二航戦
暁の空を朱に染めて死の舞踏会は幕を閉じた。海面から立ち上る僅かな黒煙と平穏にも似た沈黙は長きに渡って続く血みどろの一時を彩る事象に過ぎない、しかしそれは勝者と敗者を明確に分ける為に定められた儀式の一例だった。
編隊を組んで高き空でそれを見極める漆黒の勝者と日の丸を波間に漂わせながら黄泉の水底へと消えていく白銀の敗者、波を被った赤い稲妻が壊れた身体を一しきり立ち上げたかと思うと力尽きた様にするするとその身をうねりの中へと沈めていく。
「 …… 各機、損害報告」
自分の意思に逆らって言葉を詰まらせようとする荒い息をやっとの思いで抑え込んだメリルが短く、そう呟く。それは決して一報的な殺戮にはならなかった、圧倒的な性能差と火力を有したと思われた自分達はその慢心の代償として歴戦の兵達の華麗な美技を味わったのだ。当初の予定である半数の機体は何とか撃墜したものの次のステージへと向かわせる為の機種を選別する事は叶わなかった。そして ――
「 ” こちらレッド3、何か所かの被弾の他は問題なし。イエローとパープルも全機機影を確認した ―― ですが ” 」一瞬の空白の後にヘッドセットからやはり彼と同じ様に、しかし彼の様にやせ我慢すら許されなくなった隊員の声が小さく届いた。その事実は自分も見届けた、とメリルは小さな溜息をつく。航空部隊初の被撃墜、1。
「ブルー3、か」
戦闘空域からおびき出されて二機のゼロにハチの巣にされた仲間の姿を思い出す。掩護に駆け付けた時には時既に遅く、彼の機は煙をたなびかせて海面へと向かう途上にあった。他に類を見ない鉄壁の防御力と運動性能も二十ミリのつるべ撃ちにあっては一たまりもない、しかしそれは決して無駄などではなく搭乗者の命を守る事には辛うじて成功した様だ。海面すれすれで機首を持ち上げて滑り込む様に着水したと言う事実がそれを証明している。
その二機は自分のキャリアの中でも数えるほどしかいない恐るべき手練だった。もしも両方が万全の状態で再び襲いかかって来ていたならばメリルとて無事だったかどうかは怪しい、しかし運命の女神はほんの少しだけ彼の味方についていた。ブルー3との交戦で彼らの内の一機もやはり万全の状態ではなかったのだ。主翼後縁部にあるフラップの被弾によって僅かに機動性能を失ったそのゼロは僚機とのダンスのタイミングをほんの少し見誤り、メリルはその一瞬の隙を突いてありったけの二十ミリをその機体へと叩き込んだ。 主翼をもぎ取られキャノピーを真っ赤に染めたその機はまるで海風に翻弄される木の葉の様にひらひらと舞い堕ち、お互いの味方を一人づつ失った敵同士は互いにけん制をし合いながらその空域を離脱した。
「落下地点での自爆を誰か確認したか? 」
「 ” ―― いえ。現在海上に浮かんでいる機体の上空をブルー1と2が周回中、どうやら救助を待っているようです ” 」
「 ―― なぜ彼らはブルー3を処分しない? 」
孕んだ緊張でメリルの声が震える。撃墜された機体は機密保持の為速やかに爆破し、搭乗員はライフジャケットだけで海に飛び込んで艦隊からの救助を待つ手筈になっていた筈だ。もっともそれが実行されるのは一連の戦闘行為が終了して配備段階がイエローに戻ってから ―― 恐らく丸一日ほど ―― になるのではあろうが。なにも目標物のない大海原で一人取り残される恐怖は筆舌に尽くし難く、ましてやそれを一日放置してから見つけ出す事など奇跡以上の確率だ。
「その覚悟で自分達はあえてこの任務に志願した筈だ、なぜ彼らは契約を守ろうとはしない? 」
敢えて『契約』という強い言葉を使って彼らに任務の完全な履行を働きかける、しかしそれに応えたのはブルー3の上空で警戒にあたり続けているリーダーのブルー1の狼狽した声だった。
「 ” お言葉ですがレッド1、ブルー3は私達の航空隊での初の損害です。それに機体も確かに飛行不能ですが未だに海上での浮力を維持しています、母艦に帰投さえできればきっと修理できるはず。命令に背く事の是非は私が負います、ですからここは彼の為に機体をこのまま放置して救助を待たせる訳には ―― ” 」
「今奴を墜とした『ゼロ』もかつては我が軍に対して無敵を誇っていた、だがアリューシャンに不時着したたった一機のためにその神話は崩れ、そして彼らを葬る為に俺達の乗るベアキャットが生まれた ―― 同じ愚を俺達にも犯せと? 」
詰問されたブルー1は回線を開いたまま押し黙った。メリルが西の空へと目をやると二機のベアはそれでも名残惜しそうに海上の機影の上空を旋回している、彼は短くマイクに向かって言った。
