010 雨上がりのBlue
夏の繋がりを感じていたい
ここはまるで、はやい夏がきたみたいだ
おんなじ過去を
ぼくらは共有してしまったから、
もっともっと、
その未来のほうへ
手を、伸ばしたくなるのに、
それでも伸ばさない、臆病なキミに……
「うおっ?! びっっくりした!?」
自身達が泊まっていた部屋から出て、同じドアが続く白く涼しい廊下から外に出れば、もうそこからは外の世界、ロビーも外と面していて暑い温度と湿度が感じられ、目の前には青々と生い茂る自然林と海が広がっていた。
入り口から(っていってもシンガポールのホテルに扉のような入り口など存在しない)歩を進め、坂道を降りると坂の下にはバス停が見え人がまばらにいて、そしてそこの奥にはもっとそれ以上の人がいた。
そこへ行くと、ホットドック屋やジェラート屋が開店準備をしているにもかかわらず多くの人が賑わっていて、どうしてここに大勢の人がいるのかと言えば、その先にはこの島唯一の水族館があるからだという。
そしてそこへ向かう途中道端にいたのが、蛇使いの男だった。首や目の前の籠でたくさんの蛇がその舌をチルチルと動かし、その胴体をうねらせている。その隣は観光客が首に蛇を巻いてみた、という感じの写真がたくさん貼られている。皆笑顔だが首に巻かれた蛇の身体のように顔が少々青ざめている。勇気ある臆病者とはこのことだ。
金架は開口二番に言った。
「リアルだぁー!」
すると男はニッコリと笑顔になって何かを喋ってきた。
「え、なんて?」
「良かったねえ、金架。汝が観光客だと分かって、世界共通言語である英語を、とても流暢に、使ってくれているよ」
「え、え?」
「今の時代、バイリンガルじゃ駄目だよ、せめて、トライリンガルまで、いかないとねえ」
「え、なに、トライアングル?」
「とりあえず、異文化には触れて、おきなさいな」
「お、おう」
触ってみた。
「おー」
意外とぷにぷにしててすべすべしてる。鱗をスーッとなぞり、蛇がこちらをチラリと見たので慌てて手を引っ込めた。
「シルク! クリアしたぞ!」
「よかったねぇ」
「意外と蛇って大丈夫かも……」
「そうだね。身共の知り合いの蛇さんだって、見た目と言動でとても恐怖を感じるけれどね、中身はとても繊細で、臆病なんだよ」
「え、何?」
「なんでもないよ。とにかく、人は中身と言えど、大抵の第一印象は、外見で決まるからね、気をつけなさい」
「は、はあ……」
「さて、水族館へ行こうか」
意外と歩くのが速いシルクの背中を、金架は追いかける。小さな筈なのに、その後ろ姿はとても頼れるものが見えた。
「しょうがない。汝が日常でのごまかせない費用を出してくれる代わりに、身共が汝と世界を繋いであげよう」
「あざっす……ていうか、何カ国語いけるんすか」
「国の数くらいかなぁ」
「…………」
「ほら汝、1人25ドルらしいよ。ホテルで換金したろう」
「あ、はい」
そう言って、金架はダボッとしたズボンのポケットから、派手なデザインがあしらわれたポールスミスの長財布を取り出した。相変わらず肌触りは最高である。開けると、中には日本円の紙幣が十数枚、そしてシンガポールドルであるカラフルな紙幣も十数枚。そこから青色の50ドル紙幣を抜き取った。小麦色の肌をした係員から笑顔と共にチケットを渡される。それらを素早く財布へしまうと、チケットの一枚をシルクへ差し出した。
「どぞっす」
「ん、ありがとう。それにしても汝、たくさんお金を、持っているね」
「そっすか? 普通だと思うんすけど」
「……」
「ああ……戌亥の実家が、なんか、金持ちみたいっすよ」
そう言いながら入場口へと向かう金架。目の前では、“アンダーウォーターワールドインシンガポール”と英語でかかれた碧い看板が、入場者の好奇心と意欲心を駆り立てるべく頭上に鎮座していた。
「それにしてもマジでここに奴はいるんすか?」
「うん。ああ、ほらいた」
「え」
入場口を挟んでシルクの右手が示す方向に、確かにいた。
その猫の尻尾のような黒髪を揺らし、入り口のそばにある大きな水槽のてすりに両手をはりつけ、先程の醜悪な態度には当て嵌まらない、その金色の瞳をキラキラ輝かせて頬を紅く高揚させ、それはそれは嬉しそうに、かなり恍惚とした表情で口をおおいに緩めて、水中を行き交う魚たちを俊敏な首の動きで追っている。
なにかうずうずとしているのが目に見える程、足が浮き足立っていた。
……子供? いや、猫? あ……猫、だよな、うん。
シルクの方を見てみた。
彼女は彼を見つめていて、そして、フッと柔らかく笑った。
しょうがないなあ、みたいな。
え? なにそれなんなのそれ。
それになんか異常にイラッとした。
「おいお前!」
「にゃっ?!」
にゃ?
