018 fill away
抱きしめ合って満たされるほんの一時だけは
痛みなら真っ直ぐに心を突き刺してしまうのに
汝がいるから身共がいる
身共がいるから汝がいる
汝と一緒なら、どこまでも行ける
そして、
2人の世界は広がっていく
どこまでも、どこまでも
だから、
どこへも、
行かないで?
あ……金架君、居眠りしてる。
もうすぐ、もうすぐ金架君が当てられてしまうよ、秦先生は怖いよ?
どうしよう、起こしてあげたいけれど、教科書を両手で支えて授業を受けているように見えるけれど、じつのところまるっきり先生にはバレバレなんだよ?
秦先生は気づいていても注意しなくて、当ててもすぐに答えられないっていう、こういうところで金架君は寝ていたってことを、クラスのみんなに知らしめるのが目的なんだよね……。
結局、自己責任、なんだよね。
大人の世界って、厳しい……あうう、それは金架君の栄誉に関わることだから、どうにかしてそれを阻止したいけれど……みんな、秦先生の授業だけはとっても静かだから、意外と内緒話の声でも先生に聞こえちゃうんだよね。だから声を掛けて起こすのは駄目。
窓際の1番後ろだから、この季節気持ち良いのはわかるけれど、居眠りは頷けないなあ。でも、金架君は昨日まで忙しかったらしいから、しょうがないかな?
何かをぶつけて、それに気づいて貰うっていう手もあるけれど、第1投球を失敗したときに起こり得る3つ4つの応報が怖いな……。あと、先生に板書の間違いを訂正するように大きな声で促してそれで起きて貰うってのも駄目。とっても……恥ずかしいし、あうう。それにきっと私は、そんなに大きな声は出せないし、ね。
――じゃあ、こうしてみようかな……金架君の心理を利用しちゃうけれど……ごめんね、ごめんね。
そうした長い逡巡の末に、真っ黒な瞳を瞬かせた彼女は、髪につけたヘアピンを触ると、自らの席の左端に置いてあるペンや定規で詰まった筆入れの口を開け、出来る限り自然に見えるように、思いっきり左手でその筆入れを机の外へ弾き飛ばした。
ん?
いつの間に。
なんでオレは隣の席に座る清水が机から誤って落としてしまった筆箱から飛び出て床に散らばったハサミとかペンとかを無意識な動きで拾ってんだ? そしてなんでこんなに頭の中がスッキリとしてんだ?
清水はいつものように、「ごめんね、ごめんね」と言いながら共に拾っている。
オレは、授業中にも関わらず居眠りをしていたはず。教室の中にいる全員の視線が鋭くこっちへ向けられたけど、それは一瞬で、ハタセンも授業を再開した。清水、筆箱の容量多いな……ん!
よく聞けば、オレの列当てられてんじゃねーか! 今は、前の前の席の田耕が答えてるっていうかそろそろじゃん! 問3? てことはオレは問5か、うわ、もしも清水が筆箱落とさないでいてそれでいてずっと寝てたら、帰ってきて早々約2ヶ月ぶりの授業でオレ完璧ハタセンにまたドヤされるところだった! 危ね!
「拾ってくれてありがとう、金架君」
彼女は相変わらず、その薄いメガネのフレームの奥で涼しげに柔らかく微笑む。
「おう」
ありがとうはオレの方だっての! さすがは、クラスのルーム長だぜ!
お互い席に座り直して、そして金架は開いていた教科書に目を落とすが。
……なんっで倫理の教科書!
苦笑いして、清水の方へ目を向けると、分かっていたのか、清水はこちらに向かって、ノートの切れ端らしい、小さな紙切れを示した。“16π”と、書かれていた。
お前は、神か!
高飛車な口調で名を呼ばれ、金架は秦先生へその答えを叫んだ。すると彼は訝しげな顔で清水へと視線を動かしたが、正解とは言わずに、次の答案者の名を呼んだ。
2人して、安堵。
金架は清水へ小さく手を振り、そして数学の教科書を探しに取りかかった。
清水はその様子を見て小さく笑い、ヘアピンを直すと、その紙切れを折りたたみ、筆入れの端っこに入れ、そして口を閉じた。
**
「よ、金架。どーやったよ、数年ぶりの授業は」
「疲れた」
授業終了後の短い休み時間。背伸びをする金架の元へ、1人の男子生徒がやってきた。
「まあハタセンの授業やったさかいなあ」
「ほんとだよ。なんだよ、楓さん」
少々小柄な、前の席に座り、片手で顎をついて笑う楓。
「その呼び名はやめろゆーたやろ。自分喧嘩売っとんの?」
「なんのことよ、楓さーん」
「おーい金架! 約2ヶ月も学校来なかった訳って実は誘拐されたってほんと? それとも修行? 一応先生からはインフルエンザって聞いてるけど、それとも夜逃げ? どしたのどしたの! あはははは! 実験体にされて宇宙に行ったって言ってた下級生もいたけど!」
「なんだよ木ノ代、うるせーよどれもねーよ」
そこへ1人の元気な女子生徒もやってきた。ポッキーを咥えている。箱を振って、袋の中のポッキーを外へ突き出した。
「あげるー」
「さんきゅー」
「楓もー」
「おおきに」
「清水もお食べ」
「あ、ありがとう、前衛ちゃん」
みんなでポリポリ食べる。
「あー、清水と同じクラスで良かった!」
金架はふと口を切った。
「え、ええ?!」
清水は驚いたのか、その長い黒髪のサイドテールを大きく揺らす。楓はニヤニヤし始める。
「魔王ハタセンよりオレを救ってくれた恩人だ。これで、3年連続同じクラスだな」
「ひや、や、私、何にもしてないよ?」
「うんうん、きのーの夜はビクったで。3月からまったく音沙汰無かった金架からいきなしメール来たかと思えば、オレのクラスどこ? やったもん。大ウケしたわ」
