木更津の空
昭和十一年の発足以来、日本軍の陸上攻撃機の本拠地として名を馳せた木更津基地も今となっては閑散たるありさまだ。持てるだけの兵力を全て南方へと注ぎ込む為にただ一つ残っていた七〇七空をラバウルへと送った時点でこの基地の役割は終わった筈だった。茫漠と広がる滑走路と点在する地上施設だけが在りし日の繁栄を物語る廃基地は、しかしてその役割を新たな局面に直面する為の切り札として再び脈動を始めていた。
本土防衛の要として最終防空圏の外縁部に位置するこの基地は海軍航空隊の司令基地として再起動を始めている、時は昭和二十年二月。既に戦争の大勢が決したと思われる寒い朝からこの物語は始まる。
「貴様ッ! もう一度言ってみろっ! 」
痺れる様な寒さと朝もやの気配を吹き飛ばす様な怒号が会議室の空気を一変させる、礼服を一片の隙もなく見事に着こなした壮年の男は茹であがったタコの様に真っ赤な顔をして座っていた椅子を跳ね飛ばした。激昂する男の姿へと目をやる他の男達はさほど驚く事もなくその成り行きを見守っている、どうやらどっちの意見が理にかなっているのか見守ってやろうと言うのが本音なのだろう、とこの騒ぎを引き起こした当事者の隣に座る長谷川は思った。
「何度でも進言いたします。あなた方が仰っている事は最早戦術・戦略の域を通り越して祈祷や念仏に通ずる物です。これを発案した者が諸葛や馬謖ならばともかく何の戦果も上げられた事の無い有象無象の戯言に、私の隊をつきあわせる気はありません」
「 ―― おい」
長谷川は思わず隣の男の身体を肘で小突いた。いくらなんでもそりゃ言い過ぎだ、とあえて目で諭そうとする長谷川の意図を全く無視して、彼は毅然とした態度で尚も遥か対岸のテーブルに陣取っている首脳部の面々を睨みつけていた。
前年の十月二十一日より始まった航空機による敵艦船への体当たり攻撃 ―― 通称神風攻撃は当初はそれなりの戦果を上げてアメリカ側に大きく傾いた戦局を打開する為の切り札として期待された、だが全ての面において日本軍の上をゆくアメリカ軍はすぐさま対応に乗り出した。
アメリカ海軍内に設置されたオペレーションズ・リサーチは兵士の証言と損害結果から神風攻撃の弱点を分析し、攻撃時における艦隊機動の再考察とレーダーピケット艦の増強、そして対空射撃管制レーダーとVT信管の採用によって損害を約半分にまで抑えた。捜索範囲が拡大した事によってよりアウトレンジから敵機の飛来を察知でき、弾頭部に仕込まれたレーダーによって自動発火する対空砲弾は日本軍機の接敵をより困難な物へとし、戦争末期にはその攻撃成功率をひとケタ台にまで減少させている。
既に物資も底をつき、熟練兵をも神風によって喪失した日本軍に選択できる戦術は僅かだ。敵に勝つ為の戦略を見出せなくなった彼らは残り少ない戦術を駆使する事によって新たな戦略を見出す事を決定した。現存する航空機全てを特攻機として前線へと送り込みアメリカ軍に恐怖と嫌戦気分を蔓延させ、士気の下がった本土上陸(オリンピック作戦と呼ばれた九州上陸作戦から始まる日本本土焦土化計画)部隊に対して水際で一気に特攻攻撃による反転攻勢に出て一か八かの停戦へと持ちこもうと言うのが軍首脳部の考えだった。
航空兵を訓練する為に製造された練習機『白菊』は太平洋戦争前に採用された機体である。昭和十七年に初フライトを行って以来日本の航空兵の訓練をほぼ一手に担って来たと言ってもいい優秀な機体で、大戦後期に活躍した日本軍パイロットは必ずと言っていいほどこの機体のお世話になっている。当時としては珍しい中翼単葉機で安定性と汎用に優れ、訓練用の他に地方基地への連絡用として日本の空を常に闊歩し続けた。
だが練習機と言うからには固定武装など存在せず、燃料搭載量も480リットルと紫電改の落下増槽ほどしかない。もともと国内でしか使用を想定されていないのだから、いざとなったらどこでも着陸できるだろうと言う極めて合理的な考えによって作られた機体だった。