大失踪。
叫んだのとこちらを見て身体全体で吃驚を表現した後、脱兎のごとくその少年は駆けだした。
…………。
「シルク! アイツ、逃げたぞ?!」
「当たり前だよ、汝。全く、何か言動を起こす前には、目先ではなくその先のことを、今の若者には、考えて欲しいモノだよ」
言葉ではやれやれというものの、態度は断然落ち着いていて目線の先には先程貰ったパンフレット。金架もつられて目を落とす。
「お、すげぇ! 水中の、トンネル! 80メートル以上だってよ! うぉ?! ピンクのイルカ、だと!? 見てえ超見てえ! てかシンガポールすげぇ!」
「そうだね。身共はただ知っているだけで経験はしていないからね……どうせ稀生は、ここから出ることは出来ないんだから、ゆっくりまわるとしようかね……あ、駄目だ。朝ご飯を食べねば身共の1日は始まらないよ……」
「バイキングだったら……明日も食えると思うんすけど」
「そういえばそうだったねぇ。そうだそうだ、身共は何を勘違いしていたんだろうね、何か衝動のようなものに突き動かされたとき、すぐ動かなければならないわけではないのに、なんでだろうねぇ、何か焦っているのかねえ?」
「さぁ……」
と、金架が稀生が走っていった方向へ細く目を向けると、彼は気付いているのかは知らないが、隠れているつもりなのだろうが完璧に見え見えの状態でイソギンチャクの水槽の隣の水色の壁からじーっと、その金色の目で稀生がこちらの様子を伺っていた。
戻ってきてるし……。
「シルク、あいつどうすりゃあいいんだ?」
「放っておけば付いてくるもんだよ、身共はクリオネが見たいからサクサク行くよ」
「あ、ちょ、待ってくださいよ!」
ということで水族館を回ることになった。
あれ?
朝っぱらだというのに水族館の前の人だかりよりはないが中は人々で賑わっている。
「きたきた! 80メートルの水中トンネル! 乗るぞ、シルク、乗るぞ-!」
「やれやれ」
「おーすげぇ! でも日本のと比べるとどこか地味だな!」
「……やれやれ」
ハイテンションな金架、笑みを絶やさないシルク、後ろをチョロチョロとしかめっ面で追いかけてくる稀生。
なんだこの距離感。
動く歩道の上で、金架は四方八方を見渡す。後ろの方で稀生も乗ってきた、泳ぎ回る魚を相変わらず俊敏に、瞳で追いかけている。シルクはゆっくりと首を動かしながら見る。透明な水の中を色とりどりの美しい魚たちが泳ぎ回る。エイが頭上を通り、たまにサメが横をその鋭利な歯を光らせながら通り過ぎる。こちらに付いてくる魚や見つめてくる魚、可笑しな魚がたくさんだった。
「彼らはいいよねえ」
「ん?」
不意にシルクが言った。
「人間以外の動物が、どこまで色んな概念を持っているかは身共でも少し不可解なんだけれどね、彼らは、この水の中の彼らは、泳げばぶつかる水槽の中で、ガラス越しに見る世界、身共達のいる世界の中にいると思い込んで、自由に生きていると思い込んで、無様に泳ぎ回っている。羨ましいよ」
「? どこがだよ? なんだそれ、えーっと、牢の中にいるみたいなノリ? あー、わかんね!」
