024 愛に似てる
消えていくモノだけが放ちゆく輝きだけを――求めていたはずだった
大げさな夢を見ていたわけじゃない。
柔らかな日差しに笑い合うこと、
降り出す雪にそっと肩を寄せて歩いたこと、
少し離れて歩いたら、風が2人の間を抜けて、
君に触れるのが何故か怖くて、
その切なさに、ただ、騙されていたいだけだったのに――。
遠くの空の雷の音で、彼は目覚めた。
見慣れない木目の低い天井、小さな白熱灯、そして何かの、植物の香りがする。
夢露・ロジェーストヴェンスキーはゆっくりと身体を横に向けた。黄土色の床が、広がっている。何かの植物の香りは、この床だ。知っている、畳だ。
ここは、これは、日本家屋……?
なぜ、おれはこんな所に……?
冷静に思考したのち、ハッと気が付いて、彼は勢いよく起き上がった。
「っ……っ!」
身体の様々な部分が軋む。咄嗟に左腕を押さえた。何か治療を受けたようだが、怪我をしたと思った場所は、何もない白い肌で、というか、怪我が無くなっていた。
少し記憶を整理する。
あれだけの怪我をして、最後に見たのはあの赤。
狐の力か……。
炎に包まれて、夢露にはその後の記憶は無かった。そう、こんな場所に来た覚えはない。何か治療を受けたということは、誰かにここへ運ばれたということか……?
そして、自分の服ではない薄手の服を着ている。赤い癖っ毛をくしゃりと撫でた。
続いて窓を見た。障子が半分程開いていて、グレイの空が見えた。
障子。生まれて初めて見た。なんだろう、空間が完全に断絶されているとも、いないともいえる曖昧な、朧げさを醸し出していて、なんだか、なんだか。
なんだか、落ち着く。
「Очень хорошо」
静かに呟いたのに、とても響いた気がした。見ると、壁の柱に大鎌が立て掛けられている。外では風が強く舞っていて、それでもこの部屋の中は異常なほど静かだった。
本当に、一体全体、ここは、どこなんだ。
と。
ドッタバッタドッタバッタ、どってんどってん、たったったった。
思考する彼のその静寂の中に突然、3つの足音が入ってきた。こちらに向かってくる。だが夢露は警戒しなかった。なぜなら、それが子どもの足音だとすぐに判ったからだ。
そして、バーン!といった具合に。
唐突に壁が動いた。
いや、壁と思っていただけだった。それは、襖だということに気が付いた。日本家屋特有の入り口。そこに、黒を基調とした服を着た、すらっとした長身の少年が立っていた。黒髪にピン止めを付けている。ドアを開いたそのままの姿勢で無表情にそこに立っていた。
続いて、その少年の後ろから、というよりも下から、ひょっこりと幼い顔が現れた。心配そうな顔でこちらを見つめている。
さらに遅れて、もう一つの足音が辿り着いた。今度は、どこかの学校の制服を着た、少し大人びた感じの、これまた無表情な少年。
彼らはまるで似ていて、兄弟だと、判った。そして最後に現れた少年が、口を切った。
「もう、なんで走って行ってんの。寝てたら五月蠅いでしょ。ほら、起きちゃってる」
「……え~っと、こう、バーンってしたくって」
「なんでそう、後先考えないの、まったく」
いちばん大きいのと中くらいのがローテンションで言い合いをしている中、いちばん小さいのが後ろからとてとてと歩いてきておれの前に座り、頭のピン止めを押さえながら、
「おにいちゃん、どこかいたいところ、ないですか?」
と聞いてきた。幼いながら、たどたどしく、しかしとても純粋な問いかけだと思った。
そこで初めて動揺した夢露は、黙ったまま目線を泳がせ、少しして、首を縦に振った。
「それは、とっても、よかったです!」
小さいのはぱあっと笑顔になった。夢露はさらに混乱する。
おれを助けたのはこいつらか……? 日本人の兄弟。こんなにも似てるものなのか。
「ねえねえ、おにいちゃん、おなまえなんていうのー?」
「…………」
「こらこら、名前を聞くときは、先に自分の名前を言うんだよ」
「え、まじで? そうなん?」
「なんでこっちが驚いてんの」
わらわらと、ベッドの周りに集まってきた。
「ていうか、やっぱり日本語わかんないんじゃないのかな。どこの国の人だろ」
「お~、外人外人。ヨーロッパとか、行きたいなあ」
「肌、すっごい白いね」
「超整ってるって感じ~」
「はい! じゃあぼく、おなまえいいます!」
雑談の中で元気よく手を上げたかと思うと立ち上がり、小さいのは言う。
「ぼくは、こいしかわゆずきです! 6さいです! よろしくおねがいします!」
「だから、日本語通じるかわからないって言ってるでしょ」
「あ、自分の名前は~」
「だからさあ」
「…………」
だから、なんだか、なんだろう、この空間。
何か、とても理解できないものだと思った。
なんだかとても、理解できなくて、それでも居心地は、悪くなくて。
この居心地を、俺は知っていて。
「え~っと、あーゆーねーいむ?」
「何言ってんの。ワッツネイム、でしょ」
突然英語の話にさしかかった時、またひとつ、足音が近づいてきた。とても静かな足音で、ゆったりとしている。開いた襖から顔を出したのは女性だった。すぐに、彼らの母親だと判った。
「あら、お目覚めになったのですねえ」
朗らかな表情と、優しい眼差し。長い髪を一つにゆるく結んでいる。そして、そんなか細い彼女のお腹は大きく、ゆずきと名乗った子どもが駆け寄ってギュッと抱き着いた。まるで、心音を聴こうとしているようだった。
…………。……ちょっと待て、いくらなんでも多すぎだろうが日本人!