「 ―― 俺がやる、そこをどけ」
自爆用の炸薬は座席の下に仕掛けられている、メリルは雷管へと繋がるボタンにチラリと視線を送ると一気にスロットルを開けて明けの天上を目指した。
スプリットSからの急降下。プラットアンドホイットニーのダブルワスプが二基のスーパーチャージャーの甲高い悲鳴と共に雄叫びをあげる。速度は瞬く間に八百キロを越え、高度計はその針を解き放たれた発条仕掛けの勢いで水準点を目指して回り続ける。仲間をかばい続ける二機の懇願を突き破る頃には海上の機体の翼の上で必死に手を振るブルー3の影がレティクルの真ん中に映った。その表情は果たして味方に殺される恐怖に対する理不尽な怒りなのか、それとも今わの際に人が必ず発する神への祈りだったのか。
「 ―― 運が、なかった、な」
スキール音に包まれながらメリルがそう呟く。青い円の中で空を見上げる青年の影を睨みつけ、彼の行動が自分の想像の後者である事を切に願いながらメリルは引き金をほんの一瞬握りしめる。機体から吐き出された炎の束は猛スピードで舞い降りる機体の先へと吐き出されて、五月雨の如く目標目がけて降り注いだ。
* * *
またこの空だ。
たった一人の空。
友永の乗った九七式艦攻が敵の空母へと体当たりする姿を見送ってから飛龍へと帰投するまで島田はたった一人だった。この戦争の趨勢を決めるミッドウェーで彼は敬愛する指揮官と大勢の仲間を一日にして失い、そしてそれは置き去りにされた者達の先行きにいばらの道と垂れこめた暗雲が用意されている事を知らしめるものだった。生き残った二航戦の搭乗員は編入と解隊を繰り返した揚句に棲み家とも言える空母を全て失い、遂には陸軍航空隊と同じ様に地上基地からの出撃を余儀無くされた。
臥薪嘗胆の思いで度重なる理不尽な命令を受け入れる残滓のような彼らはただひたすら反攻の機会に巡り合える事を願ったが、一度傾いた勝敗の天秤を再び自分達の側へと引き戻す事は叶わない。暴力的な物量の前で彼らは徐々にその力と希望を失い、それと共に版図は縮小の一途をたどっていった。
本土への帰還命令を台湾の基地で受け取った時、飛龍の直掩隊として生き残ったのは自分と増渕二飛曹だけになっていた。圧倒的な戦力と対ゼロ戦の為に生み出された戦術を二人の経験と技量で悉く跳ね返してやっとここまで生き延びて、しかし与えられた任務は特攻機の直掩 ―― それは島田にとってあのミッドウェーでの出来事を何度も何度も追体験させるという拷問にも等しかった。友永よりも遥かに劣る技量の練習生とガタガタの機体で行う特攻が成功する事など余程の偶然が積み重ならない限り有り得ず、しかしたまにそれらの不利を全て御破算にして敵への体当たりを成し遂げる現実を彼は万感の思いで見送るしかなかった。惜しい、その才能を鍛え上げればきっとまたあの日の二航戦が再現できると言うのに。
かつての栄光と言う届かない夢と次々に失っていくと言う悲しい現実、そして島田は今日また大きな物を失ってしまった。増渕の死を受け入れるには彼は余りにも多く傷付き、そして酷く疲れている。自分がこの先生きていくという選択を決めかねるほど。
帰る事に意味があるのか。
戦い続ける事に意味があるのか。
太陽は既に水平線を離れて眩いばかりの朝を世界にふりまいている。思いがけない敵機との交戦は会敵予想時刻を大きく狂わせて、それはもはや奇襲をかけるには致命的とも呼べる明るさを巷へともたらした。第一回戦は敵の勝利と呼んでもいいだろう、だが。
彼らは日本人の業の深さを知らない。遠く神代の時代から近代まで連綿と続いた同族殺しの歴史はその血を宿す同輩に命の軽さを刷り込んだ。命を損なう事よりも名誉を損なう事を恥じ、我が身を惜しむ事よりも人に報いる事を何よりも尊ぶ大和民族の誉れを。戦場とはその彼らが自らの矜持と誇りを賭けて命を燃焼し尽くす為のいわば日常、勝利の為の希望は命が尽きるとも決して捨てない。
島田はコンパスの針が南南東を指している事を確認すると白いマフラーに指をかけて喉元を少し緩めた。カラカラになった喉を潤すかのように機体を海面近くまで降下させ風防を少し開く、吹き込んで来る湿った潮の香り ―― そして島田はそれと共に機内へとなだれ込んでくるエンジンの音が徐々に大きくなっていく事に気づいた。その正体をいちいち目視で確認する必要などない。
「 ―― やっぱり、俺達はバカばっかりだ」
