開 幕
生まれてこの方一度も味わった事のない衝撃と轟音で全身がしびれて五感が弾ける、死とはこういう物かと手の中の感触を確かめながらマクスクランはその準備に入った。甲高い悲鳴を上げて飛び散るガラスの破片が何度も軍服の背中を乱打する、鋭い痛みと爆音に紛れて届く周囲の悲鳴をおぼつかなくなった耳朶にねじこまれながら彼は軍人に与えられた最期の任務を ―― それは与えられた死を受け入れるという事だ ―― 全うするための時を待つ。しかし全身を強張らせてハンターの楯となったマクスクランを出迎えたものは死神でも天使でもなく、喧騒鳴り止まぬ艦橋の壁に設置されたスピーカーから流れる男の声だった。
「 ” 指定目標の撃破を確認 …… 大佐、いけませんぜ。そういう命令は ” 」
安堵の溜息を大きく一つ入れたそのしゃがれて野太い声は艦橋で起こったであろう惨事を全く無視してハンターへと言葉をかけた。渾身の力で椅子ごと拘束されて自由がきかない彼は未だに現実へと帰還を果たせないマクスクランの肩をポンポンと叩くと、窮屈そうに身動ぎしてマイクのスイッチを握り締めた。
「すまない、しかし完全に主導権を握られた敵に勝つ為にはもうこうするより他に方法がなかった。艦隊の窮地を救ってくれた事、司令として心から礼を言わせてもらう」
「 ” 礼など。これも「フルバック」の仕事ですから …… 大佐がこの最新鋭対空兵器の運用試験の為に抜擢された俺をここに配置したのは正しかったって事だ。ですが今度はもうゴメンですぜ、一歩間違えりゃあ「味方殺し」の汚名を着るなんてのは勘弁です。そうならないようカリートの奴にもよく言っといてください ” 」
髭面に苦笑いを張り付けてマイクへと向かうピケット艦「モホーク」の艦長、レッド・ボラードの顔が眼に浮かぶ。虎の子のテリア一発を温存したままじっと戦況を見つめ続けてきた艦隊防衛の最後の切り札は見事にその役目を全うしたのだ。おぼろげながらやっと状況を把握しかけたマクスクランの耳に届くハンターの声、それは死を目前に回避した人の声とは到底かけ離れた穏やかな物だ。
「了解したボラード大尉。君からの要望にできるだけ応えられる様に努力はする、もちろん保証する事は出来かねるが」
一瞬の無言の後「へっ、全くあんたって人は」と言う捨て台詞を残して通信は途絶えた。マイクを静かに置く姿を視野に収めたマクスクランはやっと全ての経緯と現状を認識し、これ以上力を込める必要のなくなった両手をゆっくりと椅子から解き放つ。拘束から解放されたハンターはゆっくりと立ちあがりながら畏敬の瞳で眺める信頼すべき副官に向かって小さく告げた。
「艦長、損害報告」
* * *
「ビーム誘導によって敵に到達する「テリアミサイル」ならではの運用方法を私はそこで活用しました。艦橋前面の空間にそれを投射する事によってあらかじめミサイルの軌道を固定する、後は敵がそこに到達するタイミングを計る事だけ」
口調とは裏腹な臨場感にフレイとクレストは思わず息を呑んで聞き入っている、そんな二人ににこやかな頬笑みを送ったハンターは喉の渇きを潤すミネラルを一口飲んで元の位置へとゆっくりと置いた。
「い、いやしかし」
口を開いたのはインタビュアーのフレイではなくクレストの方だった。残念ながらこの下りはもう使えない、後で撮り直しをしなきゃなという後悔を脇に置いて彼は構わず先を続ける。
「それだけ精密な計算をどうやって? 時速五百キロで接近する物体に自分の対空砲ではなく他所の ―― それも出来たばかりのミサイルを当てるなんて至難の業だ。ましてや敵が必ずそこに目がけて体当たりをするなんて読みを」
「私は彼の置かれている状況と戦力から分析してそこしかないと判断しました。手持ちの戦力であげられる最大の戦果 …… 沈める事が出来ないのならば少なくとも敵の動きを止める、彼が歴戦の兵士であると理解したからこそ彼の思考が読めたのです」
敵の陽動にかかりながら相手を観察して心理を読み取る、あの戦争の時にはこんな人たちが大勢いたのだろうかとクレストは自国を勝利へと導いた彼の兵士達の人となりへと思いを馳せる。
「それに敵の戦闘機がゼロと言う事も運が良かった。私がセント・ローで防空指揮官をしていた頃あれにはずいぶんと悩まされました、ですからその諸元や性能は今でもソラで言えるぐらいに覚えています。輪形陣を維持さえしていればその外縁部から私の船に届くまでの時間はすぐに割り出せる、そこからはイメージで敵との位置関係を導き出す」
「イメージ? 」
「自分の船に突っ込んで来たカミカゼの、あの日の恐怖を。全て」
ハンターが自分のこめかみをコツコツと指で叩く。
「 ―― 余す所、なく」
* * *
「艦橋要員に若干名の軽傷者、艦隊施設・装備に被害、なし」
甲板で残骸の後始末に追われる整備兵の姿を同じフロアで眺めながらハンターはマクスクランからの報告を背中で聞いた。あれほど凪いでいた海は戦いの終わりと同時に息を吹き返し、今ではセイルに掲げられた信号旗を棚引かせるほどになっている。この風があの時あればきっと彼は違う選択をしただろうな、とハンターは心の中でそっと呟き、今は粉微塵になって装甲の上へと散らばるジュラルミンの破片へと目をやった。
「疲れている所を申し訳ないが整備班に作業を急がせてくれ。もうすぐ航空隊が帰投する、時間的に燃料がギリギリの筈だから着艦スペースだけでもクリアにしてもらえればいい」
「アイ・サー」
小さく敬礼をして甲板後部へと駆け出すマクスクランの後ろ姿はどことなく浮足立っている、とハンターは思う。無理もない、ここまで窮地に陥った経験は彼自身のキャリアの中でも皆無だったに違いない。だがこの危機を乗り越えた事が彼にとっての自信となり引いてはそれが艦隊全体の練度へと繋がる、死の恐怖に打ち克つ為に状況を冷静に判断し突破口を見つける為の懐の深さを身につける事が出来るのだ。
今は解放された喜びに我も忘れて首まで浸かっても構わない、しかしそれも長くは続かない。次の戦いはもう始まっているのだから。
でも彼ならばきっとそれができる。少なくとも他人を庇って自分を犠牲にしようという決意の持ち主である限り。
「 ―― しれ、いえ。…… 大佐殿」