しかも、みんな年が近い!
日本、ありえない!
「……хорошо」
おれが唖然としていると、彼女も周りに群がる仲間に入った。大変だろうに、中くらいの子どもに手伝ってもらいながら足を曲げて腰を下ろして、同じ目線になって、
「貴方の、体は、大丈夫ですか? 私は、小石川夏目です。貴方は、名前を言えますか?」
髪留めのピンを触りながら、そしてにっこりとほほ笑んだ。わかりやすい日本語だった。
「…………」
「…………」
その微笑みに、おれは何を思ったのか、
「……おれの名前は、夢露・ロジェーストヴェンスキー」
その問い掛けに、日本語で、答えた。
「お!」
3兄弟が同時に反応した。
「夢露さん、ですね。貴方は、何歳ですか?」
「15」
「間違っていたらごめんなさい。もしかして、貴方はロシアのお方?」
「じいが、ロシア人だ」
「あらあら、クォーター! 道理で、かっこいいと思ったわ。日本語が上手なのねえ」
何とか、なぜか会話できている。
「お肌が雪のように真っ白で、羨ましいわ」
まあ、日本語はあっちでも使っていたし。
「紅い瞳も、とっても素敵ねえ」
「!」
その瞬間、おれは凍りついた。すぐに動こうと思ったが、体が強張って、だから、心の中で動転していた。
なぜ?
今は力を、吸血鬼殺しの力を発揮してはいないはずだ。
なのに、なぜ?
こんな、ふつうじゃない、
呪われた、紅なんて……
「ほんとだ、超イケメソ~」
「!」
ゆったりとした声に気が付くと、6つの黒い瞳がおれを見つめていた。しかもかなり間近で。その時、何かとても懐かしい香りがした。しかし、なんの香りだったかは思い出せない。
「きれいなおめめだね、おにいちゃん!」
「……ぁ」
冷や汗は、止まっていた。
「これっ、みんな、病気の人にそんなに寄って集っちゃいけないでしょ?」
「は~い」
母親の一言で、3兄弟はおのおの立ち上がる。
……日本人って、こんなに馴れ馴れしかったか? 日本人は、異国の者を避けるという風習があると聞いていたのだが。
え、なんか怖い。
でも。
しかし。
しかし、ここの人たちは、全く動揺していないようだ。他所者が入ってきたのにも関わらず、とてもとても、落ちつている。まるでまるで、焦らない。
「あ!」
突如、母親が何か嬉しそうに両手を叩き、何かを閃いたようだった。
「そういえば、今丁度ロシアもフェアやってるわよねえ」
「あ、そうだねそういえば。うん、売り切れてないと思うよ」
ゆったりとした雰囲気だった。
「あのね、夢露さんっ」
声が弾んでいる。なんだか、良い事しか待っていなさそうな空気を醸し出す人だと思った。
「私の家はパン屋さんを経営しててね、いま世界のパンフェアーをやっているのだけれど、丁度、ロシアのパンもお店に出しているの。良かったら食べていったらどうかしら? えーっと、そう、白パンとピロシキがあるのよ」
「………………」
そうか、先程から懐かしいと思っていたこの香りは、それらだったのか。数年は、ロシアに帰っていない。それにしても、何故、日本人なんかがあれらを作り出せるのだ……?
「あ、だったらボルシチも作りたくなってきちゃったなーお母さん。入江、ちょっと走ってサワークリームでも買ってきてくれない?」
「え~、だってさあ、雨降りそうだよ。人使い荒過ぎ~」
大きいのは入江というらしい。特に嫌そうには見えない無表情のままで、無造作にヘアピンを触っていた。すると中くらいの子どもが母親の両肩に両手を置く。
「駄目だよ母さん。姉ちゃんが、母さんは台所に立っちゃいけないって言ってたでしょ。母さんが台所に立つと、どんがらがっしゃんになるから」
「えー?」
子どものように、残念がる彼女。なんだろう、この空気、この場所、この、温かみ。
遥か昔に感じたことのある気がする。
遥か昔に、置いてきた気がする。
本当に、なぜ、おれは、ここにいるのだろう。
「よーし、とりあえず、ちゃんと自己紹介しましょうね、みんな」
ゆったりとした口調で、母親は言った。すると3兄弟は座る母親の隣に一列に座る。それは、正座だった。
「はい、トップバッターの小石川入江で~す。君と同じ、15だぜ」
入江は挙手していた手を振り下ろし、そのまま夢露を指した。
「え?」
え、同い年? 同い年?! にしては、日本人にしては、でかくないか……?!
ガーン!
「はあ、どう考えても2番だよ入江君。改めまして、僕は小石川吉野といいます。小学4年生です。よろしくお願いいたします、夢露さん」
頭を深く垂れた。なんか、いちいち重いな、日本人の動作は。
ちっちゃいの、ゆずきと名乗った子どもは、ぼくはもう最初に名乗りました!と母親に主張し、偉い偉いと褒められていた。
「あとは姉ちゃんかな。まだお店の片付け終わらないみたいだね」
「ね~」
正座に疲れたのか兄弟は寛ぎ始めた。末っ子が入江の膝にちょこんと座った。
ん、姉ちゃん、とは……?
