少女人形
白を基調として、その上に薄い緑色を塗ったような近代的印象を与える天井が目に入る。
「もう朝か……」
その天井が自分の家の物であることを認識した後、未だはっきりしない意識の内に布団を下から跳ね上げる。
手のひらで押し出すようにして跳ね除けた布団は、およそ上体にかかっていた部分が折り畳まれるようにして半分の面積に。そして布団の代わりに身体を包んだのは朝の冷気。既に季節も秋を過ぎ、冬に片足を突っ込んだ現状ではお世辞にも爽やかなんて言えない、身を切るような寒気。
殊更に寒さに強い身体をしているわけでは無いので、身を襲う冷たさは体に鳥肌を立て、若干の痛みすら走らせるに足る凶器となる。ただ、お蔭で意識は瞬時に覚醒した。
筋肉が緩み、力の抜けきった腹に力を入れ、頭を起こしてベッドから降りる。既に室内は、寝る直前にカーテンを開けて置いた窓から入る朝の太陽光で照らされており、茶色の板張りの床とまっさらな白い壁がはっきりと見える。
そのまま眼鏡をかけて窓のところを見ると、確かに前日は開けていたはずの窓が二つとも締まっている。胸の高さにある小さな窓だけでなく、ベランダへとつながる大きな窓の方までしまってあり、しかもご丁寧に鍵まで掛けてある様子だ。
それを見て、はあ、とため息を吐く。どうやら今日もお姫様はお気に召さなかったらしい。
「別に窓くらい開けてたって構わないだろうに」
一人暮らし故に、誰にも聞こえていないであろう独り言を呟きながら換気の為にも窓を開ける。立て付けが悪いせいでスルリとは開かないが、それなりにコツを掴んだ今となっては大して手間取らずに開けてしまう。
そのままの勢いでもう一つの窓も開け、ちゃっちゃと朝食に移ろうと廊下の方を向いた瞬間、一対の黒の双眸と目があった。
それはまるで闇。新月の夜を思わせる星すらも存在しない宇宙のような艶やかな黒。今までの人生で見たどの黒よりも混じり気の無い純粋な漆黒。その美しい色は、代償として底の無い虚ろな穴へと吸い込まれるような不吉さを漂わせてしまうほどに、深く濃い。
初めて会った時もこの瞳に吸い込まれたんだよなあ、と相変わらずの美しさにため息を吐きながら、そんな目をした少女を象る日本人形を両手で抱きかかえ、”いつものように”元あった位置へと運んで座らせる。
それがおよそ一週間前から続く、彼の新しい日常の始まり方だった。
◇ ◇
凡そ一週間前の月曜日。それは丁度彼が数奇な人形を拾った日のことである。
その一日は、彼が寝坊して、あと十分も立たずに一限の授業が始まるために、非常に焦って部屋を飛び出したから始まった。
「こりゃあ今度こそ遅刻するかもしれないな……」
焦燥を多分に含んだ独り言を彼は呟き、そのまま背負っていた荷物を自転車の籠に叩き込み、ペダルへと両足を掛ける。途端に急速に流れていく風景と体に当たる強風を感じながら、体重移動を上手く使い、前へ前へと漕ぎ出していく。
でこぼことした起伏が自転車の前輪を跳ね上げ、ガタガタと荷物を揺らす。しかし、壊れ物は今日は鞄に入れていないため、安心して自転車を全力で漕ぐことができる。勉強道具などはきっとこのくらいじゃ壊れないと信じることにする。
と、彼が全速力で進んでいる狭い道の先で、何やら黒の喪服を着た人々の立ち並ぶ姿が見える。
ぶつかるわけにも行かないのでブレーキをかけて速度を十分に落とし、そのまま地面へと飛び降りる。こんなところで自転車を下りるなど遅刻を覚悟したような暴挙だが、どう考えても事故よりは遅刻の方がいい。そして事故よりももっと卑近な問題として、ここで自分勝手に爆走したときにご近所の評判が怖いということがあった。
現代ではご近所付き合いなどというのは化石になったと思われがちだが、これが結構一人暮らしの大学生にはあながち馬鹿にならない要素である。そも、社会自体が人の手によって維持されている以上、家の傍で容易に評判を落とすような真似は賢いとは言えない。