禁句を慌てて訂正する若い声にハンターは思わず振り返る。いつもの不遜な態度はどこへやら、そこには帽子を取って恐縮しきりなカリートの姿があった。力が足りないが故に招いた艦隊の危機に対する責任を取るために、あえてCIC要員の中からたった一人で進み出て来たのだろう。ハンターは目の前でいかようなる罰も受け入れようと覚悟を決めた青年に厳しい表情で相対した。
「今回の艦隊に及ぼした危機に関しては全て私に責任があります。自分の未熟さから任務の遂行に多大な支障をもたらした事、どのような形でも私が責任を負いますのでどうか他のCICの要員には寛大な判断を」
「未熟だ、と。自分で認めるのだな」
けん責にも似た強い口調で問い質すハンターの前で金色の髪が縦に小さく揺れる、うつむいたまま自分の言葉を待つ青年の髪をじっと見つめながらハンターはただ黙って二人の姿の差に思いを巡らせた。この日を境に艦隊の心臓部とも言えるこの二人がどのような変化を遂げるのか、マクスクランは多分ハンターが望んだ方向へとその歩みを進めるだろう。しかし彼はどうだろう? 責任感が強いという事は自分に課せられた任務の重要性を認識しているという事、そのミスに関して自ら責任を取るというのは当然だと言える。ましてやここは普通の社会とは違う、人と人とが互いを殺し合う戦場 ―― 大勢の味方の命が掛かっている。
「これはゲームではない」
ハンターはカリートの深奥にある任務への未必な認識を指摘した。CICの盤上で繰り広げられるボードゲーム、圧倒的な力で敵を蹂躙して来た彼が現実を見失うには十分な動機と言える。確かに戦況を把握しより良い戦術を選択する為にはそれくらい非情でなければ味方を駒として動かす事は出来ないのかもしれない、それはハンターとしても同意する部分だ。しかし。
「敵の力量を単一と計った少尉のミスは決して許される物ではない、日本人という人種を劣等と決めつけた大戦当初の軍首脳部と同じ発想だ。事実その誤認の為に我々は大勢の仲間と大量の資源を海の藻屑へと変えてしまった、そしてそれはこの戦いが終わるまで止む事はない」
自分の判断に他人の命が賭かっている ―― 油断や慢心がその代償を自分達に必ず求めるという事をハンターは言外にカリートへと伝える。彼はその意図を察してはっと顔を上げてハンターの目を見た。
「この船が役目を終えてノーフォークの桟橋に錨を降ろすまで今日の事は忘れるな。どんな敵に対しても常に全力で立ち向かう、それが戦いの流儀でもあり敵に対する礼儀でもある。次の作戦までに自分がどういう風に過ごすのかを考え、そして実践しろ」
強く言い放ったハンターに向かって直立不動を整え、素早く右手を掲げるカリートに彼は小さく頷いて退去を認める。しかし彼はハンターが踵を返して艦首の方へと向かうその背中をいつまでもその姿勢でじっと追い続けていた。
* * *
「この事がきっかけとなって私の船 ―― ジョージ・ワシントンは生まれ変わりました。艦長のマクスクランから下士官、整備兵に至るまで全ての乗組員が一致団結を図れる様になった。6000人規模の空母がまるで駆逐艦の乗組員の様にお互いを切磋琢磨し、必ず無事に帰還する為に必要な全ての事を率先して実践する様になりました。カリート少尉に言ったその言葉が彼を通じてその他の乗組員にまで伝わって行ったのでしょうな、とにかく帰路につき原隊に合流する頃には彼らは立派な海軍魂を身につけた立派な水兵に変わっていました」
その一瞬だけ見せた好々爺然としたその表情をカメラ越しに見つめていたクレストは二度と忘れる事が出来ないだろう。我が子の成長する姿を愛おしげに見守る父親 ―― 子を生さずに妻との離婚を決めた彼にとってそれは羨望や憧憬を伴って心の内を苛んだ。
「ですが」
それはまるで彼の心の内の苦悩を助けるために発せられたかのようだ。フレイは過去の記憶にどっぷりと浸かったハンターを現実へと引き戻す為に、あらかじめ用意してあった質問へと手を伸ばす。
「それだけの成長を遂げた貴方の船は完全に記録からも記憶からも抹消されています。そして私達はこの噂話を追いかけている最中にその結末だけを耳にしている ―― 艦隊は跡かたもなく全滅したという。結論としてそれは「長谷川大尉」と言う日本兵が主体となって行った作戦によって達成されたと? 」
「もちろん彼一人ではない ―― 彼のクルーや共に作戦に参加した大勢の兵士、そしてそれらを影で支えたより多くの日本人の力によって私達は敗北したのでしょう。ですがそれら全てを束ねて「死神艦隊」と恐れられた私達に敢然と立ち向かって勝利を得たのは紛れもなく彼の力による物で、敵味方の間柄でありながら私は彼に畏敬の念と友人としての情を感じずにはいられないのです」
「友人 …… ? 」
窓の縁から微かに差し込んでくる日差しにサングリアが揺れる、薄いルビーの色彩を貫いて砕け散る光が呟くクレストの目を焼いて何かをささやく。それはこの話が始まってからずっと彼が感じていた不可思議な矛盾、何かがおかしいと思わずにはいられない非整合性。
どうして彼は敵の名前を知っているんだ? という、あまりにも単純な。
「ハンターさん」
自分の声にミキサーの針が揺れる、放送には使えなくなる可能性を示唆するその動きへと視線を落としながらもクレストは決意する。ままよ、この真実が明るみになればどっちみちその可能性は五分五分だ。
「私には貴方の話をお伺いしながらどうしても払拭し切れない疑問があります」
彼がそこに気がつく事をこの老人は期待していたのだろうか、とフレイは単純にそう思う。いままで滔々と語り続けた過去の物語に対してクレストの質問は余りにも不躾で遠慮がない、インタビュアーは決して尋ねる相手の発言に対して否定をしたり疑問を呈してはならないという不文律を犯した彼に対して果たして老人は不快感ではなく頬笑みと沈黙で応えようとしている。
「貴方が今おっしゃった「死神艦隊」とは敵方の通称で、本来は「ファランクス・フォース」という名前なのだという事で間違いありませんね? 」
無言で小さく首を縦に振ってその言を肯定するハンター、クレストの中で更に深まる疑念は彼の目を閉じさせてぐるぐると頭の中を駆け巡る数多くの質問を浮かび上がらせた。
どれだ、どの言葉が正確にこの矛盾を解き明かす事が出来る?