「Брат……ま、まだいるのか、子どもが!?」
「え、あ、はい」
「お~テンション高いねえ~」
びっくりして戦いた末っ子に比べ、上2人はまたかなり冷静に受け答える。
「もう少しで来ますので、暫くお待ちくださいね。姉はちょっとうっかり屋なところがあるので」
吉野がその表情を変えることなく言う。
まだ姉がいるのか……子供だらけだな、そしてこんな狭い部屋にさらに増えるのか。
――――姉か。
それは、記憶の片隅の方に。
曖昧な、思い出の中から突如浮かんだもので。
「ねえねえ、家族何人いるの~?」
入江が、末っ子の柚木で遊びながら聞いてきた。そして、ロシアだからやばいでしょ~っと言ってきた。何がだ、と思った。夢露は仕方なく、動けなく暇な状態であったので、付き合ってやることにした。目線を上にして、確認の逡巡後彼は答える。
「姉と」
「お、夢露さんもお姉さんがいるんですね」
「父と母と」
「うんうん」
「じいと、ばあやと、母の兄と弟と」
「うん?」
「父の従兄弟2人だ」
「「多っ!!」」
2人とも声が揃った。何だ、そんなに驚くことだろうか?
「いや、さすがロシアですね夢露さん」
何がだ。
「うん。超尊敬する~」
だから何がだ。
「ああ、そうだ!」
そして笑顔で唐突に叫ぶ母親。
「もうひとり紹介するの、忘れてたぁ」
急に立ち上がったのでその瞬間苦しそうにお腹をおさえたが、吉野に補助してもらうとパタパタと隣の部屋へ行きそして戻ってきた。
手に、誰かが写っている写真を持ってきた。
「はーい、みんなのお父さん、宮木さんです」
「…………」
これは。
「今はちょっと遠くへ行っているから会えません。なので失礼を承知で、写真でご挨拶~」
その。
「…………」
なぜ笑っているのだろうか。
家族がいないことは、悲しいことではないのだろうか。
こういう時、日本語ではどういうのだろうか。
分からない、分かり合えない。
知らないから、分かり合えない。
でもそれは、仕方のないことだから。
「ほんとにね」
吉野が呟く。
知らないのは、仕方のないことだから。
だから、なぜおれがあの家を出たのか、姉は知らなくて。
でもそれは、仕方のない、ことだから……。
「今度のお土産、何かな~」
続いて入江が呟き、
「ぼく、たかいたかいをしてもらう、やくそくをしました!」
柚木が叫んだ。
「…………ん?」
夢露は首をかしげた。顔を、ほわほわしている彼らに向け、もう一度首をかしげた。
「おみ……? と、遠くとは」
「ああ、今回はラオスです」
「ら?!」
「宮木さん、よく仕事で出張されるの。うふふ、大変よね」
和やかな雰囲気の中、目線を外したおれに吉野は言う。
「夢露さん、まさか……」
「ん、どしたん、よしの~ん」
「……なんでもないよ入江君。はあ、すみませんほんと、夢露さん。こんな家族ですので」
そして彼はふっと笑った。夢露はぎょっとする。
家族が遠くで、そばにいなくて、悲しいのに、何故そのように、
楽しげに笑っていられるのだろう。
なぜ自分はこんなに、おかしな気持ちになっているのだろう。
わからない。
わからないから、不安で、俯いてしまって、どうも場違いな自分は、どうすることもできなくて。
「帰ってきたときは色んなお話をしてくれるし、だから、帰ってくるまでがとっても楽しみだわ」
「帰って、来るまで」
「そうそう」
嬉しそうに微笑む母親。そして愛おしそうにお腹を触る。
「待ってくれている人がいてくれると思うと、なんだか元気になるわよね」
「うむ~」
「入江君はそういうタイプだもんね」
帰りを待っていてくれる人。
それは、どういう意味だろうか。
「でもきっと、夢露さんのご家族も、また帰ってくる日を楽しみにしているんじゃないかしら」
「…………」
でも。
「いや、でも、しかし」
帰りを待ってくれている、家族とは。
「だめ、なんだ」
一同、首をかしげた。その辿たどしい日本語の続きを待つかのように。
特に言うつもりはなかったけれど、なぜだろうか、言ったほうが、楽になる気がして、口を開いてしまう。
「おれは、黙って、出てきた、から」
沈黙。
雨音が静かに聞こえてきた。
何故おれだけの声が聞こえてくるのか、わからなかった。
「自分の勝手で、出てきた、から」
この身を晒したくなくて。
どうしたって、こんな悍ましい化物の、呪われた身体を。
隠すように、自分から。
そして誓ったのだ。
この身体の要因となった吸血鬼を、全て狩り尽くすまで、家には帰らないと。
アイツが言っていた。
あの真っ白いぼんやりしたやつ。
『キミの身体は、キミの身体をそうした吸血鬼を倒せば、元に戻るさ』
まだ、数える程しか狩っていない。
だからまだ、帰れない。
ちゃんと人間に戻ってから、帰るために。
「それはつまりさ~」
入江が空を仰ぎながら口を開いた。なんだろうか。
日本人特有の同情だろうか。
わかるわけがない。
おれの苦しみなど、同じ悲しみなど、わかるわけが。
「家出とかまじイケてるよね~」
わかるわけ、なかった。
「それで海外に飛ぶとかいいよね~、憧れる」
だって、知らないの…………え?
「え?」
「何、入江君、家出してみたいの?」
「ん~、どっちでもい~」
すべての悪い空気が、すべて無くなっていくように。
悲しみが、消えていくように。
「あらあら、おイタしちゃったの夢露君。若いわね~」
痛みが、和らいでいくように。
この人たちには、何を言っても、全て、良い方向にしかいかないのだろうか?