「あっは、それは面白いねー! 何? てことはまずこの街にいなかったってことー? どこ行ってたんだよ、海外?!」
「シンガポールかな」
「それ、笑える!」
緩やかな談笑。約2ヶ月ぶりだけど、シルクが言っていたみたいに、まるで100年ぶりかのようで。
金架は心の中で、強く安堵した。
「あ、何か金架、リング増えたね!」
「ほんまや」
「おうさ」
金架はその、新しいシルバーのリングを何となく触る。いつの間にかあった物で、きっと、あの時あの人がくれた物で。だからオレは今、人間でいられて。
「ほら見てみー金架。お前が帰ってきたのを聞きつけて、同学年だけならず下級生も見に来てんで」
「オレ何もしてねーよ……」
「あの、でも」
口元に両手を当てながら、清水が言葉を発した。
「金架君、本当に無事で、良かったよ。もう会えないんじゃないかって、思ったから」
その黒い瞳が、なんだか少し潤んでいるような気がして。
「可愛い!」
「ひゃあ!」
女子同士、仲良くくっつく清水達。和む。大いに和む。金架と楓は大いに和んだ。
「えーか、金架」
「なんだよ」
人差し指を突き出し楓は言う。
「月曜は週初めやから疲れる」
「うん」
「火曜は月曜の次の日やから疲れるやろ」
「うん」
「水曜は数学が2時間あるからほんと疲れる」
「おう」
「木曜はもうすぐ終わる……って感じがあって疲れるやろ」
「あー」
「金曜は週終わりだから疲れる」
「結局疲れねーの土日だけじゃねーか」
「いや、土日もある意味疲れるわ」
「本末転倒かよ!」
「1番疲れんのは祝日やな!」
教室に響くほどの声で騒ぐ金架と楓。クラス一目立つ金髪2人組である。
「あ、あのあの、金架君。今日部活でどこか行く、かな?」
そんな彼へ、顔を真っ赤にしながら、清水が金架へ尋ねた。
「え? いかねー。疲れた。明日剣道と居合道は行く」
「金架、あといくつ掛け持つつもりや」
「わからん。道がある限りだな。で、何? 清水、なんかあんの?」
「あのね、その、その、金架君がいない間の、3月からの学習合宿とか授業のノートとかプリント類、全部まとめてあるから、あの、量が少ない訳じゃないから、金架君の、お、お家まで持っていこうかな、って。その、迷惑でなけれ、ば」
顔を真っ赤にしながら、ヘアピンを触りながら、清水は金架へ提案する。
「ほら私たち、今年受験生だし、ね。ど、どうかな」
「清水、お前……」
金架が感動に浸った地獄から救われたような顔をしていると、次の授業の開始を告げるチャイムが響いた。
「ちょ、次! 第3理科室だって!」
「うわあ時間見ろや! ほな行くで金架!」
「お、おおう!」
バタバタと各々で荷物を持ち、教室を飛び出した。チャイムがクライマックスに向かう中、
「清水、じゃあ今日頼む!」
「うわ、あ、はい!」
金架は清水と、放課後に約束をした。
きっとそれは、運命だったのであろうが。
今朝の彼ならば、放課後はシルクたちを探すということを考えていた。
しかし、妙に懐かしい日常に戻ってきたときその時の彼は考えていた。
放課後のシルク探しは、あと回して良いかと。
少しの間、彼は、非日常を忘れることにした。
シンガポールから帰ってきた次の日、つまりは今朝、普通に目覚めて、身体を起こしてみると、そこはやはり自分の家であった。まあ特に何も感じることもなく、カーテンを開けていると部屋の扉が開いた。
「カナちゃん、ごはん」
神藤セカイだった。6つほど下の義妹。
相変わらずノックはなく、ボソッと、儚いというより消えるように、リン、と鈴が鳴って、それ以上鳴らないように、本当は、言うつもりなんて更々ないように。
無表情。感情がないのではなく、本気ではないような。
いつも通りの、サラサラした烏の濡れ羽色のストレート、吸い込まれそうな黒い瞳。白いハイソックス、腰の細いベルトがセンスを光らせる清楚なワンピースが、彼女の通う私立小学校の制服。どこか妙に浮世離れした、変に神秘的な、そんな感じの、ただの義理の妹。
クールドライ、神藤セカイである。
「ん。すぐいく」
金架が右手を上げてそう答えると、セカイはそのまま部屋のドアを閉めずに廊下を歩いて行ってしまった。足音すら、気配すら無い。あいつは実はもう死んでるんじゃねーかと思いながら、金架はカーディガンを羽織った。4月の下旬、窓からの風は暖かい。
台所へ行くと、彼女は4人掛けのテーブルのイスにちょこんと上品に座っていた。隣のイスには、背負うタイプの指定通学鞄が掛けられていた。テレビくらいつければいいのにと、金架は冷蔵庫を開ける。ベーコンがない。ベーコンがないのでしょうがないからロースハムを取り出す。今日帰りに買って帰ろう。ついでに卵も2個取り出す。トースターに食パンを2枚入れ、4分に合わせる。熱したフライパンに油を広げて2枚のハムの片面をじっくり焼いてひっくり返し、そして卵を2つ割り落とす。その後適当な量の水を入れ、蓋をし、強火にセットした。水分が蒸発する音と、香ばしい香りが一瞬広がった。
「卵片手で割れるようになったんだね」
「おうっ。練習した」
「凄いね」
「だろ」
「換気扇つけてね」
「はいよ」
昨日の残りのトマトとキュウリのツナサラダを冷蔵庫から出し、ラップを取ってサラダ用の皿と共にテーブルの上に置く。続いてバターとイチゴジャムとマーマレードを置く。フライパンの蓋を開けるとグッドタイミングで、卵の黄身はしっかり固まりハムも良い感じに焦げていた。弱火にして、仕上げに取りかかる前にトースターからこんがりと焼けたパンを取り、テーブルへ運んでいった。