「ですが貴方の艦隊が存在したという事実は今この時点においても機密事項として国防総省の最深部で眠っているはず、もしそんな戦いがあったとしてその資料が日本に残っていたとしても戦後進駐したGHQが必ずその証拠の一切合財を回収している。だからこの事は今まで誰も知らなかった」
閃きと共に浮かび上がる文言、そしてクレストは恐らくその質問の答えがこの物語にまつわる全ての疑問を解き明かす為の大きな鍵になると根拠のない確信を得た。閉じた瞼をうっすらと開きながらクレストはハンターへと目を向ける、老人は今も笑っている。
―― 待っていたのか、この言葉を。
「 ―― では貴方はその「死神艦隊」という敵の呼び名を …… 誰から、聞いたのですか? 」
緑の間を駆け抜ける初夏の風が窓に掛けられた薄手のカーテンを揺らして部屋の中へと流れ込み、心地よさを頬に受けたハンターはふっと霞んで見える窓の外の林へと見えない誰かを探すかのように眼を向ける。
「長谷川大尉、本人からです」
その名を口にした瞬間にハンターは窓の外に佇んでいる長谷川を確かに見た。丁寧に整えた髪をきっちりと目深に被った白い帽子の中に収めて、彫の深い顔立ちと切れ長の眼が溢れんばかりの生気を湛えたまま穏やかに笑っている。戦争が始まってからずっと抱き続けてきた日本兵の価値観を根底から覆したその出で立ちで彼は聲なき声でハンターへと何かを語りかけた。
郷愁を求める瞳が瞼で覆い隠されて、理を伴わない衝撃の真実に小さく口を開いたまま呆気にとられる二人の前で再びゆるりと開かれる。青い瞳の奥で脈動する彼の決意がクレストとフレイに一つの覚悟を促した。
長いプロローグは終わった。70余年の時を経て歴史の深淵で眠り続けた物語が遂に幕を開ける。
「 …… 私達はあの日。ジョージ・ワシントンの甲板の上で確かに出会い、そしてお互いの全てを賭けて戦う事を誓い合ったのです」
* * *
真っ暗な大食堂に鎮座して黙々と目の前に置かれた食事へと箸を伸ばす総勢七十二名の中攻乗組員たち。部隊長でありながら長谷川は特別にあつらえられた席に着席しての相伴をよしとせず、あくまで隊員の一員としての公私の扱いを是としていた。もっともこれは彼にとっては特段決意の必要な判断ではなく長谷川一家では常にこうしているという自分達での取り決めを行使しているにすぎないのだが。
「お、鰯の梅煮に金平と …… ほうれん草の味噌汁か」
一番前の端の席で朝餉に箸を伸ばしていた長谷川は次々に味見をしながら嬉しそうに呟いた。その声を耳にして少し離れた場所から食堂の様子を仁王立ちで窺っていたひと際大きな人影は驚いた様に身動ぎをして重低音の声を発した。
「昨日の夕方福岡で上がった鰯だ。ここンとこ昼間は敵の眼につくからもっぱら漁は夕方から夜になるらしい、それでも海に出ようってンだから彼らの頑張りには頭が下がる …… それにしてもこんな暗闇でよくもまあ物の味が分かるもんだ」
長谷川の感覚の鋭さに舌を巻きながらその大きな人影は器用な手つきで前掛けを外して肩へとかける、立ち姿だけで威圧をいや増すその人影に向かって長谷川は感謝の意を笑顔に変えて小さく頭を下げた。
「すまない服部さん、俺達の為にわざわざ疎開先からここまで来てもらって。みんなに代わって心から礼を言わせてもらう」
「ふん」
何をいまさら、という言外の返答を鼻白みに置き換えて服部は丸太のような太い両腕を胸の前で組んで長谷川を見下ろした。指揮官として押したてた長谷川を凌ぐ風格と漲る自信は同じ様な体躯を持つ奥野をして「閻魔様」と揶揄されている、長谷川一家の中で唯一彼と初対面だった望月はそれが実に的を得た人物評だと心の中で呟いた。
夜戦に特化する視野を作るために考えられた昼夜逆転生活 ―― 通称「猫日課」は文字通り一日の始まりを夜中に設定する方法だ。起床時間を真夜中に設定し、ほとんどの明かりを月や星に頼り施設内での照明の使用は最低限以下に抑えるこの生活様式は古来人間が持ち得ていたであろう夜目を目覚めさせ、同時に作戦が開始される夜間に身体を慣らすのには最適な方法として編み出されたのだが実はここで一つの問題が持ち上がった。それは長谷川達が居城と決めた太刀洗基地が海軍の物ではなく、陸軍の基地であったという事に端を発する。
