開幕の黎明
長谷川が口にした「死神艦隊」という言葉を聞いて一瞬驚き、しかしすぐさま不敵な笑みを浮かべてじっと彼の顔を見つめる六人の搭乗員達。海軍のエースをして命からがら逃げかえってくるような強大な敵を標的に掲げて誰一人として怯みもしないその雰囲気に新渡戸は驚き、しかし彼らが揚げた戦果の大きさの理由がここにある事を心底から納得した。
1941年12月10日、太平洋戦争直後に発動したシンガポール攻略戦に先駆けて行われたマレー沖海戦においてイギリス東洋艦隊に所属する世界最強の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の日本海軍司令長官山本五十六の予想を裏切った形で南シナの藻屑と消えた。対空砲火の嵐によって次々に火ダルマと化す僚機の隙間をかいくぐって放たれた一本の魚雷は至宝と呼ばれた彼の艦の左舷駆動軸を含む全ての機動区画を破壊して行動不能に陥れた。奇しくもデンマーク海戦においてドイツの不沈艦ビスマルクの足を止めたイギリス海軍攻撃機ソードフィッシュと同じ攻撃箇所を長谷川は選択し、そして彼らは世界の海軍戦力の本流とされていた『大艦巨砲時代』の終焉を告げる奇跡を起こして見せたのだ。
新渡戸の胸の底でわだかまる「それは特攻と同じ様な物だろう」という彼なりの認識は、彼らの表情を見回したその時から霧消した。同じ死に直面するにしても自分で決める事と他人から用意される物では根本的にその意味が異なる、彼らが選んだのは「決死」であり特攻を始めとする玉砕攻撃が主眼に掲げる「必死」ではないのだ。
「藤枝まであと15分、右翼側に富士山」
静かな声で短く告げた新宮が張り出し銃座の向こうを目を細めながら眺めている、その声に誘われる様に面々が窓の外に大きく映し出された霊峰富士の威容へと目をやった。巨大な冠雪を被った神国の象徴は太古の昔から連綿と続く崇拝を一身に纏って今もここにある、雄大な景色に畏怖すら覚える新渡戸の耳に長谷川の口ずさむ歌が流れ込んで来たのはまさにその時だった。
「 …… ” 芙蓉の高嶺を雲井に望み、紫匂える武蔵野原に ―― ” 」
いかにも歌い慣れたといった風情でしっとりと歌う低い声が新渡戸には富士の巨大な火口から溢れている様に聞こえる、一番を歌い終わって束の間の余韻を楽しんだ後に彼はそのまま機体の壁に寄り掛かる歌い手に向かって小さく笑った。
「そう言や、お前は立教の出身だったな ―― 俺達はもう何年になる? 」
「 …… ブインに補給と整備の為に降りた時から …… あれからまだ二年か。しかしもっと長かったような気がする、お互い色々あり過ぎたからな」
戦況の悪化する南方戦線で新渡戸は水上機での夜間爆撃を繰り返しながら最後まで味方の撤退を援護し続け、そして長谷川はそれ以前にアメリカ軍の圧倒的な工業力と物量の前に原隊を失った。防弾装備を持たない96式はアメリカ軍に「ライター(命中すればすぐに火が点く事から)」と揶揄された一式よりも簡単に敵戦闘機の餌食となった、究極まで切り詰めた空力性能も過大な翼面積が生み出す運動性能も十重二十重となって襲いかかって来る20ミリの前には為す術がない。彼らは全員が一式への機種転換を断った為に北方への異動を命じられたが、千島の基地で長谷川が元山空の全滅の報に接した時は一晩中基地に帰隊しなかったという話を新渡戸は偶然出会った美幌空司令の藤野大佐から聞いた。あり過ぎるなどという一言では言い表せないほど多くの絶望と悲しみを背負いながら俺達はここにいる、そしてこの先にある見えない何かを成し遂げる為に今日まで生かされて来たと信じたい。
去来する様々な思いを小さな頷き一つに変えて新渡戸は長谷川の言葉に同意の意を示す、真剣な表情を浮かべた彼の顔を見た長谷川は言葉尻に残した愚痴の様な台詞を振り返って、まるでそれが恥ずかしかったかのように照れ笑いをした。
緑の窪みの中に真っ直ぐ伸びる短い滑走路は上から見ると畑仕事に利用する農道を模している。敵味方識別の為に一度翼を振って上空を飛び越えた飛田は再び元来た航路まで大きく旋回して着陸態勢に入った。
藤枝基地は周囲を小高い丘に囲まれた小さな基地で東西に延びる一本の滑走路と周辺部に広く点在する基地施設で構成されている。敵の目を撹乱する為に滑走路付近には管制塔代わりの小さな櫓が一つ、それも最上部にはご丁寧に半鐘を取り付けると言う念の入れようだ。牛舎に似せた作りかけの格納庫には大勢のとび職が先を争うように梁や柱を抱えて縦横無尽に飛び回っている、その彼らが自分達の元へと近づいてくる双発のエンジン音に思わず東の空を仰いだ。
新渡戸と長谷川は黙って飛田が試みようとしている着陸を観察している、機長席に座る長谷川の右腕は普段に見せる朗らかな笑顔をしまいこんでじっと前方の丘を凝視していた。まるで稜線にぶつかりかねないほどの低空侵入は通常であれば教官に大目玉込みのゲンコツを喰らいかねないほどの無謀な選択なのだが、藤枝基地の構造を熟知している新渡戸は飛田の狙いが間違っていない、いやむしろ制動力の弱いこの機体でそこに着陸するにはこの方法しかないと思っていた。