「そういや、お前ほんとに歳の数だけマーライオンのぬいぐるみ買ってったんだな。ぴったり33個とかびくったわ。和室にマーライオンってマジびくったわ」
「そ?」
フライパンの火を止め、目玉焼きを皿へ移すと、箸を一膳ずつ乗せて1つはセカイの前へ、1つはその向かいの席に置く。冷蔵庫から牛乳とオレンジジュースを取り出して、コップと共にテーブルの上に置けば、金架もやっとイスへ腰掛けた。
「運ぶくらい、するのに」
「お前は不器用だから駄目」
そろっと小さな手をテーブルの下から伸ばし、彼女はコップに触れた。
「どっち?」
「オレンジジュース」
「ん」
彼女のコップへオレンジジュースを注ぐ、ついてに自分のコップにも注いだ。両手でコップを持ち上げてゆっくりとオレンジジュースを飲む彼女。目玉焼きに塩胡椒をかけてやると、時間をかけていたわりには全く減っていないコップを置いて箸を握り、小鳥が突っつくように目玉焼きの白身を食べ始めた。金架はバターを塗りたくったトーストを囓り、ふと壁の方へ目を見やった。ハンガーが1つ、寂しくそこにかかっていた。いつもはあの色の羽織が掛かっている場所。
「……まだ、出かけてんだな」
「2ヶ月はいないかもって言ってた」
「大変だなー」
「帰ってきたらカナちゃん罰するって言ってた」
「大変、だなー……」
主語がないのに、会話は続いた。トーストを半分に割ったその最後の一口を咀嚼し終えると、セカイはスッと視線を上げた。
「今日は帰り、遅いかな」
「なんかあんの?」
「学級長会」
「おお」
オレの周りの女子って長になる率高くね?
「この前、2こ下の、4年2組の学級長の吉野君が――」
「誰だよ」
そういえば、シルクや稀生はどこへ行ったんだろう。
実の所昨日空港からこの街にまで一緒に帰ってきたけれど、オレの家の前まで来たら、じゃあねと言って稀生と一緒にオレの家を通り過ぎていった。ああ、と答えた後、ハッとしてその方向へ視線を移すと、もう彼らはいなかった。
「もうすぐ生まれるから、楽しみらしいよ――」
この街にはいるんだろうか?
「だから――」
というか、更なる魔王討伐への物語はどうなった? まだ終わってないらしいじゃないか。
……会いたいな。
「そろそろ――」
そうして金架がマーマレードに手を伸ばそうと顔を上げたとき。
「あ! 馬鹿、セカイ!」
「ん……?」
「あー……だからお前は、何もするなっていっただろ……」
無表情に、彼女は右手にトングを持っていた、キュウリやトマトがざんばらに刺さった。イスの上に足を乗せて、精一杯腕を伸ばして。そのサラダが入ったボウルから彼女のサラダ用の皿まで、テーブルの上をまるで路を辿ったかのようにキュウリやトマトが点々と落ちていた。ツナはといえば、もうなんか散り散り。金架は盛大に溜め息をついた。そして、トングで拾い始めた。
「ああもう、これ食えよ。他に何か取るか?」
「いい」
本当、不器用である。
本当、不遠慮である。
静かに朝食が済み、金架は仕舞うべき物を冷蔵庫に仕舞い、食器を全て水に浸け終わると、鞄を背負ったセカイに靴を履いておくように言い、自身は部屋へ鞄を取りに行く。窓を閉め、肩に鞄を掛ける。
とりあえず、学校の帰りとか、この辺散策してみよう。
そうして玄関に向かうと、セカイはやっと左の靴を履き終えたらしいところだった。その横で金架は靴を履くと、彼女の前にしゃがみ、右足の靴を履かせてやった。セカイは、ありがとうと言って、立ち上がった。
鍵を閉めて、下の駐輪所にて、自転車のロックを外す。カゴの中に、肩掛け鞄を投げ入れた。
「行くぞ」
「うん」
後ろにセカイを乗せて、自転車を漕ぎ出した。金架の通う公立高校の行きしなにセカイの通う私立小学校があるので、毎朝の登校風景といえばこれである。
いつも通りの通学路。ぽかぽか陽気の中、緩やかな速度で走る自転車で学校に向かう子どもや通勤する大人をどんどん抜かしていき、さらさら流れる川の横を通り過ぎる。少し人通りの多い商店街の前を通り過ぎる。そして次の角を曲がろうとすると、
「今日はここまででいい」
とてもか細い声が聞こえた気がして、自転車を止めた。カーディガンを弱々しく掴んでいた両手が離れる。
「ああ。じゃあ……」
トン、と彼女が自転車から降りた音がした。しかし、何か重量的な変化は感じられなかった、いつものことだが。
「気をつけてけよー」
「うん」
ひょこひょこと歩いて行く義妹の背中を見つめながら、アイツはオレがいない間もああやって歩いて学校へ行っていたんだろうかと金架は考えた。
オレがいない間、戌威がいない間、彼女はあの広い家でどうやって過ごしていたんだろうと。
小さな背中が、さらに小さくなって行った。
その曲がり角は、現在は夕日に染まっている。
金架の自転車が止まった。帰り道、ふと、振り返った。
「? どうしたの、金架君」
清水も立ち止まった。両手には通学用鞄と、金架のためにまとめられた大量の授業用ノート。約1ヶ月で多すぎる。受験生、なんて残酷なのだろう。いやまあ多分心配性の清水が多く準備しすぎただけだと思うが。
「ん? いや、そういえば今日はいもーとの帰りが遅かったなあと」
「そ、そうなんだ、偶然、だね。私の弟もね、帰りが遅くなるって、言ってたんだよ。なんかね、学級長会らしくって……」