昭和二十年二月四日に軍令部総長官邸で行われた研究会において、来る沖縄戦に備えて実施される作戦要項が検討された。既に日本軍の航空兵力は特攻による減少の一途を辿り、新たに補充するだけの物資も人員も致命的に枯渇している軍はここで練習機を使った特攻作戦を思い付く。国内に残された手つかずの練習機に250キロ爆弾二発と追加燃料を搭載し(練習機だから機内スペースには随分と余裕があった)、その機体で訓練を続けている練習生をそのまま特攻に使用しようと言う物だ。
もちろん機体重量の増加により最高速度は約100ノット(約時速180キロ、ちなみにドクターヘリで使用されている機体は大体時速250キロ)しか出ず、武装が積めない事もあって攻撃計画はほぼ夜戦と言う事になる。常識的に考えて制空権を奪われている沖縄までの空を何千キロも、それも何の目標物もない大海原を訓練間もない練習生が目標に辿りつく事が出来るかどうかなどほんの少し知恵を巡らせれば分かりそうな物なのだが、当時の日本の戦局はそれを許さないほどひっ迫していた。神国としての在り方と皇国の誇りは軍令部の幹部から一切の悲観論を排除し、目的に対する手段の是非ですら思考停止に近い状態で黙殺せざるを得なかった。
「爆装した白菊で特攻を行うなどと言う発想がもう既に負けているとお考えにはならないのですか? あたら若い兵を死地に追いやり揚句に無駄死にさせたとあっては社稷を祀り日の本を統べる陛下に何と申し訳を立てるおつもりですか。武器や兵器だけが陛下から賜った物ではない、我ら日本国民とて陛下の御元で共に国威を盛り立てる為の授かり物だと言う事をお忘れですか」
「なんと自らの横車に恐れ多くも陛下の御尊名を使うとはっ! この痴れ者が、貴様は己が恥を知らんのか!? 」
顔面を緋に染めたまま荒れ狂うその男は勢い余って歪んだ帽子をそっとテーブルの上に置くと、さっきにも増した勢いで長谷川の隣に座る士官に吼え立てた。
「わが日本軍の必死尽忠を覚悟した兵が全軍を持って満天を覆う時、何人がこれを押し留める事が出来ようか! 貴様も士官であるならば皇国の威光を以って戦いに勝利を得る事の誉れを身をもって知りたいと思うのが常道であろうがっ! 」
「その様な絵空事を後方の机の前で悪戯に喚く参謀長殿こそが、彼らの前線に立ち事実に目を向けるべきではありませんか? 」
日本海軍第三航空艦隊参謀長、山住中五郎は彼の指摘を受けて思わず軍刀の柄に手をかけた。わなわなと震える右手が鯉口を切って、しかし滑らかに刃を抜き切る事に腐心を重ねる彼の苦悶を見かねた隣の男はその様を横目で見ながら重い口を開いた。
「やめろ山住、ここは会議の場だ。刃傷沙汰なら外でやれ ―― ところで新渡戸、貴様もそこまでの暴言を吐くならば相応の反論があっての事なんだろうな」
口元を肘を立てた両手で隠しながらテーブルの中央に静かに座る三航艦司令、寺田潤平海軍少将は鋭い視線を投げかけた。日本海軍最大の戦力を誇った第一航空艦隊の元司令長官であり、南方での悲劇を目の当たりにして来た彼にとって新渡戸の進言は分かっていても受け入れ難い事実だったのだろう。彼らの死に報いる為にもこの一戦に乾坤一擲の精神で挑みたいと言うのが寺田のみならず、日本軍の総意として成り立っているのだ。
―― 死んだ者に忠義を立ててどうする ――
長谷川は自分の真向かいに位置する寺田を冷めた目で眺めていた。高利貸しの利息の様に膨れ上がる負債を払う為に小出しを続ける戦術はもはや戦術とは呼べない、ただの延命だ。そのつけを払う為に特攻を命じられて命を散らす若い兵士たちの心境を思うといたたまれない気持ちになる。
「前線へと向かう兵士達の覚悟をお疑いになられているのでしたらそれは違います。督戦隊の如き所業を特攻に求めなくても彼らはお国の為に十二分に働く所存である事でしょう、だがこの作戦は間違ってる」
きっぱりと言い切った新渡戸は両手をテーブルの下から持ち上げて、前のめりになりそうな自分の上半身を支える様に上へと投げ出して拳を握った。