パワーレシオに優れた彗星や零戦52型ならばこの程度の短い滑走路でも十分離着陸が可能だが双発で旧式の96式ともなるとそうはいかない、確かに木更津で披露した飛田の技能は克目すべきに値するがそれでもこの滑走路を使用するには少し足りない。長谷川の薫陶を常に隣で受けていたこの若き天才が目の前の難局をいかに切り抜けるか、興味深々で見守っていた。
それにしても副操縦席で飛田のアシストを続ける望月のスロットル操作が実に的確で細かい。目の前にある二本のスロットルを巧みに調整しながら機体を失速寸前の低速で安定させている、熟練の副操縦士のような技術を披露する彼女に眼をしばたかせながら新渡戸は迫り来る丘の稜線に焦点を合わせた。
「これより藤枝基地滑走路に進入、主脚下ろせ」
飛田の声で奥野と遠村が同時にハンドルのロックを外すと翼の下に格納されていた巨大な主脚が重みで勢いよく飛び出した。ガコンという鈍い音が機内に響いて増大した空気抵抗が機体を大きく揺らし一気に高度を数メートル失う、だがその姿勢変化も織り込み済みだった飛田はそのまま機体をゆっくりと丘の稜線に沿って降下させた。
まるで丘を滑り降りて来るように進入する96式を見た藤枝基地の誰もが大声と悲鳴を上げて一瞬先に待ち受けている不幸と悲劇を思い描く、だが彼らの予想に反して飛田の操る機体は高度数メートルの高さを維持したまま裾野を抜け、木更津と同じ羽のような柔らかさで滑走路の起点すれすれに主脚を接地させた。しなやかに滑走路の端へと向かう旧式の攻撃機に向けて歓声と拍手が向けられる中、飛田はやっと固い表情を崩して元のにこやかな笑顔を取り戻した。
「ふわぁ、なんとか降りれたぁ。―― 望月、ありがとな」
「いえ」
無愛想な一言を残したまま望月が誘導の為に再び操縦席の風防を跳ね上げて上半身を外に出す、初めて出会った頃は「何て愛想のない女だ」と思っていたその仕草も実は彼女の照れ隠しだと何かの弾みに知った飛田は身を乗り出した彼女に向かって左手の親指を突き上げる、望月はそれを一瞥するとまるで興味がないと言った風情でそのまま滑走路の端までの距離を両手の指で数えはじめた。
「1208元空303、藤枝基地に到着しました。 ―― 少佐、このまま管制塔の傍まで? 」
「いや、このまま滑走路の端まで行ってくれ。俺はそこでいい」
「? 滑走路の端も管制塔もそんなに距離は変わりませんよ、将官が歩いて帰隊なんてあんまり体のいいもんじゃ ―― 」
「俺の所は実機を飛ばしての訓練が少ない、燃料を節約しなければならんからな。そのかわり離着陸の訓練では熟練者の実技を観察してその技術を分析すると言うのが常だ ―― 管制塔の傍を見てみろ」
新渡戸に促されて飛田が櫓へと目を向けるとそこには既に飛行服を纏った大勢の隊員達が集まっていた。
「 ―― 新兵だけじゃない、教官を務めている江口や小川までいる。 …… このままあそこに機体をつけたらお前達、今日一日うちの臨時講師を引き受ける羽目になるぞ? 」
「了解であります。では飛田一飛曹は303を駐機後、機長と操縦を代わります。海軍が誇る陸攻乗りの操縦技術を生徒の皆さんの眼に焼き付けておいてもらいましょう」
飛田が親指を上げて窓の外の望月に新渡戸の意思を伝えると彼女も一瞬驚いた顔をして、しかしすぐに真顔に戻って頷くとカウントの指を握り締めてゆっくりと左右に振った。機体が止まった事を確認した新渡戸が機長席から立ち上がり目の前の長谷川に軽く敬礼をする、長谷川は小さく笑いながら一つ頷くと同じ様に敬礼を返しながら踵を返した彼の背中を目で追った。新渡戸は昇降用のハッチを自分の手で開くと手慣れた仕草ですとんと滑走路へ降り立って機体からの距離を取る、滑走路の脇にある野原に辿り着いてから後ろを振り返ると既に長谷川が機長席に収まって風防を大きく開いて笑っていた。
「お前にはどこに行けば会える? 」
「俺達はこれから大刀洗(大刀洗陸軍飛行場、現キリンビール福岡工場)に行く、そこが今回の作戦の本拠地だ」
「大刀洗 ―― あそこは陸軍の管轄だぞ? 犬猿の仲の陸軍がよくそれを納得したな」
アイドリングを続けるエンジンの轟音に負けない大きな声で新渡戸が尋ねると、長谷川はさもありなんと彼の疑問に納得した表情で一つ頷いた。
「大刀洗は元空廠で機体をいじるのになかなか都合がいい、それに引き込み線があるから呉の海軍工廠とのやり取りがしやすい。近くには大村(大村基地。大刀洗基地の防空を担う海軍基地、主力機種は雷電)もあるしな」
なるほど、と新渡戸は改めて長谷川の持つ戦略眼に感服した。九州の内陸に位置する大刀洗は周囲を基地に囲まれている為アメリカ軍の偵察機が侵入する事は難しい、最近日本各地で見られ始めたB-29(アメリカ・ボーイング社が開発した大型爆撃機。通称「フライング・フォートレス」)による高高度偵察も大村基地には高高度邀撃専用機の雷電が実戦配備されている。つまり「こそこそ隠れて」何かをするには今の大刀洗基地はうってつけだと言う事だ。