世界で一番仲の悪い日本帝国陸海軍はお互いの縄張り意識が病的に高く、同じ兵装のや階級までも呼称を変えて使用しているほど相手を意識していた。しかし大戦末期ともなるとそういう仲違いをしている余裕はなくなりお互いの武器や基地を融通して押し寄せつつある合衆国の膨大な戦力に対抗せざるを得なかった。太刀洗基地も陸軍専用の特攻基地として機能していた為そこへ降って湧いた様に現れた長谷川達に対して敵意や反発を露わにしてしかるべきなのだが、特攻と言う共通の目的を有し尚且つ海軍省直々の作戦命令書を携えた彼らを拒否する道理はない。英霊となるべく着陣した72人の海軍兵を彼らは渋々と、しかし最大限の便宜を図ってその作戦を支援する体制を整えようと試みた。
しかしながらここである一つの問題が浮かび上がった。事前に長谷川から提出された作戦計画書に記載されていた「昼夜逆転の訓練計画要綱」はその発想・目的共に非の打ちどころのない緻密さと分析に基づいて立案されており、それは太刀洗基地の首脳陣ですら思わず称賛の溜息を口にしてしまうほど見事な物であった。唯一自分達の保持する航空隊と全く真逆の時間割を採用している事以外は。
機体と航空兵以外の一切を基地に委ねたその計画に対して基地幹部は頭を抱えた。機体の整備や兵士の身の回りの支度は陸軍の整備兵や緊急招集の学徒達で何とかなるとしても食事ともなるとそうはいかない、なぜなら長谷川達の起床予定時間は午前零時、朝食は午前一時。それを時間割通りに実行するには基地の主計員(調理師の事)達は24時間勤務を行うしか術はない。何とか当番時間をやりくりして対処しようと考えては見たものの、出来あがった当番表を一瞥した主計長は基地幹部が苦労して書き上げたそれを物も言わずに破り捨てて生ごみ缶の中へと放り投げた。いくら軍の命令でもこんな絵空事に付き合っていられるかと言う無言の意思表示である。
意外に思われるかもしれないが陸海軍を問わず兵士の糧食を一手に担う主計員と言う立場は戦闘時以外には過度なまでに尊重されている。折衷案を味方である主計員に破棄された基地幹部は困り果てた挙句に部隊長である長谷川に現状を包み隠さず説明すると共に、彼らの部隊専任の主計員を連れて来て欲しいと懇願する他なかった。
元山航空基地の主計長として辣腕を振るっていた服部徳重が故郷の大分へと帰郷したのは昭和十七年、航空隊がラバウルに進出して基地がもぬけの殻になった事を確認してからの事だった。度重なる慰留と懇願と恫喝と脅迫の全てをたった一つの鼻息で全て吹き飛ばした彼は着任した時と同じ様に自らの包丁の包みを小脇に抱えて釜山行きの列車へと乗り込み、悪態と罵声で見送る軍幹部の醜く歪んだ表情を省みる事すらなく日本への帰国を果たした。当時の事情を知る者の話では服部のこの一連の行動はラバウル行きの部隊に自分の名前が記載されていなかったが故の抗議であり、自分達の欲望の為に彼一人を手元に残そうとした幹部連中への腹いせのつもりであったと語っている。
「贅沢好きの海軍」とは言え戦時下の緊縮財政で材料の調達もままならずに他の基地の主計達が頭を抱える中、元山航空基地の食事だけは群を抜いて兵士や士官からの評価が高かった。噂を聞きつけた近隣の基地の指揮官たちがその理由を突き止めるために内部監査と言う名目で予告もなく基地に押し入って昼食を所望した揚句、一口目で絶句したまま箸が止まったという逸話があるくらいだ。だが服部にはそんな周囲の雑音などどこ吹く風、彼は自分の料理を食べてその価値を理解してくれる彼だけの顧客の為に己の才の全てを振り絞って主計の仕事に勤しんだ。どんな美辞礼賛を述べるよりもただ笑顔で「美味い」と言ってくれる元山の航空隊員達だけの為に。
客がいなくなればその腕を披露する道理がない。一人取り残されたという失意を胸の奥に秘めて日本の土を踏んだ服部は自らの出自であった京都の老舗料亭「菊水」での花板復帰を固辞してそのまま妻子の隠れ住む大分へと向かった。山間部の小さな村に残っていた実家と僅かながらの畑に手を加えて作物を栽培する為だ。
戦勝ムードで浮かれる日本国内で彼を含めて少数の人間がこの戦いの結末に不安を抱いている、軍でも上層部の一部でのみにしか存在しなかったその危惧をなぜ一介の主計員である彼が持っていたか ―― それは基地に納入される野菜の質やランクが少しづつ落ちていく事に気づいたからだった。見た目にはほんの僅かな変化だが一流の料理人である服部の目はごまかせない、大本営の発表に基づけば戦争にことごとく勝ち進む日本は豊富な資源を手に入れ版図を広げて大東亜の盟主としての地位を確立している筈である。しかし中国戦線と満州と日本の中間位置にあって戦場とは最遠のこの地域の経済状況は向上するどころか下落の兆候を見せ始めているのはいかなる意味なのか?