「じゃあ、お家の人とても心配していらっしゃるわね。よくわからないけれど、早く帰れたら、私たちもとても嬉しいわ」
にこにこにこ。
なぜ他人のことで、嬉しいのだろうか。
「…………」
その答えはなぜか、既にわかっている気がした。
すーっと、心が、軽くなった気がした。
それは同情なんかではなくて。
思い出が、蘇って、それは、こんな感じの雰囲気で。
「…………」
――帰りたいなあ、あの家へ。
早く、会いたいなあ。
この込み上げてくる気持ちを、溢れないように静かに押さえつけて、そのままの心で、
「ありがとう」
と、おれは言った。
こういう時に使うものだったか、わからないけれど。
自分でもわかった。
おれは今、少しだけ、笑っている。
そして彼らは、
「どういたしまして!」
と言う。
知らない日本語だったが、なんとなく、良い気分だった。
安らいだ。
そして。
誰かのお腹が鳴る音が、した。
「………………」
夢露は彼らを見渡す。入江がふっと顔を上げ、襖のほうを向いて口を開いた。
「なんだよ姉ちゃん、片付け終わったんだったら、とっとと入ってくればいいじゃ~ん」
「なんで聞き耳立ててるの」
吉野が立ち上がり、襖に静かに手を掛けた。
「清水ー、自己紹介してほしいから、こっちに来てくれるかしら~」
「早く来なよ、姉ちゃん~」
「あ、あうう、あの、私、その」
来たか4人目、なんだ、はっきりしない物言いだな。
夢露は完全に警戒を外しており、しかし怪訝な顔でその者の登場を待った。
「おおおおお目覚めになってしまったんですねええ」
「大丈夫だって姉ちゃん、結構物分りのいい外国人だったから」
「そそそそうではなくううううう」
かくしてその人物はひょいっと顔を出した。高校の制服の上にエプロンをつけたまま、長い黒髪が揺れた。そしてその顔は赤面し、完全に怯え顔だった。
そう、それは。
「……вы!」
それは、大宅世継だった。
いや、正確には、違う。
おれは初めて語り部が寄生している本人を見た。その目は黒く、眼鏡を掛けていて、そしてなんだか、おどおどしていて、全く語り部とは正反対の。
確かこいつ、この前、狐と、いや違う、あの吸血鬼と、一緒にいなかったか?!
夢露の警戒ゲージは一瞬でフルになり、立ち上がろうと腕に力を入れて、そして。
「はは、ハジメマシテ、コイシカワシミズデス。…………は……ハロー!」
「………………」
「い、イエーイ」
一気に下がっていったのであった。
ひゃああああ、ふ、不良の人だ! 金架君に因縁つけてきた、しかも外国人の不良の人!
目をぐるぐるさせながら、彼女は冷静になろうと気負ってみた。その赤毛が目についてしまうため、瞬時に目線を横に逸らすと、そこには大鎌が置いてあった。鋭く光った。
「ひいいいええええええええええ」
「姉ちゃん五月蝿いよ。どしたの」
後ろにひっくり返った姉をツンツンと突っ突きながら弟が声をかける。すると瞬時に跳ね起きた彼女は涙目で口早に言う。
「え? いやいや、私と彼は今日が初対面だよ? 大丈夫だよ? ここは包囲網だよ? 壊れてないよ?」
「え、どした」
そして深呼吸を始めた彼女――小石川清水を見据えて、夢露は考えを巡らせようとしたが……突如のことで頭の中は単純なことばかりだった。
偶然か?
語り部が寄生している少女の家に今いるというのは、一体どういう状況なのだ?
おれはどう、接すればいいのだ?
「あーーーー!」
悶々している2人を見て、とうとう音を上げたのは、末っ子だった。
「ごはん! ごはんがいいです! ごはんがたべたいです! はやくごはんにしてください! ごはんだぁー!」
「うわ、柚木のご飯コールだ」
「はいみんなリビングへしゅ~ご~!」
「うふふ。清水~お夕飯の支度手伝うわ」
「え?! それはだめ!」
すかさず襖を開け、夢露の手を取って、母を立たせ、姉を立たせ、流れるように、彼は気づけばリビングの椅子に腰掛けていた。白いレースのかかった木製のテーブル。水色のカーテン、消しかけの落書きのある白い壁、電話の横の花瓶、写真立て、ピアノ、奥にはテレビのある部屋。
夕食を食べるにしては狭い部屋だなあ、と正直なところ夢露は思っていた。
どたばた、どたばた。
そんな狭い部屋で清水家の人々が夕食の準備のためにどたばたしていた。
恐ろしく騒々しい。
「入江、机の上拭いてー。吉野はトング探して、そのあとお皿並べてね。ゆっちゃんはみんなのお箸も用意してください、お客様用のもお願いね。お母さんは座って、ていうか入江は早く学ラン脱ぎなさい、汚したらどうするの! あぁゆっちゃん、そんなにたくさん持ったら落としちゃう!」
カウンター越しに長女がわーわー言っている。しかしみんな自分のペースで動いていて、大変そうだなあと思った。
「ゆめつゆおにいちゃん!」
いつの間にかちょこんと隣に座って両手に箸やらフォークやらを持っている末っ子が満面の笑みで名を呼んだ。
「おはしですか? フォークですか? それとも、スプーンがいいですか? えらんでください!」
ビクッとしてそちらを向くと、ずいっといろいろ目前に出された。
「夢露さんお箸使えるの?」
「いや……むずかしい」
「あら、そうなの~」
やっぱり嬉しそうに反応する母親である。
「しかしかんしんはある」
「じゃあ、練習、いかがですか? 今日ちょっと洋風ですけど。せっかく日本にいらっしゃったんですから」
「ああ、じゃあ」
「はい、どうぞ!」
そうして持っていた箸をカエルを模した小さな置物の上に置いた。箸置きというやつかと夢露はジッと見つめる。そして皆各々の仕事を終えると、それぞれが席に着く。柚木と吉野に挟まれ、夢露はひとりでなんだこれと思っていた。カラフルなサラダ、店の売れ残りだという多種多様なパン、メインの炒め物、そして清水が大きな鍋を抱えてきたと思うと、中身は具沢山のトマトスープであった。
