邂 逅
それはまるで酒保へと買い物にでも行くかのような気軽さに富田林には聞えた。呆気に取られて佇んだままの彼を誘う様に目配せした長谷川はくるりと背中を向けて滑走路の端に位置する掩体壕へと足を向ける、長谷川の後を追ってそこへと近付いた富田林が防爆扉の隙間から僅かな光が洩れている事に気づいたのはずいぶんそこへと近づいてからの事だった。扉の片隅に作られた小さなくぐり戸を開いて潜り込む長谷川の後を追って中に入った富田林はそこに置かれた奇妙な機体の姿を息を呑んで見つめた。
「これは …… 中攻か? 」
遠慮気味に灯された裸電球の下でただ一機ぽつりと置かれた長谷川の愛機に自分達の乗る96陸攻と同じ面影は乏しい。空力を極限まで追求したスマートな胴体を覆うでこぼこした擬装と国防色に塗り替えられた上面、固定武装の20ミリ機銃や爆弾の懸架装置は全て撤去されている。垂直尾翼に描かれた彼固有の所属番号「G-303」だけは残っているがこれではまるで民間支援の輸送機だ。
「これが今ここにこうしてあると言う事は、お前この作戦が始まる前からこれを考えていたのか? 」
「どうにも思い付く手がこれしかなくてな。それに言えばお前達が反対するだろう? 」
「当たり前だ、仮にも隊を預かる部隊長が自ら率先して敵への強行偵察をするなんて無茶を黙ってほっとけるか」
憤る富田林の声が誰もいない空間へと吐き出されてコンクリートの壁がそれを何度も跳ね返す、それを受け止める側にある長谷川はくすっと一つ笑って彼の武骨な表情へと目を向けた。
「だがどうしても必要な事だ、あの死神艦隊に勝つ為には」
幾日も会合を繰り返して議論を繰り返した揚句に導き出せない答え、その理由ははっきりしている。情報を得る為にはその任務についた者の誰かが必ず「生きて」帰ってこなければならない、しかし陸海軍が世界に誇る偵察機を悉く撃ち落とされ、あまつさえ撃墜王の操縦する機体まで蹴散らされたとあってはそれ以上の手段を考えつく事ができない。閉塞された状況の中でそれを打破する為には何らかの奇策が必要な事は彼の艦隊を通常戦闘で打ち負かす事を夢見たここにいる誰もが分かっている、しかし。
「それがこんな子供だましの偽装で接敵する事とは。どう考えても正気の沙汰とは思えん」
「なんだ、よく分かってるじゃないか」
意を得たりと長谷川が大きく頷く、かたや同意された富田林は今の短い自分の言葉のどこに彼の秘策が隠されているのかも分からない。
「正気の沙汰じゃない ―― 誰もそんな事をするはずがない事を大胆に行う所に奇策を成功させるコツがある。ひよどり越えしかり、桶狭間しかり」
「時代錯誤もはなはだしい、今は戦国時代じゃない。馬や刀や弓で角突き合わせて戦う頃とは訳が違うんだぞ? 当たれば何百人も死ぬ爆弾や人の身体なんか粉々にできる機関銃が幅を利かせる非情な戦いが肯定される世の中だ、そんな時代に大昔の戦の理屈を並べた所で何の意味がある? 」
「とはいえ戦いはいつも人が行う、武器や武装はその手段でしかない。時代が変わっても人間が争いの主体になる限りその摂理は変わらない」
どこまで行っても交わらない押し問答に呆れた富田林が深い溜息をついて俯く、がっくりと肩を落とす彼に向かって長谷川は悪戯少年の様な笑みを浮かべた。
「まあそう落ち込むな、これでも何の策もなく出かける訳じゃない。接近されなければこの機体でも何とか「ミッチェル(B-25ミッチェル;大戦中に最も色々な局面で運用された双発中型爆撃機。日本本土を最初に空襲した「ドーリットル空襲」で使用された機体として有名)」に見えなくもないし、それにこの機体は俺達と戦っている全ての国が保有している。認識番号しかついていない機体ならどこの国の物か分からずに迂闊に手出しができないはずだ」
「同盟国間同士の暗黙の不可侵を逆手に取る、という事か。だがそうならないという保障も ―― 」
「なくはないが可能性は高い。アメリカはここだけじゃなくヨーロッパ戦線においても抜群の貢献度がある、という事はこの戦争を勝利に導く為には彼の国の力が最も必要だと自他共に認められていると言う事だ。最も大きな力を持つ者がそれを必要としている仲間に向かって疑いをかけたり調べようとしたりすると思うか? 」
納得はできないが一理はある、と富田林は思う。ヨーロッパでの戦いは既にナチス・ドイツの敗色濃厚で、世界を巻き込んだこの戦争の最終局面はいよいよ太平洋に浮かぶ小さな島国へと舞台を移しつつある。小国ながらも技術・練度・士気に勝るこの国は開戦当初の勢いのままに数多くの宗主国を亜細亜の版図から締めだして、一時はアジアの盟主たるにふさわしい勢力範囲を手中に収めた。しかしヨーロッパでの戦いを終えたアメリカがその国力の全てを太平洋側に注力し始めた事でその様相は一変する。
まるで「はつられる」かのように次々に切り取られていく占領地は全てアメリカの傘下に置かれ、かつてそれらの地域を治めていた国々は矜持を捨てて媚びへつらいながらおこぼれにあずかる捨て犬のように元の植民地を取り戻していく。そう言う風にしか自分の身を振れない者に対して最も傷付きながら未だに戦いを続けている強者がおもねる様な立ち振る舞いをする事など考えられない。
しかしそれはやはり希望的観測にしか過ぎないだろうと再び忠告の言葉を探し始めた富田林の思考は目の前で微妙に変化した長谷川の表情によって一瞬停止する、ほぼ完全な形で自分の無謀な作戦を隊の副長に承認させたはずの彼は満足そうな笑みも浮かべずにじっと富田林の背後へと視線を遊ばせている。長い付き合いから決まってこういう時は何か隠し事を打ち明けてくると知っている富田林は彼の目が再び自分の元へと戻ってくるのを待った。
「 ―― 恐らく明日の朝、また死神艦隊からの撒き餌が日本に飛んで来るだろう」
撒き餌とは件のSOSモールスの事、その話は既に彼が作戦会議の上で全員に通達している。しかしその正確な時間や日時までが既に分析されていると言う事実は富田林を始め誰一人として知らない事実だ。すまなそうな顔で上目づかいにこちらを見ながらコリコリと頬を掻くその態度が長谷川の内心を良く表している。
「艦隊の邀撃地点は鳥島の西南西三百キロの洋上、発信を受けて出撃するのは多分菊水作戦に向けて準備中の五航艦。残念だがその結果は今までと同じ」
曽我部には見せなかった長谷川の心情がそこにはある。そこで待ちうけている敵は今まで誰も出会った事のない強力無比の艦隊なのだと、自身の秘密保持の為に恐らく逃げ帰る者ですらも決して見逃さない冷徹さを兼ね備えているのだと。秘匿を維持し続けるには戦場での習わしすら捨て去るだけの非情な覚悟と決意が必要、そしてそれを彼の艦隊の司令は断固として実践しているのであろう事。恐らく帰ってくる事はないであろう味方の明日を憂う彼の切なさがその目には微かに宿っていた。
