笑う羊
羊が向かってくる。
二本足で、小踊りしながら俺の方へ向かってくる。
前足を広げ、上下に振る。
後ろ足は軽快に。
まるで盆踊りを踊っているようだ。
その姿だけでも十分に奇妙で不可解であるのに、更に俺の心を不快にさせたのは、その獣の顔が笑っているように見えること。
歯を剥き出し、両の目は倒れた三日月形。
畜生であるはずの顔面には、人間らしい表情が浮かぶ。
怖い。
気持ち悪い。
どこかへ消えて欲しい。
俺の冷えた体に、鳥肌が立った。
影が、
影が落ちる。
黒に灰色の靄がかかる夜空。
薄い雲がところどころ泳ぎ、白い月がわずかに光る。
夜なのに明るい。
もちろん真昼のような明るさはないが、空は見えるし、アスファルトに伸びる自分の影も見える。
この街にはきっと、漆黒の世界などないのだろう。
どこも少しずつ明るくて、少しだけ暗くて、完璧な真っ暗闇は存在しない。
それでも俺は瞳を閉じ、眠りにつこうとする。
眠らなければという思いと、また今日も眠れないという思いが重なりながら、俺は淡い夢の景色へいざなわれる。
「ねぇ、亮くん。私、春用の鞄が欲しくなっちゃった。会社帰りにね、すっごくかわいい鞄見つけたの。春らしくピンク色でね。もう、本当に、すっごくかわいいんだから」
「へぇ......」
「ちょっと、亮くん!私の話、ちゃんと聞いてるの?ピンクの鞄だよ。亮くんも。ピンク好きって言ってたじゃん。真由はピンクが似合うって言ってくれたよね?それに来月は真由の誕生日だよ」
「……そうだっけ」
「そうだよ!もう、また仕事の事とか考えてたんでしょう!会社はね、亮くんが例えいなくなったとしても、きちんと回るものなの。だから会社終わってからも仕事のことなんか考えてるなんて、ナンセンスなの!」
毛布に包まりながら、真由が俺のことを睨み付けている。正確には、睨み付けるというポーズを取っている。
同じ会社に勤める真由。
顔が好みでも、人柄を尊重しているわけでもない。
会社の飲み会の帰り、酔った勢いか計画的なのかはわからないが、俺の帰路についてきた。成り行き上、体の関係を持ち、その後も週一程度に俺のアパートに押しかけてくる。拒む理由も特に見当たらない以上、断ることも億劫で、だらだらと関係を続けている。
「自分で買うから、もういい!」
「何を?」
「ピンクの鞄!」
「俺に買って欲しかったの?それならそうと言うべきだ」
「亮くんって、やっぱり冷たい。だから会社でも皆から怖がられてるんだよ。私くらいなんだからね、こんなに親身に亮くんのこと考えてるのって」
「へぇ」
「皆にどう思われてるか、気にならないの?会社でだってやりにくいでしょ?」
「別に」
「あーあ、そういうクールなところに惹かれちゃったのが、私の運の尽きなんだけどね。そうだ、たまには外でデートしようよ」
「外でだとラブホになるよ。俺、ラブホ嫌いなんだよね」
「もう!デートって、エッチ以外にもすることあるでしょ。映画行ったり、食事に行ったり」
「そういうことがしたいなら、他のやつ探しなよ」
「何それ。私は亮くんと色々なところに行きたいの!」
真由は拗ねたのか、俺に背を向ける。
細い肩が、毛布とは対照的に冷たそうに見えた。
「もう少し太ったら?」
「え?」
「肩、骨が浮き出てるし」
真由の背中が一瞬、凍りつくように固まるのがわかった。
傷つけたかもしれない。そう思った。しかしだからといって、罪悪感も後悔の念も生まれない。真由の言う通り、俺は冷たい人間なのだろう。
真由はゆっくりと振り返る。
ぎこちない笑顔。
笑いたくないのならば、笑わなければ良いのに。
口角を上げ、眉尻が下がる。
真由の瞳が、死んだ魚のように空虚を見つめていた。
「また同じ夢を見た」
西向きの俺の部屋には、朝日は差し込まない。