「あっはっは、汝はまだ若いからねえ。存分に苦しむといい」
「えー」
「儚い命だと知りながら、どうしてだろうね。グルグルグルグル、その終わりのない問いかけは堂々巡り。いつの間にか生きてて、いつの間にか死んでいるって、嫌だね。気付いたらもう遅いってことじゃないか」
「シルク、左!」
「ん?」
突然金架が叫んだかと思うと、丁度その水中トンネルの曲がる瞬間の角っこに真っ暗闇の空間が広がっており、そこからサメの鋭利な歯がまるでこちらを狙っているかのように浮かび上がった。
「ひ」
「な、な、な? 超ビックリしねえ? あはは、ここ面白えなぁ! なぁ、シルク」
「え? あ、うん」
「シルクがビックリするとこ初めてみたな、新鮮だな!」
「金架、汝ねえ……」
「な? とりあえず暗い話止めね? いいよいいよいちいち何か罪悪感みたいなの被んなくたって! シルクはシルクだろ! 何あったかしらねーけど、終わったことじゃん、しらねーけど」
「んー……」
と、シルクは困ったように笑った。帽子に手を当てて、深く被ろうとする。
「まだ終わっては、いないかな」
「お、今度はシルクが困った。あれ、もしかしてオレ変なこと言ったか?」
「いいや?」
「え、じゃあ……」
金架がシルクに触れようとしたとき。
「よくもシルクを困らせたなー! それに何変な服着せてんだー! 離れろ、鬼ー!」
「どわぁー!」
しっかりと助走してきたようで、稀生が勢いよくジャンプして金架の頭部へローリングアタック的攻撃をかまし、そのまま頭部へへばりついた。当の金架は両目を押さえられ何が起こったのか理解出来ず反撃さえも出来ない。
「お、おいシルクっ、本当にコイツを勇者にするのか? あのおぞましい空間から出られたのは良いが、コイツはそれだけの奴なんじゃないのか? 今も突然触ろうとしたしな!」
「稀生、とりあえず降りなさい。見上げるの、疲れるんだよ」
「あ! ごめんよシルク。とうっ」
と、可愛らしい声をあげて飛び降りたのは良いが、水中トンネルの中はオレの身長もあるのですっごく狭いし下は動く踏段だし他の客もいるしで、バランスを取るのに全神経を使ってしまった。危ねえ。
とりあえず水中トンネルのゴールに無音で辿り着き、やっと安定したと思ったらまたきた。
「全く、他の人間もいるんだから、迷惑かけるなよな、鬼」
「いやお前のせいだろ」
「違う! お前が存在しているせいだ!」
「酷っ?!」
「万が一、いや、億が一、いや、兆が一でもボクはコイツに何も言わないぞ! 出来ない出来ない、出来るわけがない、お前に! お前が、シルクの重荷を全てはぎ取ることなんて」
「てい」
やっと稀生は止まった。シルクが稀生の頭上に手刀を打った。誰から見ても判るような、とても軽く優しい攻撃。稀生はビックリ顔で止まっている。
「いいかげんにしなさい、稀生。今のもさっきのも汝が悪いって言っているだろう?」
「…………」
柔らかい笑みを向けているのにとても芯の通ったその強い言葉に。
優しくなれないときや、されない歯がゆさ。
悪あがきの後の、この寂しさは何だろう?
