海ゆかば
起死回生の奇跡を演出する事さえ叶わないまま銀色の機体が四散する、無残な事に敵と共に炸裂する筈の250キロ爆弾は不発のまま海面で小さな水柱を上げて海の底へと消えて行った。機体の限界を越えて急降下をかけるもう一人も、ほんの僅かな見どころだけを仄めかして ―― 僅かながら絶対防空圏の内側へとその身体を捻じ込んだ ―― しかし迎えた末路は同じだ。まるで槍ぶすまの中へと身を躍らせた若武者はそのまま対空砲火の贄として縦横無尽に貫かれて爆散した。
耳をつんざく轟音が明け切った青空にこだまして艦隊を揺さぶる、だが一つの命が終わった事を告げるその不吉な銅鑼が彼らにとっては無上の喜びを与えるお告げでもあった。凪の空に浮かんだままの黒煙はドームの外縁を縁取る境界線の様に佇み、この戦いがいかに壮絶な物だったかを物語っている。
とりあえずの危機を脱した ―― 少なくとも一撃で船が沈むと言う可能性は低くなった ―― 兵士達の間に蔓延する安堵と弛緩、死と隣り合わせの鉄火場に居合せたが故の至福は生存本能から由来する摂理とも呼べるものだ。それによってもたらされる状況の変化は少数存在する危機管理能力に長けた何人かの心胆を寒からしめるほど劇的だった。
「! なぜトレントンは速度を落としている!? 」
緊張に若干の綻びを見せた艦橋の空気を凍らせるようにハンターの檄した声が奔る、ほんの束の間右舷の駆逐艦へと目を向けていたマクスクランが慌てて前方へと視界を送るとそこには艦尾を少し大きくした重巡の影があった。伝声管へと慌てて走り寄り無線室へと指示を送ろうと口を開く、だがその続きはCICで戦況を分析し続けているカリートの口から直に当該艦へと伝えられた。
「 ” トレントン、だめだ。すぐに速度を上げて輪形陣を確保せよ。輪が崩れれば対空密度が変化して射界に死角が発生する、敵はまだ上空に存在している ” 」
カリートからの命令を聞いてマクスクランは小さく頷き、さもありなんと言う表情でハンターを見た。だがハンターは奥歯を食いしばったままじっと前方の艦の影を睨みつけたまま肘かけを握り締めたままだ、それは彼だけが誰にも分からない不幸な未来を覗きこみ焦燥にかられている事を意味している。
「 ” トレントンからCIC、こちらは艦長のデクスターだ。状況はこちらも十分に把握している、現在敵機を殲滅すべく対空配置を構築中。ただ第一戦闘速度のままではいかんせん狙いがつけ辛いとの部署からの報告だ、艦隊先導艦として第二戦闘速度への航行速度漸減を具申する ” 」
「却下しろマクスクラン、司令官命令だ。急げッ! 」
その声に含まれた深刻な成分がカリートの物とは違う、マクスクランは自分を睨みつけるハンターに向かって視線で説明を求めた。司令官命令は無条件で受け入れるのが軍の掟だが事情を理解するのとそうでない事では、相手に説明する時の力の入れようが違うのだ。
「敵に『温度差』を突かれるんだ」
「温度差? 」
「そうだ。小規模な艦隊とは言え練度や目的意識や緊張感にはそれぞれの艦に差異がある、敵はその乱れに乗じて攻めて来る。俺はそれを南の海で ―― 」
いやと言うほど思い知らされた、と口にしようとしたハンターの言葉が全て終える前にそれは来た。CICで戦況を分析するカリートがほんの少しの動揺を声に滲ませながら対空指揮所へと命令する、ハンターは小さく舌打ちをしながら帽子の庇を目深に下ろして手元のマイクを握り締めた。
「 ” CICから全艦、敵機三機が東の方角より …… !? 反応消失っ! ピケット艦は直ちに艦隊東側を走査、肉眼との両面で確認せよっ! ” 」
勝利を確信した者に訪れる慢心、油断、驕り。
そうだ、俺達はそれで敗北した。
あのミッドウェーで。
明け切った日の光に翼端を二度煌めかせた島田がダイブする、堀越二郎が手掛けた最後の最高傑作はエンジンカウルから伸びた排気管から炎を上げてその機体が持つ性能を限界まで引き出そうとしている。ビリビリと震える速度計の針を確かめるまでもなくそれは彼が今まで体験した事のない世界、それを目にする度に心を躍らせた筈の大海原の蒼が今は大きな壁となって彼らの目の前へと立ちはだかった。
空母の右翼に陣取った駆逐艦コンコードの右舷監視員は双眼鏡を目に押し当てたままその光景へと釘付けになった。遥か彼方の海面へと舞い堕ちた ―― 少なくとも彼にはそう見えた ―― 三つの影が起こした水飛沫、しかしそれはそこで途絶える事なく一つの塊となって一気に距離を詰めて来る。それが意味する事とその可能性を疑う彼の意識は事実を口にする事を一瞬ためらい、そしてそれは島田達につけいる為には十分過ぎるほどの時間を与えた。栄二十一型のアンサンブルは一気に最終防空圏を突破して彼が守るべき艦の右舷前方へと接近する、対空砲が右往左往しながら叫ぶヒステリックな駆動音を背にしながら彼はまるで呟く様にやっとその事実を口にした。
「なんてこった、高度0。 …… 甲板よりも低い所を奴らは飛んでるぜ」
ミリ波の下を全速で駆け抜ける島田の機体に襲いかかる強烈な重力は地球上で最も密度の濃い大気の抵抗と共に彼の機体を波間へと引き込もうと画策する、しかし島田は全身全霊を使って死への誘いに抵抗していた。ほんの僅かな感覚のズレが手元を狂わせて死に至る、それを避けるためには今まで培った己の技量とほんの少しばかりの運が必要だ。海風の一薙ぎで機体はたやすくバランスを崩して海面にぶつかるだろう、だが彼の命を呑みこむ為に顎を開くそこに波はない。凪いだ海面を粟立たせながら三機の零戦は一気に艦列へと踊り込んだ。