なぜそんな事が、と富田林はあえて彼には尋ねない。海軍兵学校時代からの付き合いである富田林は長谷川と言う男の人となりをよく知っている。無謀と見せかけて実は緻密。蛮勇と見せかけて繊細かつ慎重な裏付けをかかさず、ゆえに彼個人が打ちたてた戦果や功績がその場しのぎの思い付きではなくそこに至るまでの遥か以前から積み上げられたゆえの成果である事を彼だけは理解しているからだ。長谷川がそう言うのならそれはもう彼が何らかの形で敵の行動を推測できるまでに情報を分析出来ているという証拠、そして勝つ為に必要な情報は彼が無茶をしてまで得ようとする敵の全貌と言う事なのだろう。
「艦隊が敵を邀撃する為に必要な準備間隔は多分二週間、硫黄島に敵の機動部隊が集まって来てから三回信号を傍受したがそれはきちんと守られている。兵站の本拠地が他の艦隊と言うのは実にいい発想だ、少なくとも無防備な期間に敵の攻撃を受けなくて済む」
「では敵が単独で行動している時か、補給を担う艦隊へと帰投している時しか狙う隙がない訳か」
「背中から斬りつけるのは勝っても負けても後味が悪い、俺は正々堂々と正面から彼らに挑むつもりだが? 」
その為の夜戦演習でその為の挑戦状と言う訳か、と富田林は呆れた様に溜息をついた。吹けば飛ぶようなこの痩身の身体のどこにそんな闘志が隠されているのか、昔から勝ち方にこだわってこうと決めたらてこでも引かない頑固さは負け戦の最中においても健在だ。
「それともう一つ気になる事があってな」
「気になる事? 」
うむ、と言いながら顎に手を当てて視線を落とす長谷川、それが彼独特の思考の間合いだと知っている富田林はそのまま黙ってじっと彼の口が開くまでの時を費やす。
「毎回同じ位置で敵を待つと言うこの艦隊のやり口なんだが、戦略的にどうも俺には納得がいかない。硫黄島の沖に展開する艦隊から突出して何かを探るのならばもっといろいろな場所に出現してもおかしくないと思うんだが」
「確かに毎回自分の位置を喧伝してこちらの特攻隊を呼び寄せる様な危ない橋を渡ると言うのは腑に落ちない ―― 例えば日本本土の防衛網を調べる為の特殊任務を帯びた艦隊だとか? 」
それならば彼の艦隊の行動にも納得がいくと富田林は思う。もし沖縄の最終防衛線が突破されれば今度はいよいよ本土決戦と言う事になり、日本は全国力を以って沿岸部に押し寄せる敵に相対する事になる。どれだけの兵力がそれに動員されるかは見当もつかないが少なくともこちらの残存兵力の三倍以上は投入しないと勝てないと言うのが攻城戦の理だ、相手の参謀もそれなりの覚悟は決めて事に当たるだろう。そうなった時に先ず前哨戦を勝ち上がる為に必要な物はこちらの兵力に関する情報だ。彼の艦隊が囮となって国内に残存する特攻隊の情報を収集していると言うのならばその行動にも注釈つきではあるが納得がいく。
だが長谷川はその「注釈」の部分に異を唱えた。
「ならばこんな四国沖にではなくて関東近海に出現すべきだ。空襲の度合いから見て敵は間違いなく相模湾と房総からの上陸を狙っている、一番興味があるのはその近辺の防空体制だろう? 」
「むう」
戦略的に整合性が高いのは長谷川の言だ。敵の行動との矛盾が解き明かせない富田林は首を傾げたまま黙り込む、そんな様子を見た長谷川がクスリと愉快そうに笑った。
「 ―― 何が可笑しい? 」
「なに、俺が感じているのはそういうこみ入った事情じゃないって事が言いたいんだ。戦略や戦術、命令や使命、そう言った事じゃなくて …… 」
笑いながら腕組みをしてうつむきながら何かを考え込む長谷川を富田林は訝しげに見つめ、彼が顔を上げた時に見せた表情に目を丸くした。まるで長い間どこかにしまって忘れてしまった宝物を見つけた少年の様だ。
「もしかしたら彼らは待っているんだと思う」
「待っている …… 何をだ? 」
混迷しか生まない彼の言葉にますます眉をひそめる富田林に向かって長谷川はニカッと笑った。
「いかにも陳腐な言い回しだが自分達と五分に渡り合う事のできる手応えのある敵が来てくれる事を、さ」
* * *
「もうお休みになられたのかと思いましたが …… 眠れないのですか? 」
当直を買って出たマクスクランの背後で人の気配がして、彼はそれが誰かと言う事を振り向かずに言い当てる。微かな夜間照明の灯だけを浮かべて外の世界と同化した艦橋は黙をざわめかせる波と風が支配する空間の中にある、着帽をしないハンターはそのまま静かに艦長席へと深深と腰かけて照れ笑いを浮かべた。
夜間航行とはいえ現在の艦隊速度は第一戦闘速度に達し、彼らは翌未明の作戦開始に向けて目的海域への道のりを急いでいる。命令の受領が今までに比べて遅い時間になったのは現在の自分達の原隊である第五艦隊が本格的な作戦行動に移るために起こった単純かつ必然的なミスであり、今更その事についてことさらに非難したり愚痴を述べたりする事はなかった。
ただハンターの立場としては受領した以上は早急かつ速やかに行動に移す必要があり、彼の艦隊はまるで任務を放棄するかのように第五艦隊を離脱すると戦闘準備を道すがらに行うしかなかった。普段なら丸一日がかりで行う様々な準備をたった半日の間に取り急いだ結果、当直士官を除く乗組員は嵐の前の束の間の静けさの中で泥の様な睡眠を貪っている事だろう。
「現在位置は作戦海域までのちょうど中間地点、明午前三時には現場に到着の予定です。同三時二十分にはピケットラインを展開並びに哨戒部隊アルファ全機と先発邀撃としてレッド・ブルー・イエロー小隊を順次進発、それでも今までのように万全の体制とは行かないでしょう」
「航空隊には無理をしない様に伝えてくれ。外縁部で撃ち漏らしても今回は直掩機を上げて対処する、今までやった事はなかったがこれからはそういう事態も想定しなきゃならん」
ハンターの声には微かな憂いが含まれている様にマクスクランには感じる、どうやら以前の戦いで艦載機を一機海上処分しなければならなくなった編隊長の気持ちを慮っている様だ。
「了解しました、各航空団にはブリーフィングでそのように伝えておきます。この艦隊にとって人員は装備以上に貴重な存在、補充しようにもここに配属されるまでには相当な覚悟が試されますからね …… それで彼らの抱える重みも少しは軽くなってくれるといいのですが」
無言で頷いたハンターはそのまま肘かけにもたれかかって一つ小さな溜息をつく。度重なるカミカゼの来襲にも顔色一つ変えずに的確に対処する豪胆な司令官が見せる不思議な態度に、マクスクランは思わず後ろを振り返って暗闇越しに彼の表情を読み取ろうと試みた。
「海軍に入隊する前に私は地方航路の小さな客船に乗っていた。ミシシッピ川を下ったり上ったりする小さなフェリーでね、それでもハイスクールを出て初めてその船を見た時には思わずドキドキした。やっと憧れの船乗りになったんだってね」