服部は軍事の専門家ではないが経済活動の輪の中で店を切り盛りしていた専門家であり、市場動向の変化やその理由の分析には一日の長がある。彼はその理由が国内や占領地域下での生産力の低下と流通の不安定な状況 ―― もちろんこれは当時の大本営が真っ先に否定する事案でもある ―― による物だと解釈し、そこから今の日本が置かれている戦況を弾きだした。
生産や農業を蔑ろにし、兵站を疎かにする国に勝ち目など無い、それは国云々と言う事ではなく自分が主戦場として戦って来た京都と言う土地においても同じ事が言えた。きら星のごとくに次々と生まれる新店に老舗と呼ばれる旧態店はどう対抗しなければならないか? 商売敵に追従して同じ創作の世界へと身を投じた店のことごとくは古くからの客筋を失ってあっという間に閉店へと追い込まれた、今生き残っている老舗達は古くからの伝統を守りとおして店に最も必要な生産者との繋がりと働いている全ての従業員に自分達の行っている事の意義と使命を正しく伝えられた店達である。もしこの法則が人の理にかなったものだとするのならば。
―― 日本はもうすぐ店じまいだ。
糟糠の妻として服部を支えた都生子は帰国の途についた夫の報を手にした瞬間にその意図に気がつくと、さっそく自分と娘の二人だけの食べ物を得るために耕した畑を敷地一杯に広げて近隣の農家へと頭を下げて何種類かの種と協力を取り付け、種蒔きの準備を整えながら服部の帰りを待った。大分の山間部の小さな村から親孝行の為に幼くして上京した服部の事を村人の多くはよく覚えていて、都生子の頼みにも二つ返事で応じた彼らは総出で畑の整備に当たった。広げてはみたものの自分一人の力ではどうやって、と心配していた彼女の杞憂はあっという間に払拭されて畝の揃った見事な土地が家の回りを取り囲む。度を超えた施しに頭が地面に届きそうなほど頭を下げる彼女と一人娘に向かって彼らは土に汚れた顔に満面の笑みを浮かべてこう告げた。
「なあに、こんな世の中じゃ。帰ってくるモンがおるンじゃったら儂らは精一杯出迎えてやらんと死んでいったモンに申し訳がたたんからのう」
かくして服部の百姓生活は大勢の村人の協力を背景にして始まった。手に入れる側から作る側へと身を置き換えた事に多少の不安はあったものの、素人の割には十分な成果だと村人は服部の挑戦を褒め称える、だが服部自身は賛辞を耳にしながらも決してその出来栄えに対して納得する事が出来なかった。なぜなら自分達が食べる分だけではなく軍を辞めた事によって失った収入の幾ばくかも出荷と言う行為で得なければならないのに地面に転がって収穫の時を迎えたカボチャや掘り出したさつまいもを手にした服部は、今まで自分が手にした作物がどれだけの手間と技術によって生み出されたかと言う事を苦い顔で思い知った。
「なるほど、これはなかなかに手強い。だが精神一到何事か成らざらん ―― 考えてみりゃ作るという事はそういうことか」
一年目の教訓はすぐさま二年目へと生かされ、すぐに彼の畑は充実したものへと変化を始めた。元々物を作る事に優れた才能を持つ服部は数々の失敗を糧に教訓を得、近隣の農家に頭を下げて自分が理想とする仕上がりを得るための教えを請うた。村一番の出世頭が頭を垂れてでもよりよい物を作りたいという情熱に絆された彼らは自分達の経験と技術を包み隠さず彼に伝授し、時には仕事の合間に顔を出して実地に指導を行うという熱の入れようだった。その甲斐あってか二年目の彼の畑からはそのほとんどが出荷可能と言う結果となり、都生子と服部の一人娘である華織は当代きっての花板の食事をたまに口にする事が出来た。
「お父さんのきんとん、すごくおいしいっ」
華織の無邪気な笑顔を見た服部はそこに元山航空隊にいた頃と同じ満足を感じずにはいられなかった。そしてそれと共に彼は一生このままの生活でもいいのではないか、家族の笑顔に囲まれながら過ごす人生も悪くないと少しづつ思い始めていた。
だが服部の漠然とした望みもそう長くは続かなかった。三年目を迎えた畑から全ての収穫を終えて正月支度真っ最中の服部の元へと一通の電報が届いた事がその始まりだった。一晩水で戻した冬菇をかまどで焚き始めた矢先に都生子がそれを受け取り、今時見ない雅やかな封筒を何度もひっくり返して確かめた揚句に鍋を真剣な表情で睨みつける彼の元へとそれを届ける。宛先だけで差出人も書かれていないそれを訝しげな表情で開いた服部はその内容を一瞥して一瞬目を丸くし、しかし次には小さな笑いと溜息を洩らして背後で心配そうな顔をする都生子に短く告げた。
「すまん都生子、どうやらまた出かけなきゃならん用事ができた」
鍋の中でコトコトと踊る椎茸の笠を菜箸でつまんで戻り具合を確かめながら彼は引き締まった表情で背後に控える彼女にその書面を手渡す、都生子が受け取った紙には短くこう書かれていただけだった。
「 シキュウ ノ ヨウジ レンラク コウ ゲンザン ハセガワ 」
* * *
真っ暗な食堂を忙しなく動きまわるのは当番に志願した望月と何人かの隊員達、そしてもんぺ姿の二人の女性 ―― 都生子と華織だ。軍令部に問い合わせて長谷川の所在を知った服部はすぐに愛知県の豊橋へと赴き、直接彼から依頼の内容とその背景にある作戦の詳細を聞いた。元山航空隊最期の全力出撃という事もあって二つ返事で了承した服部はすぐさま太刀洗基地での準備の為に大分へと取って返したのだが、我が家に帰って来た服部を待っていたのは既に転居の準備を終えて畳へと正座する都生子と華織の姿だった。唖然として二人の前に座り込む服部に向かって華織は頭を下げながら言った。
「お父さん、お願いですから私達もお父さんのお仕事のお手伝いをさせて下さい」
駄目だ、と言う言葉を服部の口から奪ったのは彼に課せられた任務の困難さからだった。昼夜を逆転する生活に関してはどうにでもなるが七十人余の食事を三食、若しくは四食ともなるとこれは服部一人の手ではどうしても足りない。先乗りして現地で人手を募ろうかとも考えたが既に戦況は長谷川の予想通りの劣勢で、アメリカ軍の本土空襲も頻繁になってきた昨今において最も目標となる軍事基地で働く事に同意する輩が果たしているだろうか? 引き受けたものの不安ばかりが募る彼に向かって出された助け船はこの世で最も大切な身内からによる物だ。それを甘んじて受けるべきか、否か?