なので身の内の焦燥を表面上隠しつつ、会釈と共に道の端の方を開けてもらいながら自転車を押して歩いて行く。
すれ違う黒服の人達に頭を下げて対向車をよけるように端に寄る。黒服の彼らは皆一様に涙を堪え、沈んだ顔で大きな門の前に並んでいる。
見る限り人が行列を作るほどいるのに誰一人としてしゃべらず重苦しい沈鬱な雰囲気である。その雰囲気の異様さに観察もそこそこ、さっさと自転車を押して走ってしまう。
そして行列の最後尾を追い抜いた後で一度だけちらっと振り返る。
(……それにしてもでかい屋敷だ……入口の門しか見てないけど)
いつも登下校の途中にここを通って見ていたから、この大きな家のことは少し家の離れている彼でも知っている。車が一台通れれば御の字といった狭い道に面している癖に、門だけでも彼の二倍はある高さ。更にはそのまま奥までズラーッと石畳が敷いてあり、外からでは視界に入りきらない大きな屋敷まであるという、立てる場所を間違えていると言いたくなるそんな豪華絢爛な屋敷だったはず。
雰囲気からして葬儀か通夜でも行われるのだろうかと推測したが、そもそも自分はその手のことに詳しくない。
少しばかり何があったのかを考えて……まあいいか、と結論付ける。
別にあの家の人と面識があるわけでもない。そして深く知らないといけないほどに縁や義理などがあるということもない。精々、近くに住んでいただけという間柄だ。
自分の好奇心が俗に野次馬根性と称されるものであることを明確に自覚した彼は「これ以上の詮索は失礼だろう」とそこで考えることを止めた。
◇ ◇
結局その日は三分ほど授業に遅刻し、微妙にそれが尾を引いたような絶妙な失敗を繰り返す一日だった。
わざわざ筆箱のボールペン”だけ”無いとか、ファイリングしてあったプリントの中で一枚”だけ”無いなどの実に巧妙かつ派手では無いもののじわじわと来る失敗が連続し、もう二度と繰り返したくないと反省しながら彼は自転車をこいで帰路についていた。
時期が時期なので、六時を過ぎたあたりの現在では既に日も落ちて辺りは真っ暗である。辺りにある街灯、自転車のライトと道沿いの民家から漏れ出てくる灯りを頼りに運転し、家につくためにどうしても通らねばならない狭い坂道へと差し掛かる。
そのまま坂の上にある仮屋のアパートの方角を見たのだが、ふとその視界の下で何かが蠢いたような気がして視線を下げる。
視線の先にあったのは、黒い塊だった。
「……なんだこれは? 人形?」
近くによって見て観ればそこにあったのは髪の長い人形だった。白の半透明なゴミ袋に無理やりに押し込まれたせいか随分と窮屈そうに体育座りをしており、その体を垂らされた漆黒の髪と夜の闇が覆っている。
年の頃はいくつくらいの子供を象ったのかは知らないが、幼さと大人へと変わるその中間の少女を切り取ったかのような妖艶な気配が溢れており、長い髪を背中に流し、前髪は綺麗に切りそろえられ、雪原を思わせるほどの白い肌と体表の毛の一本一本を再現したかのような細かい作りのせいで、なんとなく人がゴミ袋の中にいるという錯覚を覚えさせられる。
極めつけに何の服も着ていなかったともなれば、最早それは虐待を受けている薄幸の美少女にも見えなくはない。なんとなく見てはいけないものを見ている背徳的な気分にさせられ、誰も見ていないか思わず周囲を確認してしまった。
視線の先にあるのは指定されたゴミ捨て場と袋を閉じられたゴミの山。今日は月曜だったので確か不燃ゴミの回収の日であり、それゆえに一週間溜まっていた辺り一帯の不燃ゴミが集まったのだろう。この人形も埋め立てられる運命を背負った憐れな無機物なのかもしれない。
そこでふと思い至る。
「……あれ? 人形って不燃ゴミでいいんだったか?」
曖昧にぼやけているが、確かこの地区では人形は小さい物だったら確か可燃ゴミだったはずである。引っ越してきてゴミ捨ての為に何度か確認した記憶がある。