既に物資も底をつき、使える材料は家庭から供出された鍋や釜。品質も精度も戦争が始まった時に乗り込んだ二十一型とは雲泥の差だ、だがその闘志は少しも衰えない ―― いや不利に陥っているからこそなおさら滾る。それはまさに起死回生の逆転の一手、自分がその駒となる為に命を捨てる事を躊躇わない。
―― 勝つんだ。
島田が抱いた願いを受け取る様に翼を連ねる海軍の濃緑と陸軍の白銀、うねりながら雁行の陣を取った彼らは沈み込むように海面へと機体を滑らせた。
* * *
「反応途絶 …… 始まりました」
ヘッドホンを耳に当てたままじっと目を閉じていた曽我部がまるで何かを祈る様に呟いた。それまで嫌がらせの様に鼓膜を叩いていた救難信号がかき消えてサーサーと小さな雑音へと変化する、それは今までに何度も傍受していた死神艦隊からのメッセージ特有の変化だ。機内に集まっていた長谷川の部下達は息を呑んで真剣な面持ちで彼の顔を眺め、新宮はすぐさま地図を広げてコンパスを廻し始める。特攻機の予測進路と速度と雑音が消滅するまでの時間を計測して敵艦隊の正確な位置を割り出す為だ。
「しかしこれだけ単純なモールス信号すら妨害するなんて敵さんどれだけ高性能な電子装備を備えてるってンだ? 」
「単艦じゃ無理だ、でも輪形陣が取れる艦数なら問題ない。全部が同時にレーダー波を放てばその重なり合った所に電磁波の壁が出来る ―― 電波融とも言えるんだがそれで艦隊全部を囲える様にしてしまえばできなくもない、ただしものすごく強力なレーダーだって事は間違いないけどな」
遠村の質問に奥野がひそひそと答える、飛田と望月は長谷川の後ろで彼と同じ様に曽我部の表情へと視線を注いでいる。もしかしたらその電磁波の壁の隙間から友軍の声が聞こえるかもしれない、何かの情報が得られるかもしれない、それを期待しているのだ。敵の正体が分かったとは言え手元にあるのはピンボケ写真ただ一枚、毛筋一つの僅かな手掛かりでも得られれば少しは心強い。
それはもちろんじっと耳に神経を集中させて雑音に聞き入っている曽我部にしても同じだ、だが彼の願いも空しくヘッドホンのスピーカーからは同じテンポの乾いた雑音が聞こえるだけだった。
* * *
くるくると回る走査線上に浮かぶ光点、巨大なPPIスコープの前に陣取っていたレーダー手がひきつった声と共に血走った目を走らせた。
「敵機接近っ、方位328。機数十五、少尉の予想、どんぴしゃです」
「褒めるのならきっちり仕事したメリル中尉と航空隊です。彼らの労に報いる為にも私達は自分に与えられた役割をしっかり果たさなくてはいけません」
ウェーブのかかった金髪を一つ撫であげるとカリートは手にしていた帽子でそれを隠す様に被った。帽子のつばを摘まんでしっかりとそれを押し込む、まるで何かの合図の様だ。
「CICから艦橋、第一種戦闘態勢発令。敵機15、北北西よりエリア内に侵入。全艦に対空防御の指示を」
「 ” 艦長からCIC、アイ ” 」
艦橋のデッキから掲揚される青い四角と赤白の千鳥、戦闘態勢を知らせる旗と共に全艦から雄叫びのような警笛が海原へとこだました。先頭の重巡トレントンが舳先で蹴立てる波の嵩を上げると索敵の為に全周囲へと散らばっているピケット艦を除く全艦が円陣を保ったまま一斉に前進を始める。命令の受諾を示すロメオ旗が上がった事を双眼鏡で確認したマクスクランは背後に立つハンターを振り返って小さく頷くと壁際のマイクに駆け寄った。
「艦長からCIC、艦隊は移動を開始した。FCS(Fire Control System;射撃管制装置)スタンバイ、感度最大。会敵まで07、侵攻経路は北北西、高度200」
「 ” 展開中のピケットに対空迎撃準備、輪を縮めつつ敵の編隊を迎え討ちます。警戒すべきは先導機のゼロ、射程限界到達までの速度を意図的に調節してこちらの動きを観察しています。こいつは手強い ” 」
「セネカ・カユーガ・モホークに伝達っ、N-8起動、上空で戦果確認を行うゼロを集中的に狙え。絶対にここから生かして帰すな、お前達が艦隊の切り札だ、心しろっ! 」
「艦影視認っ! 全機突撃っ! 」
先導を務めていた島田は波間に見え隠れする黒い影に向かって叫ぶと機体を翻して上昇を始めた。艦隊全部を俯瞰する高度で味方の戦果を確認する任務は何度やってもなじめなかった、だが今日は違う。輪形陣の奥深くに潜む敵空母の位置を押さえながら対空砲火の薄い所を狙って自らも突撃すると志半ばで散ってしまった彼らに誓った、生きて還るつもりなど毛頭ない。例え爆装をしてなくても関係ない、日の本を蹂躙しようとする不逞な輩にせめて一太刀。