いつも通りの薄暗い部屋で、俺たちは目覚める。
「なぁに?あの羊が踊ってる夢?」
「ああ」
「亮くんって変わった人だけど、そういう人って、見る夢も変わってるんだね。だって羊っていったら、眠れない夜に数えるものでしょう?それが眠った後に、怖いお化けみたいに出てくるなんて。なんか面白いね」
真由は既に化粧もして、朝食の準備をしていた。
俺は朝の気だるさを抱えながら、バスルームへと向かう。
顔を洗い、髭をそる。
熱いブラックコーヒーを飲めば、目が覚めるだろう。
いつからか、羊の夢を見るようになった。
最初は羊の夢かどうかも覚えていなかった。目覚めた後、不快感だけが残像のように記憶に残る。そんなことが数回繰り返された。
そのうち、同じ夢を繰り返し見ているのではないかと気づいた。
それからは夢を見ている時に、その夢を記憶に残すように努めた。
夢だとわかって夢を見ている状態であった。現実にはあんなものはいない。獣が2本足で歩き、薄笑いを浮かべるのだ。
思い出すだけでも気味が悪い。
「亮くん。コーヒーできたよ」
コーヒーメーカーから黒い液体をカップへと注ぐ。
手渡された白いカップから、湯気とともにコーヒーの香りが立ち上る。
「今日の朝ごはんは、気合入れて作ったんだ!見てみて。たこさんウィンナーに、ポテトサラダ。コーンスープにパンケーキ。デザートはフルーツとヨーグルトだよ」
「......凄いな」
「でしょ、でしょ!私もやる時はやるんだからね」
真由は誇らしげに笑顔を向ける。
俺の言った凄いというのは、その内容ではなく量を指していたのだが、わざわざ声に出して伝えるのは面倒なので、そのままにしておく。
「何時に起きたんだ?」
「えっ、亮くんが起きるちょっと前だよ」
食卓を挟み、目の前に座っていた真由が立ち上がる。
「メープルシロップ、かけなきゃね」
シロップを取りに行くふりをして、キャビネットへ向かう。
これだけのものを朝から作るには、最低1時間はかかるだろう。朝の身支度も終わっているようだし、また早くから起きていたに違いない。
「また眠れなかったのか?」
「ううん、そんなことないよー」
俺に背を向けた真由から、明るい声が返ってくる。
「さ、シロップたっぷりかけて、召し上がれ!」
俺の目の前に積み上げられた山のようなパンケーキに、シロップをどばどばとかける。
甘いものはそんなに好きではないのだが、同時に食に拘りのない俺は、出されたものは何でも食べる。ナイフとフォークを手に取った。
「どう、美味しい?」
「普通」
「何それー?!せっかく愛情たっぷりかけて作ったのに!じゃあ、こっちのサラダは?たこさんウインナーもちゃんと食べてね」
俺は言われるがまま、全ての皿に手をつけていく。
その様子を、真由は楽しそうに眺めている。
「食べないのか?」
「うん。私はもう食べたから」
嘘だ。
真由はほとんど食べ物を食べない。
摂食障害、なのだろう。
過剰に食べて吐くことはしない。単純に、ほとんど口へ食べ物を入れることがなかった。
その代わりに、周りの人間には必要以上に物を食べさせようとする。
しばらく黙って食べ物を口へ運んだが、当然朝からこんな大量に食べれるはずもなく、俺はフォークを置いた。
「ご馳走様」
「え、全部食べてないじゃん」
「こんなにたくさん食べられない」
「そんなことないでしょう?亮くんは男の子だよ。男の子はしっかり食べて大きくならなきゃ」
「成長期じゃないし、もう無理」
「えー」
「俺がどれだけ食べるかは、俺自身で決める。だいたいこんな量を一人で食べれないことくらい、わかるだろう?」
「……ごめん」
真由は泣きそうな表情になったが、朝から相手をするのは面倒だ。泣きたいなら、勝手に泣けばいい。
俺はクローゼットからスーツを取り出し、着替えた。