「偶然だな。俺のいもーとも学級長会で遅くなるらしいってー」
金架は大きく欠伸をした。
「……もしかして妹さん、そこの私立小に通ってる?」
「うん」
重いノートの入った包みを腕に掛けながらも、清水はその両手を口元へ持って行き、頬を赤く染めた。
「わ、私の弟も、そこだよ。わ、妹さん達、同じ学校だったんだね、わ、わ、あう」
「6年だけど、清水んとこも6年?」
「ううん、よ、4年2組さんだよ」
「4年2組?」
どっかで聞いた。そう、確か朝。セカイと世間話をしているときに、そう、頭の片隅にあった……
「吉野って奴?」
「え? な、何で知ってるの? わ、凄い、金架君……」
「何で名字違うわけ?」
「え?」
金架のその問いに、清水は再度疑問符を頭の中に巡らせたような吃驚顔になった。そしてすぐに、何かに気づき、困ったように小さく笑った。
「あ、あのー……金架君、私の名字分かるよね? 3年、同じクラスだったもんね?」
「清水だろ?」
「あうう……」
人差し指と人差し指の先を合わせて、彼女は言う。視線を少しずらして、ヘアピンを触りながら申し訳なく彼女は口を開く。
「清水って、名前なんだよ」
「……?」
「先生とかも……みんな、清水って呼ぶんだけれど……私の名字はね、小石川なん、だよ」
「小石川清水?」
「うん」
「小石川吉野?」
「うん……あと姉弟まだ2人いるけど」
「まじか!」
まどろっこしいなあおい!
え、他の姉弟の名前気になるわ!
「え、あ、なんかごめん! ずっと馴れ馴れしく呼んでて!」
「い、いいんだよ。そこまで、き、気にしてないし。清水なんて、普通は名字だと思うよ、ね」
「いやいやいや!」
うわ、まさか、名前で呼ぶ女子なんてセカイだけだと思っていたのに、飛んだ不意打ちだ!
「あ、あのさ、他にも姉弟いんだ? なんて名前なんだよ」
「え、えっとね」
と、話を逸らしに逸らしてその曲がり角で、愛らしい同級生と立ち話をしていた彼であったが。
「えっと、中学3年生の妹が――」
不意に金架は後ろを振り向いた。
あれ、この感じ。
どこかで感じた、この感じ。
どこで?
シンガポールのシロソ砦? 真っ白なあの空間? それとも――あの神社?
そう、何か、日常が鮮やかにグルリと裏返って、アイツが現れた。
だから逃げた。
逃げた先で、あの真っ白い空間が広がって、オレはあの人に出会った。
自ら非日常へ行こうとしたのに、あっちからやってきたから、咄嗟に逃げたのに。
そう、この感覚。
あの神社で“かくれんぼ”をしていたときの、あの感覚。
「Привет, я устал от ожидания, вампир」
人の声。
あいつの、声だ。
聞き慣れない、何故か他に誰もいないこの道で響き渡る、異国の言葉。
「В самом деле, я долго……2ヶ月ぶりだ」
クセっ毛の赤髪、グレイの瞳、雪のように白い肌、黒を基調としたクロークを纏った、
「夢露・ロジェーストヴェンスキー、それがおれの名だ」
不敵に笑う、まだあどけなさの残る少年。
「覚えているか? 吸血鬼」
両手に持つは、死神が持っていそうな、金架の背丈以上あろうと思われる、大鎌。
「…………ぁ」
清水の顔は青ざめていた。その右手で、金架の服の裾を掴む。
異国の、それもどう見ても年下の少年が、普段見慣れない物を携えている。
完全なる非日常。
金架は分かっていた。この殺気、この威圧。
彼はきっとこれから、自分を殺しに来ると。
だって、前もそれで――。
「あの時は逃げられたが、今度はそうはいかない」
自身の顔がこわばっていくのが分かった。
声が出ない。足が動かない。
「怖いのか? しかしそれはお前が要因だ。前にも言ったろう」
少年――夢露は、電柱の上から、飛び降り、身軽に着地した。
「そう、お前が、生まれてこなければ――」
ああ、これだ。
「お前が生まれてこなければ良かったのに」
“ ”。
前にすれば、目を見張るほどの美少年。しかしその眼光は鋭く、獲物を閉じ込めた狩人のように。
「な、何なんだお前、前から、オレにつきまといやがって!」
金架がようやく口を開いた、やっと言葉を絞り出せた。
「お前は吸血鬼だ。吸血鬼などこの世界にいてはならない。おれが、狩人のおれが、吸血鬼を狩る、それだけのことだ。自然の摂理だ」
攻撃的に、しかし淡々と言う夢露。そしてだんだんと近づいてくる。金架は思考した。この状況下で、思考した。
こいつは、本気で、ヤバイんだ。
近づいてくる足音を辿って、コンクリートの地面を見やると、陣のようなものが描かれていた。ところどころ、塀や電柱、白いチョークで描かれているような、金架達を取り囲むように。
この、陣みたいなのも、確かヤバイ。
相変わらず、コイツはヤバイ。
清水、清水だけでも、どうにかしてこの場から……。
ヒュン、と。
何かが空を切った。
金架は一瞬で理解出来た。夢露が、まるで挨拶代わりとでも言うように、その大鎌を金架の首めがけて振るってきたのに対し、彼は瞬発力で、しゃがんで避けた。そしてその大鎌はそのまま、清水の頭上の塀のブロックを破壊した。
「っ」
清水が息を呑んだ音さえ聞こえた。がらがらと小さく崩れる塀ブロック、煙まで立ち上り、彼女は瞬間で気を失い、その場にへたり込んだ。
「し」
すると夢露はその大鎌を大きく反転させ、金架に向かって振り下ろした。
「ううわっ!」
飛ぶように金架は転がり、そして大きく後ずさった。肩掛け鞄が宙を舞った。