右翼コンコードと先導艦トレントンの中間に位置するピケット艦・カユーガは申し訳程度に備えられた40ミリを放ちながら、しかし彼らの侵入を阻止する事は出来なかった。自分達に向かって来るかもしれないと言う恐怖心といつもより薄い弾幕、対空砲手は恐怖に怯えながら後ろを振り返って後者の理由を探り、そして全てを理解した。
「なんでトレントンが俺達と並走位置にっ ―― 」
叫び声は艦尾をかすめる霧の塊の中央から轟くエンジン音に掻き消される、慌てて振りまわして敵の背後を狙う彼に突き付けられるその理由。
「駄目だ、これじゃあ味方に当たっちまうっ! 」
輪形陣内に侵入した三機は示し合わせたかのように全速で散開しトレントンの防空網へと襲いかかった。至近距離を全速で周回する三機の零戦に向かって一斉に放たれる対空砲火、だがどんなにリード射撃を行っても発射間隔の隙間をすり抜ける速度で低空飛行を続ける敵に対してどんな有効な手段があると言うのか。いつ放たれてもおかしくない20ミリといつかは自分達目がけて襲いかかるであろう体当たりは彼らを一瞬で恐慌のるつぼへと陥れた。艦尾の航跡が突然乱れたかと思うとそれが勢い良く持ち上がって勢いを増す、敵から逃れて射角を稼ぐ為の最大戦速は彼らが採るべき最善の策であり島田達にとっての思うつぼであった。
「群狼」
情報を集めるカリートは味方からの報告を聞いて帽子を脱ぎ棄て、整ったその頭髪を思いっきりかきむしった。輪形陣内に侵入されただけでも既にこちらの負けは確定的で、しかもゲームオーバーは秒読み段階に入っている。もう自分に出来る事は何もなく、後は各艦の対空砲が敵を首尾よく殲滅出来るかどうかにかかっている。
CICの担当士官の怒号が飛ぶ中でカリートは頭を抱えたまま艦隊の配置図を睨みつける、そしてふとある事に気がついた。
カミカゼが目的だと言うのならば侵入の時点でカユーガに目掛けて突っ込んでいてもおかしくなかった。だが彼らは密集隊形を組んだまま絶好の獲物を見過ごしてわざわざトレントンへと向かった事になる。加えて今自分が呟いた様に彼らがとっているのは「群狼戦術」だ、初期の混乱に乗じて突っ込むと思いきやまるで弄ぶかのように彼の艦の対空網を翻弄している ―― なぜだ?
「すみません、各艦の監視員に連絡」
作戦中のカリートは命令伝達の効率を上げるために敬語などは使わないのが常だ、だが突然丁寧な言葉で話しかけられたオペレーターは一瞬きょとん、とした後に慌てて答えた。
「は、はい何でしょうか」
「これから各艦の位置を正確に教えてもらえるよう各員に伝えてもらえますか? 敵の狙いを知るためにどうしても必要なんです」
風防の頭上で敵の驚き慌てふためく様が見える、スロットルを押し込んだままで操縦桿を操る島田の右手が届きそうな場所に海がある。線画のような世界でひたすら螺旋を描く彼の眼には敵の艦首の先に広がる水平線しか見えない、それは後に続いて同じ恐怖を味わっている二人も同じなのだろう。自分達目がけて闇雲に撃たれる対空砲など物の数ではない、第一そんな腰の引けた弾で覚悟を決めた敵が墜とせる筈がないではないか。
何十周も敵の周囲を駆け巡って、時にはわざと囲みを緩ませて敵の撃ち気を誘って再び元の周回運動へ。何度も何度も敵の恐怖を増長させては緩ませるの繰り返しの果てに遂にそれは訪れた。島田は周囲にばら撒かれる敵弾の炸裂音に負けない様に大声で何かを指示した。
「 ” 敵機、トレントンより高速離脱っ。今度は左翼のモンマスに接近っ! ” 」
「そうやって狙いを散らすつもりですか? でも最後には必ずここを狙って来るに決まってる、問題はそのタイミングです」
スピーカーから流れる哨戒員からの報告にカリートは一人ごとで応えた。トレントンは敵の攻撃を嫌って機関最大で前進を始めたがそれはこちらも織り込み済みだ。既に全艦がトレントンを追って速度を上げつつある、多少の歪みはあるもののすぐに陣形は元に戻るはず。
「モンマスから離脱する瞬間が勝負です。ジョージ・ワシントン左舷対空班射撃用意、敵が突入するタイミングを見計らって対空砲火の壁をつくって下さい。それを嫌って上昇を始めた所でドーチェスターが止めを刺します」
「 ” ドーチェスター了解、だが中尉。敵が必ず上昇するという保証はあるのかね? ” 」
「彼らもそれほど長くはこれだけの空戦機動を行えない、それに移動する物体に触れずに周回軌道を描くなんて並みの神経では続けられない。緊張に耐えられなくなった彼らが見せる集中力の綻びを見逃さずに叩けばこちらの勝ちです」
言葉の端々に疑問符を覗かせながら尋ねて来るドミニクの杞憂を一蹴する様にカリートは応える。機械でもない限りそんな事が出来る訳がない。
相手も同じ人間のはず。
「くっ、くそったれ人殺し多門丸っ! あんたのお陰で最期の最期にこんな真似が出来やがるぜっ! 」
自分がかつて属した空母で鬼の様にしごき倒した恩人の名を吐き捨てる様に叫んだ島田は後方に続く僚機のエンジン音を追いかける、対空砲火の轟音に混じって響くそれは確かに二つ ―― 他所の隊ながらよく頑張ってくれるっ! 傲慢と呼ばれた一航戦と二航戦、その根拠は他の追随を許さぬ技量とそれを得るために課せられた死と隣り合わせの訓練だった、だが島田はその認識こそが己の傲慢の何よりの証である事に今気付いている。初めて翼を並べた彼らが見せるその腕はかつて飛龍の戦闘機を束ねた自分に引けを取らぬだけの物を持っている、これが日本海軍航空隊の底力と言う物かっ!