「お母さんたちが突然ボルシチ作ってとか言うもんだから……っぽいもの作ってみたよ」
「確かにボルシチは赤い感じだけどトマトは入ってないんだよ、姉ちゃん」
「だからっぽいものだって。へえ、そうなんだあ。はいどうぞ、夢露さん」
と、スープの入った温かいお椀を渡される。
「………………」
と、彼は無言で受け取った。
そして、夕食が開始される。みんなで手を合わせて挨拶をするのが、ああ日本だなあと夢露は思った。
「あ~温かい……」
「入江君、ご飯食べたら着替えなよね」
「………………」
「ゆっちゃんはほんと、ご飯になると静かになるわねえ」
という会話を交わしながらも、全員視線は軽くおれに向いていた。
スープをひと匙、ゆっくりと飲んでみる。
「очень вкусный……おいしい」
「お~」
「よかったねー姉ちゃん」
初めて食べる味だけど、なぜかとても懐かしい感じがするのは何故だろう。
わからない。
けれど、わからなくてもいいなあ、と思った。
「ゆ、夢露さん、パンは、どれがいいですか?」
トングを片手に、小さな笑顔でパンのバスケットを指差す小石川清水。
おれはつい、なぜか、そっぽを向いてしまった。
「あれ?!」
「何? 姉ちゃん夢露さんになにかしたの?」
「してないよ!」
ちょっと涙目で、あれーと連呼ししている。袖を引っ張られたと思って、その方向を見ると、
「ゆめつゆおにいちゃん、ぼくとはんぶんこしましょっ」
ちょうど半分になった白パンをずいっと末っ子が差し出していた。その手と口は粉で真っ白だった。
「ああ……ありがとう」
とりあえず受け取った夢露だが、その自身の手がなぜか少し震えていることに気づいた。よく分からないが、特に気にせず食事を続けることにした。
「ところでつゆつゆ~、家出してまで何しに日本に来たん?」
箸を落とした。
「ね、ね~」
「……べんきょうの、ためです」
いつもこう答えるようにしているが、しかし驚いた。
なんだ、つゆつゆって!
「凄いですね。夢露さん、ロシアのどこから来たんですか?」
「モスクワ」
「お、首都ですね。今日丁度習ったんだよ」
「よしのんは優秀だな~」
そして話は進む。他愛もない話題ばかりなので、あまり偽ることなく誰かとこんなに喋ったのは久しぶりだった。
「なるほど、留学して初めて出会ったのが姉ちゃんのクラスメイトである神藤さんだと」
「あ、ああ」
多分、そういうことでいいだろうと、夢露は相槌を打った。
「あの人、背高くてかっこいいもんね」
「今あの人くらいの身長を目指しているんだわ~」
「え、入江まだ大きくなるの……?」
楽しそうだなあ、と夢露は思った。
そして、口の中で違和感を感じた。
「……っ?!」
言葉にならない声を上げたので全員がこちらを向いた。
「どうしたん、つゆつゆ」
先ほど自分が口に入れた炒め物のその具材を、ゆっくりと箸で上げた。
なんだ……これ!
「……ちくわ~?」
「が、どうかしたんですか、夢露さん」
「もしかして初めて食べたのかしら。大丈夫ですか?」
「これは……」
「あーえっと、えっとー、魚のすり身です」
と、清水が教えると、その持ち上げたちくわを口の中にいれ、飲み込み、
「これが今まで食べた日本色の中で一番美味しいのだが」
と流暢な日本語で淡々と述べた。
のをきっかけに。
「あのあの、これ、こんにゃくって言うんですけれど食べてみてください!」
「これ~納豆って言うんだけど発酵食品で美味しくて~」
「これはのり!」
「こらこらみんな、夢露さんをカルチャーショックで遊ばないの。僕ここで宿題したいんだから、早く食べ終わってよね」
といった感じで、夕餉が終わりに差し掛かろうとした時である。子どもたちはみんなでどの食品が驚くか議論を開始し始める。不意に母親が鍋の中のスープがもう少しで終わるのでいかがかと聞いてきた。
「おねがいします」
そう言って平皿を差し出す。たっぷりと残りのスープ注ぎ、笑顔でこちらに運んで来たそのときである。
彼女のスリッパが、滑った。
「あ」
と母親が言った。
「あ」
と子どもたちが口を揃えて言った。
視線は皆夢露の方へ降り注がれ、対して彼もスローで今の状況をやっと理解したようで、しかし気づいたときには遅く、反射的に目を閉じ、手をかざしたが、重力に身を任せるようにゆっくりと降下するように平皿から溢れたスープは、見事に彼の白い顔にクリーンヒットした。
「…………」
平皿はくるくると回って床に落ち着いた。
「お~、すげえ、漫画みたい」
一人、入江が感嘆の声を上げたと同時に、小石川家がいろんな顔で迫ってきた。
「わー夢露さん大丈夫?!」
「だから母さんは何もしないでって言ったんでしょ!?」
「あらー……ごめんなさいー……ちょっとこの体勢助けてー……」
「たおる、たおるですか?」
壁で自身を支えてプルプルと震える母親の身体の安否を気遣ったあとは、何重にもタオルをかぶせられ、視界はシルクの布一面だった。
「………………」
なんだこの状態。
「姉ちゃん」
吉野が清水を呼ぶ。
「夢露さん」
次に少し間があって、おれは名を呼ばれた。
「お風呂入りましょう、僕と柚木と。お体の方、まだあんまり動かさなほうがよさそうなので、お世話しますね」
え。
「何それ楽しそ~」
「もう入江、夢露さんは一応病人なんだからね」
「姉ちゃんは手厳しいなあ」
両手をがしっと掴まれ、立たされる。タオルは……取らないのか。
「え、あの、こんな大人数で入るのか」
「大人数っても3人ですよ」
自分以外の人と入浴するかもしれないこの状況、幼い時振りである。
これか!