稀生はだんだんと、うりゅ~っと、目に涙が溜まってきていた。コイツ黙ってればほんとにかわいい子供ってそーゆーもん。
「さぁ、ゆっくりでいいよ。こういうときは、何て言うんだっけ?」
「うぅ……う、ご……」
「そうそう。自らの行動に、忸怩たる思いを抱いただろう。さて金架、聞いてあげておくれ」
「お、おう」
改めて稀生と対峙する。流れる雫を精一杯両手でせき止め、本当に先程からの態度を反省したようである。上目遣いで、震える声で、必死にその言葉を発した。
「ごめん、なさい」
目線をずらさず、とても素直な、真実の言葉。
「え、いや……オレも悪かった、かも、だし……」
なにこれすげえ照れる。でも確かに、オレも大人気なかったし……。
どちらにも非はあったんだよな。
結局、素直なのが一番だな。
「ごめんな、猫」
そう言って、金架は稀生の頭を優しく撫でた。とても穏やかな顔で。対する稀生の毛並みはとても気持ち良くて、彼自身も気持ち良さそうに唸って、笑顔になって、言った。
「謝ったな?」
「え?」
「あーぁ、やっとか! せっかく僕の方が一歩引いてやったんだからさ、感謝して欲しいところだよ、全く。猫の耳でちゃんと聞いたぞ、お前が悪かった、って。さぁ! もっと謝れよ! 泣いて這いつくばってボクが許すまで無様に懇願しろぉ!」
高らかに伸びやかに、相も変わらない可愛らしい悪役顔で周りなど気にせずに叫んだ黒猫の少年。
前言撤回。
「んだとこの野郎ぉ!!」
取っ組み合いスタート。
結局、ほんとに素直が一番だった。
「クリオネって意外と、可愛いねーぇ」
そんな彼らのそっぽでは、楽しそうに他人事のようになんだかもう諦めたようにシルクが1人クリオネ観賞に浸っていた。
・
・
・
全てを見て回り、水族館の入り口から出た瞬間、
「暑っ!」
シンガポールは建物内はどこでも冷房がガンガンに効いているが、外は勿論自然のままで極暑の高温多湿、そして。
「え……孔雀!? え、動物園から逃げ出してきたのか?」
親子らしい大きな孔雀を先頭に小さな孔雀がとてちてと付きながら普通に優雅に堂々と道路を横断していた。餌をやっている人さえいる。金架は唖然としていた。
「コレは自然現象だよ金架」
「ぱねえっすシンガポール」
「リスも見られるらしいよ」
「みてえ」
シンガポールは確かに大きな樹木や巨大な植物や色とりどりの花と自然に溢れかえっているが、動物も自然レベルなのか。野性的すぎて日本人的にはドギマギ的な展開だぜ……。
ライオンとかは、さすがにいないよな?
「さてと」
歩きながらシルクが言った。
「これから、バスに乗ります」
「どこ行くんだ?」
「昼ご飯を、もとい朝ご飯を取りに」
「どっか行くのか?」
「この近くにね、レジャーランドがあるらしいよ。遊園地みたいな。そこのピザが格別に美味しいらしい」
「マジか! 行こうぜ! 恐ろしく腹が減っているんだ!」
金架も高校生男児である。腹の空きようは凄いのだ。そして稀生は首を傾げる。
「ぴ、ざ? シルク、それには、タマネギは入っているのか?」
「そうだねえ、入っているやつがあるかもしれないから、稀生には特別に、ツナサンドとかを買ってくれるよ、金架が。これも美味しいらしいんだ」
「へー、お前も使えるもんだな」
「五月蠅えよ猫。ていうか、好き嫌いするなよなー」
「なっ。知らないのか愚か者、猫はネギが嫌いなんだぞ! ボクを殺す気か、この殺人鬼が!」
「うまいこといってんじゃねえよ!」
「ほら汝達。バスが来るから、とっとと歩きなさいな」
気だるく揺れる3つの影。
日はまだまだ高く、サンサンと大地を焦がし、雲は大きくなっていく。
暑過ぎる。
雨降らねえかな。
金架は密かに思ったが。
傘ねえわ。
ということに気付きその思考を中断させることにした。
稀生を見る。
……そういえばこいつどうやって水族館入ったんだろう……。
聞かないことにした。
セントーサ島。
シンガポールの南に位置する人工島で、唯一のリゾートアイランド。
シンガポール観光の定番で、8つの有料施設とミュージカル・ファウンテンなど無料のアトラクション、3つのホテルに、シャレーのような簡易宿泊施設、ゴルフコースにサッカー場、キャンプ場、そして白砂のビーチとバラエティに富んだ島。海外からの誘客を目的に整備された島だが、最近は現地の人のためのレジャーアイランドという色彩も強くなり、ビーチやシャレー、キャンプ場などは現地の人で賑わっている。