歯を磨き、髪の毛を整える。
その間、真由は椅子に座り下を向いたまま、微動だにしない。
「もう、会社に行くぞ」
「......」
「あと2分で支度しないなら、先に行くからな」
結局真由の支度が出来るまで3分以上かかったが、俺はベランダでタバコを吸って時間をつぶした。
「待っててくれてありがとう。やっぱり本当は亮くんって、優しいんだよね」
最寄り駅まで歩く道すがら、真由が陽気に話しかけてくる。
俺は相手にするのも億劫で、黙って歩き続けた。
通勤電車は満員で、話をするどころではない。俺たちは人の波に押されるまま、車内へと滑り込む。真由は一生懸命俺の傍にいようとしていたが、次々と乗車してくる人々に押され、次第に視界に入らない場所へと移動していった。
それでいい。
会社にいけば、どうせ同じ部署で顔を合わせるのだ。
早朝の満員電車でまで、傍にいて欲しくはない。
整髪料と体臭の混ざる車内は息苦しい。他人の呼吸が、俺の地肌に直接かかる。
そんな中で、俺は意識が徐々に遠のいていくのを感じた。
朦朧とそして着実に、眠気に襲われていく。
羊だ。
あの羊がまた踊っている。
遠くにいる羊は、マッチ棒位の大きさにしか見えない。
しかしゆっくりと、その姿は大きくなっていく。
俺に近づいて来ているのだ。
後ろ足2本で立ち、ステップを踏む。
前足は器用に肩の高さで振っている。
歯。
草食動物特有の、長く細い歯をむき出し、せせら笑う。
顔の側面にある瞳は、三日月形。
ちくしょう。
何がしたいのだ。
何を誇示しているのだ。
2本足で立ち上がっても、俺の肩にも届かないであろう背丈。
どんどん近づいてくる。
これ以上俺の傍へ来るな。
どこかへ行っしまえ、畜生め!
俺はそう叫びたいのに、声が出ない。
羊は踊る。
笑いながらやってくる。
3メートル。2メートル。
もう駄目だ。
もうすぐそこに。
息がかかるほど近くに。
俺よりも背丈の低いはずの羊の顔が、俺の視線の目の前に現れた。
「うわっ」
俺は小声で叫んでいた。
周りの人間が不振げに、そして気味悪そうに俺を見つめる。
満員電車の中、俺はその場を離れるわけにもいかず、黙って前方を見つめた。
「大丈夫?なんか叫び声が聞こえたけど」
会社の最寄り駅につき、改札近くで真由が近づいてきた。俺の腕に軽く手を触れる。
「ああ」
黙々と歩く俺の横顔を見つめながら、真由はしばらく何か言いたそうにしていた。何か言うことがあるなら、早く言ってくれ。
駅から会社までは歩いて5分ほどかかる。真由は俺と一緒にオフィスへ入っていくのは良くないと、いつも途中にあるカフェに寄り、時間をつぶしてから出社していた。
そこまでするなら、俺の家に泊まらなければよいと言ったことがある。真由は激しく怒ったが、その理由が俺には理解出来なかった。その後も結局、俺の家に週に一度は来て泊まっていく。そして朝は同じ電車に乗り、カフェの手前で別れる。
俺が真由に言ったことで、結局変化はおとずれなかったのだから、俺の言ったことは無駄だったのかもしれない。
いずれにせよ、真由が俺の家に泊まることも、朝一緒の電車に乗ることも、そしてカフェの手前で別れることも、俺の人生には大きく影響しない。だからこの状況を続けている。薬にもならなければ、毒にもならない状態……なのかもしれない。
「今晩また行ってもいい?」
カフェの手前で真由が聞いてきた。
「なんで?昨晩泊まったばっかりじゃないか」
「特に理由はないんだけど。ただ一緒にいたいから。駄目?」
「別にいいけど」
「ありがとう」
真由は嬉しそうに笑う。そしてカフェへと入っていった。
俺は後姿を追うなんてことはせずに、カフェの自動ドアが閉まる前に既に歩き出していた。