「これも俺が親父に特攻の承諾をしなかったら叶わなかった我儘だ。―― 新渡戸、「敵を知り、味方を知れば百戦危うからず」。お前も孫子には一度目を通しておいた方がいい」
にやりと笑った長谷川が綺麗な敬礼を新渡戸に向ける、たった一言で今日の自分の行いを軽率だったと批評された新渡戸は思わず苦笑いを浮かべながらコックピットの窓を閉じた長谷川に向かって右手を掲げた。飛田が、奥野が、そして新宮がそれぞれの持ち場から軽く右手を掲げて上官の礼に応える、そして長谷川の操縦する96式は見送る新渡戸の前をゆっくり通り過ぎたかと思うとほんの少し先でまるで独楽でも回すかのように狭い滑走路の上でくるりと回れ右をした。
「 …… 相変わらずすごいな」
機体幅ぎりぎりの所で少しも車輪をはみ出さずに信地旋回を決める事など、余程機体の感覚を把握している者でないとできない技だ。随所に見せる熟練者の技術に新渡戸は改めて長谷川という男が重ねてきた戦果の理由を思い知る。大戦当初には数多存在した彼のような天才パイロットたちが国力に劣る日本をここまで支え、そして ―― 。
「 ―― 利用されて泥沼に陥ったのだ」
晴れ渡っていた心に影を落とす黒い靄、口の中に広がる苦い味を噛み締めながら新渡戸は固い表情で今まさに動き始めようとしている96式へと視線を送った。輪唱を続ける金星エンジンが長谷川のスロットル操作で一気に同調して大きく吼える、まるで敷かれたレールの上を走る様に時代遅れな巨躯の攻撃機はするすると走り始めた。
見事な敬礼で見送る新渡戸に向かって副長席の飛田は持ち前のにこやかな笑顔で、そして上部銃座からは奥野、左翼側の銃座からは曽我部と遠村が手を振りながらそれに応える。返礼などという堅苦しい形ではなく友人に向けて送られる別れの仕草に新渡戸は南方で戦っていた頃の景色と気持ちを重ね合わせた。
自分達の勝利を信じて来る日も来る日も雲一つない青空へと飛び立っていたかけがえのないあの日、敗色濃くなった今となってはもう取り戻す事の出来ない過去の記憶なのかもしれない。だがそれでも自分達の可能性を信じて再び奇跡を起こそうとする友が、仲間がここにいる。
副長席の後ろの偵察員の席から望月の顔がちょこんと見える、普段は感情らしきものを何も見せない彼女がぎこちなく笑って右手を掲げている。あの日のままだ、去年の一月二十九日、ブーゲンビル。丘を掠めて勇躍大空へと飛び立つ双発機の影を見送りながら新渡戸は別れを名残惜しむ様にいつまでも右手を額に掲げていた。
「少佐、少し老けましたかね? 」
長谷川の隣で周囲を警戒する飛田が呟いた。ソロモン沖に進出した敵機動艦隊を迎撃する為に集結したブインでの記憶が飛田にとっての新渡戸の最後の記憶で、その時の彼は真黒に日に焼けた顔に白い歯をむき出しにして滑走路の脇から自分達の出撃を見送っていた。まるで飢えた狼の様にぎらぎらとした眼と全身からにじみ出る闘志が自分の隣に座る長谷川と正反対の印象だった事を憶えている。だが今自分達と帯同して藤枝に来るまでの間あの日の面影は欠片も感じなかった、それは檻に閉じ込められて全ての自由を失ったままじっと何かに耐えている様にも飛田には感じる。
「お前の言う事も一理ある。奴一人の命で全ての責任がとれるのならこれほど楽な物は無い。だが今や奴は一部隊の指揮官で大勢の命を預かっている、彼らの命を自分の主義主張の為に使おうとするのならそれくらいの犠牲は払わなくてはな」
「でもそれを言うなら大尉も同じじゃないですか? 陸攻12機八十人を集めてあの得体の知れない艦隊に挑もうと言うんですから立場は少佐と一緒でしょ」
「そりゃ他動であるか自動であるかの差だろ」
二人の会話に割って入ったのは上部銃座から降りて来た奥野だった。見た目はむくつけき男の様で実は京都帝大(現京都大学)工学部を卒業した銀時計組の彼は強面の顔でにやりと笑いながら、飛田の背後で何かを言いたげに座っている望月に向かって片目を閉じた。
「軍に招集されて部隊に配属される兵隊には作戦に対する可否を論じる事は出来ない、どんな無茶な作戦でも指揮官がやるって言ったらやんなきゃならねえ。そこで踏ん張って部下の無駄死にを阻止しているのが少佐だとしたら大尉はぜんぜん立ち位置が違う、堰川や鳳は大尉がやろうとしてる事に魅力を感じてわざわざ美幌から転属して来たんだ。訳の分かんねえ爆弾抱えて無駄死にするよりゃましだってな」
「『訳の分かんねえ爆弾』? 」
「奥野、それは噂になってるマルダイ(桜花の開発暗号名、ロケット式の特攻兵器)の事か? 」
肩越しに振りかえる長谷川の目が険しい、奥野は小さな溜息をつきながら辛い気持ちを表す様に眼を閉じた。
「空廠の友人から聞いた話だと制海権を握られてる今の状況じゃ国内から飛ばすしか方法がないって言う方針に固まってる様です。機体重量と攻撃手段を考えると恐らく一式が改良されて使われるのではないかと」