日本人特有の温泉というのは!
「どうせなら姉弟全員で入ろうぜ」
呑気な声が聞こえ、
「はうあ?! 何言ってんの入江!」
喫驚の声が上がり、
「全く、入江君は大胆だなあ」
「裸の付き合いってやつだよ」
「こらこらこらー!」
何を一番上の姉は怒っているのだろうと首をかしげていると、その答えは直様解かれた。
「入江は女の子なんだから、もうちょっと振る舞いを考えなさい!」
な。
な。
なんだってえー!?
「Правда ли это?!」
「あ、やっぱり」
左側から吉野の溜息が聞こえた。
「えっとですね夢露さん、入江君の学校は私服校で、だから学ランを私服として着てってるんですけど。すみません、ちょっとどころかかなりまどろっこしくって」
日本人の、しかも女に身長で負けていたとは!
ガーン!
タオルで顔が隠れていて、本当に良かったと彼は思った。
「さあ行きましょう」
「いきましょう!」
姉たちに見送られ、弟たちに連れられて、脱衣所へ着いたようである。タオルをすべて剥ぎ取り、腕を高く上げると少し関節が痛んだので、少し手伝ってもらいながら脱衣後、ふらふらと浴室へ入った。2つのバスチェアに末っ子と隣り合わせに座り、長男が交互にシャワーのお湯をかけていた。
けらけら笑う柚木。
シャワーの水圧を無言で上げる吉野。
狭い浴室であるなあと夢露は思った。
備え付けられた鏡を通して、自らを見つめる。
いつの間にか瞳は、灰色に戻っていた。
その目をふっと、静かに閉じ、悪くないなあ、と思った。
・
・
・
すべてが寝静まったその夜のことである。
「し、失礼いたします、夢露さん。お茶を、お持ちいたしました」
奥からそんな声が響いたかと思うと、ゆっくりと壁が、いや襖が開いた。おれは横目でそれを確認しただけで、また天井を見つめ直した。
視界の隅に見えた小石川清水の顔は、不安を隠しながらも微笑んでいて、なんだかちょっと怪訝そうな顔に夢露はなった。
理由はわからない。
ただ、紅茶の香りが深いなと思った。
「えっと、一応ジャムをいくつか持ってきたんですけれど、お好みで入れてくださいね。さ、さっきネットで調べただけなんですけれど、ロシアンティーってそんな感じですか……?」
静寂。
外の風の音が聞こえた気がした。
「あーえっとそのあの、部屋の気温どうですか? 寒くないですか? 温度、上げましょうか?」
「……………………」
「へーい、ゆめつゆー、あーゆーこーるど?」
しつこい。
そのままオール無視を決めようと思った彼だが、正直、お茶は飲みたかった。彼の家では習慣だったからであり、彼はいつだって入浴後には温かい飲み物を欲してしまうからだ、環境的に、文化的に、個人的に。
「…………」
と、無言でティーカップを見つめる夢露の視線に気付いたのか、清水はすーっとお盆を突き出した。夢露はカップを取ると、ゆっくりと口をつけた。
「ジャム、どうします、か」
「………………」
「ああ、はい」
少々時間をかけて飲み干すと、空のカップを見つめたまま、なんとなく問いかけた。
「お前、アイツの何だ?」
「? あいつって……」
「………………………」
「か、金架君?」
「そう、神藤金架」
「えええええええっとー」
なんだこいつ。その動揺と顔の紅潮ぶりから察することが容易じゃないか。
「もういい」
「え、ええ?」
再度静寂。
清水はどぎまぎだが、夢露にとってはどうでもいいという感じで、時計の針の音だけが響く。窓が風で、軋んだ音がした。
「あのー、金架君とは、まだ喧嘩中なんですか?」
「……あ?」
「ひい! ごめんなさい! いやほら2人とも、凄い動きをしていたからそういうそれぞれの武道の派の対極にある位置にいてよく竸ってて、仲が悪いやらどうやらなのかなあ!って。本当は仲、いいんですよね!」
「別に……そういうわけじゃ」
そういうわけじゃ、ないのか?
吸血鬼、だから?
それだけで、嫌っているん、だよな?
本当に、そうだろうか。
なぜだろう。
この家に来てから、おれの知らないあいつの事を聞いたからなのか、全くいつもの感情がわかない。
なぜだろう、なぜだろう。
「金架君はとっても優しいもんね……結構器用だし、み、見てると元気になるって、いうか……」
……そうか?
「背高いし、運動凄いできるし……」
「んん」
……え、あのふにゃふにゃした動きでか?
「誰とでもお友達になれるから凄いよね、それに」
「いやあ、ええ?」
と、なんとなく声を上げていると。
それに、に続く言葉が聞こえてこない。そう言う言葉のはずである。言葉の後ろに付けるとは本に書いていなかった。
清水の方を見ると、いつの間にか彼女は考え事をしていた。夢露の視線にも気づかず、腕を組んで首を傾けている。
と。突然目が合った。
「……!」
普通に驚いてしまった。そして彼女は両手をポンと勢いよく叩くと、
「そっか、なるほどわかったよ! 夢露君は、金架君とお友達になりたいんだね!」
と意気揚々に言った。
「と、なっ?!」
なんだか知らないけれど、よくわからないけれど。
夢露は顔を紅潮させて勢いよく起き上がった。清水も高揚した顔で嬉しそうに彼に迫る。
「なんだそういうことだったんだ! そりゃあ留学して初めて出会った日本人のお知り合いとなれば特別になりますって! なーんだ、緊張していらしたんですね! すみません、日本人は、好きなのに嫌いみたいな態度をたまにとってしまうんですよー。えへへ、すみません」
なんだこいつ、突然生き生きしやがって!