対して、眼前の人形は大分大きい。少なくとも今まで彼が見てきた手乗りサイズの人形ばかり
つまり目の前にある人形は回収するべきで、そのことに気付かなかったら良かったのに、彼は気づいてしまった。そうなると、もう自分の良識から目を背けることはできない。
回収日でないゴミを出すのはいいのだろうかと思ってしまった以上、ここで見逃せば心の内でどこかしら罪悪感を感じてしまうことは必然。だったら多少面倒で色々と憂鬱なことを言われても、この人形をゴミとして出した家に持っていった方が後々気分も悪くないと思って自転車を下りて袋を確認したところ……名前が書いてなかった。
これでは持ち帰らせることすらできない。大きくため息を吐いた。視界が少しの間、白に染まる。
今更ながらにあまり外の空気が優しくないものに変化していることに気付いた。あんまり時間の書けてしまえば体の芯まで冷え切ってしまうに違いない。
それでも焦る様子もなく、どうするかな、とこの後の方針を頭の中に列挙しながら今度はじっくりと人形を観察してみる。
ちらっと遠くから見た限りでは分からなかったが、この人形は近くによれば寄るほど本当に人と見間違うほどそっくりに作られている。肌は生きている皮膚かと思わされるほどに精巧に細かく再現されており、髪も一本一本が細く丁寧に作られている。
少し手を伸ばしてみると、毛穴と頭皮はまるで生きている人間と大差ないし、これで胸の上下があれば絶対に生きている人間と見間違えるだろう。
無論、細かい部分のみに注目するのではなく、全体的にもバランスやら何やらを考えて離れて見てみても、その姿は一分の隙も見当たらない少女そのものだった。一体いつごろに作られたのかは知らないが、彼の美醜観に合致するところを見る限りでは、平安時代とかそんなに古い作成品ではないだろう。
東洋風の顔立ちで造られているとても美しい人形。観察の結論としてはそれだけだった。
ただ、じっくりと観察するうちに、これだけの人形が捨てられているということに対する疑問が膨れ上がってきた。
この人形は素人の自分の目で見ても間違いなく高級品として扱われるのが当然といえるほどの一品だ。
何故こんな場所に捨てられているのか、この人形は素人目には分からない売るほどの価値も無い損傷をしたのか、それとも誰もいらないから捨てられたのか。
もし誰もいらないのなら、持って帰りたいくらいだ。
「!?」
一瞬、思考が自分ではあり得ないような方向に飛んで、驚きに目を見張る。
今までの自分は自分の知る限りにおいて物欲などを感じることは早々なかった。
それは散らかすほどの物すらない必要最低限の物しか揃っていない彼の自室が物語っている
少なくとも二十年近くの人生で、自分はこれまで積極的に物に執着しようとしたことは無かったはずだったのだが、さりげなく欲望にまみれた願望が頭をよぎるということに彼自身が動揺した。
そして一度自覚した欲望は、時間をかけて徐々に彼の思考に一定の方向性を与えていく。
「……他人の出したゴミを持ち帰るって犯罪だったかな……?」
脳裏に浮かんだ危険な考えを理性が曖昧な知識を持ち出して抑えようとする。が、しかし彼の考えは既にこの人形の元持ち主をどうやって探すかでは無く、この人形をどうやって持ち帰るかということに天秤が傾き始めていた。
彼にとって人形の東洋西洋の違いなどあまり気にすることでは無い。西洋の人形に神秘性を感じて和風のものを古臭いと倦厭するよりは、むしろ懐古趣味みたいな雰囲気を感じて大分気に入っている方であった。住んでいる部屋は現代の様式に違わず板張りにトイレ、風呂のついた洋室であるが、住んでいる場所と住みたい場所が一致しているわけでは無い。