「行くのは恐らく二十四航戦の野中のおっさん、か」
長谷川はぽつりと言うと再び目の前の空へと目を向けた。南方からの撤退の後に集結した豊橋で道を違えた一式陸攻のスペシャリスト、野中五郎という男の人となりを十分に理解している長谷川だからこそ彼が採ろうとする選択が確信できる。彼は率先してその馬鹿げた戦術の先頭に立ち自らの死をもって軍の上層部に向かって結論を叩きつけようとしているのだ、彼なりのやり方でこれ以上無駄な戦いを拡大させない為に。
「でももし大尉の挑戦が実を結べば少なくとも特攻以外の選択肢が増えますよね? 通常攻撃でも旧式の攻撃機でもまだ敵と十分に渡り合えると言う事さえ証明できれば」
「残念だが俺はそんなロマンチストじゃないよ、俺一人の我儘が通ったからと言って今更おっさんのやろうとしてる事、軍が向かおうとしている未来を変える事は出来ないだろう。だが」
飛田の言葉に長谷川は残念そうな笑顔で答えた。
「少なくとも友人のやろうとしている目的の手助けぐらいは出来る。…… 俺一人に出来る事はせいぜいそれくらいのもんだ」
* * *
「救難信号、出力最大」
格納甲板下に設置されたCIC(Combat Information Center;戦闘指揮所)の中でマクスクランが静かに命じると目の前に座った士官がパネルの隅に埋め込まれた赤いボタンを押しこんだ。烏の塒と呼ばれるジョージ・ワシントンの戦闘頭脳はその瞬間から全ての能力を敵殲滅の為に傾ける事となる、無指向で放たれた海洋法に基づく世界共通の救難信号はこの艦隊の正体を知っている者知らない者達に均等に届けられる事になる。
マクスクランが蛍光塗料で光る時計の針を見る、時間は午後六時。ちょうどいい、日没のタイミングにぴったりだ。
「セネカ・モホーク・カユーガに伝達、直ちに艦隊外周部に展開。コンディション・イエローを維持したまま敵機の接近に備えろ。各艦は対空要員も含めて午前四時までに交代で食事と休憩を済ませておけ、夜明けからまた長い一日が始まるぞ」
「 ” バブル(空母の発艦指揮所)からCIC、現在カタパルト上に哨戒機をセット。午前三時から哨戒任務に入ります。邀撃部隊は一小隊から四小隊までを予定 ” 」
「CIC了解」
「どうだ様子は? 」
背後からのハンマーの声に小さく肩を揺らしてマクスクランが振り返る、艦隊指揮官の登場に思わず身を固くしたオペレータに近づくとハンマーはぽんと肩を叩いて軽く握った。
「落ちつけ、この艦隊の対空防御は完璧だ。君達は普段通りの力を発揮してくれればそれでいい」
巨大なレーダースクリーンの向こうにある机の上にある海図を覗きこんでいる指揮所の士官がその言葉を聞いて苦笑いする。戦闘指揮所とは言っても現代の物とは違い、コンピューターがまだ発達していないここではもっぱら目と耳と紙と人の頭脳が主役となる。哨戒機や索敵半径を広げる為に艦隊外周部へと足を延ばすレーダーピケット艦、そして自分達のレーダーによって集められた情報をここで集約して敵機の規模や進路、そして対抗措置を検討する。刻々と変化する戦況に対して常に最良の手段を導き出すこの部屋の士官たちがこの艦隊の命運を握っていると言っても過言ではない。
「艦長と司令官の二人がここにいるんじゃ艦橋は今頃もぬけのからですね。明日に備えて今頃酒保じゃあ在庫売り尽くしセールの真っ最中でしょうから」
手にした計算尺をするすると左右に動かしながらまだ少壮の士官がにっこりと笑う、とてもそんな風には見えないのだが実は彼がこのCICの責任者だ。少尉の階級章を襟につけたその男はゆっくりと二人の前へと歩みを進めると天然パーマの金髪を指で掻きあげた。
「どうです、ここは自分に任せてお二方とも食事に行かれるって言うのは? 索敵範囲はもうすぐ最大、秒読み段階に入るまでにはまだ時間がありますから」
「君は今回の敵の攻撃をどう読む? カリート少尉」
ハンマーがカリートの勧めに従う素振りを見せながら、しかしその一方では彼を試す様に質問する。計算尺をきちんと畳んだ彼は笑顔を崩さずにハンマーの顔を見上げた。
「陸軍からの情報が正しければ敵は今沖縄に集結中の主力艦隊に対する対抗措置として特攻機を九州に集めている事でしょう。我が艦隊の現在位置から考えると東京方面 ―― 木更津や百里原の部隊が来るべきなのですが、今回に限っては恐らく鹿児島。敵は北北西から真っ直ぐこちらに向かって来るものと思われます」
「敵の戦力は? 」
「急ごしらえの神風部隊になりますから恐らく直掩の戦闘機と攻撃機はほぼ同数、全部で三十機という所ですか。機種は航続距離から考えて戦闘機はゼロ、攻撃機は爆装のオスカー(一式戦「隼」のコードネーム)」
「上出来だ」
自分の見立てと寸分変わらぬ予想を立てたカリートの肩をぽんと叩いて隣に立つマクスクランに目配せをしたハンマーはすっと踵を返してCICを後にする、艦底部を真っ直ぐに縦断する連絡通路を暫く歩いた彼は突然背後に続くマクスクランに言った。