南国気分が滞りなく味わえる夢の島。
「入島料がある代わりに、島での交通費は全てタダなんだ」
「すげえな。それにしてもバスって天井開いてないのな」
「当たり前だよ。どうしてわざわざ、日に当たらなきゃいけないんだい」
だって外国のバスってなんか2階とか吹き抜けじゃん筒抜けじゃん。
風とかあたって超気持ちいいの。
ああいうのって、憧れる。……でも確かに日射しは嫌だな。それにしてもシンガポール、バスの中まで冷房ガンガンだな。
がいこく、すげえ。
「……つーかバス速くね? 恐いんだけど、対向車とか来たらやばそうなんだけど」
「けど、なんだい。シンガポールではそんなのお構いなしでいつでも夜でも、猛スピードだよ。カーブとか楽しいと思うよ、スリルあって」
「命を大切に!」
てことでバスに乗って移動中。
山の中じゃないのに緑に囲まれているところが凄すぎる。小学生の頃登ったことはあるけれど、今じゃベランダから見下ろすくらいだもんな。
バスの中は混んでいて、いや混んでいるとかそういうレベルではなく、店員オーバーなのにそれ以上人が乗っていて、運転手さんもほんとに特にお構いなしで、だからこうやってオレがシルクと稀生を壁際にしてオレは他の人の背中に押されている訳なのだけれど。
「こういう場合は本気で、気を抜かない方が良い。スリや盗難なんてのも、この国では日常茶飯事らしいらね、人混みを利用するのがスリの常套手段だけれども、外国じゃあ開けた場所でも彼らは狙っているよ。カバンは、リュックとかみたいに背負うタイプではなく肩掛け鞄などにするのなんていうのは、常識だよ」
シルクは度々色々教えてくれる。
旅行の楽しさと怖さ。外国という、言葉も通じず土地勘も湧かないのなら尚更である。でもそんなことを余り考えることなくしっかり対策した上でやっぱり楽しむのが一番であるらしい。
やっぱり、何でも知っているって、便利なんだなあ。
知らない世界でも色々安心である。
と、周りの景色に少しづつ建物が増えていき、明らかここアミューズメントパークだろみたいな場所に出た。そしてバス停に着いたらしく、バスが止まった。
「タワーハッカーがある!」
搭乗率600%くらい(流石に屋根の上に人はいないが)なんじゃあないかと思うくらいのギュウギュウ詰めのバスから降り、呼吸出来ることに感銘を受ける。
でもバスから急に降りたからその外の暑さでやられそうになる。
20,いや25℃は越えてる……いや、30,35℃は越えてる!
超真夏日!
温度計や湿度計などなくとも分かるその暑さはずっと変わらぬまま続く。
「ここは夏かよ……」
誰にも聞こえないようなか細い声で、金架はボソッと言った。
レンガ造りの道を上がっていけば、その広場の中心に位置する噴水に向かって流れる小川の美しさに心を奪われ、そして開けた場所に出たと思えば、頭上には真っ青な空が広がり、雲がゆったりと多く流れていた。
「色んなアトラクションが意外とたくさんあるけれど、今日はよしておいた方がいいかもねえ」
「えーなんでー」
「お前は聞いていなかったのか? シルクが朝ご飯にすると言ったら朝ご飯なんだ! ボクのおねえちゃんも、朝ご飯は食べないと1日死ぬって言っていたぞ!」
「それなんか違う」
「あれあれあそこ」
シルクが人差し指で指した先にはカフェチックな売店があった。お洒落な白い椅子とテーブルの上にはディープグリーンの日除けパラソル、というセットが幾十にレンガ造りの広場の上に置かれ、鳩が所々を歩き、人々が歓談し、またそれだけでも絵になる。その一角であるテーブルにシルクは向かうと、
「稀生はここで良い子にステイ、わかったね?」
「おう! 承知した!」
犬かよ。
「シルク座ってろよ。注文だったらオレが」
「ほう。汝はもう英語を熟知したと」
「すいやせんお願いします」
そう言って、金架とシルクは売店まで歩いて行った。何か中学生の頃物を買うときの英語はやった気がするのだけれど忘れているわけではないのだけれどさ。話題変えよう話題。
「稀生ってタマネギ食うとどうなるの?」
「死ぬのかな……?」
「え、なんて悲惨な」
「でも、タマネギ以外は、ちゃんと何でも食べるから逆に、ビックリ」