解き放たれた直掩の零戦が特攻隊に先んじて露払いに挑む。射程外から超低空で高速侵入、ありったけの弾を使って敵の対空砲を潰すつもりだ。ことごとくが燕の如く翼を翻して敵の目を撹乱しながら各々の目標へと機首を向ける。
「モンマス、トレントンに伝達。敵機は2番から突入を開始する、モンマス正面、トレントン左舷に火力を集中。コンコードは右舷から当艦の前面に火線を展開、防御しろ」
カリートが机の上に置かれた状況板を眺めながら事のほか静かな声で命令する。レーダーや目視による敵機の動きと果てはそれを動かすパイロットの心理にまで踏み込んでリアルタイムで進行を続ける未来を予想する、チェスの駒の様に動き回る敵味方のミニチュアを神の目線で睥睨する彼こそがこの艦隊の中枢神経だ。命令を受けたオペレーターは彼の声とはうって変わった大声と早口でその予言を各艦へと伝え始めた。対空砲架の基部モーターの唸りが隔壁を伝わってCICに届く、それは獲物に対して牙をむく獰猛な獣の息使いにも似ている。
軽快な運動性能を誇示しながら敵の目を眩ませ、しかし頃合いを見計らって遂に敵の懐へと思い思いの方向から飛び込む零戦。扇の要へと集まる様にまとまるそのタイミングと時間差は海軍の歴戦にしか成し遂げる事の出来ない絶技だ、自分もそこに参加したいと言う耐えがたい誘惑を押さえながら島田は彼らの曲芸を上空から観察している。
敵は恐らく慌てている事だろう、狙いをつけるどころの騒ぎではない。現に一発の弾も撃ち出す事が出来ない ――
「 ―― 各艦、撃ち方始め」
ハンターの命令と共に間髪いれず砲火を開く対空砲群、苛烈等という言葉では生温い。一瞬の内に構築された火矢の壁が突入を企てる零戦の前に立ちはだかった。それは上空で戦況を眺める島田にとっても見るのは初めてで、圧倒的な物量の暴力とその効果は彼の口から悲鳴さえ奪い去る。
海軍最強の対空砲火を誇る長良型二番艦『五十鈴』がつつましく思えるほどその密度は圧倒的でしかも容赦がない、先頭を務めた零戦はまるですり潰される様に砕け散った。
「散開しろ、早くっ! 」
眼下で起こる悲劇の魁に我に返った島田が届かない無線に向かって大声で叫ぶ。その声が聞えたかのように全力で火線の網の外へと機首を向ける生き残り、しかし追い打ちをかける様にその背中へと新たな武器が襲いかかった。追い縋る様に放たれた弾が逃げる僚機の背後で炸裂、猛烈な数の弾子を空中にばら撒いて胴体の後部をめちゃめちゃに破壊する。煙を吹きながらひらひらと海面へと舞い堕ちるその光景に島田は過去の屈辱を重ね合わせた。
忘れもしない、それはマリアナの海での出来事だ。
「 ―― 近接信管っ、だがあれは ―― っ」
進化している、と脳裏で響く警告。マリアナ沖で散々な目にあった彼の兵装はあくまで接近する敵機との相対距離を計って、弾子が放射状にばら撒かれる物だった。従って弾道から回避するだけで被弾はある程度抑える事が ―― それでも操作性は格段に低下したが ―― できた。マリアナ海戦で海軍航空隊が犯した間違いはただ一つ、退却して再起を計ると言う選択肢を戦術から除外してしまっていた事だ。傷付いた機体でよたよたと敵の前に出て行った所で袋叩きに遭うに決まっている、精神論や運命論に自らの命を委ねるほど島田は夢想家でも空想家でもなかったが故にここまで生き延びて来たのだった。
だがあれはマリアナのそれとは比較にならないほど殺傷理論に優れている。どんな状況下でも性格に敵との距離を見定めた上で効果的に放出される弾子は指向性を持って発射され、それ故に破壊力は絶大だ。以前の物に比べれば命中率は悪いのだろうが当たれば一撃必殺、それは恐らく鋼鉄に囲まれた敵の航空機とて同様の結果が得られるだろう。
かすり傷程度で生き残った二機の零戦を率いる為に島田が操縦桿を少し倒して左旋回降下を試みる。それは彼独特の癖のようなものでエンジンの回転軸の方向から反対回りとなる左旋回の方が早く機体を回せると言う零戦の特徴に則っての操作だった。だがその瞬間、島田は得体の知れない小さな音と勘に訴える猛烈な恐怖を覚えて思わず深く旋回姿勢を取る。そして真横にロールを果たした機体を大きな炎が掠めて遥か上空へと飛び去った。
「 !? 」
声を出す暇もなく彼目がけて放たれた鉄の弓矢、目視など出来る速度ではない事は耳を犯す音の速さで分かる。一か八か失速するまでスロットルを引いた島田の機体が頭を下にしてひらりと揺れる、木の葉落としと呼ばれる空戦機動で機の体勢を瞬時に反転させた島田のすぐ頭上を一本の巨大なミサイルが掠める。その物体が齎す衝撃波と轟音は激しく島田の頭を揺さぶって雲一つない大空へと煙をたなびかせて駆け去っていく。