真由が来ると一人の時間が減るが、その分家事に追われなくてすむ。真由は料理も掃除も洗濯もする。やれと言ったことは一度もない。全て自主的にやっていた。
ふいに、真由の細い腕の感触を思い出した。
腕だけではない。腰も足も全てが細かった。
砂漠で朽ち行く枯れ木のような体は、真由という女の美しさを奪っていっているように思えた。
「なんで俺と一緒にいたいの?」
「なぁに、急に?」
シャワーの後、俺はベッドに寝そべり天井を見上げていた。
真由は俺の横で寝そべりながら、携帯をいじっている。
「おまえが俺のうちに泊まりにくるようになって、結構経つなと思って」
「へぇ、そんなこと考えてくれてたんだ。真由、嬉しい!」
ただ時間の経過を話しただけなのに、何故喜ぶのかわからない。
「ええと、それって、なんで真由が亮くんのことを好きかっていう質問になるのかと思うんだけど」
なるほど。そういう思考回路か。
真由は俺の反応など気にせずに話し続ける。
「ずっと前の部署の飲み会でね、亮くんかっこいいこと言ったんだよ。覚えてる?」
「いつの何の話?」
「忘年会だったかな。結構人が集まってたんだけどね。眼鏡の林さんているでしょ?あの人、あの時事故で1週間位会社を休んでて、忘年会にも来れなかったの。でね、林さんの話題が出たんだけど、覚えてない?」
「全然」
「そっか。きっと亮くんにとっては、何でもないことだったのかもね。でも真由、あの時の亮くんのセリフに感動しちゃって、それでフォーリンラブしちゃったのよ」
「だから何のこと?全然話が見えない」
真由の話し方は回りくどい。
確信になかなか触れないから、聞いてるこちらはフラストレーションが溜まる。
「林さんって、歌舞伎町で若い男の子達に襲われたんだって。それでお金奪われて、暴行されて入院したらしいよ。親父狩りっていうのかな。ほら、林さんって見た目も禿げでちびだし、いかにも弱そうじゃない。喧嘩なんて絶対に出来ないタイプ。実際そうだったらしくて、一方的にやられちゃったみたいなんだけどね」
真由はいったん起き上がり、布団の上で体育座りをした。
「あの時期、林さんのいるチーム、凄く忙しかったのよ。だから入院とはいえ、林さんに1週間も休まれて、同じチームの人たち結構怒っててね。お酒の勢いもあって、林さんの悪口を言い始めたの。歌舞伎町に自分の面倒も見れないおっさんが一人で行くなとか、襲われる隙を与えた林さんが悪い、とかね。忙しい上に、林さんの仕事のフォローもしなきゃいけないから、皆ストレスが溜まってたのね」
真由は膝の上に自身の顎を乗せた。
俺は天井の木目を数えながら、真由の話を聞いた。
「その後も、あんな役に立たないおっさんは、親父狩りにあって当然だとか、歌舞伎町に飲みに行ったのは自己責任なんだから、それでボコられるのは自分が悪い。俺たちは被害者だ、みたいな話が延々と続いてね。一部では白けてる人達もいたんだけど、実際林さんのチームが激務だったのは皆知ってたから、結局林さんのことを庇うこともなく盛り上がってたの」
真由は深く息をついた。
「でもさ。それって、いじめにあうのはいじめられる側にも原因がある、っていうのと一緒だなぁって思って。私、その話はもう聞きたくなかったんだ。そうしたらその時、亮くんがびしっと皆に言ったわけよ。それで真由、感動しちゃって......」
「俺、何て言ったの?」
「本当に覚えてないの?」
「ああ」
「しょうがないなぁ。ええとね、亮くん、こう言ったのよ。“おまえらが忙しい時期を、林さん抜きで乗り切ったのは偉いと思う。だが、林さんがこの忙しい時期に会社に来られないのは、どっかの頭の悪い餓鬼が林さんをボコったからだ。ボコられて金まで取られた林さんは被害者だ。ハゲでチビだからって、リンチされていいはずがないだろう。強盗傷害の加害者に腹立てるならわかるが、被害者をこき下ろすなんて、おまえら何か勘違いしてないか?責める相手を間違えるなよ”って」