獲物を捕らえ損ねた狩人は、破壊された壁もそこで気絶している少女にも、元から眼中になかったかのように目もくれず、ゆらりと金架の方へ視線を向けた。まるでこの場を楽しんでいるかのような好戦的な瞳、そして、何か闇を感じる、そのグレイの瞳の奥にギラギラと輝く光。興奮しているのか、その白い肌は赤く染まっていて。
「Мертвые」
何を言ったか分からないと理解する前に、夢露の顔が目の前に来ていた。
「!」
目が合い、大鎌が風を切る音さえ聞こえ、死ぬ、と思ったから。
「う、うわあああああああ!」
「がっ」
つい、反射的に、夢露の腹部を思いっきり蹴り飛ばした。彼の細身の身体は飛び、清水が失神している壁の反対に位置する電柱へ激突した。
「こ、こ、こええじゃねえかよ! 馬鹿野郎!」
急く鼓動を抑えながら、思いっきり叫ぶ。恐怖と、焦燥と、絶望と、驚愕と、嫌悪と、よく分からない感情が上昇して、金架は次の彼の動きを待った。携帯はさっき飛んでいった鞄の中。清水がせっかく作ってくれたノート達が無残にもコンクリートの上に広がっていた。
くしゃり、ぐしゃりと。
呻き声を上げながらそれらを踏ん付けて、鎌の柄を立ててどうにかして立ち上がった彼、夢露・ロジェーストヴェンスキー。
フラフラと、そして更に強くなったその光を連れて。
「……逆らうのか? 吸血鬼如きが逆らうのか?」
ワナワナと震える声、先程よりも走る緊張感、憎悪の光。
「なんだよ、なんだよ! お前さえ、お前さえいなければ!」
憎しみの、紅い光……?
「Умер!」
そのよく解らない威勢に押され、思わず退がった金架は、異変に気づく。
「な」
足が動かない。強張って動かないのではなく、本当に、何かに足を掴まれているかのような。
金架の足下には、先程目に映った陣のようなものが、あった。後ろはコンクリートの壁、逃げ場が、無くなった。
「しまっ」
「Конец!」
その大鎌が、夕日でギラリと煌めいた。彼の首めがけてそれを降り降ろした夢露が、紅い瞳に浮かんだとき、金架はどうしても無理だろうと思った。
その瞬間、まるで時が止まったかのように、脳の中に様々な映像と音が響いた。
ああ、まだシルクに会えていない。
会いたいのに。
会いたい。
ああ、まだアイツの名を呼んでいない。
呼びたいのに。
清水にはまだしっかり礼を言えてねえ。楓とは今度遊ぶ約束をしたんだ。あ、田耕に3月に借りたはずのゲーム、返さねーと。ハタセンとの決着も付けてねえし。あ、ベーコンを。買いに行きたい。消費するばかりじゃいけねーんだぜ……セカイ。セカイは……また独りぼっちになる、もしかしたらアイツは今度こそ死んじまうかもしれない。
まだ、死んじゃだめだろ。
まだ、死にたくねえよ。
「やめろよ」
瞬間。
夢露の動きが止まった。そしてその狂気に満ちた表情が、強張った。
「な、何で、動かないんだ?」
動けないその状態で、お互い見つめ合った。
東の空が、段々薄暗くなっていく。
紅い瞳の両者は、瞬きもせず、互いを映さず――
風が吹いた気がした。
熱い風が。
「……?」
何か音がした気がした。
何かが向かってくるような。
「曲炎」
声がした。
と同時に。
赤い光が、まるでトルネードのように、その赤い炎は、その赤い炎の塊はその勢いで夢露に激突するとそのまま彼をかなり離れた地面の上へ打ちつけた。
一瞬にして消える炎。
「……熱!」
反射で、立ち上がってしまった。地面がその炎でからか、熱くなって、つい、立ち上がれた。よく見ると、陣のようなものは、少し黒焦げていた。
筆入れや、教科書が、清水の鞄から飛び出し、筆入れの中から、1枚の紙きれが飛び出し、空を舞った。
その紙きれが舞う先に、足音がする。
カツンカツンと、下駄の音だ。
よく知っている、下駄の音だ。少し、底の厚い。
その足跡は、急に止まった。見ると、清水が倒れている壁の隣に、彼は立っていた。
ゆるゆると着ている萌葱色の着物そして、いつもの浅黄色の羽織。無地の薄青蛇の目傘を差して肩に引っかけている可笑しな背格好。
「あーあー……近所迷惑だろうが、餓鬼共様よ」
声に抑揚はなく感情も感じられず、その狐の面を付けた男の表情は勿論読めず。なんたって左目はそのお面で隠れ、右目は包帯で包まれており、頬が染まったこともなく、口元が綻んだこともない。
「特にそこの露西亜的貴様な、」
ちょこんと首の後ろにある1つに纏められた黒髪。右手で狐の面を目深に被り直すと、左手の煙管を傾けて、
「俺様んとこのガキ小突くとは一体何様だ」
奇っ怪で不機嫌そうな男。
「あ……」
金架は思わず座り込んだ。
「戌威」
名を呼んだ。
「あん?」
答えてくれた。
こっちを見た。視線は分からないけれど。
戌威の首に巻き付いているアレが、高く鳴いた。
謝らなければ、謝れなければ、謝らなければ。
謝らなければ。
オレは、戌威に、義父に、あの日、神社で、してはならないことを――
「おい金架、無駄なこと考えてねえで道開けろ」
「え?」
「あと貴様」
不意に戌威は、倒れている清水の方へ身体を向けた。
「貴様、会合に出席しねえで何処ほっつき歩いてたんだ?」
「え?」
戌威は、清水と会ったことはないはずだ。それに、金架はあまり戌威が自分たち以外と口を聞くところを見たことがない。
「いい加減狸寝入りしてねえで起きろ」
今日の戌威は、よく喋る。
「ふふ、戌威ちゃんは変わらず狐だねえ」
…………?