「 ” セネカ、失敗っ! ” 」
「 ” こちらもだ、畜生っ! ” 」
声を荒げた二艦のピケット艦の報告を耳にしてマクスクランが壁を拳でドスンと怒突いた。まさか我が軍が誇る最新鋭対空ミサイルがこうもあっさりと躱されるとは予想もしなかった、完全な死角から放った超音速の矢をあのパイロットはどうやって見つけてやり過ごしたと言うのだ、ありえない。
「レッド1に伝達」
思い通りの結果が得られず、焦りに炎上する幕僚や艦橋を冷やす様にハンターの静かな声が響く。彼は皆の狼狽を他所に置いてじっと目の前で吹き荒れる対空砲火の嵐へと視線を注いだままだった。
「囲みを縮めて待機せよ、もしもの場合は体当たりしてでも敵を葬れ。決して檻の外へは出すな、と」
味方に対して非情な選択を迫るその表情は硬い。しかし損害値として唯一勘定されない航空隊を何の斟酌もなく使い捨てると言う決断の意味を何よりも理解して所属しているのは彼ら自身だ。それは多分ハンターに命じられなくても彼らが自主的に採る戦術に相違なく、彼は彼らの中で起こるかもしれない葛藤に対して上官としての後押しをしているだけなのだ。
「 ―― もしも、など」
落ち着きを取り戻したマクスクランが小さく笑って呟いた。
「あってはならない事です。ここでの不手際は必ずここで決着をつける、そうでなければ『ファランクス』の名が泣きます」
ハンターの命令を預かった事で艦橋はにわかに活気を取り戻した。マクスクランは伝声管へと近づいてCICを呼び出しカリートに対して次善策を要求する、作戦参謀と防空担当の幕僚がどうにかして敵の零戦を射程距離内へと収められないか検討する。対空兵装の中で最も射程の長いボフォース40ミリ四連装が唸りを上げて天を仰いだ。
手負いの味方を両翼に従えた島田は風防を開けて手信号で自分の意思を伝えた『敵の火力を観察する、我に続け』。翼を振って肯定の意思表示を確認した島田は楔の編隊を組むとすぐに高度を上げて艦隊の全容が俯瞰できる位置に待機する、今度は火力の薄い所を狙って敵を撹乱して迎撃能力を見極めようと言う腹だった。対艦戦闘において航空機が最も有利な点はその機動力 ―― 敵が砲塔を廻して狙いをつけるよりも早く移動する事が出来る、いかに圧倒的な火力を誇ろうとも回避に徹した戦闘機を撃ち落とす事は困難でしかも弾薬とて無限ではない。布陣する艦の対空砲火の思惑がすれ違うその一点が恐らくは突破口になる筈だ。
それは大東亜戦争開戦からこの終盤に至るまで常に最前線で生き延び続けた島田が得た教訓や経験則に基づく冷静な判断だった。航空母艦飛龍の甲板上で最期の出撃に向かおうとする友永丈一は愛機へと歩を進める島田に向かって心の底から口惜しいと言った体でこう告げた。
「 ―― ここにもう一機九七艦攻があれば、なあ」
進みて防ぐべからざる者はその虚をつけばなり ―― 孫子の教えを実践によって体得した稀有な兵は自分と同じ資質を島田の中に見出し、しかし最期の最期に袂を分かって一足先に鎮守の宮へと旅立った。そして煉獄の中を生き延び続けた島田は今彼と同じ位置で白波の中に屹立する巨大な影を睥睨する、決殺の誓いを胸底の奥深くに秘めて。
だが。
全てがそうではない様にそこに集う者もまた彼らと同じ資質を抱いている訳ではない。島田はその事実を自分の視界の片隅に、眩い光と共に知る事となる。奇襲には不似合いの銀色のジュラルミンが齎す輝きはそれ自体が一つの意思を持って大空を駆け抜ける、総勢十機の陸軍が誇る戦闘攻撃機、隼。
「 ―― まさか、あいつら」
一糸乱れぬ雁行陣を見た瞬間に島田は彼らの意思を悟った。突入態勢に入るまでそう時間も残ってはいないだろう、島田が慌てて両翼の仲間に手信号を送ると風防を思いっきり閉じてスロットルを開く。対空砲火がまばらになって嵐の前の静けさを取り戻しつつある空に向かって思いっきり機首を上げた。
「 ” ―― 慌てなくても大丈夫だと思います ” 」
まるで姿の見えないマクスクランの苛立ちを見透かした様にカリートは答えた。
「なぜそう言いきれる? 」
「 ” 現在特攻機は十機編隊で防空ラインへと侵入しつつあり、危惧されている直掩のゼロはそこに合流するルートを取りました。恐らくこの艦隊の防空能力を測るために射程外での一時待機を提案する為に、でしょうが ―― ” 」