「 ―― まるで機械だな、彼は」
自分と同じ事考えていながらその結論に微塵の疑問の持たないカリートの事をハンマーはそう評して表情を曇らせた。彼の心情を理解するマクスクランはそれでもカリートを守る立場にいる、おもむろに言った。
「そういう人間でなければこの任務を最後まで全うする事は出来ないでしょう。まるでボードゲームの様に戦場を動かして人を効率よく殺す手段と順番を選択する ―― でも貴方も彼と同じ事が出来る、艦隊全員の命を守る為に」
最後の言葉にドキリとしたハンマーが思わず立ち止まって後ろを振り返る、マクスクランは固い表情でじっとハンマーを見つめている。
「手段がどうであれ貴方と彼とは同じ結論に到る事が出来る …… 今はそれでいいじゃありませんか。私個人としてはこんな戦争早いとこ終わらせて故郷に帰りたいと思っている、その為に必要な物は何でも利用するつもりです。たとえそれが後世に汚点を残す物だったとしても」
その言葉にハンマーは返す言葉を持たなかった。ただ自分も同じだという意思を示す頷きを一つ返すと格納庫甲板へと通じる階段の手すりへと手をかけた。
* * *
その日の大刀洗はいつもの日常とは違って予期せぬ珍客で溢れかえっていた。昼過ぎに着陸許可を求める通信を傍受した管制塔はその直後に東の空から現れた攻撃機の群れに度肝を抜かして空襲警報まで鳴らすという失態を演じて見せ、対空銃座へと走り寄る兵士や邀撃に向かうべく戦闘機へと走りだす兵士を尻目に十一機の96式は悠然と基地上空を飛び過ぎると南側からの進入を選択し、管制官が事態を把握して息を整えるのも待たずに次々と着陸を始めた。海軍色である濃緑の翼に白く縁取られた日の丸を目にするまで、大刀洗の基地全体に蔓延したハチの巣をつついたような大騒ぎは続いていた。
「貴様ら海軍が一体どういう了見でこの大刀洗に現れたっ!? 」
いかにも陸軍の鉄の規律を顔面に張り付けた警備主任が軍刀の柄に手をかけながらつかつかと歩み寄る。十一機という大所帯でありながらまるで予め計算でもしてあったかのようにきちんと機首を並べて駐機した96式のハッチから一人の男が滑り出て、非難轟々を繰り返す警備士官の矢面に立ち塞がった。
「おお、すまんすまん。俺は美幌空の堰川大尉、この隊を隊長の長谷川に代わってここまで引率の任についていた。捷二号作戦の発動に先立ち、敵機動部隊への先制攻撃を敢行すべく軍令部小沢閣下の命令書を携えて大刀洗に着任した。もし君の都合が問題ないのであれば是非とも基地司令にお目通り願いたい」
がっはっはと一声大らかに笑うと面喰ったままの警備兵に歩み寄ってバンバンと肩を叩く、豪快を絵に描いた様な体躯と面構えに圧倒されたその兵士はまるで戦国時代の伝令の様に回れ右をすると、一目散に司令部のある建物目指して駆けていく。
「少し脅かし過ぎたんじゃないか」
大きさは堰川に及ばないものの中肉中背で引き締まった身体の男が背後から声をかけた。世紀の美男子と呼ばれた相楽総三もかくやと思わせるほど整った顔形のその男はゆっくりと堰川と肩を並べると、背後で一糸乱れぬ整列をした96式を振り返る。
「しかしさすがは腕利きぞろいだ、何の誘導も無くてもこれだけきちんと仕事が出来る。一式の連中じゃあこう言う真似は到底無理だろうな」
「まあそう言うな、一式もいい機体だと言う噂だぞ? 96式に比べて火は吹かないし速度も出る、おまけに操縦がし易い。 ―― ところで桑島、今度の目標、長谷川から聞いたか?」
堰川の問い掛けに桑島は腕を組み、操縦で凝り固まった身体を解す様に左右に捻った。
「ああ、死神艦隊だろ? 正規空母のエセックス級を中核とする小規模機動艦隊、だが味方の接敵率は彩雲の撮影以外ほぼゼロに近い。正体不明の無敵艦隊にあの男がどうやって挑むのか、俺としては至極楽しみではあるのだがな」
「ずいぶんと楽観的な。そんな相手に旧式の陸攻で立ち向かおうって言う方がどうかしてる」
まるで二人を非難する様に嗜めたのは背後から歩いてきた坊主頭の少年兵だった、いや見た目は少年兵なのだが金モールに桜の花一つは立派な少尉の襟章だ。彼は頭一つほど背丈の高い桑島の隣に立つと腰に手を当てて一つ大きな溜息を吐いた。
「大尉も桑島も今回の作戦を少し甘く考え過ぎです。何の情報もない敵と相対するんですから計画は微に入り細に入り綿密には綿密を重ねて検討すべきです、それを赤線の色街で女性を物色する様な気軽さで考えないでいただきたい」
「長谷川の批判にしちゃお粗末で忠告にしては曖昧だ、緊張しているのか鳳? 」
ふふんと笑いながら体一つ隔てた相手に対してからかう堰川に桑島が、眉を吊り上げて何かを言おうとした鳳に代わって口を開いた。
「鳳の言う事ももっともだ。確かに俺達は目標を教えられてはいるけれどそれに対する具体的な作戦や攻撃方法を知ってる訳じゃない、何事にもあけっぴろげな大尉にしちゃ隠し事が多すぎると俺も思う」
「奴らしからぬ行動もやり方も全ては ―― 」