足へと集まる血が視界を歪ませ視野を狭め、しかしその代償に得る願ってもない状況は確実に島田の未来予想へと近づきつつある。寄せ集めの鉄で組まれた再生品の栄二一発動機はこれだけ長く続く全開運転にも息つぎ一つ立てずにひたすらシャフトを廻し続けている、奇跡だ。
―― そう、これは奇跡だ。
起こそうとする俺達の意思がもたらした、奇跡と言う名の必然だ。
「 ―― 全機散開っ、予定通りにいくぞ。もう一息だ、がんばれっ! 」
「 ” 敵機、モンマスより離脱っ ―― ! だめです、以前低空のままジョージワシントンの ―― 信じらンねえ、前を横切ったっ! 奴ら本当に人間かっ!? ” 」
「総員引き金から指を離すな。どうやら中尉の思惑は外れたらしい、だが俺達の仕事に代わりはない。『近寄るものは皆殺し』だ」
無言で前方の景色を眺めるドミニクに代わってマードックが低い声音で指示を出す。前方では未だに狙いの定まらない対空砲火が無秩序に空へとばら撒かれるだけの非生産的な光景が続いている、スイッチを切ったマイクに視線を落したままマードックは自分の出した命令も今の景色と何ら変わりのない非生産な物だと心の中で嘲った。
「 ―― 今度はコンコードか」
三機のゼロが糸を引く様に右翼の駆逐艦へと殺到したかと思うと再び同じように鋭い弧を描いて艦の周りを周回し始める、ともすれば以前ラバウルの基地で語り草になったゼロの三回宙返りを彷彿とさせる様な曲芸飛行にも思えるのだがそれとは全くの別物だ、とドミニクは思う。こんな殺気の塊のような曲芸飛行などあってたまるものか、と心の中で呟いた彼は心の中に生じたもう一つの疑問を傍らの副官へと投げかけた。
「彼らはここにも来ると思うか? 」
右舷前方で繰り広げられる風と炎の狂騒劇にマードックは視線を向ける。
「 ―― それはない、と思います。もし彼らがカミカゼを行う為に観察していたのだと想定するのならこの艦の火力は十分に織り込み済みのはず、成功させたいのならば敢えて虎口に飛び込む必要はないでしょう」
「そうだ、な。 …… では彼らはこの後我が愛しの旗艦目掛けて突入を図る ―― いや、それも考えにくいな、子供でも読める様な単純な手段で事が為せるなどとは彼らも考えてはいまい。輪形陣の前半分を威嚇し続けているのには何か理由があるはずだ」
戦闘態勢下でありながらドーチェスター内に兵士達の怒号はない。一種異様な沈黙と緊張は次に起こり得るべき何かの可能性をそれぞれに予想している事でもたらされる期待と不安の表れなのだろう。
「航海士、今の艦の状況を知らせろ」
沈黙が続く艦橋にドミニクの穏やかな声が響く、航海士は舵輪を握ったまま目の前にコンパスに視線を落とした。
「現在速度25ノット、回避運動の為スターボード(面舵15度)で航行中」
「どうやらぐるりとこの海域を一回り、か」
その事に気づいたのは艦隊総員中ドミニクと少数の人員だけであった、だが彼自身も含めてほとんどの者がそれに何の意味があるのかと言う事までは思いが届かなかった。敵機からの雷撃や爆撃を避けるために同一方向もしくはジグザグ航行を行うのは当然の行動であり、単艦で逃げる気ならまだしも隊列を組んでの艦隊運動の最中に自由気ままに逃げる事こそ危険だ。速度の違いこそあるが艦隊は未だに輪形陣を保ちつつあり、このまま敵が威嚇行動を続けるのであればいずれはそのパターンを読み切ったカリートが何らかの手段を閃くに違いない。
中尉と言う立場でありながら艦隊の戦闘中枢に居を構えるカリートという若者を彼は ―― いや艦隊の全ての兵が信頼し、期待している。性格や言動に多少の癖があろうとそれが彼の持つ役割の前にいかほどの傷を与えると言うのか? 否、それ以上に彼は度重なる敵襲のことごとくに絶大なる戦果を上げているではないか。自分やハンターとは違う、負けを知らない者の大胆な強さこそが今の自分達には必要なのだ。
朦朧とする頭の中で島田は戦域の戦力配置図を組み上げゴクリと喉を鳴らした。追い詰められた寡兵が見せる怯えと恐怖 ―― いや違う。彼はビリビリと震える操縦席の中で口角を吊り上げ、会心の笑みを浮かべながら装着したマスクの中に仕掛けられたマイクに向けて怒鳴った。
「よし、よく頑張ったっ! これで十分だ。艦列より離脱するっ! 」
「 ” 敵機、コンコードの周囲より離脱っ! そのまま東の方向へと退却していきますっ! ” 」
そんなバカな、と言う言葉をカリートは勢いよく立ちあがる事で表現した。両手を机の上へとついたままじっと時間経過と共に移動させ続けたチェスの駒を睨みつける、では彼らは自分達の技量を見せつける為だけにあれだけの危険を冒して曲芸飛行を敢行したとでもいうのか? …… ありえない。
それに彼らは東の方向へ機首を向けたと言う、ではその先に何がある? 島嶼部が多い国とは言え飛行機の降りられる場所は限られている、東側で彼らが補給を受けられそうな島は八丈島か三宅島、しかし距離にすればおよそ500キロ以上はあるだろう。そこまで燃料が持つとも思えない。
「 …… とにかく敵がここから離脱したと言う事はこの艦隊の情報を味方に知らせるという決断をしたと言う事です。CICから艦橋へ、直ちにレッド1を東へと移動。速やかに敵の迎撃に ―― 」
「 ―― そんな、ばかなっ! 」
カリートの声を遮ったのは彼の右側で巨大なレーダースクリーンを監視する士官の声だった。何事かと顔を向けるカリートの目に飛び込んでくるその映像、彼はその士官の驚きの理由を瞬時に知り、同じ様に驚愕の表情を浮かべてその画面を凝視して凍りついた。
「 ―― だめです、全周波数帯でレーダーが使用不能、敵影を完全にロストっ! 」
自分達の眼前に広がる光景に真っ先に驚いたのは戦闘を行くトレントンの連中だった。雲一つない青空を無数に彩る大小の黒い黒煙、それがまるで煙幕の様に自分達の行く手を遮っている。進路を変更する暇もなく第一戦闘速度のまま煙の壁へと舳先を突っ込んだ先導艦は真っ先に異変に見舞われた。個艦防衛用に設置された対空・水上のレーダーの全てが何らかの原因によって誤作動を始めている、まともな数値を表示できなくなったFCSは事態の復旧に努めようとするがまるで盲いた赤子の様に砲を上下する事さえおぼつかない。