「自分は開戦当初より水偵の搭乗員として南方空域を転戦して参りました。そしてここにお集まりになられている諸兄方もご存じのとおり、私は夜戦空襲の専門家であります。夜の闇を突いて遥か彼方に浮かんでいる艦船を見つける事など滄海の一粟を見つけるにも等しい奇跡、しかも彼らは圧倒的な戦力をもって制空権を維持し、水平線の彼方まで見通す高性能の電探を使ってこちらがのろのろと近づいてくるのを今や遅しと待ち構えております。そんな所へ人馬ともに産毛も取れない赤子の集団を送り込んだ所で餓狼の群れに生肉を投げ与える様な物だと申し上げているのです」
「そうならない為にも貴官ら他の部隊が同伴して彼らを導いてやるべきではないのか? それにこの『菊水作戦』はまさに国家存亡を賭けた天王山だ、直掩機も多数動員される。彼らの損害を最小限にして靖国までの道筋をつけてやるのが我らの仕事だと思うのだが」
「100ノットしか出ない特攻機をどうやって掩護できますか。直掩と言っても彼らと共に行動出来るのは恐らく零戦のみ、それも時間差出撃かバリカン飛行(速度を合わせる為に速い機体が蛇行進行する)を繰り返しながらの掩護となります。そんな中で敵に高位を取られて先制されれば一たまりもありません、どんな腕利きがそこに混じっていたとしても」
まるで見て来たかのように滔々と話す新渡戸に全員の目が集中した。確かに彼の意見に間違っている所は一つもない、歴戦の戦闘機乗りだけが分かる戦況分析に一同は返す言葉も見当たらない。
「自分や隣に座る長谷川大尉はあくまで現場の指揮官です」
おい、と思わず新渡戸の方を振り向く長谷川。自分は別件で木更津に来たのにひょんな事から堅苦しい会議に巻き込まれ、あまつさえ大本営の決定事項に叛旗を翻す逆賊の一員として紹介されたのではたまった物ではない。本来ならば入室さえ許されないこの会議場へと引き摺りこんだのは紛れもなく隣に座る新渡戸本人だ、口元を歪めて抗議の意思を露わにした長谷川は眉根を寄せて彼の暴挙をけん制した。
「ですが我々は部下に対して死に場所にふさわしい戦果をあげる環境を用意する義務があります。練習機で特攻をかけて十重二十重に待ち受けるグラマンの群れに蹂躙されるのをよしとする、そんな厚顔無恥な度胸は持ち合わせておりません」
遂に『我々』ときやがったか、と長谷川は小さく溜息をついて彼の反乱に異を唱える事を諦めた。昔から変わっちゃいない、こうと決めた事は意地でも曲げようとしない。優秀な指揮官だとは思うが彼が出世の出来ない理由は誰に聞いても間違いなくそれだと答えるだろう。
「きっ、貴様もう勘弁ならんっ! 黙って聞いておれば軍令部に対する方言三昧、ここに私が身をもって貴様の軍規を糺して見せようぞ! そも第一線にて勅諭を拝命するに留まる貴様の様な少壮士官如きが我らに対して諫言する等とはもっての外、己が非礼を命を持って謝罪せよっ! 」
今までおとなしく座っていた山住が先ほどにも増した勢いでスックと立ち上がるや否や腰の軍刀を目にも止まらぬ速さで抜き放った。ギラリと光る刀身に負けないほど怒りに滾る瞳を燃え上がらせて彼は会議室の外縁へと足を踏み出す、さすがに彼の本気を悟った他の航空戦隊の指揮官は弾かれた様に席を立ってその阻止へと向かった。軍法会議を経ずに行われる処罰はただの私闘と判断されて、行った側も受けた側も相応の処罰と名誉の剥奪が待っているのだ。そんな暴挙を目の当たりにして黙って手を拱いているほど彼らは達観した人種ではなかった。
「は、離せっ貴様ら離さんかっ! 邪魔をするならば我が一死をもって貴様らも誅する事になるぞっ!? 」
事の成り行きを追いかけていた長谷川は山住の乱心を見て思わず立ち上がり、新渡戸の前へと身体を差し込もうとした。同い年の友人ではあるが階級は新渡戸の方が一つ上、上官の為にその身体を楯とする癖は軍によって植えつけられた後天的な習性と言っても過言ではない。だが長谷川が足を踏み出そうとする前に新渡戸はさっと手を広げて、彼の自発的な防御行為を遮った。