ハンターはスピーカーから流れるカリートの声音を聞きながら彼の精神状態を探っている、何の迷いも焦りもなく淡々と語るその声は確かにいつもの彼の物だ。
「 ” ―― 残念ながら、それを聞き入れる事が出来ない事情があります ” 」
「 ―― 燃料が、ないのかっ」
隼の翼下にある筈の増槽は既に全機消失していた、それは恐らくあの予期せぬ空戦で過剰に消費してしまったからに違いない。計算ではほんのわずかな間敵の様子を観察できるだけの予備として積まれた燃料をもことごとく使い切った彼らにもう選択の余地はない、それでも何とか活路を見出そうとして見晴らしのいい高空からの突入を図ろうとしていた。特攻教練の際に教官から教えられる、それが最も成功率が高いと言われている攻撃方法。
「だめだ、よせっ! 」
必死で風防を開けてこの編隊を束ねていると思われる搭乗兵に制止を求める島田には、そんな使い古された戦術などここにいる敵に通用しない事が初手で分かっていた。海軍の腕っこきが束になっても跳ね返された火力、そして自分が辛くも躱した得体の知れない新兵器。その全貌すら垣間見てない所へ突入しようとするのならばそれはもう勇気でも何でもない、ただの無謀だ。
なぜ彼を守れなかったのか、と島田は歯噛みをしながら大声で怒鳴り続けた。もしあの中隊長が自ら囮になどならずに生き延びていたなら自分の言葉の正しさが分かるはずだ、ほんの僅かな時間でいい、ここで待っていてくれたなら自分達が必ず特攻隊の露払いを成し遂げて見せるのに。
「進路から見てカミカゼは反対側の5番から先制を始めるでしょう。ドーチェスターは艦尾から右舷方向に、コンコードは敵を追尾しながら確実にそこへと追い込んで下さい。ジョージ・ワシントン右舷対空砲群準備、モンマスは旗艦の援護に」
海図に置かれた白いチェスの駒を眺めながらカリートは艦橋で固唾を呑む幕僚たちに向かって静かに言う。向かい側に立つ部下がレーダー手の声を聞きながら少しづつ移動させるそれらは着実に艦隊の射程距離ぎりぎりの外縁部へと移動を始めていた、そこに並ぶ十個のポーンの内何個がこちらへと向かってくるかは彼の読みにかかっている。
ハンターから命令を受けた最後尾のドーチェスターは右舷に設えられた対空砲群を全て指示通りの空に向けてその時を待った。ワシントンの両側に控える両駆逐艦 ―― モンマスとコンコード ―― よりも一回り大きい船体は日本海軍で言えば軽巡洋艦に相当する、しかし艦隊の防空指揮所としての役割を担うその船には単艦で両艦に匹敵するほどの対空装備が搭載されていた。
主砲として未だ開発途上にあるMk 39 5インチ砲を三門それぞれを三か所に配し、個艦防衛用に同じくMk 33 3インチ砲を六門。近接防空用のエリコンFF 20 mmに至っては甲板上の至る所に設置してあると言う徹底ぶりで、これだけの兵装は旗艦として中心に鎮座するジョージ・ワシントンにも採用されてはいない。戦闘艦としての矜持を捨ててあくまで対防空に特化したその装備は老兵たちの耳目を疑わせ、ひとかたならぬ蔑視を集める事になった。
だが幾度かの実戦を経てドーチェスターの乗組員はその事を恥じていた自分達や揶揄したお偉いさん達が間違っていると言う事に気が付いた。時代は艦隊戦の時代から航空戦へと確実に移り変わりつつある、そこで最も重要になるのは海上基地とも言える空母をいかにして敵の攻撃から護るか。痛み分けとも言えるあのミッドウェーで二百人以上のパイロットを失ったアメリカ軍はそれと引き換えに空母二隻を運良く生き残らせる事が出来たが、かたや正規空母を四隻失った日本軍は結局その痛手から立ち直る事が出来ずにずるずると敗北の一途を辿りつつある。
「全員落ちつけ。いつもの通りやればそれでかたが付く、経験者の私が言うのだから間違いない」
戦闘配備中に事もあろうに艦内スピーカーで全員に呼びかけるその声は実に明るい、セント・ローの撃沈に二カ月ほど遅れた12月、日本陸軍機の特攻によって甚大な被害を被った軽巡洋艦ナッシュビルの生き残りであるセスタ・ドミニク中佐は色褪せた略帽を前後ろに被り直しながら前方1キロの辺りを進む旗艦の背中を眺めた。情報によれば今度の特攻機もあの時と同じ陸軍機の隼で乗っている船は旗艦護衛の軽巡洋艦、繰り返される数奇な運命の悪戯に眉を顰めざるを得ないと言うのが今の心境だ。