「こちらトレントン、CIC、中尉っ! レーダーが全く効かない、どうなってるっ!? 」
トレントンの艦長であるデクスターは手元のマイクを取り上げて取り乱している。もう一度視界を確保する為には艦の進路を変える他ない、しかし全艦が隊列を維持するために自分の後に続いていると言う事が彼の自由な思考を妨げる障害となっていた。それよりもなぜこんな所にこんな物が発生しているのか、なぜレーダーが利かなくなったのか ―― その原因を突き止めなければ身動きのとりようがない。
「これが彼らの狙いだったとは」
ハンターはぽつりと呟いてじっと目の前にたなびく黒煙を見つめた。既に視界は所々で利かなくなっており、周囲に展開している艦影すら黒煙を通して薄らと見える程度だ。マクスクランは狂った様に各部署と連絡を取り合う士官たちを尻目にハンターの方へと振り返った。
「自分達の対空砲火で自分達が目くらましに遭うとは。彼の術中に俺達はまんまとはまってしまったと言う訳だ」
「しかしレーダーは? 日本軍にレーダーを撹乱する様な装備があるなどとは聞いてはおりませんが」
「それも俺達自身がばら撒いたものだ。 …… 新型のVT信管の弾子を包んでいるアルミ皮膜、多分それがこの空域中にまだ浮遊しているんだ」
唇を噛んだまま状況を分析するハンターの言葉を信じられないと言った面持ちで眺めるマクスクラン、声を喪ったまま視線で説明を求めようとする彼にハンターは忌々しげに、時折ちらちらと覗く青空を睨みつけた。
「 ―― 海が、凪いでいる。天の理が彼らに味方した」
「 ” 貴官のお名前をお聞かせください ” 」
敵の艦隊全てが黒い霧の中へと隠れる姿を眺めながら緩やかに旋回する島田の耳に声が飛び込んで来た。思わず横へと視線を向けるとそこには自分の後に続いて曲芸飛行を行っていた即席の僚機が翼を並べている、島田は自分の姿がよく見えるようにと風防を開いて片手を翳した。
「元第二航空戦隊、飛龍所属。島田上飛曹であります …… 先程は高飛車な物言い、誠に失礼しました」
「 ” あ、いえ。…… そうですか、二航戦の方でしたか。自分は653空「瑞鳳」所属、角田一飛曹であります ” 」
どうりで、と島田は自分の後にぴったりとついて来た彼の素性を聞いて納得した。海軍航空隊653空は第三航空戦隊として日本海軍機動艦隊最期の作戦『捷一号』へと赴きほぼ壊滅した部隊で、その中でも軽空母瑞鳳に所属する飛行隊は少数ながら強兵揃いの連中だと聞いていた。島田が最後に乗った空母はマリアナ沖海戦で新二航戦の名を継承した軽空母飛鷹、もしあの時沈没しなかったならば恐らく共にエンガノの空を飛んでいたのかもしれない。
「 ” 自分は「龍驤 」直掩、戸田一飛曹です。歴戦の方々と共に翼を並べて戦えた事、至福の至りです ” 」
「こちらこそ。あの頃の生き残りがどういう訳かここに残って敵と戦っている、これも死んでいった戦友達の導きと言った所ですか …… なにはともあれご協力に感謝します。お二人のご献身を私は決して忘れません」
米軍が帝国海軍の中で最も恐れた軽空母龍驤も今はなく、「鬼神」と呼ばれた航空戦隊も多分彼一人になってしまったのだろう。島田は言葉と共に二人への敬意を表す為に風防を開き、両翼へと並んだ二人に対して敬礼を送った。返礼は共に見事な海軍式、あれほど見事な物を自分は今まで見た事が、ない。
「 ” では靖国へ。私が先鋒と言う事で ” 」
「 ” 自分は次鋒で行きます。上飛曹殿、九段の地で笑ってお会いしましょう。必ず ” 」
空を舞う鳥の様に飛び慣れた空で翻る翼、見事な一列縦隊を敷いたたった三機の攻撃隊は発動機の音を高らかに響かせて眼下に広がる黒い雲海へと鼻先を向けた。
「艦隊司令からCIC、これより私が指揮を執る。要員は直ちに部署を離れてバイタルパートへと避難せよ」
「 ” …… CIC了解 ” 」
「艦長、全艦に指揮権の移譲を通達。それと直ちに全艦エンジン停止」
矢継ぎ早に命令を続けるハンターの言葉の中にはおよそ理解不能な一文まで含まれる、だが視線を落として腕時計を見つめる彼に対してマクスクランは質問する事すらはばかられた。刻一刻と迫り来る危機に対してもうカリートの頭脳では対応できない、これからは彼と同様の思考と実戦経験を積んだハンターの判断が必要になってくるのだ。
「アイ、サー。直ちに全艦エンジン出力をスタンバイ位置へ、惰性運転で海域を航行」
恐らくその命令を受けた全ての艦長が耳を疑ったに違いない、だが今まで艦隊の全てを完全な無傷で守ってきたハンターに対する信頼度の高さがその後の行動に現れた。スピーカーを通して響く各艦の艦橋内の怒号と緊急停止を知らせるけたたましい警報音、先頭のトリントンを始めとする全ての艦が艦隊中央に鎮座するジョージ・ワシントンと歩調を合わせて減速した。
「右舷側が死角となる全ての対空砲座は持ち場を離れて右舷へ、敵機の接近を自らの耳で察知せよ。FCS作動停止、敵機を視認と同時に各員自己の判断で射撃開始」
静寂の戻った海原に響くエンジン音、それがあの三機のゼロの物であると言う事は誰の耳にも分かる。真黒い雲の向こうで怯える自分達をあざ笑うかのように飛んでいる敵を艦隊の全員が固唾を呑んで見守っている。ほんの小さな雲の乱れも見逃すまいと誰もが目を凝らしてじっと空を見上げている姿は何か得難い物を求める人々の祈る姿にも見える、実際にはその対岸にある運命なのだが。
誰もがその音が遠くへ去ってくれる事を望み。誰もが自分だけは死にたくないと身勝手な事を望み。しかしそんな願いもよそにゼロのエンジン音は止まらない。死の恐怖で喉元から途轍もなくどす黒い物がせり上がって思わず大声と共に吐き出したくなる、だが敵はその一瞬をも見逃さずに襲いかかってくるような気がする。あの黒い雲から自分達の元まで戦闘機なら何秒で到達する? 三十秒? 二十秒? いやいやもっと彼らは早かった、十秒を数えた頃にはここへと辿り着くだろう。あれだけ傍を飛んでいながら一発も当てられなかった相手を墜とす事なんて、本当に俺達に出来るのか?