「新渡戸、お前 ―― 」
長谷川のとったとっさの行動に感謝をするように小さな笑みを浮かべて頷いた新渡戸は再び厳しい表情を取り戻したかと思うと、胸を張って大音声で山住に向かって言い放った。
「よろしい。参謀長がそこまで自分の意見に対して異を唱える、そして命を賭する事も辞さないとおっしゃるのであれば受けて立ちましょう。ただしこの話は軍令部の方針と自分の主張とどちらが正しいのかを決する重要な相対、そして私は水偵とは言え零戦乗りの端くれです」
口上を聞いた第三四三海軍航空隊司令の水原実海軍大佐は目の前で光を放つ軍刀の刃に気を取られつつも、新渡戸がこれから提案しようとする相対の方法を予見していた。彼は太平洋戦争が開戦して以来常に第一線で戦い続けた生粋の戦闘機乗りである、その彼をして夜戦については一目置く新渡戸が提案する対決方法を分からぬ筈がない。
「バカヤロ、そんなのガンテツ(岩村徹三海軍中尉、『零戦虎徹』と謳われた海軍最強の撃墜王)が聞いたってやる訳ゃねえ」
頭を下げて周囲に聞こえない様にそう呟く水原の耳に再び届く新渡戸の声、そして彼の予想は完全に当たっていた。
「ここで練習機による特攻に賛同の意を示す方々はすぐにでも乗りこんでどこかの標的を攻撃してみなさい。自分は三十二(零戦三十二型、航続距離が短い)でも二十一(零戦二十一型、型が古い)でもいい、たった一機の零戦であなた方を迎え討ち全機残らず撃ち落としてご覧に入れます」
紛糾した会議は十分な審議もなく物別れに終わった。結論から言うとこの会議の開催された意味は審議を主体に開催された物ではなく、軍令部で決められた方針を確認・念を押すという意味合いで行われた物だった。事実この後白菊は特攻機に改造されて昭和二十年五月二十四日から六月二十五日にかけて130機が出撃し、全機未帰還という記録が残されている。
会議の後に一人司令官室へと呼び出された新渡戸は十数分の監禁の後に解放された。苦い表情で廊下へと歩を進めた彼は勢いよく踵を返すと直立不動で部屋の扉へと敬礼を返し、そのまま憤然とした態度を隠そうともせずにその場を後にした。少し離れた場所で彼の釈放を待っていた長谷川は彼のとったその態度を見てクスクスと笑いながら声をかけた。
「公の会議の場であんな事したらそりゃこってり絞られるのは分かってただろう、全くひやひやしたぜ。まさかほんとに死ぬ気だったのか? 」
「当たり前だ。そうでなきゃあんな事が言えるものか」
ふん、と鼻を鳴らして新渡戸の無謀を笑う長谷川は彼の隣で歩調を合わせた。大股で歩くとあっという間に端まで辿り着いてしまう兵舎の廊下は朝日が差し込んでことのほか美しい、再び帝都の防空の要として機能を始めた木更津基地は隅々に至るまで整備が整いつつある。
「そういや俺の方はまだ時間があるな。新渡戸、お前は? 」
「俺はこの後は藤枝(静岡県藤枝飛行場、現航空自衛隊静浜基地)に帰るだけだ。飛行隊としての編成も許可が下りたし戦力も整った、あとは独立夜戦部隊として作戦行動を認めて貰うだけだったのに …… くそっ! 」
まるで目の前の敵に向かって毒づく様な勢いの新渡戸に長谷川はポンポンと肩を叩いて心から労をねぎらった。彼の口上の後に退場した山住は別室で待機を命じられ、新渡戸は自らの部隊の主張を三航艦司令部の面々に向かって切々と訴えた。自分達が創り上げた一三一航空隊分遣航空隊は夜戦に特化した飛行隊であり、通常攻撃によって特攻よりも遥かに確実で多大な戦果を齎す事が出来る。この部隊を特攻に注ぎ込む事は軍にとっても大きな損失であり、また失われた熟練兵と同じスキルを持つ航空兵を再び育てる事はこの戦争が終了するまでには不可能である、と。
「ふうん。で、司令の反応は? 」
「 ―― ああ、もうっ! 思い出しただけで腹が立つ! 長谷川、ちょっと俺に付き合え。喫茶でコーヒーでも奢るから」