「出会ったら喧嘩しちゃう……ああ、ありますよそういう友情のかたち。ん、そういう感じだったら、もう完全にお友達だと思うんですけれど……どうなんですかそのあたりは」
「……し、知るかぁ!」
お友達って! なんだそれは!? どこからそんな話になった?
「大丈夫ですって! 私はもう、2人はお友達になれると確証しているのです!」
「……根、拠は……」
このよくわからない感情をどこにぶつければいいのかわからなくて、彼は無力化したように沈静化してしまった。早くこの話を終わらせたいと思った。
「……おれは、あいつのことも、おまえらのこともわからない」
やっぱり日本人は、馴れ馴れしいと思った。異質なものには近づかず、それが何でもないものだとわかると調子に乗る。
わからなければ、一緒になることはなかったのに。
「えっとですね、なにも相手の全てを知ったらお友達ということではないのです」
ヘアピンに触れながら、笑顔で清水は答えた。
「だって私たち家族全員と夢露君は、もうお友達なんですよ」
「!」
失うまま生きるだけなら、心など持たずに生まれてきた筈なのに、
「だからきっと金架君ともお友達になれるのですっ」
愛に似た日々は遠く、失くしたモノを探し行くから。
「ゆっくりでいいから、頑張ろー」
きっと疲れた心は闇の奥で、僅かな光をたどるでしょう
にこにこにこ。
また、夢露はたじろぐ。慣れないのだ、この優しい世界に。全てが終わったら戻れるはずの、その場所に。
しかし彼は似ていると思った。
夢見た、優しい、帰りたい、小さな世界。
生まれてきたから、出会えた場所。
ふっと目を閉じ、浮かんだ笑顔にそっと何かを思い、心が揺れて、少しこみ上げてきそうで。
右手を顔に当てながら、彼女に何かを言おうと、した時だった。
ばーんっ!と。
襖が勢い良く開いた。
またあのよく分からん長身女かと思った。しかしその人物を見上げる清水の表情がおかしい。かなり喫驚している。目を一瞬伏せたあと、彼女はその人物に問うた。
「……どなた、ですか?」
「…………」
どなた、とは、誰、ということだろうか。家族ではない誰かが来たということだろうか?
おれも、その人物を見るために首を動かした。
「!」
そこには。
「……んー」
涼しい表情、
「汝こそ、誰?」
のんびりとした口調。
「身共の知っている汝ではない汝は、誰なんだい」
真っ白な少年が、部屋に入ってきた、土足で。
ゆっくりと漆黒の瞳を開け、真っ白な髪を揺らめかせながら、月のよく見える窓際までふらふら歩き、腰を置いた。膝に大きく真っ白なうさぎのぬいぐるみを乗せ、頬杖を付いた。彼が動く度に、口元の煙草の煙が空間に踊る。
「…………」
清水と夢露はそのまま彼が入ってきた襖の方を見ていた。襖を開けたら廊下があるはずなのに、その先は何故か、知らない部屋があった。
真っ白い部屋だった。奥の方には窓があって、同じように夜空に月が浮かんでいた。その窓際に、ベッドがあった。2人の人影が見えた。1人は、座っている。1人はベッドの中で、すーすーと寝息を立てている。月夜で照らされただけのその暗い中で、寝ているのはすみれ色の髪の少女だとわかったが、誰だかは全く知らなかった。
「ねー、早く来てよ。お話するからさー」
にっこり微笑んで、少年が言う。そして座っていた彼女が立ち上がり、襖を越えて、こちらの部屋に静かに入ってきた。
「…………」
無表情で、そして寡黙な少女だった。美しい銀色の髪を肩の辺りで整え、首両腕両手首に金色の細いリングを2つずつ嵌めている。その蒼い瞳は、海のように深かった。
結果、清水は三方向から異国人に挟まれた。
「が、外国人さんがたくさん……! え、え? 夢露君の、お、お友達ですか?」
「…………」
なんだこれ。
夢露も少々混乱していた。
何故、この世界に、こいつらが?
何をするつもりだ?
大鎌は壁に立てかけられており、体はまだ思うように動かない。夢露は顔を見上げ、少年を見た。子どもにも大人にも老人にも見える不思議な笑みに、彼の警戒心はさらに固くなった。
「……けほっ」
その時、清水が苦しそうに咳をした。そう、辺りは既に煙が立ち込めている。
「もう、どうしたの夢露君、その身体。人間にでもやられたの? それとも同士と喧嘩でもしたのかな? 汝はいつも、同士に喧嘩っぱやいもんねえ」
咥えていたタバコを右手で持ち替える。
「クルシマ、マシロ…………」
こいつはおれの目的を知らないはずだ、なのに。
「駄目だよ、同じ、人間を滅ぼすために一緒に頑張っている仲間でしょう?」
知っているみたいな言動を、こいつはするんだ。
すべての吸血鬼を滅ぼして、家族の元に帰るというおれの、こいつらとは全く正反対の目的を。
「ねえ、どうしてそういうこと、するの?」
悪戯が好きそうな、その微笑み。
逃げられない。
紫煙がおれの周りを包んで、その道をなくすように。
その漆黒の瞳に見つめられると、動けなくて、真実を語ってしまいそうで……。
「っぐ……っく、っ!」
煙が気管に入ってきた。苦しい。涙も溢れてきそうだ。
口を押さえた自らの手は冷たく、視界も空ろになってきて、おれは逃げるように瞳を閉じた。
「あ、あああああああ、あのー」
その時、すぐ近くで、素っ頓狂な声がした。つい、目を見開いてしまった。
「っつ、って!」
煙でまた目をやられたが、片目を押さえながらもその声の主へ視線をやった。
語り部……違う、小石川清水、だ。夕方の時のように、おどおどしていて、彼女も涙を浮かべて、必死に笑みを作っていた。
「おおおお話中大変失礼いたしますうううう。あの、あの、申し訳ないんですけど、わ、私の家、妊婦がおるのです。だから、禁煙していただきたくて!」
突如、マシロの顔から笑みが消えた。
「その、人間には害なんですよー……ほら、彼も苦しそうなので」
ダメだ、この人外に、
「そ、それだけなので! お願いします! あとは全くご自由にしていただいても……」
人間であるお前が、話しかけてはいけない――!