緊張で顔が青ざめ奥歯が軋む ―― 対空防衛の要となるドーチェスターの兵士ですらそのありさまだ。配下の兵士の士気の低下に見かねたドミニクはマードックへと目配せすると艦橋右舷側の扉を開けてじっと耳を済ませた。ハンターは各個の判断で射撃を開始せよと言ったがこれだけの戦技を見せつけられた後では判断に迷いが生じるだろう、その切っ掛けを与えてやらねば兵士は自分の判断に迷ったまま引き金すら引けなくなる。ドミニクはそのタイムロスを自分の責任において解消する肚であった。
ドミニクの船乗り歴は長い、軍に入る前は漁師としてチェサピーク湾を駆けずり回っていた。ひょんな事からスカウトされて海軍へと入隊したが周囲の者に比べて出世欲に乏しい彼は同じ歳の連中が次々に肩書を変えていくのをただ穏やかに見守っていた。上に登ればそれだけ責任が増して辛い思いが増えるだろう、ドミニクは自分の生き方には決して相容れないそれらの要素を全て忌避してのどかな海原で釣り糸を垂れると言う平穏な日々を望んでいた。
だがその望みもあの日を境に世界ごと変貌した。ミンダナオの海でカミカゼを受けてしまった、あの瞬間に。
ドーチェスターの舳先が波を掻き分ける音、海鳥の鳴き声、敵機が放つ発動機の調べ。ドアから流れ込む全ての音に耳をそばだてながらドミニクは自分の経験則に準えて状況の変化を探る。海は生き物だ、遠く離れた場所で起こった何某かの要因がきっとどこかに影響を及ぼす。高価な電子機器を手に入れる事も出来なかった自分が培った漁師としての記憶が彼の耳を介して脳へと伝わる。
やがて彼はその兆しを捉えた。海鳥が大きく泣いて羽ばたきのピッチを変える、それは彼らがここから一目散に立ち去ろうとする意思の表れ。ゼロの発動機の音は未だに同じ音で東の空にある、だが空を舞いながらこの戦いの一部始終をその目に焼き付けようとする海鳥たちは気づいたのだ。黒煙の向こうで渦巻く彼らの殺気を。
大空を覆い尽くさんばかりに駆け巡る、彼らの不退転の覚悟を。
「来るぞ、総員対空戦闘用意っ! 全砲門をコンコードの右舷へと集中させろっ! 」
ドーチェスターの対空砲のモーターが唸りを上げてその砲門を全て東の空へと向けた。静かな世界を再び狂乱と死の渦巻く戦場へと変える、それが前兆。
報告を受けるまでもなくその異変は各艦へと伝わっていた。ジョージ・ワシントンの指揮権を担うマクスクランもいち早く対空砲手へとその旨を伝え、広い飛行甲板越しに広がる黒煙を艦橋要員全員で睨みつける。ほんの一瞬彼はハンターの表情を窺う為にチラリと席へと視線を向ける、しかし艦隊の無傷を最優先に考えなければならない総司令は未だに腕時計から目を離さずに何かを考え込んでいる。こういう時の彼はまるでチェスプレイヤーの様に深く思考の中へと潜り込んで、自分達には見えない何かを覗きこんでいる。
徐々に大きくなるエンジン音と心臓の鼓動、引き金に掛けた指は多分震えっぱなしに違いない。これだけの火力と最新鋭の防空システムを兼ね備えた常勝無敗の艦隊も目と耳を失ってしまえば大戦初期の艦艇と何ら変わりがない、いやむしろ的がでかくなった分だけ不利になる。防御範囲と課せられた任務の大きさは艦隊全員が共有する義務であり、しかし今となってはただの圧力へと取って代わっていた。
まるで音が聞えた様だった。
ぞん、という不可思議な感覚と黒煙を蹴散らして姿を表す濃緑色のエンジンカウル、不倶戴天の敵は雄叫びを上げながら天空より現れた。極度の集中状態で時間の感覚がゆっくりになった兵士達には全速力で降下して来るゼロの姿がまるで絵画の様にはっきりと捉えられた。自分達に向けられた両翼の機銃の銃口から尾翼へと伸びる空中線まで、はっきりと。
「撃ぇーっ!! 」
満天を覆う敵のエンジン音に抗うかのように艦隊の全指揮官が怒声を上げた。刹那に始まる猛烈な轟音と大小の煙、目掛けて放たれる炎の束がまるでジャガード織りで編まれたタオル地の様に複雑に絡み合いながら一直線に敵機に向かう。狭い空域でひしめき合う対空砲弾は我先にと急ぐ余りにお互いをぶつけ合い、遂には信管を作動させてその場で炸裂を始めた。数珠つなぎに並ぶ小さな光の球が一瞬兵士達の目から敵機の姿を消失させる。
「 ―― っ! やった、敵機被弾っ! 」
明るく輝く光の向こうで明らかに真っ二つに割れるゼロの影。見間違いなどではない、力を喪ってひらひらと海面へと舞い堕ちる姿を艦隊の全員が待ちわびる様に一瞬手を休めて空を見上げる。だがその安堵も束の間、彼らは自分達の見た物が未来とは違う方向へと動き出すのを目の当たりにした。引き裂かれる様に分かれた二つのゼロは違う認識番号を尾翼に刻んで猛スピードで左右に展開し、弾幕の数珠をなぞる様に先頭と最後尾に位置する二艦へと目がけて進路をとる。狂気の叫びと失望の咆哮がまるで今わの際の猛獣の様に兵士の姿と心を変貌させた。
「撃てっ! 何でもいいから撃ち落とすんだ ―― 」
そう叫んだ射撃指揮官の声はあっという間に本能の絶叫に掻き消された。射線から外れた二機を追って全ての銃座が砲身を振り、無秩序に吐き出される対空砲弾とそこに仕込まれた幾万もの鉛玉が所狭しとばら撒かれてゼロを襲う。だがその二機は幽霊の様にそれらを躱して自分が定めた獲物へと突き進んだ。
全身に自らの返り血を浴びた戸田は硬く食いしばった口の端から血の泡を零して眼を見開いた。ほんの僅かなタイミングのずれが彼にとっての不運を招き、避けたはずのVT信管の弾子が機体の底部から彼の腹部を貫通した。一発だけだったのは幸いだった、まだ飛べると戸田は痺れる痛みをこらえながら必死で操縦桿を固定する。