闇に慣れたマクスクランの目には彼が微かに笑っている様に見える。
「戦争が始まって私はすぐに哨戒艇の乗組員、そして魚雷艇の艇長、駆逐艦の副長。初めて大きな戦闘に遭遇したのはその後に乗ったセント・ローで向かった南太平洋だった。あの時の「タフィ3」はレイテで本当に大変な思いをした、敵の水上打撃編成部隊を発見した時にはこちらには護衛の駆逐艦が7隻だけで後は空母しかいなかったからな」
「サマール島の話は私も聞いています。確か一度の海戦で失った艦船数が多い事では米軍の海戦史に残る壮絶な戦いだったと記憶していますが」
「その時のスプレイグ少将の命令にはよその部署ながら驚かされた。たった一門しかない5インチで戦艦や巡洋艦に応戦しながら稼働全機発艦、敵は風上から向かって来るから離艦に必要な揚力も取れずに何機の雷撃機が海に突っ込んで言った事か。おまけに敵の艦隊がいなくなった後にはカミカゼの攻撃ときた、本当に生きた心地がしなかったよ」
その攻撃で彼の乗った護衛空母セント・ローは撃沈された。米海軍史にその名を刻む武勲艦でありながらその一方で神風攻撃による初めての喪失艦という不名誉な二つ名をもつ、矛盾に満ちた存在。
「 …… 大佐のそんな話は初めて聞きました。私は大西洋からすぐこちらへと転属になったものですから日本海軍との戦いは全く知りません、来て見て初めてこれほど手強い物だと理解した位です」
「そうさ、彼らは手強い。それは私だけじゃなく彼らと戦った事のある全ての将兵が身にしみて分かっている事だ、そして今の君達も」
ハンターの言葉にマクスクランは大きく一つ頷いて肯定の意を示した。一世代先とも言える最新の対空装備に特化した我が艦隊も防弾設備すらまともではない爆装の戦闘機の肉薄を許してしまう、性能や技術を超越した技能と精神力は決して今の自分達に劣っている訳ではない。そこに今まで太平洋の戦いにおいて米軍の被った被害が甚大である要因がある。
「だがどうしてだろう、私はこの船に乗る事を海軍長官から言い渡された時、少しも嬉しいとは感じなかったのだよ」
その笑いが自嘲による物なのか追憶によるものなのかを相対するマクスクランには理解する事ができない。「What for? 」と口にするのが精一杯だ。
「それはこの艦隊が敵を一方的に蹂躙する為に作られた実験部隊だと言う性格によるものかもしれないし、もしかしたら私の性格や経験に起因するものかもしれない。サマール島での戦いは確かに多くの犠牲を出したが救助された仲間はみんなどことなく晴れ晴れとした顔をしていた、自分の力をすべて出し切って得た結果について素直に受け入れる事ができたんだ。カミカゼと言う攻撃は確かに信じがたい脅威だが彼らが命を捨ててまでその戦法を選択したと言うのならそれは一つの手段として納得がいく」
「私はできればこのまま無事にノーフォークへと帰還する事が夢ですがね。こんな緊張が強いられる任務は早いとこ済ませて田舎でのんびりしたいものです」
「それが私達に課せられた責任だ。それにみんなはよくやってくれている、今まで数えきれないほどのカミカゼを墜としてなお無傷。この結果には海軍省も中でこそこそ分析しているオペレーションズリサーチの連中も満足している事だろう、実験はほぼ成功していると言ってもいい」
ハンターはそう告げるとゆっくりと席を立って艦橋の出入り口へと歩を進めた。後ろ姿を見送りながらマクスクランはそっと壁の時計へと目を向けると既に短針は次の日を指している。
「でも、なぜかな」
ちょうど艦橋の出口で立ち止まったハンターは少し上を向いて何かを見つめている、驚いて背中を見つめるマクスクランを肩越しに見やって彼はなぜかニヤリと笑った。
「今日はどうしても眠れないんだ。まるで初めてフェリーに乗り込む前日のような心境でね」
* * *
このロマンチストめ、と富田林は罵りたい衝動にかられるのを必死に思い止まり、そんな心境を見透かした様に長谷川はクスクスと笑う。富田林は人をからかって楽しむ昔ながらの悪童をどうやって懲らしめてやろうかと仏頂面で思案しながら彼の笑いが収まるのを口を噤んだまま待っている、しかし笑いが収まった瞬間に彼が見せた表情には何とも言えない感情が籠っていた。
「本当は今晩にでも呼び出して直に頼もうと思ってたんだが手間が省けて助かった …… 実はお前に頼みたい事がある」
訝しげな眼で見つめる富田林に向かって笑いを収めながら小さく頷く長谷川は少しうつむいたまま言葉を続けた。
「俺達は明朝〇九〇〇時に太刀洗を進発して敵機動部隊へと向かう、万が一夕刻までに帰投しなかった場合にはすぐに各機長と会議を開いて今後の事を協議してくれ。堰川や桑島と話しあってこの作戦自体を御破算にしても構わない」
え? と富田林は自分の耳を疑った。言った事の意味を反芻して理解した所で無性に込み上げて来る怒りが少しづつ彼の表情を歪ませる。
「俺がいなくなっても多分軍令部は作戦の続行を隊の責任者に当たるお前に通達して来るだろう、そしてその内容は特攻と言う事になる。それではお前達をここに集めた意味がない」
通常攻撃による敵への攻撃という目がもちろんなくなった訳ではない、しかし国威発揚と萎え掛けた士気を鼓舞する為に軍は特攻という名の英霊達を恣意的に作りだしてプロパガンダに努めた。その結果多くの熟練パイロットは後方での飛行士育成へと ―― 特攻の為に特化した急造品でしかない ―― 居を移し、もっと大勢のパイロットは彼らの先駆けとして特攻の有用性を証明する為に海の藻屑と命を散らせた。数多くの犠牲の上に成り立ったこの戦術は大本営の情報隠ぺいとマスコミの世論操作によって次第に乾坤一擲の策として今の日本国民の総意を代表する物にまで祀り上げられている。
しかしそれは緩慢な国家の自殺だと長谷川は、この話を富田林の元へと持ち込んだ時にはっきりと言った。復興の為に必要な僅かな備蓄資材まで全て投入して国民に極貧を強い、将来の礎となるべきはずの若い命を無為に失うようでは事後の希望すら手にする事はできない。今の日本にはびこっているその風潮を打破する為にはどうしても自分達がこの手でこの作戦を成功させる必要があるのだ、と。
「お前一人がいなくなったくらいでそんな無理強いを引き受けるやわな連中だと思うか? だいたいここに集まって来たのはみんな中攻に関しては腕っこきの連中ばかりだ、お前の代わりぐらいきっと堰川あたりがやってくれるさ」
「堰川も桑島も確かに腕利きの中攻乗りだが政治力がない、死神艦隊と戦う為にはまだまだ準備が必要だしこれからはどれだけの部署から協力を得られるかが出撃までの鍵になる。少なくとも小沢の親父を出しぬけるくらいに狡猾にならなければ先行きは難しい」