「むう」
と、片方の頬っぺたを膨らませ、明らかに機嫌の悪い顔をして、清水の方を睨んだ。今までの柔和な彼とは違う、鋭い、鋭すぎる、眼光だった。
「……!」
清水は肩を震わせた。彼女の頭の中で、あの記憶が蘇り、そして重なる。
金架との下校時、突如現れた夢露の、あの赤い瞳と全く同じものが……――
「人間は、強いから嫌い」
持っていたタバコを、彼は再度咥えた。
「弱い身共に指図するなんて、いい度胸なんだっ」
そして持っていたぬいぐるみを清水に向かって投げつけた。
「ひゃあ?!」
咄嗟に清水は避ける。うさぎのぬいぐるみは壁に勢いよく当たって畳に落ち、その虚ろな目でこちらを見つめる。避けた拍子でバランスを崩し両手をついた彼女の前に、彼が立ちはだかる。
「人間は、壊れちゃえっ」
足を、振り翳した。清水は為す術もなくそのまま両手で顔を押さえた。そして夢露は次の瞬間、見た。
小石川清水がその足刀をすかさず掴んだと思うと、そのままクルシマ・マシロは気の抜けた声を出してこちらの布団に倒れこんできた。
「…………」
やけに驚いた顔をしていた。しかし彼ももう一度、拳を彼女に突き上げようとする。
と、それを彼女は流れるような動きで片手で受け止めると、空いた方の手でメガネを頭の上にずりあげ、そのキラキラした笑顔をこちらに向けて言った。
「……やあ、真白ちゃん」
その瞳は、真っ赤だった。
大宅世継、だった。
「今日も明日も明後日も、いつでも元気な、世継ちゃんだよ、っく……」
「あれえ? ほんとだ……世継ちゃんだ」
牽制し合いながら、互いに笑みを絶やさない。
夢露は、なぜ自分はホッとしているんだろうと思った。
「言ってなかったっけ? この子には手を出さないでねって。ほら、どうせ世継ちゃんが寄生しているんだからさっ」
「そうだったそうだった、そうだよね、世継ちゃんは虎さんの次くらいに、世界を滅ぼしたいと思っているもんねえ」
そして彼は拳を戻すと、
「カトレア、拾っといて」
と、先程から突っ立っているだけの無表情な少女にぬいぐるみを拾うよう指示した。彼女は無言で、ぬいぐるみを大事そうに拾い上げた。
そして大宅世継は立ち上がる。
謎の少女が寝ている不思議な部屋の奥で、誰かが微笑んだ。
その不思議な部屋の窓から見える白い月が、揺れる。
マシロは夢露のほうを向いて、
「汝は栄えある吸血鬼、人間に似ているからって、人間みたいなことをしても、無駄なんだよ」
慈しむように、憐れむように、
「強い人間は、弱い身共達、怪物が滅ぼすの」
微笑んで、彼は言う。
「そうしたら、弱いものたちだけの、とっても素敵で平和な世界になるからね」
ポツポツと、雨が窓を静かに叩きはじめた。そしてだんだん、雨音は大きくなっていく。
「だよね、お姉」
愛に似ているツナガリは、いつしか、少し縺れて絡まっていく。
それは、混乱に、絶望に、逃れられない悲しみに似ていて。
自然に、自分勝手に、いつのまにか、時には意図的に、まぼろしのように。
幼い日々に見てた夢の中には、もう辿り着けないことを知っているから。
「一緒に頑張ろ、夢露君」
さあ、おわりが、はじまる。
わあ凄い久しぶりに投稿させていただきました。
ご読了お疲れ様です、ありがとうございます。
ガネカラ(ガネクロオンリーのカラオケ)とかガネクロいんとろドン!とかやってて別に何事もなく日々を過ごしていたのですが投稿遅くなっちゃうのは何故でしょうねえ。
愛に似てると恋のあいまにって似ている気がするんですよー。
それだけなんですけど。
でも愛と恋の時点で全く別ものなので
もうそれぞれ進捗度があるので
この曲の場合、進みすぎて気づいてしまったって感じですよね。
でも気づいたときには遅くて、だからもう進むことしかできなくて。
なんもかんも、過度に行き過ぎると壊れてしまうんでしょうねえ。
このお話は必ず完結させますが、今ちょっとまたお話書いてまして。
金架の義妹さんが主人公の話とか書いているんですよねえ。
それは完全なスピンオフなんですが。
ほかの魔法使いの話もあるから2期、3期ももう考えているんですけど(今回は1期)
設定だけ増えてって筆が進みませんがいつかやりたいなっ(全くやらなそうなフラグ)
ということでこれからも長らく宜しくお願い致しますー