ノリタケの薄い白磁になみなみと注がれたコーヒーを見て長谷川は目を丸くした。南方戦線はとうの昔に敵の支配下にあり、既にこの様な物資を内地へと送り込むルートなど途絶したものだとばかり思っていた。部屋の寒さに湯気を立てて迎え入れるその一杯の奇跡を暫くの間見つめていた長谷川は、隣でクスクスと笑っている友人の声で我に返った。
「海商ルートは最後まで残っていたからな。とりあえずこういう嗜好品は引き揚げの為に使った赤十字の船の船倉に紛れこませて内地へと持ち込んだって訳さ、まあ陸軍の連中が見たらサンパチ(三八式歩兵銃、日本軍の正規小銃)に銃剣ブッ差して襲いかかってくるんじゃないか? 」
「そりゃ笑えない。その荷物のスペースがあるんなら兵士の一人も余分に敵地から引き上げる事が出来たかも知れないのにな」
「だが残念ながら陸軍は我が海軍よりも刹那的でかつ悲観的だ、奴らに戦争を任せてたら一億総玉砕などと馬鹿げた事を本気で実施しかねん。事実そのコーヒーを運んで来たスマトラからの船には陸軍の兵士など一人も乗ってなかったって話だ」
その先の話は長谷川には容易に想像がつく、噂話でしかないが陸軍はスマトラに展開していた全ての兵力を援蒋ルート(中華民国を支援する為に連合国側によって作られた輸送ルート)を遮断する為に注ぎ込み多大な犠牲を払ったと言う話だ。暗に新渡戸が非難するその行為は後世に最も愚劣な作戦として悪名を残した『インパール作戦』である。
「兵站を無視して精神論だけで戦争をする、それがどれだけ無謀な事か考えもせずに。それと同じ事を上の連中がしようとしてるから俺は本気で頭に来たんだ、人の命を何だと思ってるんだ全く」
憤慨する新渡戸を見やりながら長谷川は薄手の縁に口をつけて熱いコーヒーを一口啜った。美味い、焙煎の度合いも抽出する温度も全てが揃ってなければここまで香り高いコーヒーを入れる事は出来ない。今更ながら贅沢が日常化している海軍の伝統を有難いと思う。
「 ―― で、どうだったんだ? もう落ち着いたみたいだから話せるだろ? 」
まるで愛おしむようにそっとカップをソーサーへと置いた長谷川は、ゆったりと背中を椅子の背もたれに預けて腹の前で手を組んだ。二人の態度は傍から見ればその立場がまるで逆にさえ思えるほどだ。促された新渡戸はほんの少しの躊躇を見せたが、やがて意を決した様に司令との話の内容を打ち明けた。
「俺の主張を否定する気は全くないし、自分は兵士の為にそうあってくれればと心から願っている。だが君の部隊が特攻よりも多大な戦果をおさめる事が出来るかという可能性に関しては懐疑的と言わざるを得ない ―― 要は信用できないって事だよ」
仏頂面で吐き捨てながらコーヒーを啜る新渡戸の顔に長谷川の様な笑顔はない、彼は口を離すとカップの温かさを掌へと移し込むように両手でそれを包み込んだ。
「この戦争にはもう勝ち目はない、だがそれでも何とか勝ちを拾いに行くのが戦の真骨頂だ。思考停止で闇雲に貴重な人材を投げ捨てた所でそれにどんな意味があるってンだ、死ぬまで戦うのが戦闘機乗りであって死ぬ為に戦うのはただの自殺志願者だ。そんなのは他の誰かに任せておけばいい」
「確かに司令にはそう言われたが、お前は自分の部下や部隊がそれだけの戦果をあげると信じてるんだろ? 」
「当たり前だ、その為に俺は今の今まで奴らを育て上げてきたんだからな。それに配備した機種も完璧だ、完全整備のアツタ32を搭載した彗星(彗星十二型艦上爆撃機)ならば速度・航続距離・搭載量でアメリカの最新鋭機にも引けを取らん。これだけの材料を揃えたってのにどうしてあの唐変木は俺の部隊を試してみようとも思わないんだ? 」
カップを元の場所に預けたかと思うと頭を抱えて思い悩む新渡戸を見て長谷川は彼の努力を振り返らずにはいられなかった。