全く覚えがなかった。
確かに俺が言いそうなことではあるが。
「かっこよかったぁ。亮くんて、いつも場の雰囲気を読まないで発言しちゃうところがあるじゃない?そういうのって周りとしてはハラハラしちゃうんだけど、あの時はかっこよかったな。皆黙っちゃって。だって亮くんが言ってることが正しかったんだもん。被害者を責めるのって、おかしいよね」
なるほど。
「真由、いじめられっこだったのか?」
「えっ?」
「いじめられてる側だったから、林さんが責められるのが見てられなかったんだろう」
真由は下唇を強く噛んだ。
「なんか触れない方がよさそうだな。この話は終わり。もう寝るか」
俺は照明のスイッチを消すために立ち上がった。真由は姿勢を変えることなく、体育座りをしたままだった。ベッドルームの電灯を消しても、キッチンの豆電球がついているから真っ暗にはならない。動きたければ、その灯りを頼りにどうにかするだろう。
布団の中にもぐりこみ、俺は真由に背を向ける形で横になる。
真由は動く気配を見せなかったが、したいようにすればよい。俺は気にせず眠りにつこうとした。
「......いじめられてた......」
蚊の鳴くような声で、真由が呟く。
「私、太ってたから......」
太っていたと口にしたその頬は窪み、細い首が重そうに頭を支えている。
「あの時、亮くんは、弱い者の見方なんだって思えて......」
納得がいった。
いじめられ心に傷を負った真由は、俺に弱者を救うヒーローの像を当てはめたのだ。
「俺はそんな高尚な人間じゃない」
「うん、わかってる。でも、亮くんはやっぱり良い人だから......」
胃がむかむかした。
良い人ってなんだ。
良い人の定義はなんだ。
勝手に俺のイメージを作り上げ、勝手に俺を美化する。
そんなやつに、そんな真由に腹が立った。
「なんだよそれ」
俺は吐き捨てるように呟いた。
真由はその後も何か言っていたが、俺は全て無視し、眠りについた。
羊。
またあの羊だ。
何故、お前は踊るんだ。
何故、お前は笑うんだ。
畜生の分際で人間のように振舞うなど、なんて思い上がったやつ。
滑稽でしかない。
滑稽でしかない。
……そんな風に思うな。
畜生なんて呼ぶんじゃない。
動物。
地球に生息する生物。
人間と何ら変わらないじゃないか。
どちらが偉くも、どちらが劣っているわけでもない。
皆、
夢想に、
踊り、
走り、
狂い、
笑う。
生きているんだ。
ただ、生きているんだ。
だから……
俺は勢いよく目を開けた。
目の前には何もない。
薄暗い部屋の空気が漂っているだけ。
寝息が聞こえる。
横を向くと、真由の長い髪の毛が見えた。
手を伸ばして、その髪に触れる。
しっとりとして冷たい。
俺は自分の体を真由に寄せた。
後ろから真由を抱きしめる。
真由が目を覚ましたのがわかった。
しかし真由は何も言わず、そのまま俺の腕の中に納まっている。
誰かをこんな風に抱きしめたのは初めてだ。
特に衝動があったわけでも、何か考えたあったわけでもない。
ただそうしたかっただけ。
俺はそうして再び、眠りの世界へ落ちていった。
「ほら見て、白くまだよ。かわいい!」
真由がはしゃいでいる。
俺は真由の要望を聞き入れ、自宅以外でのデートというものをしている。
何をするのかと思えば、動物園に連れて行かれた。
「はー、結構いろんな動物が見れたね。あとは何が残ってるかな」
入園した時に手渡された園内の地図を見ながら、真由が思案している。動物など見て何が楽しいのかと思ったが、実際に来てみると、案外、気分転換になることはわかった。
非日常である場所。高層ビルの代わりに、樹木が並び、排気ガスの代わりに、動物の匂いがした。