眠っているベッドにしても、本当は地面に敷いた布団の上に眠りたかったのだが、ここは裏が山であり地面からの水蒸気のせいで湿度が少々高いので、地面に直接敷くようなタイプの布団はあまり寝心地がいいとはいえない。ついでに寝坊して干す時間が無かったときにカビの心配もしなくてはいけない。そんなわけでベッドになったので、決して彼の趣味では無い。
翻って目の前の人形はどうか。
無論、捨てられていたためにあちらこちらに汚れがつき、埃だけでなく木の枯葉もついていたりするのだが、しっかりと洗えば見られる顔をしているようだ。瞼は閉じっぱなしなので目の部分がどうなっているかは分からないが、そこらかしこに損傷は見られない。
総じて言えばそこまで汚れてもいないし、壊れてもいない。つまり素人の自分でも汚れ落とし位は出来るだろう。
「ならば持って帰るのもまた一興」
どう考えても危険思考なのだが、本人はそれと意識していない。
そもそも今まで物欲をそこまで感じてこなかった彼である。つまり物欲を感じるということ自体が彼にとっては慣れない一大事であり、感じた途端に思考が暴走するというのもまあ、分からなくはない。
そして決断すれば話は早いとばかり、さっと周囲の確認をすると大胆に自転車の荷台に人形を乗せ、片手を支えに使いながら残りの道中を歩いて帰ることにしたのだった。
◇ ◇
異変は、その翌朝から起きた。
前日の内に拾った人形を少し濡らした布で丁寧に拭い、汚れを落として乾かした後、あまりの肉体の再現度に何も着せないのも目の毒になると考えて人形にかけていた布が、朝になったらそこらへんに投げ出す様にして無造作に落ちていた。
そして確かに寝る直前は開いていたのを確認した窓が今はぴったりと締まっている。玄関の鍵もしっかりと掛けていたことは今しがた確認したので、他の誰かに合鍵を渡したこともない以上、これが内側からの犯行であることは確定的だ。
極めつけは、閉じていたはずの人形の瞼が開いて、しかも寝かせていた場所から一メートルは離れている部屋の端っこに膝を抱えて座ってこちらをじっと見つめていた。
ここまで状況が揃っていて、惚けることができるほど自分は鈍くない。というか心臓が強くない。
「これってどう考えたって何か憑いてるか呪われてるかだよな」
はて、オカルト系の話には明るくないのだが、なんてそんな悠長なことをいっていられるほど余裕があるとは思えない現状である。一人暮らしで誰か泥棒が入ったという痕跡があるわけでもなく、さらには人形が確実に前日の状態とは異なっているという点を見れば、どうしたって一番初めに心霊現象や憑りつきという現象を頭に思い浮かべてしまうのは当然であり、ついでに言えばその不気味さに背筋を走るものを自覚しなくてはいけなくなってしまう。
既に社会人の一歩手前まで来ている男としては、少々それを認めるには意地が強すぎたが、かといって意地を優先するほどの強気な自信が自分にあるわけでもない。
しかしどうするか分からない現在、まずは必要なのは知識だろうか。
「差し当たっては図書館かな」
こういう時こそ、数限りなく所蔵してある大学の文献を漁るときだろうと、自転車の鍵を掴んで飛び出した。
◇ ◇
「嫌な団体が来たな」
机の上に読んでいた本を閉じて置く。
視線の先にいるのは、見た感じで判断すると「大学に入って私たち遊んでま~す」とでも言いそうな雰囲気の軽い学生数人である。
人を見た目で判断してはいけないといわれるが、人となりは大抵見かけで分かる。少なくとも、体の端々を身綺麗に整えてお互いに肩やわき腹を小突き合って談笑している姿を見れば、常に家に独り引きこもりっぱなしで人との接触を厭う自分とは合わない、ということくらいは。
必然、彼は席を立つ。別に合わない団体と同じ空気すら吸いたくないほどに不快感を感じたからというわけでもなく、単純に彼らが座りそうなのが今彼がいるここだからだ。複数人でかたまって座れそうな場所はもうほとんど埋まっているし、彼らはばらけて座ろうとはしないだろう。流石にあの空気のままとは思わないが、隣に大人数で押し寄せられると居心地の悪いものがある。