堰川は肩越しに背後へと視線を送る、そこには彼らに遅れて続々と滑走路に降り立った乗組員が思い思いのやり方で九州の夕暮れを満喫していた。まだ二月だと言うのに空気は重く湿っぽい、自分達が根城にしていた美幌とは正反対の風を愉しむようにうっすらと笑い、しかし再び前を向いた時にはその笑顔の中に一抹の険しさを覗かせていた。
「 ―― あの連中の中にその理由がある、って事か」
「じゃあ俺達の中に憲兵のスパイがいるって事か? 」
大刀洗基地に隣接する料亭、経を貸し切った一行は作戦前の壮行会と称して日頃の憂さを徹底的に晴らすべく夜を徹さん勢いで酒を酌み交わし、思いつく限りの語彙でそれぞれの敵に向かってありったけの罵詈雑言を吼え立てた。湯水のように金を使って日本を蹂躙しようとする敵国アメリカと自分の保身の為に後方で身を潜めたまま下士官に死を強制する軍上層部、彼らにとってはそのどちらもが憎むべき敵で優劣をつける事が出来ない。強いて言うなら自分達が日本人であるが故に仕方なく軍に与しているのであって、もし許されるのならばこの作戦が成功した後に返す刀で軍令部の屋根を250kg爆弾で吹き飛ばしてやりたい。
監軍護法を主任務とする憲兵隊が聞きつけようものなら京都池田屋の大捕り物の様に一網打尽にされかねないそれらの放言もこの料亭内に置いては沙汰無しという暗黙の了解があった。既に特攻隊の訓練基地としての性格を持つ大刀洗では浮世の禊を行う為の唯一の場所がこの経という場所になっていたのだ。
宴も酣となった所で各機長の十二人は示し合わせて宴会場を抜けだして二階にある小さな和室へと集まった。遅れて到着した長谷川を車座に囲んで今回の作戦の詳細と情報を全員で共有しようと言う集まりだったのだが、長谷川が最初に放った前置きはそこに居合わせた機長の面々を驚かせるのには十分だった。堰川の問い掛けに長谷川は黙って頷き、自分の周りに座る全員を一通り見回した。
「俺達を独立した特攻部隊として小沢の親父が認めたのがいい証拠だ、本当だったら計画の性格上俺達は三航戦か五航戦に併合されて部隊名を拝命していた筈だ。だが親父はそうはしなかった」
「つまり今好き勝手出来るのもこの空廠が使えるのも、俺達を特攻隊として敵に向かわざるを得なくする自信があるって事か」
「何が目的で、どういう手段でそれをするかという事までは分からんがな」
深刻な表情で腕を組む堰川に対して長谷川は平然と、まるでその事まで織り込み済みだと頷いた。
「もしかしたらここに憲兵隊を呼んで僕達を拘束して、無理やりにでも特攻に行かせようって言うんじゃ ―― 」
「あほ、特攻はしないって言っても相当勝ち目の薄い敵に攻撃を仕掛けようってンだ、そんな事するだけ時間の無駄だって」
怯える鳳を桑島が宥めると途端に場の空気は緊張感を薄めた、確かに接敵率がほぼゼロの相手に旧式の攻撃機で立ち向かおうと言う無謀な連中をわざわざ引き止めてどうする? どうせならば空に上げてから色々と仕掛けた方が事は簡単だし確実だ。集まった面々が思い思いの考えを口にし始めた中である機長の一言が全員の耳を奪った。
「この中でマレー戦の時の乗組員が全員生き残ってるのは長谷川大尉の隊だけ、あとは全員その容疑をかけられてるって訳ですよね? でしたら一刻も早くその人物を割り出してこちらで拘束して置くと言うのは? 」
その言葉に全員が頷いて当事者となった長谷川へと視線を注ぐ、だが彼は穏やかに一笑してから全員の顔を一通り眺めた。
「まあそれも一案だが桑島の言う通り今はそんな事に費やす労力の方が俺には惜しい、それに俺の隊の人間だけが全員生き残っているからと言って潔白だとは限らない。俺だって人間だし彼らの身の回りの事まで全部知っている訳ではないからな、それにもしかしたら憲兵のスパイは俺だって事もあるかも知れんぞ? 」
不敵な笑いに凄みを利かせた長谷川の迫力に圧倒されたその男は不遜な冗談に思わず息を呑んだ。日頃はふわふわと柔和な表情で過ごしている彼がいざという時に見せるその表情は彼の本質を物語っている、百戦錬磨の兵しか持ち得ない気迫と雰囲気は彼と共に戦地を駆け巡った者だけが知る長谷川の真の素顔だった。
「ただそうは言っても用心するに越した事はない、もし誰か不審な動きや行動を取る者があったら俺か堰川にそれを教えてくれ。閉じ込めたり縛り上げたりする事は出来なくても説得したり追い返す事くらいは出来るからな」
時計の針が翌日の時を刻み始めても料亭での宴は続いている、だがその中からたった一人の兵士の姿だけが消えている事を長谷川の隊の乗組員以外は知らなかった。彼は壮行会が始まってすぐにそっとその場を抜け出して一人夜道を滑走路へと向かうと自分の機に乗り込み、静かに無線機のスイッチを入れてヘッドホンを耳に当てた。
大刀洗に着陸する寸前に傍受した大きな信号は今も一定のリズムでこの九州の内陸にまで届いている、彼は音の大きさとメーターの振れ幅を確かめるとすぐさま夜間照明を点灯して縦横無尽に線が引かれている日本近海の地図を広げた。無線機のつまみを注意深く廻して一番感度の高い場所で止めると今度は機体の屋根に設置してあるループアンテナを廻して方位を決める、やがて小さく頷いた彼は手にした定規で九州の北からその場所まで一気に直線を引き切った。