だが自分の感傷はともかく大勢の部下を預かる艦長として今何を為さなければならないかという事くらいは知っている、任務期間中の艦艇被害0%という目標よりもここにいる全員を全て無事に本国へと送りかえす事が自分にとっての第一義だ。戦争が終わって ―― それは多分もう間もなくの事だろう ―― 本国へと帰還しても極秘任務についていたと言う事実は守秘の部分でここにいる全員に何らかの制約を与えるだろう。
「 … それでも、生きて帰ればなんとかなる。そうだな、マードック」
唐突に声を掛けられたにも関わらずドミニクの傍らに控える背の高い副官は海軍の正式帽の庇を目深に下ろして頷いた。口数こそ少ないが艦の制御や戦闘指揮で才を発揮する彼にドミニクは全幅の信頼を置いている、マードックはドミニクからマイクを渡されると小さく咳ばらいをした後に静けさを取り戻しつつある甲板上へと命令した。
「全艦対空防御、少尉からの指示通りに。全身全霊を撃ち出す弾の一つ一つに籠めて目の前の敵へと叩きつけろ、それで今日も生き延びれる」
「機関通常、前方との距離を開けろ。そこへ誘い込むぞ」
けたたましい鐘の音と共に右舷側にあるエンジンテレグラフのメモリが一つ戻される、途端に波の抵抗を受けて減速したドーチェスターは前との距離を少し開けた。艦数が少ない為に近接型の輪形陣を取るこの艦隊は全ての艦艇が艦砲の射程内に収まっている、誤射を防ぎ射界を確保する為の措置をドミニクは採る。すぐさま艦橋の右側にいる見張り員から大声が上がった。
「敵機視認っ! 十機のうち ―― 」
「 ” ―― 五機。編隊を半分に分けてなおかつ上空から三機、低空から二機 ” 」
「敵編隊分離っ! 五機だけこちらへの進入コースへっ! 」
「右舷対空、迎撃用意っ! 」
カリートとマクスクランと見張り員の声が重なる艦橋に再び敵機の接近を告げるサイレンが鳴り響く、アイランド後方に設置されたMk.32 5インチ連装砲二基が金属音を響かせて狙うべき空へと砲口を向けた。
「発砲のタイミングはドーチェスターに任せる。各員対空戦闘用意 ―― ところでCIC」
けたたましい喧騒を他所にハンターは未だに前方の海を睨みつけている、この臨戦下に冷静な声でCICを呼び出した彼の顔をマクスクランは横目でチラリと眺めた。その目は海を見ている様で見ていない ―― それは彼の思考が今何に向けられているかという事を言葉で知った。
「 ―― 直掩で待機しているゼロは、やはり最後になるのか? 」
編隊から少し離れた所で次々に降下を始める隼を睨みつけながら島田は自分の読みが外れている事を心から願っていた。最後尾にいる軽巡洋艦は実は空母のトンボ釣り(着陸に失敗した艦載機や乗員を救助する事)用でそれほど本格的な対空砲火を装備していない ―― 等等。だが隼が降下を始めた瞬間にその船ががくんと速度を落としたのを見て、彼の都合のいい願いが全くのお門違いである事を知った。敵機が突入する際に僚艦との距離を開けるのは味方に被害が及ばない様にする為の常識、ソロモン海戦以降敵の艦隊が自分達を輪形陣で迎え撃つのに必ず使った戦法だ。それはつまりあの船を指揮している敵が歴戦の強兵であると言う事。
彼らに英霊の加護による奇跡があらん事をと願う島田とそれを否定するもうひとりの自分、上下に二手に分かれて敵の罠の中へと飛び込む背中を眺めながら彼は全ての未来が見えている。誰かが奇跡を願った時点でその戦いに勝ち目はない、なぜなら奇跡は起きる物ではなく「自らの力でおこす」物なのだ。その為の努力に背を向けて自らの死を受け入れた彼らが本懐を遂げる事など有り得ない。
軽巡の甲板に設えられた長距離単装砲がまるで悲劇の幕開けを寿ぐかのように第一声をあげる、付近にも湧き上がる黒煙の衝撃を身に覚えながら島田は他の二機と共にじっとその顛末に至るまでの道のりを眺めていた。
自らが奇跡という物を必ず起こす為だけに。
「もしその意思がないのならとっくに帰投している」
ハンマーは「なぜわかるのですか? 」というマクスクランの問い掛けに静かな声で答えた。
「対空砲火の射程ぎりぎりで味方の突撃をみている ―― いや、こちらの出方を観察しているのだろう、それがいい証拠だ。多分あのパイロットの頭の中では彼らのカミカゼが成功しないと言う事を既に悟っている、だから味方を全て犠牲にしてこちらの砲火の穴を探ろうとしているんだ」
マクスクランが驚いたのは敵の冷酷な感情よりもそれを手に取る様に理解している目の前のハンターの洞察力だった。自分の身に襲いかからんとする危険をまるで他人事のように冷静に分析する ―― 彼自身が嫌悪するカリートと同じ資質がそこにはある。
「 ” ―― 間違いないでしょう。ですがこちらの対空網をすり抜けて本艦へと突入するには戦力的に無理があると思われます ” 」