「だがここまで来て解散となったらみんなの気持ちはどうなる? 戦いの本流から取り残されて辺境の偵察や輸送任務に明け暮れていた中攻乗りがもう一度表舞台で活躍できる最期の機会かもしれないんだぞ。それを反故にしてまたあの日々に戻れと …… 仲間や部下がただ無駄死にするのを見送る日々に戻れとお前は言いたいのか? 」
「生き延びる事もまた立派な戦いだ、と俺は思う」
必死で抗弁する富田林が神妙な面持ちで説得する長谷川を睨みつける、その怒りがどうしようもないほどに彼の心を掻き乱したのは不意に長谷川が言った、力強い一言だった。
「 ―― お前の妹のように」
その台詞を聞きたくなかった、と富田林は思わず耳を塞ぎそうになる。自分がこの計画に志願した本当の理由が実はそこに隠されていたからだ。腹の底から湧きあがってくる黒い衝動が思わず口腔まで占領し、強い意志であわやの所での漏えいを免れたそれは身体の内側へと舞い戻って彼の全身をまんべんなく侵した。小刻みな震えが止まらない。
自分はもう一度表舞台で戦う事を夢見て今まで後方任務をしていた訳ではない、たった一人になってしまった妹の為にただ生き延びたい一心だった。一式陸攻への機種転換も頑なに拒み続けて後方任務へと身を窶したのも全てはそのためだ。だが敗戦色濃い今の日本でいつまでそんな卑しい真似が続けられるのか、大勢の仲間が自分の意思いかんに関わらずこぞって駆り出される特攻から逃れると言う非道を。行けば必ず死に、行かなければその罪の類は家族親族に至るまで及ぶ。たった一人であの苦界で生き続ける彼女をこれ以上の苦しみに自分が引きずり落とす事など考えただけでも臓腑が千々に千切れそうになる、かと言って特攻を志願すれば彼女をあの場所から救い出す者がいなくなる。
背負った重荷に耐えかねた末に選んでしまった妹の生きざまをたった一言で肯定した長谷川にも無性に腹が立つし、しかし何よりそれに対してただの一言も否定出来ない自分にもっと腹が立つ。自分がこの作戦に参加した理由を見透かしたかのように後始末を言付ける長谷川のその物言いが富田林の心奥を苛んで、犯した罪の淀みに面と向かう彼の感情をいたたまれない気持ちで満たしきる。
「生きる為に俺達は踠き、足掻く。そこにほんの少しでも未来の可能性があるのなら、俺はそれを選択する。だから俺の呼びかけに賛同してくれたお前達にもそういう選択をして欲しいと俺は思う。いなくなった後を継ぐにせよ、隊を解散するにせよ」
しかし自分がいなくなった後の作戦続行を長谷川は暗に否定している。つまり彼らがもしどこかで撃墜されれば ―― その確率は島に魚雷を放って命中させるよりも高いだろう ―― その瞬間に隊は解隊してそれぞれの原隊へと帰投する事になるだろう。藻琴山を東に臨みながらだだっ広い大空を来る日も来る日も怯えながら見上げていたあの日々を自分はまた手にする事になるのだ。
「そんなつまらなそうな顔するな、まだ帰ってこないって決まった訳じゃない。それにいくら腕っこきの生き残りと言っても扱う機体は時代の流れに取り残された骨董品だ、それで敵の最新鋭兵器に立ち向かって得られる勝機の幅は恐ろしく狭い。ならばできる限りの事をしてその幅を少しでも広げないと」
勝機、と。長谷川が口にしたその言葉に富田林はまじまじと彼の顔を見つめた。漠然と心の中で渦巻いていた全ての負の感情を相殺するその台詞、問い質すのも一苦労だ。
「 …… お前達がもし帰ってくれば本当にアレに勝てる、と? …… 本当にそう信じているのか? 」
「勝てるかどうかは時の運、だが不可能じゃない。船が浮かんでいるのは未だに何者も拒む海の上、当てれば沈むのがものの道理だ」
他の誰かが同じセリフを言ったならばそれはただの虚勢にしか聞こえない。しかし今目の前に立って勝ちを口にしたのはかつてのマレーの英雄だ、およそ不可能と言われた航空機による戦闘航行中雷撃を成功させた数少ない男である、その男が言う言葉ならばどんな予言や金言にも勝るとも劣らない。
「わかった、隊の副長としてお前の命令に従おう。明一七〇〇時までにお前が帰ってこなかった時にはすぐに全機長を招集して今後の協議に移る、ただしそこで出た結論に関してはお前の希望にそぐわない物であったとしても隊の総意としてその方針に従う ―― それでいいか? 」
「十分だ、といいたい所だが招集はその翌日まで待ってくれんか? もしかしたら彼らの招待を受けて空母に一泊、なんて事もあるかも知れんからな」
何をせっかちな、と苦笑しながら冗談を飛ばす長谷川に富田林はやっとその仏頂面を僅かに崩して応えた。
* * *
小春日和を演出する冬の太陽はようやく昼天を駆けあがろうとしている。猫日課を実践している夜の住人達は未だに黒い遮蔽幕の向うで束の間の惰眠を貪り、本来の持主である太刀洗基地の兵士達は淡々と自分達に課せられた任務を今日も変わらずこなしている。唯一違うのは九六陸攻の整備を担当している陸軍の整備士と一人の誘導員で、彼らは掩耐壕の中から不格好な偽装を施された長谷川の機体を今まさに滑走路へと引っ張り出している所だった。
滑走路の脇に立ってその作業を見つめているのは軽い仮眠をとって起きたばかりの富田林ただ一人、彼は唯一の武装である背中の20ミリすら取っ払った丸腰の機体を目を細めて眺めている。
やがてかさかさと草を踏みしめながらこちらへと歩いてくる足音を富田林は背中で聞いた。「おはようございます、副長」よく通る声であっけらかんと挨拶をする声の主は飛田だ。富田林が振り返ると彼の後を長谷川を除く残りの面々がてんでんばらばらな足取りでこちらへと向かって来るのが見えた。
「昨日はよく眠れたか? 」
充血した眼を瞬かせて富田林が尋ねると飛田は正反対の充実した顔を綻ばせた。
「そりゃもうぐっすりと。何せ今日は大尉のお抱え運転手を務める訳ですからよく眠っておかないとと思って。まあ俺が任されてるのは帰りの道中だけなんですけどね」
「帰ってくるって …… 本当に無事に帰ってこれると思ってるのか? 」
誰がどう考えても不可能かと思われる相手への敵中偵察をいともあっさり一言で片づける飛田の言葉に富田林は驚いて反射的に振り向く、しかし彼はきょとんとした顔で逆に問い掛けた。
「だって別に魚雷を抱えていく訳じゃなし、丸腰で御挨拶に伺う訳ですから。それに自分達の乗ってるアレが空母に着艦するなんてどうやってやるのか見てみたいじゃないですか」
「 …… 何? 」
何かの聞き間違いかと思った富田林がそう尋ねた後にあんぐりと口を開けて隣で笑う飛田の顔を振り返る、驚いたにしてはあまりに間の抜けたその表情に飛田はもう一度肝心な部分を繰り返した。
「や、だから敵の空母に中攻で降りようって大尉が。敵のど真ん中に降りちゃえば何かと都合がいいからって」
空母に、降りる?