清水の声がした、けど。
彼女はゆっくりと、その身体を起こした。制服の砂を払い、髪を翻し、ヘアピンを直すと、
「とりあえず、自己紹介かな?」
完全に立ち上がり、メガネを目から頭へ上げると、その、金架と同じ色の紅い瞳を爛々と光らせ、快活過ぎる声で、
「初めまして! 今日も明日も明後日も、いつでも元気、世継ちゃんだよ!」
と、満面の笑顔で叫んだ。
「…………。……清水?」
「確かに身体は清水ちゃんだけど心は世継ちゃんだよ! あはは、金架ちゃんどうしたの? すっごく面白い顔してるよ!」
「…………」
あれ? どんどん、シリアスな空気が……。
「初めましてー! 世継ちゃんは、大宅世継っていうんだよ! なに、みんな忘れてるの?! もう! 世継ちゃんのことは、世継ちゃんって呼んでね、世継ちゃんも金架ちゃんのこと金架ちゃんって呼ぶからさ! かれこれ語り部やってるよ、主に、世界の歴史を語るよ。まあ語り部って言っても語彙も文章力も凄く程度が低いから、バラバラの文章を最後は無理矢理纏めちゃうけどね。何でも知っているけれどちょっと語るの下手かな。これでも語り部の頂点なんだけどね。あー、繁樹ちゃん元気かなー。今日も元気に毒を吐いてるかな? ていうか、大宅世継なんて大層な名前だけれど全く別の人物だから安心してね、読み方から違うしね、繁樹ちゃんも! 同姓同名ってやつだね! 見た目はこんなに可愛い清水ちゃんだけれど、手を出したら許さないよ、世継ちゃんの身体じゃないからね! ていうか世継ちゃん今年で1200歳のジジイだから気を悪くすると思うよ、精神だけの存在だけれど!」
「え、ちょっと、ちょっと待って……」
「あーそういえば、1200歳ってことはアンジェリークちゃんよりは年下なのか……うわ。あ、大丈夫だよ金架ちゃんっ。シルクちゃんは未だに自身の力を発揮出来ないからそのためにとある場所で少し休養を取っているのさ。金架ちゃんがやっと日常に帰って来れたんだから、今はその穏やかな日々を楽しんで欲しいらしいよ! 他の世界でも確かにバトってるけど、そんな頻繁にバトれば世界が救えるとでも思ってんのかね」
「シル、ク?」
ベラベラと色々よく解らないことを語り出し、そう例えるなら漫画の感想だけならずそのままネタバレまでしてしまうような、しかし軽快だ、疲れないのだろうか。シルクの名が出た途端、金架は視線を合わせた。世継も合わせた。戌威はこちらに振り向いた。
「そ、シルクちゃん。稀生ちゃんも近くにおるよ―、勇者でもね、休息は必要なんだよ。世継ちゃんもこんなに出てきて清水ちゃん疲れさせたくないしね!」
彼は、歩き出す。金架の隣を通り過ぎ、軽やかな動きで、彼女の身体で。
「大丈夫大丈夫、世継ちゃんは朝になれば清水ちゃんから消えるから」
そして、伏せる彼の元へと辿り着いた。
「はりろー、夢露ちゃん」
ほぼ忘れかけられたような夢露・ロジェーストヴェンスキーは、瓦礫の中から苦痛の表情で顔だけ上げた。
「……語り部。何をそうそいつらの肩を持ってんだ……」
「世継ちゃんは誰にも縛られないんだよ! にしても相変わらず夢露ちゃんは、金架ちゃんの前だけでは豹変するんだね、そんなに激情を露わにしちゃってさ。普段はあんなに気の抜けたどSさんなのにね!」
「黙れ」
辛うじて大鎌に頼りながら、夢露は立ち上がった。金架は何か感じたのか、少し後退りした。すると誰かに両肩を掴まれた。思わず後ろを振り向くと、清水が、否、大宅世継がいた。
「大宅世継?」
いつのまに。
「うん、世継ちゃんだよ、ここは恐ろしく邪魔で絶対巻き込まれるところなので、金架ちゃんはさがっていましょー」
ズルズルと半ば引き摺られている感じで崩れた壁の影に身を寄せ、頭だけ出す2人。
金架は世継の方を見る。なんだか妙に生き生きとしていて、自信に満ちたような顔つきで、いつもは清水がしないような表情をしていて、しかもメガネ外してるし、なんだかよく解らなかった。そんな彼らが見守る両者は、互いに対角線上に立ち、睨み合っていた(戌威は少々不明だが)。
「緑玉の狐、お前の出る幕じゃない。おれは吸血鬼に用がある」
「五月蠅え黙れ。焼かれてえのか」
戌威の右手が、炎に包まれていた。先程見た炎の色と同じ、綺麗な炎。しかし金架はその炎にあまり近づきたくないなと思った。本当に、全てを焼き尽くしてしまいそうだと思ったから。
「金架、出てくるなよ。貴様にゃ炎は毒だ」
「え?」
「鬼には効くんだよ、無論、貴様にもな」
夢露が大鎌構え、地を蹴った。
「生きていることが前提条件だと思うなよ」
相も変わらず脈絡も繋がりもない発言。
「鶏合」
途端に、戌威の後方より甲高い鳴き声が響いたかと思うと赤く燃えた何かが飛んできた。鳥だ。大きな羽根を羽ばたかせ、夢露に向かってその鋭利で真っ赤なくちばしを向けた。
「っ……フェニクスか、う、あ、何だコイツ、Не двигаться! Ну и дела!」
アイツ、焦るとあれかな、母国語喋っちゃうのかな。