「 …… わかった、俺からも二人にお願いする。よろしく、頼む」
葛藤に苛まれた彼の口はそんな短い言葉すらも滞らせたが空襲警報がなったら何もかも構わず ―― その中には自分の安否も含まれていた ―― 必ず防空壕へと逃げる事を確約させて帯同を渋々許可すると、都生子と華織は曇天を吹き飛ばす様な晴れやかな笑顔で面を上げた。それは服部の心に根強く巣食っていた一抹の不安をも霧散させて破顔を生みだし、同時に戦争が始まる前の幸せな日々を彼の胸に呼び寄せた。まだ小さな華織を抱えて京都での修行に明け暮れていた自分をじっと見守っていてくれた都生子とあどけない笑顔で彼の疲れを癒してくれた華織の存在が今また自分を力強く支えてくれる。
―― 家族とはこういう物なのか。
太刀洗に着陣したばかりの彼らが見目麗しき女性の姿に心を奪われてしまうのは致し方の無い事で、ましてやそれが自分達の身の回りの世話をしてくれるともなるとなおさらである。しかし引きも切らない二人への質問攻めを一刀両断に立ち切ったのは二人の家長として君臨する服部の威圧だった。仕事の邪魔をするなとばかりに眼光鋭く睨みつける閻魔様の後押しを受けて、長谷川が背後から憤懣やるかたない彼らに向かって止めを刺す。
「あのお二人は服部さんの細君とご令嬢だ、くれぐれも粗相のないようにしろよ。彼の手にかかれば俺達の腹を下す事など造作もない事だからな」
冗談混じりの恐喝が功を奏した事は言うまでもなく、それを聞いた桑島でさえもが伸ばした手を慌てて引っ込める始末である。今相楽と呼ばれるほど端正な顔立ちの桑島は先代と比肩するほどの自他認める優男で赴任した場所ごとに妻がいるとの風評がある、その彼が何も言わずにただ真っ直ぐに壁を眺めながら一心不乱に箸を動かしている様を不審に思った富田林がその理由を尋ねてみた。隊の副長で自分の上官にもあたる人物から質問を受けてそれを無視する事など出来ない、桑島は味噌汁を一口飲むと滑らかになった舌を動かしてこう告げた。
「自分は作戦に参加する為にここに来た訳で、今までの数々の悪行を閻魔様に裁かれる為に来た訳ではありません」
自分の所業について過ちだったと真顔で白状する彼に富田林は目を丸くした。とにかく隊一番の美男子をしてその体たらくでは他のものにしては言わずもがな、しかしながら華織の美貌と清楚な雰囲気はその欲望を抑え込んででも彼らを魅了してやまない。宗教の偶像崇拝の観念とはこういう所から来ているのかもしれないな、と長谷川は距離を取って眺める隊員達の姿を見ながらそう思った。
食事を続けながらそのまま聞け、と言う前置きの後に服部の口上が部屋中に響き渡った。
「本作戦が夜間に実施されるという事を受けて、献立には特に眼の働きを良くするであろう食材を率先して使う。こういう栄養素は蓄積が大事で繰り返し摂取する事によってその効能を実感出来る筈だ、戦時下だからと言って遠慮はいらん、存分に食べてくれ …… それと」
服部は暗闇の中で何人かの隊員に目を向けた。睨まれた隊員たちに共通して言える事は少し痩せていて手足が細い、睨みつけられた彼らは一様に首をすくめてその眼光から逃れようと躍起になった。
「この中に何人か脚気の兆候が見受けられた。よって今後の体調管理と向上の為に白米を出す事は出来ない、贅沢に慣れた貴様達には酷な仕打ちだがこれも作戦遂行の為だと思って我慢してくれ。ただし玄米の摂取によって全員の体調が向上して作戦が成功した暁には、俺がどんな手段を使ってでも貴様らに寿司を腹いっぱいご馳走してやる。生の魚が厭だろうがなんだろうが有無を言わさずその口にねじこんでやるから覚悟しておけ」
「しゅ、主計長っ。それは握り寿司の事でありますかっ!? 」
暗闇の片隅から若い兵士の期待に満ちた声が飛ぶ、服部は腕組みをしたままにやりと笑って声のした方向へと強面を向けた。
「当たり前だ、寿司といって今更五目寿司ですとごまかす様な男に見えるか? 俺を誰だと思ってる」
すごい説得力だ、と長谷川が思う間もなく暗闇のあちこちから小さな歓声が飛びだした。作戦自体の成功率は未だに奇跡以下の確率で全員の生死の保障もままならないのが実情だが、報奨を確約する事によって士気を上げてその確率を引きあげるというのが長く自国民同士で戦い続けてきた日本の習わしだ。胃袋を掴んで味方を鼓舞する服部の手腕に長谷川は感心し、それと同時にそれと同じ事を彼が言った事、そして実現した事を思い起こさせた。箸を咥えたまま富田林を、堰川を、桑島を、鳳の顔を順番に眺めてから最後に自分の隊へと目を向ける。その全員が何かに思い当たって小さく笑っていた。
そうか、マレー戦に赴く前日に彼はそう言って全員を送り出し、生き残って基地へと帰投した全員に握り寿司を御馳走してくれたんだった。それは今まで食べたどの寿司よりも美味かった。
過去の記憶を手繰り寄せて一しきり感慨にふけった長谷川は箸を咥えたままでしげしげと傍らに立つ服部を見上げると、彼は人の悪い笑顔でそれを出迎え「やっと思い出したか」と言わんばかりに片目を小さく瞬かせた。
* * *
仄暗い下弦の月がさざ波に姿を揺らめかせてじっと息をひそめ、丑三つをほんの少し過ぎた静かな夜をまるで人目を忍ぶように十二の影が通り過ぎる。雷撃訓練の為に太刀洗を進発した長谷川達はすぐに進路を南へとり鷹取山の麓を抜けて荒尾市の上空から有明海へと抜け、そこから機首を北へと向けると湾の最奥に位置する住ノ江港を目指した。
六角川の下流に位置する住ノ江港は「肥前の炭鉱王」高取伊好が杵島炭鉱で産出した石炭を積み出す為に整備した港で、大戦末期のこの時期においても多くの船舶が行き交いしていた。「佐賀の香港」と呼ばれる港近くの船宿もさすがに夜間の灯火管制の元でその輝きを鈍らせてはいたが、それでも池のほとりで身を隠す蛍程度の明かりはその街で営みを続ける人いきれを感じさせる事ができる。先導を続ける長谷川機の偵察員である望月は機長席の長谷川と副長席の飛田の間から顔を覗かせ、双眼鏡を目に押し当てたまま呟いた。