もともと陸上基地から発進して洋上の敵を攻撃する為に設計された中攻で? 着艦に必要なフックすら持たずに?
自分の想像力では敵艦隊の頭上で果たし状を投げ落とすのが関の山だと思っていた、だからあいつが昨日の最後に言った「空母に一泊」等と言う言葉はただの冗談か戯言の類か何かと思っていた。
とんでもない。
あいつ、正気か?
「あれ? 昨日の晩大尉とその話をしたんじゃなかったでしたっけ? 昨日の晩に今日の話を聞いてみんなわくわくしてるんですよ、だって空母に乗った事があるのは自分達の中じゃ大尉だけなんですから」
あっけらかんとした飛田の声がまるでどこか遠くの空で鳴り響く遠雷のように聞こえる。そうか、あいつは確か中攻に乗る前は鳳翔(世界最初の正規空母。初代一航戦)の搭乗員だったな。九〇艦戦(九〇式艦上戦闘機。日本初の純国産戦闘機)はそりゃあ扱いやすいいい機体だし、水原大佐とはその時の繋がりか。
余りの混乱に思考は枝葉末節を駆け巡って肝心の本題を避ける様に見当違いを繰り返す富田林の脇を抜けて飛田が二三歩前へ出た、独楽のようにくるりと踵を返して驚きを面に張り付かせたまま呆然と立ち尽くす富田林へと向き合うと、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべてすっと右手を掲げた。
「では、行ってまいります」
その晴れやかさが富田林の現実をなお一層乖離させ、草むらに隠れるお地蔵さまのように固まったままになった彼の横を長谷川機の乗組員が次々に通りかかった。追い抜きざまにめいめいに言葉をかける。「じゃあまたあとで」とはにんまりと笑う強面の奥野、「なにか持って帰れるものがあったら貰ってきまーす」とは計算尺を片手に持った遠村。新宮は黙ったまま片手を上げて振り向きもせず、曽我部は飛田の傍で同じ様に敬礼をしたがほんの少し表情が硬い。考えてみれば曽我部はこの作戦で敵の位置を掴むと言う最も重要な任務を追っている、緊張するのは当然かもしれない。
「では今晩の会議で」軽やかな声でそう告げる望月の声に富田林は振り返って眼がさめる、いつもと同じ様に笑わない眼と抜けるような白い肌、しかし違う所は朴念仁の彼にもはっきりと見てとれた。何と彼女はその形のいい唇に薄らと紅を引いている。
あの望月までもが、と魂が抜けたように呆然と立ち尽くしたままの富田林がやっと自分を取り戻したのは彼らが次々に機体下部のハッチから中へと乗り込み、発動機を起動させる為の整備員と共に長谷川が姿をあらわした時だった。輝く様に白い海軍の正式礼装を一部の隙もなく着こなして颯爽と現れた彼は機体の傍で足を止めると身体ごと富田林に向き直り、掲げた右手が微塵の揺るぎも見せずに額へと当てられた瞬間に富田林は思わず身震いした。
無垢な空気を掻き乱す様に二基の金星エンジンが雄叫びをあげる。長谷川機が滑走路の端へと移動して離陸準備に入った時、富田林はまだ始めの場所から動けずにいた。離陸前の儀式とも言えるパンパンという乾いたバックファイアの音、困難とも言われる二本のスロットルを操っての左右エンジンの同調。そこかしこに垣間見る長谷川の熟練技を耳にしながら彼は滑走路の端から動き始めた彼の機体へと顔を向ける、迷いのない加速、そして誘導員を必要としない離陸手順はもう二度とこの目で見る事はできないのかもしれない。誰も還ってきた事のない死神艦隊への強行偵察、ましてや敵空母への強行着陸を陸上攻撃機で実行する等正気の沙汰とも思えない。
だが彼は言った、誰もそんな事をするはずがない事を大胆に行う所に奇策を成功させるコツがあると。今から奴が行おうとしている事自体突拍子が無さ過ぎて誰も考えつかない、もちろん多分敵側も。ならば自分の様な凡人が奇跡と思っている様な出来事も奴にとっては至極当たり前の発想なのかもしれない、臆病な羊に勇敢な狼の心が理解できない様に。
「 …… それもこれも今晩奴が帰ってくるかこないかで話が変わってくる事だ」
彼らは今晩本当に帰ってくるかもしれない、心の中でぼんやりと考えながら富田林は敬礼の姿勢を取った。既に機体は十分な揚力を受けて尾部を上げ、操縦席は富田林の場所からもはっきりと見てとれる。副長席にいる飛田と機長席の間から顔を出す望月がスロットルを操りながら笑っている、そして彼は陸攻の操縦士としては信じられないものを見て目を見開いた。
機体を操縦している長谷川があの重い操縦桿を片手で引き揚げながら開いた片手を額に翳してこちらを見ている。油圧のないこの機体は全ての操作がワイヤーを介して伝達される、すなわち操縦士の膂力こそが機体の運動性の良しあしを左右する。猛烈な対空砲火を右に左に掻い潜りながら敵へと肉薄する長谷川機の秘密は機体特性や性能ではなく、実は乗組員各個の力量に因るところが大きい。
急ごしらえの偽装による空力の乱れも何のその、長谷川機はいつもと変わらぬ滑らかさでふわりと地上を離れて徐々にその高度を上げていく。蒼天に霞んでいくその小さな影が見えなくなるまで富田林は、いつの間にか彼らの帰還を強く心に念じながらじっと見上げたまま見送っていた。
* * *
「その日の事は朝から晩まで昨日の事のように覚えています」
年老いた語り部の両目に宿る生き生きとした光を正面に座るフレイは見逃さなかった。事象に沿って淡々と話していた彼の雰囲気が今までとは、違う。
「予定海域に到着した私達はすぐに哨戒機と邀撃機を同時に上げましたがそれ以上に敵の行動は素早かった、既にピケットラインの内側へと入り込んだカミカゼをカリートの指示通りに撃ち減らすには数も、時間も足りませんでした。敵機の数がカリートの処理能力を大幅に上回ったと確認した時点で私は予備の直掩機を発艦させて事態の収拾を試みましたが、敵の機体は私の予想を上回る軽快な動きで一つ一つ防衛線を突破してきました。それでも何とか最後の一機を対空砲火に誘い込んで撃破した後に私は海に浮かんでいる残骸の回収をセネカに命じ、そこで私達が直面していた事態が明らかになったのです」