まさか自分がミッドウェーの生き残りと一緒に飛べるとは思ってもみなかった、それも相手は二航戦の飛行隊長。赤城や加賀が沈んでしまった今となっては自分が元一航戦の戦闘機乗りとして彼に後れを取る訳にはいかない、それが一航戦、それが瀕死の自分を奮い立たせる原動力。
自分を追って来る対空砲火の衝撃で機体は常に揺さぶられ、流れ出た血液の為に下半身の感覚がない。それでも何とか身体をずらして足を動かし、方向舵を使って機体を何とか制御する。
まだだ、まだここで墜とされる訳にはいかない。せめて自分に与えられた役割だけは必ず全うしなければ。たとえカミカゼが成功しなくても海軍の意地をあの連中に必ず見せつけてやる。
遂に敵の対空砲火は自分に追い付いた。猛然と輝き始める炎と煙のるつぼを必死でかいくぐりながら、戸田は思わず声を上げた。
「 ―― 奥村っ、俺ももうすぐそこにいくぞっ! 」
それは先頭を行くトレントンと右翼に陣取っていたコンコードとを結ぶほぼ中間点、ジョージ・ワシントンからの対空砲火と合わせて三艦の砲火が交わる結節点。過度に群がった砲弾は各々の能力の全てを開放して傷付いた戸田の機体へと襲いかかる。穿ち、引き裂き、喰いちぎる。手負いの獲物を貪る獣の様に彼らの対空砲火はあっという間に戸田の魂を機体ごと粉砕した。残された煙だけが彼の残した生きた証、海面へと降りしきる幾千もの破片がトレントンの引き波を粟立たせて海の底へと沈んでいく。
敵を屠った歓声はほんの僅かな時間差で艦隊の前後から上がった。混乱した右翼前部の戦いとは違って最後尾のドーチェスターへと向かった角田は実に統制のとれた対空砲火へとその身を投げ出す羽目になった。どの艦よりもいち早く敵の接近に気付き迎撃態勢を整えていた彼らはマードックの指揮のもとで常に事態に冷静に対処し続け、敵の二番機を懐中へと葬り去る事に成功する ―― だがそれも一筋縄ではいかなかった。
最高速度で披露される彼の戦技はそのことごとくが対空指揮官の想像を超え、破壊力を増した新型のVT信管を全く寄せ付けないまま彼我の距離を縮めていた。最大殺傷能力を発揮する為に緩めに設定された信管感度と放出される弾子の有効範囲との間合いは完全にそのパイロットに見切られている、瞬時にそれを看破したマードックは弾薬欠乏時の為に温存して置いた旧式のVT信管を急遽一基の対空砲座へと運びこんで ―― 時間的にはそれがやっとだった ―― 混成射撃を試みたのだ。
躱した、と思った角田の機体に襲いかかる旧式の破片は見事に機体の翼の根元を貫きそれで彼の命運は決まった。強度を失ったゼロの翼が風圧で根元からもぎ取られて機体は大きく傾き、あっという間に海面を目指す。それでも彼が残る力を振り絞って飛べない機体を必死にドーチェスターへと向けていたと言う事実は指揮をとっていたマードックのみならずドミニクをも驚嘆させた。機首を上げて無くした翼の側から海面へと滑り込んだゼロは大波に翻弄されながらも前へと進み続ける、やがて力尽きたその機体は溺れる様に波間へと消えていった。
「 …… 脱出は、しないか。敵ながら見事な」
波間へと没する垂直尾翼を見つめながら命に殉じるその姿を見たマードックは思わずそう呟かずにはいられなかった。
敵を墜とすと言う事はそれだけ味方の士気が高まると言う事、しかし同時にそれは生きる事への集中力を鈍らせる。その事に気づいた何人かは艦隊の中で余りにも少なかった。
「敵はもう一機残っている筈だっ、浮かれている場合じゃないっ! 」
マクスクランは弛緩する艦橋の空気を一喝して油断を一蹴する、対空砲火の残響が立ち込める空を睨みつけながらマイクに向かって怒鳴りつけた。
「通信士っ! 各艦へ伝達、戦闘態勢はまだ解除されてはいない。直ちに哨戒を続行して残りの一機の居場所を ―― 」
右翼に陣取るコンコードでその傾向は顕著だった。目標が自分達ではなく先頭のトレントンと最後尾のドーチェスターと分かった時点で対空砲火の主役は右舷から左舷へと移動した。二機の後を追って吐き出される炎の羅列を全員が眼で追いながら命の危険が遠ざかっていくのを知り安堵の溜息を誰ともなく洩らす、身勝手な様ではあるが人は誰しも往々にして自らに及ぼうとする危険が他人に降りかかる事をよしとする。二機のゼロがついに力尽きて海面へと沈んでいく姿を見てその勢いは尚も加速した。自分の不幸が他人へと及ぶ事態に対する罪悪感、それを回避できたと言う解放感はコンコードで任務に当たる全ての兵士を安堵の極致に至らしめる。
だが誰よりもその異変に近い所にいたのもその艦だった。割れんばかりの歓声と対空砲火の残滓に包まれたコンコードの中でそれに気が付いたのは右舷に居ながら艦尾の光景へと目を向けていた哨戒員だ、彼は耳の底に沈むように聞こえる蜂の羽ばたきのような音を捉えて思わず東の空へと目を向けた。
「 …… ? 」
なんだ、と誰かに尋ねる前に彼は簡単な引き算に気がつく。敵は三機いたはずだ、今落としたのは二機だ。3引く2は ―― 1。
背筋を貫く怖気が身体を身震いさせて肌に纏わりつく空気を氷点下にまで冷やす、大空に浮かんだ異世界の門の様な黒煙へと彼は怯えた目を向けた。風一つない大空でそれはただぼんやりと浮かんでいるだけだ、だが砲火の残響が徐々に薄れるのに従って耳障りなその音ははっきりと彼の耳へと忍び込んでくる。たまりかねた彼は傍らで朗らかな笑顔を浮かべて全く別の空を見上げている兵士の方を掴んで、恐る恐る尋ねてみた。