「住ノ江港視認、練習標的まで約二海里(3.6キロ)。一号、二号灯標確認」
「各員に告げる、これより夜間雷撃訓練を開始する」
肩からぶら下がった送話器に向かって長谷川が告げると後部の窓から見張りについた三人から受諾代わりのバンクを全機確認した旨の報告が大声で届けられる、飛田は小さく頷くと長谷川をちらりと見て操縦桿から手を離した。
「今回の目標は住ノ江港に停泊している大型の石炭運搬船だ、持主である高取翁と九郎氏のご厚意で自分達の訓練に無償で提供して頂いた。船倉の中身は重心を維持するための海水が入っているだけだから大いに活用して欲しいとのありがたいお言葉だ、各員心して励むように」
前方のスロットルを引いて速度を落として操縦桿を押すと機体は僅かに機首を下げる、遥か前方に小さな灯台の影が望月の目に映る。彼女は雷撃手である飛田の肩をぽんと叩いてその事を知らせた。
「使用する魚雷は91式改5、弾頭改7の炸薬強化型だ。重量は約一トン、弾頭重量の増加によって発生する投下時の頭上げを抑えるために框板(魚雷の後部に取り付けた十文字の板ヒレ。空中姿勢を安定させる役割を持つ)は新型の四式に変えてある。これを三式尖無しで敵艦に直接叩き込む」
照準器を通して映る暗闇にじっと目を凝らしながら黙って聞いていた飛田はスマートな機体のシルエットを台無しにする巨大な秘密兵器の難易度に思わず眉をひそめた。炸薬量420キロを誇る弾頭改7は装甲が強化された敵の大型艦を一撃で仕留める為に開発された航空魚雷の切り札だ。だがそれは本来信管に三式爆発尖と言う凧を取り付けて海面をたなびかせ、水深10メートルの海中をつき進む魚雷から遅れて接触する事によって本体の信管を起動させて船底部を破壊する仕組みになっている。それを外して普通の魚雷と同様に敵の舷側へとぶち当てる事など本当にできるのだろうか?
「今俺達の腹に括りつけてあるのは木彫りの特別製だ。浮力、重量とも今川棚(川棚海軍工廠。魚雷製造に特化した佐世保海軍工廠の分工廠)で作ってもらっている物と同じだが動力がない、よってこの標的に命中させる為には相対距離300メートル、速度140ノット、高度10メートル以下で発射しなければならない。先ず俺が手本を見せる …… 編隊灯、点け」
「灯標通過、目標まであと一海里」
望月の声を受けて長谷川はぐっと操縦桿を押し込んでスロットルを元の位置へと押し戻すと、機体は滑る様に降下して海面すれすれでふわりと止まった。冬の有明海の波は思った以上に荒い、波頭がプロペラの放つ推進力で砕けて後方に飛沫をたなびかせる。蛍のように頼りなかった街の明かりはもう数を数えられるほどはっきりと分かる、それを遮る様にひと際大きな影が海の上に横たわっている。
「目標視認、距離800。雷撃用 ―― 意っ! 」
飛田が機内に轟くエンジン音に負けない大声で宣言すると望月は双眼鏡を首にぶら下げ、他の面々も所定の場所に据え付けられた手摺をしっかりと握って腰を落とした。雷撃後の急上昇による負荷に耐える為である。遠村が空いた方の手に握った計算尺の滑尺をリズム良く動かしている、それは長谷川の放った短い声と共にぴたりと元の位置へと収まった。
「 ―― 撃っ」
「よっく見ておけ、世界最高の雷撃ってのがどういうものかをな」
堰川は右旋回で僅かに翼を傾けながら長谷川機の編隊灯が見える位置に機体をつけた。食い入るように見つめる乗組員の視線の先で緑色の小さな光は彼の予想を超える速さで目標へと突進する ―― あいつめ、口ではあんな事を言っておきながら本音はそれか。どう見たって速度は150ノット以上、高度はたった5メートルくらいしかないじゃないか。
魚雷の中央部と機体とを繋いでいた抱締索の根元で火花が飛ぶと巨大なそれは重力の導きに従って親機の速度を纏ったまま勢い良く海中へと飛び込んだ。しかしその勢いと重さの割には上がる水飛沫が驚くほど少ないのは長谷川の操縦が神がかっている証拠である。
空中で切り離された魚雷は海中へと没する間に様々な力の影響を受ける。風圧による空気抵抗や親機である雷撃機の振動、そして切り離された衝撃による重心の移動などである。特に深刻なのは重心移動による頭上げの挙動で、投下速度が高速になればなるほど放たれた魚雷は素直に海中へと沈む事は難しくなる。事実敵方である米海軍の攻撃機は投下姿勢不良による反跳や深々度沈降を防ぐ為に雷撃速度を約100ノット、投下高度を30~40メートルに制限していたほどで高速低高度の雷撃は運用上のタブーとされていた。
91式魚雷を模して造られた模擬弾は確かに尾部に姿勢制御用の框板を取り付けるなどより本番に近い形をとってはいるが、加速によって発生するローリングを制御するジャイロスコープや深度計などの機械部品を持たないただの張り子だ。スロットル全開で正確な雷撃を行うには髪の毛一筋の乱れもない操縦桿さばきと空中姿勢の乱れを考慮した投下の際のピッチング操作、そしてそれが可能なだけの高度と距離を瞬時に導き出せる冷静な判断力が必要になる。口で言う事は容易いがそれらの事は訓練や実戦によって得る事の出来る経験以上のセンスが必要で、富田林や堰川など長谷川を古くから知る同僚はその天武の才が「雷撃の神様」と謳われた第一航空艦隊空母「赤城」所属、村田重治海軍少佐に勝るとも劣らないのではと評価していた。