「敵を侮るなカリート。確かにあの機は爆装もしていないしこちらに命中した所で損害は軽微だ、だがそれ故にゼロの持つ機動性能を存分に発揮できる立場にある。本気になった日本軍のパイロットに君はまだお目にかかった事がないだろう? 」
それはプライドを傷つけられた彼なりの抗議だ、と二人の会話を小耳にはさんでいたマクスクランは思った。CICの主として艦隊防御の運用を担う彼は海軍兵学校を抜群の成績で卒業して後初めてこの艦へと配属された、という事はこの先彼がどんなに偉くなったとしてもこの期間の華々しい軍歴は決して公には語られないと言う事を意味している。自分の人生の一部を国に売り渡した彼がその働きについて揶揄された事について ―― ハンターはそんなつもりは毛頭ないだろうが ―― 無言で抗議してしまうのは拠所ない事だとも思う。
時間や運命という物は万人の下に平等なのではない、現にカリートに対して忠告しているジェフリー・ハンターと言う将は彼が未だに経験していないカミカゼとそれが齎した地獄と悲劇を知っている。その事実を全て呑みこんだ上で彼に突き付けて再考を促そうとしているのだとマクスクランはハンターの意図を理解した。彼の成長こそがこの艦隊の命運を握る、それは言外の激励なのだと。
「カミカゼの攻撃はこちらで引き受ける、カリート。君は彼が突入を決意する僅かな時間の中でもう一度艦隊の弱点を分析して対抗策を捻りだせ。忘れるな、最後のカードは俺達が持っているんじゃない」
そこで初めてぼんやりと前方の海を眺めていたハンターが振りむいて艦橋の右側の壁を見詰めた。恐らくその壁を通したずっと先の空の上でこちらの様子を窺っている筈の一機の零戦、見える筈のない機影を睨みつけた。
「やつが、握っているんだ」
先ほど披露された対空砲火に比べると今度の物は意外に密度が薄い、しかしそこに島田は恐怖を覚えずにはいられなかった。無駄弾が少ないと言う事はこちらの動きが完全に読まれていると言う事、実際高空から急降下で空母を狙った三機の隼はその防衛ラインに到達する前に敵の対空砲火の餌食となった。一撃で火ダルマと化した味方の機体が炎をたなびかせて海面へと激突する、その間隙を突いて超低空で突入を図る残りの二機だったがそれも敵には読まれていた。
高度差をつけての二方向攻撃は敵艦砲の照準が間に合わないと言う理由で推奨されてはいたのだが敵に知られていては意味がない、敵艦船の甲板下と言う低空で対空砲火をやり過ごそうとした二機の隼は事もあろうに敵の主砲が着弾した水飛沫の中へともろに飛び込んでその大波と共に海面下へと没した。衝撃でばらばらになった機体に向かって敵の二十ミリが襲いかかって機雷掃討の要領で搭載爆弾ごと木っ端みじんに破壊する、二本の水柱が高く上がって戦場の空気を大きく揺さぶった。
帰れるものなら帰してやりたい、パニックを起こした残りの五機が何の一貫性も無く思い思いのやり方で突入を始めてそこから繋がるほんの先の未来に何の希望も光も見えないと言う悲劇を眺めながら島田は臍を噛む。護摩焚きの炎の中に投げ込まれるお札の様に次々と燃え上がりながら海上へと向かっていく機数を頭の中で数えながら、島田は自分の頭の中で構築した計画を実行に移す機会を行使する事に決めた。残っている隼は後二機、それは恐らく最初の連中と同じく二手に分かれて右側から高低差をつけての突入を選択するだろう。
左右に分かれて随伴する二機の零戦に翼を寄せた島田がほとんど使い物にならない無線機の回線を開いた。三式空一号無線電話はこの五二型から標準装備され始めた無線機で以前の物(九六式空一号無線電話機:大戦初期の戦闘機に使用)に比べれば格段の性能を誇ってはいたが故障が多く、しかも物資が乏しくなった今となってはそれを修理する為の部品もない。島田も戦闘中には余分な雑音が耳から入って集中力が欠けるのでその常時使用を控えているのだが、ここぞと言う時にはそれを使って味方に指示を与えていた。そして彼は今がその時だと判断した。
「 ―― 貴様らに尋ねたい」
これが辞世の句なのかと。島田は遠慮がちに口を開いた。翼が触れ合わんばかりの近距離で放たれた彼の声はどうやら僚機に辛うじて届いたようだ。雑音混じりのイヤホンから微かに二人の驚いた声が戻ってくる、島田はマスクをしっかりと口に当ててからそこに仕込まれたマイクに向かってはっきりと、しかしゆっくりと大きな声で告げた。
「勝つ為に、命を捨てる覚悟は、あるか? 」