「な、なあ。ちょっと、あの音 ―― 」
黒雲を見上げる彼の視線を追いかける様に肩を掴まれた兵士は笑いながら空を見上げる、そして。
彼らは声を上げる事すら忘れた。
黒雲を大きく迂回して真下へ。島田は二機の後から全く別のコースで敵艦へのアプローチを決めていた。上下の高度差をつけての両面攻撃と言う選択は特攻機の基本通り、だが彼は最も辛辣な役割を二機に与えて勝利の方程式を導いていた。
艦隊を誘導するために行われたサーカスは撹乱と同時に敵の進路をもう一度元の場所へと誘い込む為のもの、ここまではハンターの予測通りだ。だがこの命がけの行動にはもう一つ大きな役割があった。
それは自分達がなかなか墜とせないと言う事を敵に印象付けると言う事。
戸田と角田の両機が二手に分かれて襲いかかれば敵の対空砲台は一気に左右に分かれて二人の機体へと狙いをつける、特攻機ならば速度も遅く対処もできるがあれだけの妙技を見せつけた当の機体が襲いかかったら彼らはどう反応するか。それは一種の賭けではあったが島田には歴戦の戦闘機乗りならではの確信 ―― それはここまで生き延びてきた彼らも同じだっただろう ―― があった。多分その二機を落とす事だけに躍起になって他の事など考える暇がなくなる、何としてでも仕留める為に全員の意識がそれに奪われてしまう。
生への本能に抗える者などいない、なぜなら人は自分の死に対して無頓着ではいられないのだ。
雲と海の狭間から突然姿を現した島田の機体は急降下の速度を身に纏ったまま猛然とコンコードへと襲いかかる、それに気づいた兵士があさっての方向へと向いたままの砲台を必死に東の空へと引き戻そうとする。だがもう手遅れだった。とてもではないが最大戦速以上の速さで強襲をかける戦闘機を今の状態でどうやって落とせと言うのか。
「こちらコンコードっ! やられた、もう間に合わないっ! 」
先任士官が艦橋の上からありったけの大声で全艦へと未来を伝える。眼下で逃げ惑う兵士の安否を気遣いながら直撃コースに入ったゼロは指呼の距離へと迫る、ぐん、と機首が上を向いた瞬間に彼はここへの攻撃を予測して一気に反対側の窓まで身を投げ出した。
逃げ遅れた兵士が少しでも生き長らえようと甲板上へと身を投げ出して頭を抱える、あのゼロがここにぶつかるまで何秒も残されてはいない。彼は耳をつんざく轟音が迫る中で大声で恋人の名と母親の名を叫んでこれでもかと額を甲板へと打ちつけた。
辛うじてゼロの進路から逃げおおせた対空指揮官が全ての顛末を見届けようと振り返る、だが彼が見た物は自分が予想した惨状とは大きく異なっていた。潰れる機体と飛び散る燃料が火災を誘発し周囲の者を全て巻き込んで爆発する ―― 幾人かの焼死体と潰れた機材が炎を纏って燃え盛る、彼が描いていた物はそんな凄惨な景色だったはずだ。
だがそのゼロは彼の予想をまたしても大きく裏切って機体を大きく横へと捻った。艦橋とマストの間に張られた空中線を翼の縁で断ち切りながら煙突との僅かな隙間へとその身体を捻じ込む、ほんの一瞬にして起こったその出来事がまるで連続写真の様に彼の網膜へと焼き付いて事の真偽を突き付ける。ありえるのか、そんな事が。
神業とも言えるその世界の果てで起こる悲劇、そしてゼロのパイロットが描いた未来。自分の心にその現実を問う前に彼は自らの役割に忠実である事を決心し、そして真下に陣取って狼狽したままゼロの尾翼を見送る対空砲座に向かって怒鳴りつけた。
「何をしているっ!? 奴の狙いは空母だ、絶対に傍に近づけるんじゃないっ! 」
幽霊の様に右翼の壁をすり抜けたゼロの姿にマクスクランは驚嘆し、そして彼の立てた戦術の全てがそこに結実した事を認識した。戦域を設定し、そこへと艦隊を誘導し、心理的不安を自らが今まで積み立てた戦技によって植えつけ、そして二機を囮にしての時間差攻撃。艦隊防空を担うドーチェスターでさえ彼の行動に対処し切れずに散発な攻撃しか出来ない状態、もはや打つ手はない。
「大佐っ、ここは危険ですっ! どうか艦橋下の待避スペースへっ! 」
艦隊司令までこの敗北に巻き込む訳にはいかない、マクスクランは艦長としての義務を果たすべく背後のハンターへと叫ぶ、だが彼は振り返ったその先にいるハンターは椅子に腰かけたままじっと腕時計へと視線を落としている。僅かにさっきと違う所は左手に握られた全艦直通の無線用マイクが口元で固定されていると言う事だけか。
「大佐っ!! 」
「敵機来ますっ! 甲板下右舷直撃コースっ! 」
コンソール上の緊急退避を告げる赤いボタンをマクスクランは力まかせに拳で殴りつけた。艦橋士官の全てが椅子から立ち上がって右から迫る彼の機へと血走った目を向ける、いやハンターだけが目深に被った帽子の下でじっと時計の秒針を追っている。狂った様にハンドルを廻して何とか敵の邀撃に間に合わせようとする対空砲手、だがもう遅い。
間に合った。
はっきりと手の届く場所へと敵の姿を捉えた島田は絶対的な勝利を確信した。敵の空母は間違いなくあの新型、爆装をしていない零戦が何機体当たりをしても穴を開ける事すら難しいだろう。
だがそれでもこれ以上の作戦行動を不可能にしてしまう手段がある。それは南方戦線でアメリカが我が連合艦隊の艦艇に向かって率先して行った攻撃方法。
「 ―― 敵の習いに準ずるのは癪に障るが」