彗星艦上爆撃機は太平洋戦争中期に配備された日本海軍の複座式艦上爆撃機である。1930年に開催されたロンドン海軍軍縮条約によって著しく保有艦船数を制限された日本はその不利を打開する為に、敵航空母艦に対する先制攻撃を主任務とする機体の開発が進められていた。敵の手の届かない遠方からの攻撃 ―― アウトレンジ戦法と敵艦載機の追撃を振り切るだけの速度を有した試作機は追浜にある海軍航空技術廠が担当し昭和二十二年に偵察型が、そして翌年の二十三年には待望の爆撃型が量産を開始する。新機軸をふんだんに盛り込んだこの機体は老朽化が激しかった九九式艦上爆撃機に代わる新たな戦力として今後の活躍を期待された。
高性能を求められたが故に空力にまで精査が為された彗星はその性能を生かす為に日本初の水冷エンジン・アツタ発動機を採用した。これは当時同盟国であったドイツのダイムラー・ベンツエンジンのライセンス生産を名古屋の愛知航空機(現愛知機械工業株式会社)が買い取り生産を始めていた物で、空冷エンジンが冷却の為にプロペラの後部を大きく開口しなければならないのに対してラジエタ―を冷却する為の空気取り入れ口をどこかに設ければエンジンを冷やす事ができ、その為機体の全面投影面積を小さくできると言う利点があった。求められた要求を実現する為にはまさにうってつけと開発者達は諸手を挙げて歓迎し一も二もなく本採用へと至った訳だがここに大きな落とし穴があった。
確かにこの元となったダイムラー・ベンツのエンジンは高性能ではあったのだが構造が非常に高度かつ複雑で、物資や工作機械の乏しい日本では設計図通りの再現が困難だったのだ。結果大量生産を行う為には設計の改編と部品精度の見直しが不可欠となり、「パッキンから油が滲んでも欠陥品」と比喩されたドイツ謹製の工業工芸品は見るも無残な不良品へと姿を変えた。頻発するエンジントラブルと質の低下は前線の兵士や整備兵から不平不満の嵐を巻き起こし、加えてなじみの無い液冷エンジンの整備不良によって発生する事故は予想外の損害となって海軍令部を悩ませ続ける。
戦況の悪化に伴い生産力の強化が必須となった海軍は遂に彗星へのアツタ発動機搭載を見限り、昭和十八年十二月から空冷エンジンを搭載した彗星三十三型の開発に踏み切る。これにより海軍の第一線で活躍する彗星は三十三型へと順次移行され、生産のおぼつかない二十一型は徐々に第一線からの撤退を余儀なくされていた。
藤枝飛行場で消耗した部隊の再編を行っていた新渡戸はこの機体に目をつけた。零戦と共に生産中止で数が揃わない夜間戦闘機『月光』の要求を諦めた彼はすぐさま日本国内の海軍基地をくまなく訪れて、それぞれの倉庫の奥深くで燻っていた二十一型を全て引き取る算段を整える。かの有名な『ラバウル航空隊』消滅後から装備払底に至るまで南方の水上威力偵察任務を生業として来た彼は整備に劣悪な環境下において様々な工夫を凝らしながら部隊の稼働機体数を最大限に保ち続けた実績がある、その経験から彗星の稼働率が低いのは液冷エンジンに習熟した整備兵がほとんどいない事、そしてそれを育てるだけの環境が十分に整っていない事を看破した。
新渡戸は直ちに部隊の整備責任者である徳倉大尉と数名の熟練整備兵を製造元の愛知航空機へと派遣して彗星に関するありとあらゆる知識を徹底的に吸収させ、彼らを教官とする整備体系を新たに隊内に発足させる。これにより彼の隊での実戦機稼働率は彗星80%、直援の為に配備した零戦五十二型90%という大戦末期では考えられないほど高い水準を維持する事に成功した。
特攻とは究極の消耗戦である。しかしそれに異を唱えて「まだ戦う術は残されている」と進言を繰り返す新渡戸の事を長谷川は心から認めていた。だれも見向きもしなくなった戦力をかき集めて再編成し、戦力化に必要な要素を自ら考案し実行に移して成果を得る。一介の飛行長にしておくには惜しいくらいの戦略・戦術に長けたその啓眼は一軍の参謀にも匹敵するのではないかと思うくらいだ。
「 ―― ところで、長谷川」