「どうだ様子は」
昇降ハッチから首だけ伸ばした長谷川が尋ねると曽我部は緊張した顔で小さく頷いた。機内へと身体を捻じ込んだ長谷川が歩み寄ると曽我部は線を引いたばかりの地図を長谷川の目の前へと進めた。
「間違いありません、死神艦隊からの欺瞞通信です。場所も今までと同じ鳥島の西南西三百キロ地点、今までに傍受した三回とほぼ一致します」
松島・木更津・豊橋、そして大刀洗 ―― 曽我部が最初に違和感を感じて長谷川がその解明の為に立ち寄った四か所の基地から真っ直ぐに延びた鉛筆の線は寸分の狂いもなくその一点で交差している、長谷川は夜間照明を当てた地図を覗きこんで鼻白んだ。
「律義な奴だ、まるで沈めて見ろと言わんばかりだな」
「大尉。その ―― 」
何かを口籠る曽我部に満面の凄みを引っ込めて目を向ける長谷川、まるで教師に向かって自分の非を告白する生徒の様な勢いで彼は意を決して言った。
「やはり鹿屋にはこの事を報告した方がいいのではないでしょうか。恐らく未明にはこの通信を傍受したあの基地から今までと同じ様に装備不十分な特攻隊が出立するに決まってます、みすみす敵の罠に嵌るのを僕達は何回見過ごさなければならないのでしょうか」
「俺達が連絡したところで彼らは止めんさ」
諦観と苦悩が入り混じった暗い表情で長谷川は手の中の地図を曽我部に手渡した。一瞬の沈黙は長谷川の深奥にある遣り切れなさを部下に教え、それを見た彼は必ず長谷川眞美という人物が持つ本当の姿を垣間見る。
「罠だと分かっていても ―― そこに敵がいると分かれば行かざるを得ない。生きて卑怯者の汚名を着るよりも死して靖国の玉砂利となる事を望み賜う、いかんともし難いがその為に彼らは自ら志願してそこにいる」
「しかしっ! 」
長谷川の言葉が間違っていない事は曽我部にもよく分かっている、だが手を拱いたまま何もせずに見送るだけの罪悪感に彼は耐え切れないでいた。自分が連絡する事で明日の朝には飛び立っていく仲間の何人かの命は救えるかもしれない、もしかしたら攻撃自体が見送られるかも知れない。その可能性に目を背けてまで自分は手にした証拠を握ったままじっとしていなくてはならないのか?
「耐えるんだ」
強い口調で言い放たれたその言葉に曽我部は一瞬身体を震わせ、そして聞き届けられなかった自分の思いに懺悔をするように首を垂れる。長谷川は手にした地図を手際よく丸めるとそっと小さな机の上に置き、その手をそのまま曽我部の肩に当てた。
「もし俺達の通信が敵に傍受されたら勝ちに繋がるたった一本の小さな可能性が閉ざされてしまうかもしれない、そうなってしまえば全ては無駄に ―― 新渡戸がやろうとしている事も、もしかしたら他に特攻以外に抗う手段を考えている奴らの希望も潰してしまう事になる。だから今は耐えるんだ」
「 ―― 勝てるのですか? 」
長谷川が不意に洩らしたその一言に曽我部は顔を上げた、微かな光の中に浮かびあがった長谷川の表情には確信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「もちろんだ、負けてどうする? その為にはお前の鍛え上げたその耳が必要なんだ、だから我慢しろ。明日死んでいく奴らと今まで落された連中の分もまとめて仇を取る為にな」
* * *
突然の出撃命令にもかかわらず総勢三十機余の航空団は見事な編隊を保っていた。払暁を迎えんとする空は未だに灰暗く眼下の海原は波頭一つ目立たないほど凪いでいる、だがこれは返って好都合だと護衛の指揮につく島田は思う。翼端灯に火を入れた彼はそのまま二度機体をバンクさせるとすぐさま高度を落として海面との距離を近づけると、彼の後を追うように十個の大きな影は低空飛行へと移行した。
「さすがに歴戦ぞろいだ、夜間の低空飛行をこうもそつなくこなしてくれるとは。ひよっ子連中ではこうはいかない」
肩を並べて両翼に並ぶ戦闘機のシルエットを眺めながら島田は感心して呟いた。本来ならば攻撃第501飛行隊の陸上爆撃機「銀河」の到着を待って組織的な特攻計画を立案する予定が敵機動艦隊からの物と思われる救難信号を突然に傍受した鹿屋基地は大騒ぎとなり、好戦論と慎重論が飛び交う中鹿屋基地で直掩任務に就く為に赴任した陸海の操縦士たちは自ら特攻を志願し、爆装に有利な隼が今回の特攻機として選ばれた。直掩の零戦はともかくいきなり爆装へと換装させられた隼は部隊表示もまちまちでお互いの氏素性すら分からなかったのだが、日本という国を背負ってここまで戦って来たという自負は陸軍パイロットの団結を生み、別れの盃もそこそこに死地を目指すと言う暴挙を彼らは微塵も躊躇わなかった。