投下と同時に何事もなかったかのように暗い海面からふわりと浮きあがる編隊灯が大きな黒い影の上を掠めて住ノ江の街を飛び越える。はて、どうやって当たり判定を見極めるのかを思案しながら眺めていた堰川の疑問に答える様に闇夜に突然野太い鐘の音が響き渡った。それは編隊を組んで見守る11機の乗組員達だけではなく住ノ江の街隅々にまで響き渡るほど大きく、しかし染み透る様な美しい音色だった。
「 ―― なるほど、いいな」
船倉に詰めた海水が音を鎮めて目標となった石炭船が大きな鐘の役割を果たす、適切な速度で300メートルを航走した模擬弾は橦木となって大きな鐘を撞き鳴らすという仕組みだ。余韻を残して月闇へと放たれる荘厳な音はまるで南方で散って逝った戦友たちへの鎮魂の為に放たれた様な気がする、そうなるとあの緑色の編隊灯はさしずめ無明を照らす智慧の灯明と言ったところか。
初日こそ長谷川機ただ一機だった成功も日を追うにつれて徐々にその数を増していく。圧倒的な性能差と絶望的な戦況を乗り越えてここまで旧式の機体での戦いを続けてきた彼らにとって長谷川の出した課題は、簡単とはいかないまでも十分に履修可能な範疇だった。超低高度高速雷撃 ―― 第二射法と第一射法をかけあわせたその戦術は実は彼らが生き延びる為に有無を言わさず南方で鍛え上げた修羅の業だ、敵からの対空砲火も無く静止した目標に魚雷を打ち込む事など抱えた重さや夜間という条件を加味しても容易い。一度コツを掴んでしまえばよそ目をくれても当てられるほど彼らの技術は卓越していた。
しかしそうなってくると全員の間で話題になってくるのが攻撃目標たる「死神艦隊」の正体である。確かに輪形陣の真ん中で妙に幅を効かせているのが米軍最大の不沈空母・エセックス級だという事はなんとなくわかる、だが偵察機の帰還率ほぼ0パーセント ―― 戦闘301の菅野は純粋な偵察員ではないから除外する ―― と言うからにはかなりの邀撃体勢と対空防御が張り巡らされている筈である。結局のところ何度訓練を重ねても敵の正体が分からなければ確たる自信が得られないというのが彼らの不満となっていた。
「そうは言ってもなぁ、行っても還ってこれないんじゃあどうしようもないだろう」
と搭乗員から上がる不満をなだめすかしていたのは堰川で、他の機長も皆似たり寄ったりだ。結局のところ出たとこ勝負になるというのが大方の予想で作戦の成功率に関しては不透明、いや己を十分に知り尽くしていても敵の事が全く分からなければ百戦しても勝ち目はない。孫子の兵法に準えれば勝利は絶望的と言う事になる。
「何とかして敵の艦隊構成の端っこでも掴めんモンかなぁ、確かに夜間の超低空高速進入が敵のレーダーに最も掴まりにくいと分かっちゃいてもある程度の勝算が見えなければ士気にも影響する。それに自分の標的が軽巡なのか、駆逐艦なのかでもアプローチの方法は全然違うからな」
何日かに一回行われる機長だけの作戦会議上で堰川は部隊長である長谷川にダメ元で尋ねた。今回の作戦目標を決めたのは他ならぬ長谷川である、ならば敵に関する情報収集においても何らかの便宜が軍から図られていてもおかしくはないというのが堰川の考えである。当然周囲の機長の目も長谷川へと集まる、そこに居合わせた全員が堰川と同じ希望を持っているという証しである。だが長谷川はじっと目を閉じて黙ったまま微動だにしない。
「例えば一〇〇司を高高度で飛ばして上空から撮影するっていうのはどうでしょう? 」
「それが墜とされたから菅野が行ったんだろ? 上限高度一万メートルの偵察機や海軍の誇るエースをモノともしない敵の艦載機ってどんなのだ? 俺には全く見当がつかん、と言うか想像するのもおぞましい」
鳳と桑島が漫才よろしく懸け合いで場の空気を和ませるが世界最高レベルの航空機や技量を持ってしても手にした物はピンボケ写真がたったの一枚、二人が火をつけた議論の場も次々に提案されるアイデアが浮かんでは消える泡のように立ちどころに消えていく。自分達が命を賭けて積み重ねてきた経験が得体の知れない敵の力と言う幻想で次々に押しつぶされていくのを、彼らは失望と言う名の悔しさと共に口を噤んで見守る事しか出来なかった。
「 ―― 今日の所はこれまでにしよう」
全員の提案が自分達の手で全て握り潰されたところで長谷川が目を開いた。あぐらをかいていた膝を立ててすっと立ち上がった彼の姿を俯いていた全員の目が追う。
「敵の情報は確かに勝つ為には必要な事だ。俺は独自のつてを辿って何とかできないか頼んでみるから、みんなは次の会合までにそれぞれ手段を考えてみてくれ ―― では解散」
冬の日の入りは早い。ほんの一年も前ならばここに陸軍の戦闘機が誇らしげに翼を並べてじっと暮れなずむ空を見上げていた事だろう、しかし敗色濃厚な今となっては露天駐機どころか規定数を揃えるにも事欠くありさまで以前の隆盛は影も形もない。陸軍の編成する特攻隊の拠点となったこの基地がいずれは米軍の攻撃によって前線基地へと昇格するのも時間の問題だろう、と長谷川は格納庫に小さく灯る明かりを目指しながら思った。
「 ―― 長谷川」
何の気配もなく背後から掛けられた声に彼は思わず立ち止まる、振り向いた先には隊の副官と先導機の機長を務める富田林の深刻な表情が宵闇に沈んでいた。
「どうした、何か思いついたのか? 」
そういえばこいつ、あれだけの議論の最中に一回も自分から発言しなかったな、といかにも無口でなる彼の人となりを思い浮かべて小さく笑う。しかし長谷川の笑顔を見ても富田林はその深刻な表情を崩さなかった。
「 …… お前、何をする気だ? 」
声音の中に微かに滲む危惧と憤りが長谷川の笑顔を僅かに薄め、冬の夜の静寂が次第に二人を包み込む。ほんの少しだけ続いた沈黙と動かぬ影が時を取り戻したのは長谷川の小さな溜息がやれやれと言った風情で零れ落ちた時だった。
「ちょっと 物見遊山がてら、敵に挑戦状でも叩きつけてこようかと思ってな」