「お話を聞く限りでは先程の話よりももっと深刻な事態になったような印象を覚えるのですが」
さっき語られていた戦いでは少なくとも敵が艦隊へと近づくまでにある程度状況をコントロールできていた様な気がする、しかし今の語り口では最初から最後まで敵に翻弄されて、それでもやっと任務を果たした様な口ぶりだ。フレイはすかさずその時の状況に踏み込んで真実をつまびらかにする努力を怠りはしない。
「回収した残骸を調べてみると私達がよく知るゼロとは細部が少し違っている事が分かりました。そしてある程度原形をとどめたまま海に浮かんでいる機体を回収できたことでその謎は一気に解き明かされたのです。彼らの乗った機体は予め爆装を前提として改良されたゼロ ―― より高性能なエンジンを積んだ汎用機へと進化を遂げていたのです」
「それは先ほどのお話でカミカゼに使われた陸軍の「オスカー」と同様の機体だと言う事ですか? 」
「いい記憶力をしていらっしゃる、さすがはアンカーマンと言う所ですかな」ハンターはにっこりと笑うと一息ついて手元のミネラルウォーターを一口飲んだ。
「確かに用途は同じですが基本性能が違いすぎました。オスカーとその新型のゼロの爆弾搭載量は同じでしたが ―― これは後になって分かったのですが ―― 機動性能が赤ん坊と中学生並みの差がありました。500キロを抱えた機体がまるで軽業師張りにひらりひらりと弾幕を躱して船ににじり寄ってくる、前の戦いでは苦も無く墜とした対空砲科の連中がそのプレッシャーで吐きながら応戦すると言うありさまでした。もしその機体に前の戦いで命を落とした搭乗員達が乗っていたとしたら ―― 」
「カミカゼは成功して極秘任務は失敗、ファランクスフォースはすぐさまノーフォークへと撤退していたはずだった? 」
「はい、間違いなく」
二人を説得するに足る力強さと口調を並べてハンターは頷いた。戦争だけに留まらず戦いには全て「あや」という物があり、ほんの些細な事が引き金となって重大な結果をもたらす事がままある。先の戦いで最後に突入して来た三機の内の誰かがその新型に乗って攻撃を仕掛けていればそれは恐らく成功してその後の運命は大きく変わっていたはずだ、だがそうはならなかった。
結果として新型の爆戦は飛行訓練が開けて間もない新兵達の物となり、機体の潜在能力頼みで仕掛けた特攻もその根幹となる操縦士の実力不足によって泡沫の夢と消えた。戦いに潜む魔物が人と運命を支配して生殺与奪の天秤を右へ左へと傾ける ―― では今のところは最新鋭と言うあり余る分銅の重みで一方的にこちら側へと目一杯傾いている天秤の針がいかなる切っ掛けであっち側へと振り切れたのか。
そう考えるクレストの心中を見抜いたかのようにハンターはチラリと目配せするとシニカルな笑みを浮かべて再びフレイへと向き直る。画面越しに表情を追いかけていた彼は最初に出会った時のハンターの表情がまるで作り物だったかのような印象を受けた。
「直掩機も込みでいつもの倍の搭載機を出撃させたジョージ・ワシントンはその後の撤収作業に追われました。F8Fはその大馬力がゆえに活動時間が大変に短いという欠点があって、ぼやぼやしていたら次々に燃料切れで墜落する可能性がありました。本来ならば先に哨戒機を回収して新たな哨戒機を上げて周囲の安全を確保しながら行う艦載機の着艦作業をその日に限って私は逆の手順を指示し、いつもより長くかかる回収作業の後に周辺海域の偵察の為に上げた三機のアヴェンジャーは索敵範囲を十分に広げる事が出来なかった …… 今考えても私はなぜあの時そうしたのか理由が思い当たりません、ただその判断が私の心から一生消えない記憶を刻みつける原因になりました」
* * *
哨戒中隊コードネーム「ベータ3」のクレイグス中尉は実に不機嫌だった。いつもならば作戦終了と同時に発艦の許可が与えられ、そしていつもならばもうとっくにピケットラインの周辺部を送り狼の策敵の為に周回している筈の時間だった。だが無理を強いられた作戦行動と想定外の敵機の活躍のお陰で彼らの予定は大幅に遅れ、いつもの倍の艦載機を格納庫内に収容してからの進発を命じられた。
他の搭乗員達はほんのちょっと多めに与えられた休憩時間をコーヒータイムと称して思い思いの過ごし方で紛らわしていたが、元来几帳面なクレイグスは自分達の仲間の不手際によって生じた作戦行動の遅れに対して憤懣やるせない思いを募らせた。やっと甲板上がクリアになり ―― ミッドウェーの敵空母が沈んだ原因を分析し、そうする事が作戦海域では最も効果的だと判断された ―― 油圧カタパルトの上に据え付けられたアヴェンジャーへと乗り込む際に甲板員に小さな毒を一つ吐き、甲板上から海上へと蹴りだされた時にもその不機嫌は健在だった。
いつもよりも荒っぽい操縦で彼はできるだけ早く目的の空域を目指す、この時期は大陸から流れて来るシベリア寒気団と太平洋高気圧が吐き出す暖気のせいでこの辺りは層雲の住処となりどうしても下方の見通しが悪くなる。今まではそれを嫌って雲の下すれすれを通って目的地へと向かうのだが今回はそれをする余裕すら残ってはいない、時間と距離を稼ぐ為に彼は雲の上から下方を偵察する事を後席に座る偵察員に強い口調で命じた。
晴天が年中続く空の上から見下ろす雲の甍は南洋の日差しをキラキラと跳ね返して気おくれする偵察員の目を奪い、三重屋根と化した眼下の高層雲の隙間からは時たま線の様な海面が見え隠れするだけだ ―― 今まではそれが日常の景色だったのだが。
「 …… あれ? 」
小さく呟いた偵察員は自分の迂闊さに思わず首を竦めた。どう贔屓目に見ても苛立っているとしか思えない操縦士の注意をひいてしまった呟きを後悔した時にはもう遅く、狭い操縦席の中を間髪いれずにクレイグスの声が飛ぶ。