貴様らだけに役目を押し付けて申し訳ない、と頭を下げる島田に編隊長を名乗る陸軍の飛行士は日に焼けた顔を綻ばせながらそんな事は気にしなくていい、それよりも必ず俺達を敵の所まで無事に届けてくれ、そうしてくれる事が何よりの恩返しだと彼を励ました。銀色の胴体に大きく描かれた赤い稲妻の文様と白い二本のストライプから彼は陸軍第59戦隊の中隊長だと言う事が分かる、そしてその機体は自分の右翼側で先頭に立って編隊を巧みにまとめ上げていた。それだけの器量がありながら今まさに死なんとする古参兵の心境とはいかばかりかと島田が彼の機へと目を凝らすとコックピットの中で小さな火がついて風防が少し開く、この状況下でタバコをくゆらせる余裕があるとは、と島田はその陸軍のパイロットの豪胆さに思わず苦笑いした。
前方を飛ぶ三機の先導機の翼端が微かに赤みを帯び始める、ふと左へと目をやると遥か彼方の水平線が僅かに明るさを増している。いよいよ敵の警戒線の内側に突入する事を悟った島田は翼を振って各機に周辺警戒を厳にせよと意思を伝えた。
「こちらレッドリーダー、哨戒機から報告のあった敵の編隊を発見。北北西の方角から真っ直ぐにそちらへと向かっている」
編隊長であるウォルター “ブッチ” メリル中尉は機体をロールさせたままはるか下方でしずしずと飛び続ける日本機の編隊を見つめている。日本軍よりも遥かに優れた軍用無線機は何の雑音も不都合もなく、CICからの質問を彼の耳へと届けた。
「 ” こちらファランクス1、予定通りだ。数と機種を確認してくれ ” 」
「暗くて分かりにくいが機数は約30、全部戦闘機だ。綺麗なV字隊形が二列、護衛は恐らく前列の方だろう」
「 ” 了解。ファランクス1からレッドリーダー、先ず数を半分にまで減らしてくれ。終わったらいつものように周辺空域を警戒、二次攻撃の可能性に対処 ” 」
「了解」
照明で浮かび上がった計器の赤ランプが消える、随分と簡単に言ってくれるものだとメリルが溜息を吐いた時、再び無線が繋がった事を知らせる緑のランプが点滅した。
「 ” ブルーリーダーからレッドリーダー。大丈夫ですよ隊長、爆装した戦闘機なんて羽を怪我した鳥みたいなもんです。いつも通りにさっさと片付けちまいましょう ” 」
「 ” そうそう。しかし俺としてはもうちょっと骨のあるJAPとやってみたいもんだがな。せめてこちらの機体に一つ二つ穴を開けるだけの気概を見せてくれないとこちらとしても張り合いがない ” 」
「 ” ―― 貴様らの油断を相手が黙って見過ごしてくれればいいがな ” 」
メリルの心配をよそに軽口をたたく隊員に向かって野太い声が紛れ込んだ。編隊長の背後にぴたりとついて後方を警戒するレッド3は敵への侮蔑を繰り返す仲間に対して明らかな警鐘を鳴らした。
「 ” 爆装した戦闘機と護衛の戦闘機が一糸乱れぬ編隊飛行を続けている、これは敵のパイロットの技量が今までに出会ったカミカゼよりも優れている事を示している。それに爆装した機体の運動性能を馬鹿にしている様だがもし仮にカミカゼ用の機体がファランクス1の言う通り「オスカー」だとしたら話は変わってくる。その機体は俺の記憶が正しければただの戦闘機じゃない、うちのP-47サンダーボルトと同じ戦闘爆撃機だ」
ヨーロッパ戦線から常に最前線を飛び続けてきたレッド3は今回の攻撃隊が古参の集まりである事を既に看破していた。もし敵がカミカゼを諦めて爆弾を棄てた途端に優位は逆転する、たった12機のベアキャットで倍以上の敵を相手にしなければならないのだ。そしてその技量差は歴然、全滅する事はないにしてもそれ相応の被害を覚悟しなくてはならない。そしてそうなれば ―― 。
「レッド3の言う通りだ、今回の敵は今までとは違う。気を引き締めないと喰われるのはこちらだしカミカゼを一機でも成功させてしまったらこちらの負けだ。必要以上に気負う事はないが心してかかる様に。撃墜された時には機体の自爆装置を作動させて脱出してから味方が救助に来るのを海上で祈れ。サメの餌になった所で俺達の墓はもう ―― 」
メリルは額にかけていたゴーグル目の位置にまで下ろし、半開の位置に置かれたままのスロットルレバーにそっと手をかけ握り締めた。
「 ―― アーリントンに建ってるんだからな」
薄れかけた夜空に浮かぶ星と手にした海図を交互に見つめながら先導を務める高梨二飛曹は不意にどこからか聞こえ始めた小さな羽音に耳を澄ませた。それはまるで海の底から湧きだす様に次第に耳を侵食し始め、その正体が戦闘機のエンジン音だと気が付いた時には全てが遅かった。操縦桿を捻るよりも早く頭上から降り注いだイスパノ・スイザの二十ミリは彼の身体を機体ごと微塵に粉砕した。
曳航弾の雨と叩き潰される僚機、黎明の空に上がった火の手はあっという間に海面へと降り注ぐ。頭の天辺から足の先まで痺れるような電流が走り、口の中が痛むほど酸っぱい味で満たされる。一瞬で悟る絶望と湧き上がる反骨の闘志、島田が暗い空から舞い降りる死天使の気配を嗅ぎ取りながらあらん限りの大声で吼えた。
「敵機直上っ! 叩き落とせッ! 特攻隊には指一本触れさせるなっ! 」