なミスを犯すはずがない。ピッチャーは球種を読まれないためにモーションの研究を徹底的にする。あいつももちろんしていた。そんなあいつが手元が見えるように投げるわけがない。やはり、あいつは見せたのだ。意図的に俺に握りを見せた。俺に打てと言ってくれたのではないか。
ずるだという人はいるかもしれない。平等じゃないと怒る人がいるだろう。だけど。だけど、僕は嬉しかった。あいつに、あのヒーローにお前が必要なんだと言われている気がした。道徳的にああだこうだ言う人のことは今は無視しよう。気持ちが嬉しかった。
地方大会決勝戦。九回表、二死でランナーは二塁。
バッターは八番の僕。
得点は一対〇、僕らが一点負けている。
ここで点数を取らなければ裏はない。ゲーム終了だ。
三塁側の応援席からはあと一人、あと一人の合唱が起こっている。
一塁側の応援席。もう泣き出している女子生徒たちがいる。英斗の彼女も見える。涙目だ。
みんなが祈っている。敵も味方も。
大きなうねりが見えるようだ。マウンドが近い。バッターボックスに入る。
汗が止まらない。気温は高いがそれとは別のことが原因だ。
ヘルメットを取り、主審とキャッチャー、向き直ってピッチャーに挨拶をする。
再びヘルメットを着け、構える。
相手のピッチャー。データは頭に入っている。一五〇キロ台のストレート、それからそれに絡めた変化球の緩急が武器だ。決め球は変化球であることが多い。なら、一球目は。
セットポジションから、一球目が放たれる。速い。ストレート。インコースだが、高さは真ん中。思いっきり引っ張る。カンッといい音が響いて、三塁線を低空でボールが飛ぶ。サードが横っ飛び。グラブに触れそうになったがそのまま球は通り過ぎる。ファール。
どちらの応援席からもああっ、と声が聞こえる。
主審から新しい球が渡される。ピッチャーが受け取る。セットポジションで構え、しばらく、止まる。後ろではショートとセカンドがせわしなく動く。セカンドが二塁に近づく。ピッチャーが動く。二塁へのけん制。セカンドがランナーに軽くタッチする。もちろんセーフ。セカンドからピッチャーへボールが渡る。ピッチャーが構える。やけに近く感じる。セットポジションから、今度はすばやく投げる。アウトロー。踏み込んで打つ。しまった。高速スライダーだ。バットが止まらない。軌道を変えろ。ジュッと音がして、バックネットへボールが飛んでいく。危なかった。つまらないゴロになるところだった。
汗が止まらない。追い込まれた。まずい。
そのとき、つっと鼻から何かが出た。鼻血だ。
「た、タイム!」
主審に伝える。
「ターイム!」
場内の時間が一旦止まる。張りつめた空気がなくなる。僕の鼻血を応援席でくすくすと笑う気配がする。
僕はベンチに戻り、鼻をかんだ。真っ赤な血がしばらく出たが、すぐに止まった。気を取り直して、バッターボックスに向かおうとするとネクストサークルから声がかかった。
「緊張してんの?」
僕の後ろ、九番バッター。うちのチームでは体力の温存のためピッチャーは九番だ。つまり、英斗が声をかけてきたのだ。
「そりゃ、まあね」
「これ、ほら、汗まみれじゃん」
そう言って英斗がタオルと滑り止めのスプレーを投げて渡す。
「ありがとう」
「あのさ」
英斗が言葉をつづける。
「あのセレクションのとき、俺がわざと球種を教えたと思ってる?」
「そうだろ?」
タオルとスプレーを使いながら答える。
「たとえ、そうだとしても、お前は勘違いしてるよ」
「何を?」
「俺は打たせる気なんて全然なかったからね」
「……」
「わかってても打てないのが俺の球なんだよ。悔しかったよ、打たれてさ」
「……」
「俺にはさ、すげえ尊敬してる人がいるわけよ」
「お前のじいちゃん?」
「違う。……俺さ、練習大っ嫌いなんだよね」
「初めて知ったよ」
「俺の尊敬してる人がサボらせてくれないからさ」
「やっぱ、じいちゃんだろ」
「違うよ。そいつはさ、いつも川の向こう側から見てんのね。毎日毎日。雨の日も雪の日も、台風の日だって、こっち見ながら走ってるわけ。そんなに頑張ってるやつがいたら、俺も頑張んなきゃダメだろ。そうしたらさ、どんどん実力が伸びてきたよ」
「……!」
「ドロップボールだって、あそこまでの切れにするにはかなり頑張ったんだ。一人じゃできなかった」
「……」
「俺のキレッキレの決め球と、あのピッチャーの球って、どっちが打ちやすい?」
「そりゃ断然向こうのピッチャーだよ」
「お前はさ、俺の球をスタンドに入れたんだ。あんなへなちょこの球が打てねえはずないだろ。俺があんなに頑張って身につけたドロップを吹っ飛ばしたお前が、打てないわけがない」
「……そうだな」
「それにさ」
英斗がもう一言言った。
「努力してるやつが報われなきゃ、物語は締まらないだろ」
僕はバットをギュッと握りしめるとバッターボックスに戻った。
マウンドは遠くなった。周りの音が聞こえなくなった。すべてがスローモーションに見える。セットポジションからピッチャーの体が開く。後ろに回した右手が見える。変化球が来る。ボールが放たれる。胸元に向かってくるボール。回転が見える。横回転。カーブだ。スローだ。はっきりと見える。ボールの来る場所がわかる。あとはバットを持っていくだけ。ボールは胸元から少し落ちる。落ち切る前の部分にバットを合わせる。当たる。はっきりとボールが芯に当たったのを見た。手元に感触はない。フォロースルー。前を向くとピッチャーが後ろを向いている。ファーストも、セカンドも、ショートも、サードも、塁審も、ライトも、レフトも、センターも後ろを向いている。観客席もバックスタンドを見ている。僕はゆっくりとダイヤモンドを一周する。
その次の回は、九球で終わった。ドロップは三回投げられた。
試合が終了し、校歌を歌った。
観客席に挨拶をしに行くとき、英斗に言った。
「あのさ」
「ん?」
「お前の彼女が笑ってるのって、すげえかわいいよね」
最初はショートショートを書く予定でした。
気付いたら、思いがこもり過ぎてしまいました。
少し長いですが、気持ちが伝わればと思います。