抱えていた頭を持ち上げてまじまじと長谷川の顔を覗きこむ新渡戸の顔にはありありと疑問の色が浮かんでいた。やっとそこに気が付いたか、相変わらず自分以外の事にはなかなか気が回らないその性格は健在か、と彼は薄笑いを浮かべてコーヒーへと手を伸ばした。
「お前、なんで木更津にいるんだ? 」
「軍令部で小沢の親父(小沢治三郎海軍中将、軍令部次長兼海軍大学校長)に会って来た。顔を見るのはマレー以来だったがすっかり老けこんじまってたなあ。…… ま、あれから色々あって今の戦況じゃあ無理もない」
「軍令部次長って特攻の推進派だろ? まさかお前 ―― 」
険しい面持ちで睨みつけて来る新渡戸には目もくれず、長谷川は残りのコーヒーを一気に飲み干すと腕時計をちらりと覗きこんだ。
「もう特攻は各航空部隊の自主的な活動と言う範疇を外れている、これからは総体たる軍令部が主導権を握って発令していく事になる。陸海軍全ての戦力があの馬鹿げた戦術に注ぎ込まれるようになるらしい、だから仮にお前の意見が正しいと寺田中将が判断したとしてもその上奏が軍令部によって反故にされる事は確実だ」
「 …… 何、だって? 」
憲兵に案内された特別室で小沢から受けた前口上をそのまま伝えた長谷川は失望の色が濃くなる新渡戸の表情へと視線を送った。焦点も定まらなくなった彼の目をじっと見定めた長谷川はその目をさまさせる様にカップをわざと大きな音を立てて皿の上へと置いた。
「 ―― そろそろ時間だな」
そう言うと音もなくすっと立ち上がって背凭れに掛けてあった外套を手に取る長谷川、呆然とその姿を見上げる失意の指揮官に向かって彼は温和な顔立ちを損なう事なく微笑んだ。
「藤枝までなら送ってくぜ」
滑走路までの長い廊下を歩いていく二人の間にもう会話はなかった。冷たく響く靴音だけが前を歩く長谷川と後に続く新渡戸との距離を埋めていく。
何度も声をかけようとして、しかしその度に新渡戸は肩で風を切る様に颯爽と歩く長谷川の背中に阻まれた。長谷川の海軍兵学校の同期にも特攻に出かけた仲間はもう何人もいる、彼らと最期の別れを交す度に心の中で何度も引き留め、しかし今の長谷川と同じ背中を見せながら去ってゆく彼らの姿を見て新渡戸はそれを口に出す事を躊躇った。軍人としての本分を全うする為に命を投げ出す覚悟を決めた彼らにその言葉がどれだけ非礼な物かという事を新渡戸は知っていたからだ。
だがこの男だけは違う。
ブーゲンビルの飛行場で初めて顔を合わせて以来、まるで旧知の仲であったかのように意気投合した二人はその後も莫逆の友としてお互いの無事を祈り続けた。戦況の悪化でたとえ連絡が取れなくなってもきっとどこかで生きて戦い続けているだろうと信じあっていた戦友だ、その男を自分が最も忌み嫌う特攻などと言う外道な戦術で失ってしまう事などどうしても我慢がならない。
「 ―― 長谷川っ」
足を止めた新渡戸が絞り出す様に彼の名を呼ぶ、長谷川は二三歩歩を進めた後に同じ様に足を止めてゆっくりと振り返った。
「特攻なんかやめろ。そんな事したって今更日本の負けは変わらない。お前が今何の機体に乗ってるのかは知らないがお前一人くらいなら俺の隊に匿える。彗星は爆撃機だが雷装(魚雷装備)も可能だ、お前の腕なら俺達と十分にやっていける」
「勝ちを拾いに行くんじゃなかったのか? 」
見透かした様にニヤリと笑う長谷川から新渡戸は目を逸らして足元を見つめた。
「もちろんそうだが、負けるにしても負け方と言う物があるだろう。出来る事がまだ残ってるのにそれを為さず、最も手っ取り早い方法を選んで無駄な死を積み上げる事が駄目だと言っている。特攻と言う戦法は兵士として全ての選択肢がなくなった時に初めて是非なく行使できる最後の戦術だ、お前の腕をそんな馬鹿げた事の為にむざむざと失う事なんて俺にはできん」
握った拳に力が籠る、込み上げる怒りに震える新渡戸に背を向けた長谷川は再び明かりの見え始めた出口を目指して歩き始めた。こんな我儘な物言いをした自分など彼に軽蔑されて当然だ、と長谷川は失意のままに口を噤んで後を追う。二人の距離がさっきまでと同じになった所で長谷川が突然声をかけた。