「どうした、曹長? 」
「いえ、いま雲の隙間からなんか小さな影が出てきたような ―― 」
「どっちの方角だ?」
声音に残る機嫌の悪さは相変わらずだが報告を受けた瞬間にクレイグスの雰囲気は変化した。航空団の中では多数を占めるF8F組だけがとかくクローズアップされがちだが、時にはピケットラインの向こう側まで進出して敵の情報を単機で探る哨戒部隊こそがこの艦隊防衛の要の一つである事を彼らは十分に理解している。今まで一度もなかったその異変は任務に対する彼の自覚を目覚めさせた。
「十時から十一時の間、ちょうどあの折り重なったクッションの様な雲の真下の所です」
クレイグスは偵察員が見たと言う物体が隠れた雲を通り過ぎるとまるで水でも滴らせるかのようにそっと操縦桿を左に倒して左足に力を込めた。頑丈さをして操縦士たちに「トラック」と呼ばれたアヴェンジャーは巨体を揺すって静かに機体を左へと滑らせ、用心に用心を重ねてゆるゆると目的の雲の向こうへと辿り着く。
「大体この高さで合ってるか? 」
「恐らく。でももしかしたら自分の見間違いかも ―― 」
「見間違いだろうと何だろうと確認して異常がない事を調べるのが哨戒の仕事だ、たとえ自分が追いかけられて墜とされてもな ―― これより右旋回で目標の左後方から接近する。絶対に見逃すな」
その声には苛立ちの影すら見当たらない。双眼鏡を掲げて頷く偵察員の姿をバックミラーで確認したクレイグスはすぐに機体を右に捻って反転した。目標の左後方から接近するのは米空軍が独自に考えたゼロ戦対策で、彼の機はプロペラ軸が右回転の為反作用側である左反転の速度が速い。ゆえに多くの零戦パイロットは敵機に追われると反射的に左旋回を選ぶ者が圧倒的に多いのだ。
もし目標が零戦だった場合には左後方から近づく事で相手の得意な逃げ道に弾幕を張り巡らせる事ができ、当たらなくても自分達が実を隠せるだけの時間稼ぎを得る事ができる、しかし目標が万が一逆に逃げたとしたら ―― その時は相手は相当の手だれでこちらの命運は尽きたに等しい。ともあれ偵察員が確認したと思われる物体の航路に寄り添う形で回頭したアヴェンジャーはそのまま少しづつ速度を上げて前方に見えて来るはずの影を探した。
「 …… 中尉、前方一時の方向」
「見えている、どうやら曹長の見間違いじゃなかったようだな」
「後方から敵の哨戒機」
左翼のスポンソンに陣取った新宮が少し緊張した面持ちで短く告げると副長席で手持無沙汰な飛田はそっと後ろを振り返って目を凝らした。機銃を取っ払った上部銃座に陣取った望月が新宮の声を受けて機の後方へと双眼鏡を向けた。
「間違いありません、TBMアヴェンジャー。周辺に他の機影無し」
ハスキーな大声が発動機の音に混じって機内へと響く、居場所を明け渡した奥野は機銃座に上る梯子の下でじっと目をつぶって両腕を組んでいる。遠村は隣の席で青褪めている曽我部の肩をポンポンと叩いて宥める様に言った。
「さーあ頼むぜ曽我部、こっからは文字通りお前さんの腕に俺達の命運がかかってンだからよ」
「で、でももし敵が内容を信用しなくてこっちに近づいてきたら ―― 」
「そン時ゃそン時だ。せいぜい窓からみんなで手を振って楽しませてあげようじゃないの」
「哨戒機なおも接近、もうすぐ敵の射程圏内に入ります」
望月の声に押されるかのように曽我部は一つ頷くと台の上に置かれた小さな紙を広げて傍らの電鍵に指を置き、覚悟を決めた彼はムンと息を止めてつまんだ摘みに力を込めて用意していた電文を一気に叩き始めた。
「 …… 爆撃機、の様ですね」
黒い影にしか過ぎなかったそれが今はもうはっきりと飛行機である事が分かる、揺れる機内から双眼鏡で確認する後席はその輪郭の仔細をクレイグスへと報告し始めた。
「中翼双発、双垂直尾翼 …… 国籍マークや所属は不明ですがどうやらミッチェルの様です」
「なんで中距離爆撃機がこんな洋上くんだりまで? 大体どこから飛んできた? 」
日本近隣の支配下地域から進発したとしてもここまではおよそ2000キロを下らない、しかもこの辺りで最も近い飛行場はもうすぐ戦果のるつぼと化す日本の硫黄島しかない。すなわち彼らはこのままでは確実に太平洋のど真ん中で海水浴をする羽目になって味方の救助を待つしか選択肢が存在しないと言う事になる。もっともそれはあの機の存在を知ったどこかの誰かが「助けてくれれば」の話が前提になるのだが。
「とにかく接近して事情を探ってみるぞ、味方の機ならば硫黄島沖の第五艦隊に連絡して救助を要請 ―― 」
「中尉」
全ての状況から次善策を検討していたクレイグスの提案を遮る様に偵察員が声を上げる、バックミラー越しに後方を伺うと彼は既に双眼鏡を降ろして飛行帽のヘッドホンが埋め込まれている辺りを強く頭に押しつけて聞き耳を立てている。
「所属不明機より入電、あの機はどうやら中華民国陸軍所属の爆撃機の様です。抗日作戦特務の為に成都を発進した後に台湾沖で日本軍機と交戦、何とか逃げのびたものの航法装置の一切が壊れてここまで飛んで来てしまったそうです。先方は現在の位置をこちらに尋ねてきてますが …… どうします? 」
むう、と一つ唸り声を上げてクレイグスは押し黙った。別に現在位置を教える事は差し支えないが問題はその後だ。どう考えても残りの燃料で味方の支配地域にまで届かない場所にいると言う事を知ってしまったら彼らはどういう選択をするか? 一番近い飛行場はテニアン島だがここからだとどう考えても燃料が足りない、そうなると後は硫黄島沖に展開している第五艦隊の傍まで飛んで行き不時着して助けを求めるしかない。だが味方ならともかく作戦行動中の艦隊が果たして同盟国の要救助を快く受け入れてくれるだろうか?