嘲笑するような甲高い声を上げてちょこまかと動き回る炎の鳥に苦戦する夢露を、金架は密かに観察して思った。まるで自分は蚊帳の外とでもいうように、戌威は暢気に煙管を傾ける。
「そいつはまだ外に出て日がねえ、おまけに単細胞、まだ自分が不死鳥だと自覚してねえくらいだ」
「おー! さっすが戌威ちゃん! よ、一族切ってのイズナ使い!」
「ああ……」
金架は久しく感嘆する。
戌威の仕事のことは勿論知っていた。
それは少しだけ、知っていた。
魔祓い、とか、らしい。
北海道への出張は、依頼のため。
彼の首に巻き付いている長いもこもことした、頭が狐のような生き物は、管狐、というらしい。普段は姿を見ないが、戌威が仕事をしたとき、一度だけ見たことがある。戌威にはとても懐いているが、他人にはかなり気性が、荒い。オレも昔、噛まれそうになったことがある。躯から放ったで火傷もしそうになった。
そして、それらを繰り支配する、神藤家随一の除霊師。
郷である隠れ里にその広大で高貴な門を構え、霊媒師や祈祷師や審神者、貉や貒をも操る陰陽道の担い手達の、スペシャリスト集団の頂点に立つ男。
神藤。
その名を名乗るには、あまりにも重すぎて、自分は軽すぎて、どうしても人前では時折しか名乗らなかったけれど。
父親。
その名を呼ぶには、あまりにも、憧れと、躊躇いと、戸惑いと、嬉しさと怖さが混ざり合ってしまうから――
――本当、何で戌威はオレ達を引き取ったんだろう。
「さすが、12人の魔法使いの1人、緑玉の狐だね」
「魔法……?」
おっと、と世継ぎは思わず、というように、何か含み笑顔で口に手を当てた。清水のものじゃない紅い瞳が、綺麗に揺らめいた。
「いつかね、今日本当だと思うことが嘘になって、今日嘘だと思うことが本当になるんだよ。まあどこぞの世界には、目の前の物でさえ信じられずに揺らいでる子もいるけどね」
世継は大きく伸びをして、
「でも、どうして夢露ちゃんは戌威ちゃんにあんなにご執心かな。まあ世継ちゃん知っているけど、もうそこまで読んでいるけど! でもいわなーい。本人の前ではいわなーい。語り部的ノリ? みたいな!」
テンションハイである。小さくしゃがんでいる割にオーバーアクション、清水って家ではこんな感じなのかな……や、コイツは清水じゃない。
大宅世継だ。
「その、その、夢露・ロジェー……ろじぇ?」
「夢露・ロジェーストヴェンスキーちゃん?」
「そうそいつ。どこの国の人なんだよ」
「この世界でいうロシアだよ」
「ああ」
そういえばさっき戌威が言ってた気がする。
というか、先程命の危機であったはずなのに、自分はえらく沈着冷静ではなかろうか。
一体どうしたんだ、オレ。
「何? 何か夢露ちゃんに感じることでもあるのかな?」
「…………」
「彼が生まれてこなければ、こんな目に遭わずに済んだかしら?」
3月に初めて出会った時も、そして今も、彼は変わらない。
いやまあ、そんなすぐに人は変わらないけれど。
けれどもどうして、彼は自分を追うのだろうか。
その理由も知りたいし、それにあいつは、まだガキだ。
こちらの言っていることを聞かず、自分はどんどんやりたいようにやって、まるであの黒子猫みたいだ。
そんな、年下の、1人の少年。
“ウマレテコナケレバヨカッタノニ”。
「いや、そんなはずない」
生まれてはいけない人なんて、いない。
「はじめから傷付けあうために、生まれたんじゃない」
金架は、立ち上がった。
眼前で炎の鳥と相対する夢露に向かって腕を掲げた戌威は、呟く。
「曲炎」
途端にその腕に炎を纏い、その炎の竜巻は夢露に向かっていく。
「Я. придет кипения, как насекомоеs!」
「曲炎」
「しつこいぞ!」
「当たんねえなあ……当たれよ」
「Идиот! 当たる馬鹿がどこにいるか!」
「五月蠅えなあ、手抜いてんだからよ、とっとと家に帰れ、餓鬼は早く帰れ」
「餓鬼、餓鬼と……おれは、おれは鬼なんか、違う!」
嵐のような炎の森をかいくぐり、炎の鳥がその尖った爪を晒して飛翔してきたのを振り返り迎え、その陣の上へ来た瞬間に夢露は叫んで何かを投げた。甲高い声が止んだかと思えば、鳥はその陣の宙で一時停止したように目をパチクリして静止いた。見ると、その額に何か札のような物が張り付いていた。すると、鳥はその陣の中へユルユルと吸い込まれていった。そして、消えた。
「!」
炎の鳥は、どこへ行ったのだろうか。金架はその場所を見据えた。けれども、また真っ直ぐ前を見た。
蛇の目傘をクルクルと回し、溜め息でさえ感情の色がないような、戌威はその場所から目を離し、向かってくる夢露へ右手を掲げた。
「頼むぞ、管狐」
首に巻き付いていた管狐が、シュルンと戌威の首から離れる。
「あの鳥はまだ子どもだからな。やられて当然。どうせまた生き返るやつらだ」
そして管狐は、蛇のようにうねり、そして俊敏に夢露と正面に向き合った。
「?!」
吃驚する夢露。そのあまりの速さに身体が追いつかず、次に気づくと、彼は完全に動きを抑制されていた