足元を飛ぶ海面が轟々と音を立てて飛び去る、島田は小さく笑いながら慎重に操縦桿を引きあげた。機首が持ち上がって世界が変わる、空が、こんなにも、蒼い、とは。
掌下に届く巨大な甲板、赤城にも匹敵するかのような巨体が今の彼には靖国の赤い鳥居に見える。
「 ―― せっかくの機会だ、とくと味わえっ! 」
海面から跳ね上がったゼロは未だに諦めなかった対空砲手の執念をあざ笑うかのように高度を上げた。やっとの思いで間に合ったかに見えた一基の対空砲座はその照準を海面へと向けたばかりだった、視界から消え失せたと思わせるほど激しい機動を見せるゼロを追いかけて二人の機銃手はハンドルを反対方向へと廻し始める。その光景を同時に収めながらマクスクランは敵の狙いを理解した。
「艦橋要員はすぐにここから退避っ! 奴の狙いはここだっ! 」
艦隊機能の喪失 ―― それこそがゼロのパイロットの真の狙い。爆装をしていないあの機体が甲板に突っ込んでも舷側へとぶつかっても防水隔壁を何重にも施したこのエセックス級が沈む事は絶対にない、そんな非力な彼が唯一傷を与えられる方法が艦橋への体当たりだ。
旗艦の指揮能力が失われれば艦隊全部の制御は不可能に近くなる、それはアメリカ軍が南方戦線で実際に日本軍の艦隊に行った教義の一つだった。城楼の様に天を突く戦艦の巨大な艦橋をアメリカ軍の艦艇は率先して狙い撃ちした、それによって艦隊幕僚を失った艦列は統率がとれずに個艦の判断でばらばらに動き始める。いくら火力や防御力に優れている戦艦と言えども駆逐艦や巡洋艦を伴わなければただの大きい標的艦に過ぎない、世界に誇る帝国海軍の大艦隊が水上戦で負け続けたのには制空権の喪失の他にその様な理由があった。
確かにもし今ジョージ・ワシントンの艦橋が破壊されてハンターや自分が死んでも制海権をとっくの昔に手中に収めた我が軍が不利に陥る事はない、しかしカミカゼによって何らかの損害を被ったと言う事実はゼロのパイロットも予想外の多大な戦果となるのだ。対誘導兵器用に開発された様々な対空火器もシステムも体当たりをされたその瞬間に御破算となり、全ての艦は本土へと戻った後に新たに艤装を施されて補充艦としての新しい未来が待っているだろう。しかし任務を完遂できずに帰国した兵士達を待ち受けるのは労いの言葉でも感謝でもなく、契約不履行によって発生する軍事法廷と実験失敗の際に予め取り決められた公私に渡っての理不尽な監視だ。たとえ無罪を言い渡されてもこの艦隊へと配属された兵士達は残りの長い生涯を国の監視下で自分の墓地へと葬られるまで過ごす事になる。
「大佐っ! 」
そうなった時に責任を取るべき自分やハンターが命を落としてはならない、とマクスクランは常に思っている。事の経過を逐一政府へと伝えて量刑を少しでも軽減する為の防波堤としての役割が艦隊幕僚にはあるのだ、その為には是が非でも彼を、彼だけでも ―― 。
マクスクランがハンターの傍に駆け寄ると同時に背後でひと際大きな音が鳴り始めた。それは紛れもなくここへと狙いを定めた単発機のエンジン音、間に合わないと見たマクスクランはとっさにヘルメットを掴んで自分の頭へと押さえつけると敵から庇う様にハンターの身体を椅子ごと抱きしめた。死の予兆を背中で受け止めながら覚悟を決めた最新鋭空母の艦長は固く眼を閉じて全身に力を込める、だが、その時。
「撃て」
まるで演習でも行うかのようにそっけなく呟くハンターの声をマクスクランは確かに聞いた。
敵ながら美しい船だ。
島田は大写しになる船体の輪郭を目に収めながらなぜかそう思った。舷側に整然と並ぶ対空砲群と艦橋の前後に置かれた空母には似合わない大口径の連装砲、その全ての砲門がまるで自分を避けるかのようにあっちこっちを向いている。まあ、間に合った所でもうどうしようもないんだがな、と島田はにやりと笑って機首をジョージ・ワシントンの全通甲板上に突き出たアイランドへと向けた。
甲板上には艦載機どころか人の影すら認められない、自分の想像どおり以上の戦果が上げられない事に彼は少し落胆したがそれ以上に彼の心を占めたのは大きな達成感だった。今までに積み重ねた全ての技術を動員して難攻不落の敵に一矢を報いる、志半ばにして海へと沈んだあの中隊長や大勢の仲間の無念を晴らす事が出来たと言うほんの先にある未来が彼に安堵と歓喜を生みだしている。
それを結実して我が手にする為には早くあそこへと向かわなければ。
はやる気持ちとは裏腹に緩やかに流れ始めた時間と風景を何度も叱咤する島田、一秒にも満たないそこまでの距離がまるで何度も遠征をくりかえしたポートモレスビーよりも遠く感じる。だがコマ送りで次第に大きく映し出される空母の艦橋はその細部に至るまで島田の眼の中へと収まり始める。
何本も立てられたレーダーマストの下にある射撃管制装置らしき構造物、そしてその下に小さく開いた細長い窓。巨大な連装砲はもう既にその砲塔や砲身をこちらに動かす事もない、恐らく既に避難したのか諦めたのか。自分の勝ちを確信した瞬間に島田は込み上げて来る痛快さと喜びを大声に変えて笑い始めた、何度も何度も、自分より先に死んでいった戦友に届く様に。
硬く眼を閉じ、晴れやかに、そして高らかに。
自分を仲間の所まで導く甘い痛みと目も眩むほど大きな輝きに向かって。
巨大な炎と閃光がアイランドで生まれて艦橋の窓ガラスが全て粉々に吹き飛ぶ。排水量三万トンを超えるエセックス級12番艦ジョージ・ワシントンはその瞬間、瀕死の巨象を思わせる勢いで全身を大きく戦慄かせた。