「お前には感謝しなければならない」
唐突なその物言いに新渡戸は思わず顔を上げて長谷川の背中を見た。出口の扉から差し込む光が彼のシルエットを浮かびあがらせて夢現の景色を長谷川に投影する。
「実は木更津に来たのは水原大佐と寺田閣下に用事があってだな、まあちょっと切りだし難いお願いではあったんだがお前が先に暴れてくれたお陰で割とすんなり話を通す事ができた」
「話って、特攻の直掩を三四三空(第三四三海軍航空隊、通称剣部隊)に頼むのか? 」
三四三空は愛媛県の松山基地に根拠地を持つ、水原大佐が率いる防空部隊である。日本本土爆撃の為に襲来するB-29(大戦末期に登場した超大型爆撃機)を邀撃する為に創設された精鋭部隊で、各地から選りすぐりの撃墜王が参集した事で知られている。主力戦闘機は最新鋭の「紫電改」を多数配備し、日本防空の最後の砦としてアメリカ軍を震え上がらせた。
「待て、まだ三四三空は松山に異動したばかりで初陣も果たしていない部隊(三四三空の初陣記録は3月19日)なんだぞ。それをわざわざ直掩に廻してもらうなんて ―― 」
「そんな話じゃないさ」
そう言うと長谷川はドアノブに手をかけて対爆コンクリートで補強された重いドアを大きく外へと押し開いた。溢れんばかりの朝日と共に冷たい海風と潮の香りが暗い通路に取り残されている新渡戸を押し包む。まるで舞台へと登場する役者の様に光の中へと身を躍らせた長谷川は滑走路が見渡せる位置まで歩を進めると、雲一つない蒼穹を見上げた。
「今日は雲一つないいい天気だ。この分だとどこを飛んでも気流は安定してるだろうな」
聞えよがしの大きな声で後ろにいる新渡戸に告げる長谷川は両手を外套のポケットへと押し込むと一つ肩をすくめる。釈然としない面持ちで外へと出てきた新渡戸は一瞬日差しの眩しさに顔を顰めたがすぐに自分の耳に飛び込んで来た奇妙な音に気が付いた。鳥のさえずりさえ聞こえない小春日和の沈黙を少しずつ塗り替える様に、その音はある種の不安を彼の心へと齎す。
「これは …… レシプロ機の音」
一瞬頭の中を敵機の姿がよぎったが、よく考えてみればそんな筈はない。これだけ遠くまで見通せる天候ならば目視でも敵機の姿は確認出来るし、性能が敵の物より遥かに劣る一号四型電波探信儀でも十分に機影を捉える事が出来るだろう。それに何と言ってもその音は自分に聞き憶えのある双発機の音だ。
耳を澄ませて正体を探ろうとしていた新渡戸はいつの間にか長谷川が後ろを振り向いて、自分の姿をニヤニヤと眺めている事に気が付いた。まるで悪戯を仕掛けた子供の様に無邪気に笑う長谷川の元へと事の真偽を確かめる為に近づいた新渡戸は、その時やっと水平線の上で低空侵入に入ろうとしている小さな影を見つけた。
「俺を助けてくれようとしてくれるお前の気持ちは嬉しい。確かに俺一人ならお前の隊でも彗星でも十分やっていけるだろうと俺も思う。だけどな ―― 」
長谷川が話している間にも音はどんどん大きくなって機体のシルエットはくっきりと鮮明になる、そしてそれは一機だけではなかった。まるで手品でも披露するかのようにたった一つだった影は突然左右に広がって滑走路を目指して来る。
「俺はまだ一家離散を試みるほど度胸が据わってないんでね」
長谷川はその光景を唖然として見上げた。上空をフライパスする双発機の群れ、胴体に比べて異様に大きく先細りな翼はその機体が誇る軽快な運動性能を如実に表している。主力である一式陸上攻撃機にはないスマートなシルエットと二枚の垂直尾翼、太平洋戦争前から続いている中国との戦争で名を馳せたその機体はさわやかに晴れ渡る木更津の空を泳ぐように飛び去っていこうとしている。
「お前、まだ」
見蕩れる様に機影を追いかける二人の目は出会った頃のあの日と同じだ。呟く様に尋ねた新渡戸に向かって長谷川は、自分に言い聞かせる様に強い口調で言った。
「俺は今も昔も中攻乗りさ。これからもな」