故に逃走を選んだのだが、ことはそう簡単に運ばなかったらしい。
「ねえ君。さっきあたしたちと同じ講義を受けてたよね?」
彼が立ち上がって荷物をまとめていると、学生集団の女子一人が声をかけてきた。
そこで彼は「ああ」と肯定する。唐突に声をかけられたことには面食らったが、特に無視することでもなかったからだ。
ちなみに先ほど受けていたのは自分の専攻とも趣向ともさっぱり合わない心理学の講義である。
だが、その女子の次の行動を見て、嘘を吐けばよかったと後悔する羽目になる。
「お願い! さっきの授業のノート貸して!」
両手を合わせ、頭を下げて、必死な様子で頼み込んでくる名も知らぬ女子。
そして彼は先ほどの授業で彼らがどんな様子だったか、頭を捻って思い出してみる。
彼が前方で真面目に教授の授業を受けていたとき、確かこの団体はひそひそカチカチとささやき声か電子音かわからない音を立てていたはずである。
そこまで興味がなく、集中しきれなかった講義だったからそのことがいやに気に障った覚えがある。
この時点で、貸すという選択肢は彼に無い。少なくとも、見ず知らずかつマナー知らずの人間に、自分が努力した成果をそのまま渡すことには著しい拒絶感と嫌悪感を感じた。
なのでもっともらしいことを言って断ることにする。
「悪いが断る。これは今日中に提出するレポートに使うからだ」
「そこを何とか! どうせなら一緒に!」
「何ともならない。そして俺は子守でもない」
暗に相手の女子を”マナーも知らない子どもである”と侮蔑しながら、彼は「急いでるから」とだけ告げて、あとは知らないとばかりに出口の方へと歩いていく。
後ろでぎゃいのぎゃいの騒ぎながら追いかけてきていたようだが、どんどん早足で歩いて行けば、完全に脈がないと思ったのかすぐに声も聞こえなくなった。
そうやって歩いている内に先ほどの悶着で感じた不快感が消えていくと、残ったのは袋に入れている本の重さ。
ずっしりした重みが肩にかかり、窮屈に感じる疲労感が体を包み始める。
「全く人間が関わると碌な目に合わないよな……」
思わず空を見上げて呟いた独り言は、風に攫われて消えていった。
◇ ◇
読み切れなかった書物をいれた袋を自転車籠へと積み込み、ふらふらと重心の危うい帰り道。
「あわわわ……」
ぼろぼろと籠の中の重心を崩しながら蛇行運転をして家に到着。
よっこらしょっと袋を抱えて、二階にある部屋へと向かう。
そうしてたどり着いた最後の障害である玄関を開いて中を覗いて――――――彼はがくっと力が抜けた。
彼の視線の先では、先ほど部屋を出る前は確かに部屋の隅に座り込んでいた人形が、部屋の中央で正座をしていた。
どこから出したのか。しっかりと着物らしきものを着ている。
「……足疲れないか?」
何とも間抜けなことであるが最初に出てきた言葉はそんなものだった。
一体何故そんな言葉になるというのか彼にとってもさっぱりわからない。だが彼の立場になってよくよく考えても見てほしい。
朝起きてから人形が動いているという事実を確認し、盛大な現実逃避の為に図書館まで言った後、精神を疲弊して帰ってきたら、更に本格的に人形が動いていたわけである。それはもう何とも言えない気分になって、いろいろと放りだしたい気分になっても致し方なしである。
つまり、論点を盛大に投げた。気にするべきところを投げて、話を全力で逸らしたといってもいい。
そうして彼は意味もなく独り言をつぶやきながら人形を抱き上げてベッドの上に放り投げる。そして念のため、部屋が誰かに物色されたのではないかと確認していく。
これが誰かの性質の悪いいたずらということを考えての行動である。というかむしろ、今の彼にはそのほうが嬉しいかもしれない。
そしてあちこちを確認して無事なリビングを過ぎた後台所まで行って――――――今度こそ床に膝をついた。