。管狐が、異様な長さに伸び、驚きの姿に変貌を遂げ、あの細く短かった身体は今や分厚く長い胴体へ、あたかも龍のようなその胴体で彼を拘束し、締め上げていた。
「う、ぐ」
大鎌を握りしめているものの、身動きがとれず、ただただ締め付けは強くなっていく。
「このまま管狐で上の世界に連れて行ってやろうか」
こんな時までも、表情は一切動かず、ただただ冷酷な雰囲気を出すのみ。煙管をもう一口味わおうと、その左手を上げようとした。が、上がらなかった。
「戌威……」
何故なら、彼が、金架が、俯きながら、その腕を掴んでいたから。その少し悲しそうな顔を上げ、金架は叫んだ。
「戌威! ……もう、もういいよ! 離してやろうぜ!」
「…………」
「オレはもう平気だ! それに、アイツはまだ子供だろ!? ダ、ダメ、だよ……」
段々、腕を掴む力が弱くなっていく。また顔は沈んでいく。
「……貴様も餓鬼だろうが」
逡巡の末、戌威は金架の手を無理矢理振り払い、夢露へ指先を向けた。
「篝・放生」
そう唱えた瞬間、
「な、また、また邪魔しやがって! 緑玉の狐!」
「浄化の炎でもあっから、ついでに人間にでも戻っておけ」
その炎に包囲されたその瞬間、彼に巻き付いていた管狐はシュルンと自らを解き、戌威の元へ一目散に戻った。そしてまた、彼の首へ愛おしそうに巻き付いた。
「おれは、おれは、そこの吸血鬼とは違う……」
金架はハッと息を呑んだ。
夢露は、あの好戦的な表情とは違い、今は、年相応な、クシャッとした、とても悲しそうな瞳をして、
「おれは人間なんだ」
グレイの、その瞳に。
最後に夢露に目が合ったと思うと、彼は炎に巻かれ、そして炎は天高く昇り、消えた。
気づけば、夢露が書いたと思われたあの縦横無尽に駆け巡っていた陣のようなものは、跡形もなく消えていた。
「…………」
「おい」
戌威だ。
「あれは……ただ移動させただけだ。ここから遠い、どこか安全な場所へ」
「ここから遠い、どこか安全な場所……」
その場所を見つめ続ける金架へ、
「天誅!」
「うぎゃ?!」
突然、戌威は彼の頭上真中心に手刀を繰り出した。比較的金架の方が少し背は高いが。
「3月、俺様に黙って外出とはとんだご身分だなあ、ええ?」
超不機嫌、超不機嫌!
「……ってえ~、ご、ごめん、なさい!」
どんどん縮こまっていく金架。久方の最高に痛い頭痛というのも、戌威の威圧からというのもあった。
「て、ていうかオレが自発的にやったことじゃねえもん」
「あ?」
「ごめんなさい……」
「実家に行ってくる。留守は頼んだ」
不意に上から降ってきた変わった話に、金架は顔を上げた。目には涙が溜まっていた。
「え? ……あー、長野? 北海道での仕事は?」
戌威の故郷は、長野県。どこにその門が構えてあるかは分からないが。幼い頃、1回だけ行ったことはあるが、全く覚えていない。
「ちょいと魚が逃げ込んだらしい」
「魚?」
「あとこれだ」
戌威は袖から何かを出し、金架に手渡した。
「セカイに渡しとけ」
進路に関わる三者面談のプリントだった。都合の悪い日に○がしてある。非日常のあとに、えらく現実的である。
「はい、金架ちゃん。清水ちゃんのお手製なんだからね、身に染みるように使いなさい」
と、清水、ではなく、大宅世継に何か包みを手渡された。中身は、先程散ったはずの、清水の特製受験対策ノート4月版や綺麗に整えられたプリントの束だった。
「ああ、ご都合主義とかじゃないよ~。そんなんあったら世界中のありとあらゆるニュース的アレが無くなってるでしょう? えへへ!」
そして彼女否彼は、戌威と共に歩き出した。金架達が向かうのと、反対側に。
「え、おい」
「大丈夫! 清水ちゃんは今日ちゃんと帰宅して明日も学校行くからさ!」
背を向けて、薄青の傘の向こうで、最後に彼の声がボソッと聞こえた。
「寄り道せずに帰れ」
夕日は沈む寸前で、夜の帳が、降りてきた。
それでも、彼の瞳の中では、昼間のように、よく視えた。
一瞬で現れ、一瞬で消えた、あの人達のその姿は、もう無かった。
ただただ、一つ二つ消えていく星を、ただただ、一つ二つ増えていく止まらない欲望のような、一つ二つ増えていく星を、空を見上げて、まるで宇宙のような、その空を。
遠く東の空を、彼は長い間見つめていた。
ご読了お疲れ様でした!
んー、この歌のテンポが好きでしてね、どうしても夕暮れです。
何言っているんでしょうね。
カラオケでも盛り上がりますしね。
七さんの曲名へのセンスに気づかされた一曲でもあります。
露君をずっと書きたかったので万歳です。
そろそろ同時進行で2期でも書こうかと思っております。
よろしければそちらもよろしくお願い致します。
それにしてもメリークリスマスです。
ガネクロのクリスマスソングと言えば、
私はCrier Girl & Crier Boy ~ice cold sky~を思い出します。
それではまた、よろしくお願い致します。
良いお年を。