「あとはねー。ふれあい広場だけかな。うさぎとか羊とかに触れるみたい」
「羊?」
「うん。ヤギもいるみたいだよ。餌を直接あげたり、並んで写真も撮れるんだって。行ってみる?」
俺の返事を聞く前に、既に真由は歩き出している。
羊。
夢にはよく出てくるが、実物を自分の目で見たことはないことに気がつく。
5分ほど歩くと、ふれあい広場という看板が見えてきた。
「うわー、見てみて!ヤギとか羊とか、たくさんいる!あ、ウサギもたくさんいるし!」
真由は柵へ向かって走り出した。
案内板で羊とヤギの違いを確認する。見た目としては、羊の方がヤギよりも毛が多い。その他にも色々と違いはあったが、細かいことはどうでもいい。俺の知っている羊は、厚い毛で覆われている。目の前にいる羊も分厚い毛で覆われていた。
「わー、子羊だ、かわいいー!」
真由は小さな羊を見つけると、その羊のいる方へ行ってしまった。
ざっと見回しただけで、羊やらヤギやらが30頭はいる。
割と広い敷地に放牧されており、人間は柵の外から手で餌をやる仕組みらしい。柵の手前に何箇所か、カットされた人参が小さな台の上に置いてあった。近づいてみると、100円と書いてある。
俺は人参は買わずに、柵越しに羊を見た。
羊たちは人間になど興味を示さずに、そこいらの雑草を食べたり、群れて暖を取ったりしている。
3メートル程横で、真由が子羊に向かって歓声を上げていた。
「人参あげたら?そうしたら近づいてくるかもよ」
「あ、そっか!さすが亮くん」
さすがも何もないが、真由はくだらないことですぐに人を褒める。
それが良いことなのか、悪いことなのかよくわからない。どちらとも判断しないから、真由はすぐに人を褒められるのだろう。
切込みの入った空き缶へ100円を入れ、代わりに真由は人参の入ったカップを手にした。細長く切られた人参は、時間が経っているのか表面が白く干からびていた。
柵越しに人参を振り回すと、一頭のヤギがすぐに寄ってきた。
「うわぁ、かわいいー。どんどん食べて大きくおなり」
真由は嬉しそうに人参をヤギに食べさせている。ヤギも躊躇なく、真由の手から人参を食べている。ヤギが人参を租借する姿が、俺の夢の中に出てくる羊を思い出させた。
羊。
ここの羊たちは2本足で歩きもしないし、前足を振って踊りもしない。
それが普通。
それで当然。
何故俺の夢の中の羊は踊り、そして笑うのだろう。
笑った顔も、愛嬌のあるものではなく、むしろ恐ろしい。
俺はあの家畜の作り出す笑顔に、毎回毎回、背筋が凍る、いや虫唾が走る思いをするのだ。
『家畜でも畜生でも、好きなだけ笑えばいいじゃないか』
急に、そんな考えが脳裏をよぎった。
『多分、嫌悪感を抱くことも、むやみに恐れる必要もないのだろう』
突如、合点がいった。
「亮くん!何、ぼーとしてるの?あっちの隅っこにいる羊みたいだよ」
気がつくと、すぐ横に真由がいた。
真由の視線を追うと、薄汚れた小屋の前にたたずむ一頭の羊が視界に入った。
確かに所在無さげに、ぼおっとしているようにも見える。
「そういえば亮くんって、ちょっと羊みたいだよね」
「は?」
「つぶらな瞳とか。自分の世界に入ちゃって、何考えてるのかわかんないとことか」
「......そうなのか?」
「うん、そうだよ。でもこれって良い意味だからね!あ、そうだ!せっかくだから羊と記念写真を撮ろう」
真由は鞄から携帯を取り出し、俺の前で構えた。
「最初は、亮くんと羊さんのツーショットね!」
……画面の手前に大きく写る俺と、後方で小指ほどの大きさで写る一頭の羊。
ツーショットと呼ぶには距離のある一人と一頭であったが、確かに両者はひとつのフレームに納まっていた。
そして可笑しなことに、俺も羊もわずかに微笑んでいるように、見えた。