「なんか明らかに勢いを増してるね……」
豚汁だった。
コンロの上に鎮座していたのは豚汁だった。
美味しそうな匂いがしてなんとなく鍋の蓋をあけて見つけてしまったのは豚汁だった。
勿論、彼は作ってない。そしてもし泥棒や空き巣が来たのなら、こんな重いものは持ってこないし、面倒なものは作らないだろう。
この時点で人形動いた説が最有力視されてきたのだが、彼は華麗に棚上げした。
そして何を思ったかお玉を手に取る。
なんともそそる匂いのする得体のしれない豚汁。それをあっさりと彼は口に含んだ。
「……うん。美味しい」
飲んでみた来歴不明の豚汁は、びっくりするぐらい美味しかった。
料理を始めたばかりの自分ではこの味は決して出せないと思わされるほどに。
目の前にあるご飯は美味しい。美味しい食事は食べなくては駄目である。つまり、目の前のご飯は食べなくてはいけないという見事な三段論法により、彼は取り敢えず食事の準備を先にすることにした。
正直なところ、今日はもう考えるのが面倒だった。
その日は、誰の手製かわからないご飯を食べてふて寝した。
◇ ◇
人形を拾ってから一か月が経った。
「……うん。もうどうでもいっかな」
朝起きて、まず第一に目に入った机の上に広がっていたのは完全に用意された出来立ての和食料理。
ご飯は大きな器に綺麗に半球状に盛り付けてあり、味噌汁はホカホカと湯気を立て、焼いてある魚にはご丁寧にも大根おろしとポン酢が添えてある。しかも副菜が二つしっかりとついている上に漬物まで添えてある。
「これぞ日本食」といった献立。明らかに作ったのはベッドの隣に正座している人形である。
表情が変化しない人形であるわけだが、本日は心なしかドヤ顔だ。「会心の作!」とでも言いだしそうな隠しきれない喜びみたいなのが見える気がする。
顔を洗って、箸を手に取って朝食に入る。
……悔しいことに、美味しかった。非常に美味だった。毎日推定人形製の料理を食べているがその中でも上位に来る美味しさだった。
「……おいしかった。ご馳走様」
名状しがたい敗北感と共に食事の終了を告げ、食器を洗っておく。
そして人形の手先が汚れていたのを綺麗にした後、そそくさと大学の準備を始める。
最早生活の一部に人形が溶け込んでいる。彼の様子であるが、何も最初からこうだったわけでは無い。
初日から始まり、一週間ほどまでは彼も諦めないで色々やった。お祓いもしたし、調べてからゴミとして出すこともやった。神主さんに頼んで神社に封印してもらうようにも頼んでみた。
しかし、そのどれもが失敗した。お祓いは無効だったし、ゴミに出した時と神主さんに頼んだ時は朝起きたら人形にマウントを取られていた。
いっそのこと焼くかとも思ったがここにきて人形の見た目が邪魔をした。あまりにも見た目が人間にそっくりなために、どうも焼こうとすると人身焼殺に見えてしまう。要は、彼がヘタレであった。
そしてズルズルと時間が過ぎていく間に胃袋を掴まれた。完全に致命傷である。
何よりも、デメリットが何一つ無かったことが大きい。彼はそう思った。
出てくる食事の献立はバランスを考えてあるし、朝は起こしてもらえるから遅刻もなくなった。健康になったおかげか体調も良くなったし、常に部屋は綺麗になっている。
精々がデメリットといえば、偶にマウントを取られていて怖いこととか、彼の秘蔵図書館の本がなくなっているというくらいだ。
「行ってきます」
新しい日常を回顧しながら彼は挨拶を一つ家を出る。
やっぱり色々と問題もツッコミどころもあるのだが、簡略に話せば彼は既に手遅れであろう。
客観的に見て、いくら同族を象った偶像とは言え、結局行き着くところは無機物の塊である意思の無い人形と心を交わしてしまい、憑りつかれているわけである。問題がないわけがない。
ただ、彼は幸せだった。
マイルドヤンデレ=相手に尽くす、優しいヤンデレ たぶんこんな感じ