困った事になった。迂闊に相手に接近したばかりにこのまま見過ごすと言う選択肢を自分の手で除外してしまった。部隊の性格上自分達の艦隊へと誘導する事は絶対に不可、ならばあえて相手にでたらめを教えるか、それともここで ―― 。
「 ―― 中尉、何を ―― 」
後席の不審な声を尻目にクレイグスは機体をそのまま右へと滑らせて相手の真後ろへと陣取る。操縦桿の腹に備えつけられた引き金の安全ピンを跳ね上げると前方の照準器のレティクルにその影を置いて、赤いレバーに人差し指を添えた。
「敵機真後ろにつけました、多分射撃準備にはいってます」
「うっそお」
緊張した声で冷静に状況を伝える望月の声に間延びした飛田の声がかぶさる、奥野はハアッと溜息をついて天を仰ぐとその上にある望月の形のいい臀部を目を細めて眺めている。新宮は未だに折り畳んだ地図を眺めて現在の位置の捕捉に努め、しくじってしまったと落胆して泣き顔になる曽我部の肩を遠村がポンポンと叩いた後、笑いながらギュッと掴んで慰めている。
「進路このまま」
機長席で操縦を続ける長谷川の落ち着いた声が全員の耳に届く。飛田は万が一の時の為にスロットルへと伸ばした手を止め、クスッと笑った後にその手をそのまま頭の後ろで組んで背凭れへと身体を預けた。
「だめです、中尉っ! この事がもし他に知れたら国際問題になりますっ! 」
クレイグスの意図を察した偵察員が慌ててマイクへと喚き立てる、だがクレイグスは耳をかさずにそのままスロットルに力を込めた。他に知れれば確かに国際問題だがそれは自分の所属する艦隊も同じ事だ、ならば自分達が今やっている事と同じ様にこの事も処理してしまえばいい。誤認射撃や同士撃ちなど戦場では日常茶飯事ではないか。
「中尉っ! 」
偵察員の必死の制止も無視してクレイグスは機体をピタリと射撃位置へと導く、延伸性の高いブローニングM2ならばこの距離からでも十分に撃ち墜とせる。こちらの意図を察知して逃げ出す前に決めてしまわないといくら丸腰の爆撃機相手とはいえこの機体では追いかける事もままならないかもしれない。
はやる気持ちを抑えながらクレイグスは全弾が命中しそうな所まで距離を詰める、しかし彼の指はトリガーを僅かに引いたままそこから一ミリたりとも動こうとはしなかった。後席からの声に気圧された訳でもなく機械的な故障でもない、そこで起こるべきはずの出来事がいまだに始まる気配を見せない不自然さが彼の意思を押し留めていた。
「 …… なぜ、逃げない? 」
こちらの意思は位置取りでいやがおうにも彼らに伝わっている筈だ、ならば奇跡を信じて機を急降下させて逃げきろうと計るのが常道。にもかかわらず目の前の機はコース変更すらせずにじっと一定の速度でいまだに飛び続けている。
人とは不可思議な生き物だ、理解の範疇を越えた情報に接すると次につながるプロセスが接触不良を起こした様に断絶してしまう。自分の決断とそれによって起こるかもしれない不都合、加えて不条理な状況が生み出した一瞬の空白。それを動かすための新たな要素は意外にも自分の耳に当てられたヘッドフォンから流れてきた。
「 ” こちらはベータ1、今モールス信号を確認した。受信に該当する機は直ちに詳細を報告せよ ” 」
「哨戒機より入電」
その一報をハンターに先んじて受け取ったマクスクランは事態の複雑さに思わず眉をひそめた。中華民国 ―― 日本という国を包囲する為に重要な同盟国の所属機が方向を見失ってこちらへと向かっている、いかなる処遇を施すべきか?
艦隊の性格を考えれば自分達と、救助を求めているB-25は同じ「特務」を帯びている、すなわち敵に知られてはならない秘密を抱えて作戦行動に従事しているのだ。それは敵の手に万が一落ちる様な可能性が発生したら自らの手でその存在を抹消しなければならないと言う結論へと辿り着く。
「哨戒機の報告は? 」
電文を受け取ったまま幾重にも考えを巡らせて押し黙ったままのマクスクランにハンターが尋ねて来る、その声はいつもと変わらぬ穏やかな声だ。恐らく自分が口に出せない情報が記載されていると言う事を暗に察して気を遣っているのだろう、マクスクランはそこで考える事を止めてそのまま電文をハンターに伝える決心を固めた。自分はこの艦の艦長である事だけが責務であり、艦隊運用の是非に関する様々な決断は艦隊司令が決める物だ。決して職務を逸脱したり濫用してはならない。
「中華民国の爆撃機がこちらへと向かっている、と」
「近隣の基地には? 」
「機は中国の成都から飛び立ったそうです。もっとも近い飛行場はテニアン島、ですが燃料が持たないかと」
神妙な面持ちでじっとハンターを見つめるマクスクランの前で彼はぱちぱちと二度ほど瞼を瞬かせたかと思うと頭を下げて視線から目を庇の下へと隠した。
「 …… 艦隊の状況はどうなっている? 」
* * *
「本当ならばそこで彼らを撃ち墜とすはずだったのです、いや私自身も一瞬はそう思いかけた」
微笑みながら遠い目でフレイの肩越しを見つめていたハンターはそこで彼女の瞳へと焦点を合わせた。あまりの力強さに妙齢を迎えたフレイの胸がドキリと高鳴る。
「ですが私はそこで極秘部隊を率いる指揮官としてあるべき行動を取らなかった ―― 艦長であるマクスクランに命じて艦隊を停止させ、機を海面へと不時着させて救助する方法を選びました。傍から見れば私の艦隊はごく小規模な機動部隊ですし、戦闘が終わった後は補給の為に第五艦隊へと合流するだけ。彼らの身柄を保護するのならその方が安全だと判断したのです」
「なぜそう決断されたのですか? 」
フレイの言葉に彼はさもありなんと小さく頷き、しかし背筋を正してこう言った。
「私は軍人である前に船乗りです、船に乗る事を生業とする者は海で助けを求める者に決して背を向けてはならんのです」
* * *
「本当によろしいのですか? 」
復唱した後にもう一度念を押して来るマクスクランにハンターは大きく頷いた。
「対空兵装やレーダー類には相手に見られない様にシートをかけるよう伝えてくれ。収容に関してはこの空母の兵員区画を使用する、その方が格納庫からは遠いし別に他のエセックス級と何かが変わっている訳でもない。不自由な思いをさせてしまうが一日我慢してもらえればそれで事は丸く収まる」
「了解しました、大佐」
先ほど見せた表情とはうって変わって張りのある声で応えるマクスクランを、はてと首を小さく傾げて眺めるハンター。彼はマイクを手に取るとハンターの命令を伝える前に小さく咳払いをして辺りを見回した。釣られてハンターが同じ様に視線を向けると艦橋中の要員が全員にっこりとほほ笑みながら自分の所属する艦隊の司令官を見つめている。
「大佐殿」
いつもとは違う呼ばれ方をしたハンターは思わず声の主へと視線を戻す、マクスクランはにっこりと笑うと右手を掲げた。
「御英断に感謝いたします。国からこんな役目を仰せつかった我々がいまだに人らしく振る舞えるのもその様な判断を下せる大佐の元で働いているからこそ、多分みんなも貴方の元で働ける事を誇らしく思っていると思います。この艦の全員を代表してお礼を申し上げます」
「あ、いや」
ハンターにとってそれは英断でも何でもなく、ただ自分が海に出た時から全ての船長に口を酸っぱくして言われた事の実践に過ぎない。だがその行為に艦橋の全員が敬意の礼を示した事に対して彼は、ただ帽子を深く被って照れ隠しをしながらそっぽを向く事しか出来なかった。