「すげえ」
「金架も嫌いなモノはつくらず、ちゃんと何でも食べられるだろうねえ?」
「……いやあ、でも戌亥は嗜好食品はいいって……」
「稀生にはあんな大言を、していたのにねえ。何が嫌いなんだい」
「…………紅ショウガとか」
「……」
「わ、笑うなよぉ!」
そんなこんなで売店の目の前へ辿り着く。頭上のパネルにはその店№1のピザや季節のピザなどどのイベントメニュー、そしてカウンターの上にはオールメニューの写真と英語の詳細と代金が載っていた。普通サイズは11ドルであることは金架にも理解出来た。
「どれでも好きなのを選ぶがいいよ」
「なんっつーか、どれも地味だな……」
「写真写りはね」
「んじゃこれでいいや」
「ほう。これはタマネギ入っていないから、いっか。よーし」
適当に指でさした物をシルクが店員に注文した。先払いらしい。金架は10ドルと2ドルを店員のお姉さんに渡した。お釣りに一ドルが返ってくる。一ドルは金貨のようだった。少しカッコイイと思った。
「れ? シルク達の分は?」
「汝はイタリア人かね。1人一枚なんて多いよ、身共は汝のを、少し分けてくれるだけで、構わないよ」
「ふーん。で、11ドルって日本円で言うと高いのか? 安いのか?」
「このサイズじゃあね、うわお」
「え、お!」
お金のことは良くわかんないので少し不安になっていたのだが、少しして、売ってるおねーさんが笑顔と共に持ってきたその金架が選んでシルクが頼んだらしい焼きたてのそのピザは有り得ないほど大きかった。成る程、シルクが分けて欲しいと言ったのに得心行く。これはでかい。でかすぎる。よくわかんないけれど日本円からしたら安いのかなと思ってしまうくらい。
「塩味とコクの効いたアンチョビは、ニューヨーカーの大好物、相性抜群のオリーブと一緒に、本場の味わいを召し上がれ、ということらしいよ」
のったりとしたシルクの説明通り、薄く焼き上げた巨大な生地の上には、トマト、アンチョビ、オリーブ、そしてたっぷりのチーズがこれでもかと贅沢にトッピングされており、メニュー表で見たものが嘘なのかというように、生地が薄い分かなりの厚みを帯びていた。じぶじぶとチーズが溶ける音が耳を刺激し、朝から何も食べていないのでそれだけでも食欲をそそる逸品だ。慎重に、稀生が何故かとてもいい子にして座るテーブルへ持っていく。
「おおー、でけえー!」
「すげえだろー」
「何をお前が偉そうに! そんなことより水もってこい」
「ええ? 水って……やっぱ買うのか?」
「はい、じゃあ2人とも、水を受け取って。ホテルの冷蔵庫に入っていたものだよ」
と、シルクがその両手にそれぞれペットボトルを持っていた。中身は透明な水。
「え。それどこから出しました?」
「気にしなーい」
「えー」
「シンガポールでは売られている水以外に、安全な水はほとんどない、らしいんだ。それに水分を取らないと、脱水症状になってしまったりしたら大事だからね。はい、どうぞ」
「あ、あざっす」
「ありがとう、シルク!」
稀生の両手に一本、金架の片手に一本ずつシルクは渡した。
「汝はすぐ喉が渇くだろうからね。保険だよ」
「? はあ」
ペットボトルをそれぞれの傍らに置いて、金架の分だけだと思われていた巨大ピザはしっかりと何等分かにカットされていてみんなで分けることになった。タバスコも常備。これで、昼食もとい朝食の用意は調った。
胸の前に手を合わせ、シルクがこちらを見上げて言う。
「しっかりと手を合わせて、感謝するんだよ。私の栄養のために死んでくれてありがとう、貴方の命を頂きます、とね」
「深いっすねえ……今度投稿してみようかな」
「こんなの、誰でも知っているよ」
そういえばここ最近になって、“いただきます”なんて言っていない気がする。戌亥は常に無言だし、セカイとは時間が合わないし……。
年を取るにつれて、何か色々、忘れていっている気がする。
……。何を年寄りみたいなこと思ってんだ。人間だから当たり前……あ、いや、オレ、人間、じゃあ、ねえけど。
まあ。
どの世界でも挨拶は共通、少し照れくさいけれど、久々に、シルクの真似をして、両手を合わせて、心から言えた気がした。
「いただきます」
「はい、いただきます」
「いただくー!」
「あ! バカ熱いぞ!」
咄嗟に金架が叫んだのも遅く。
「にゃああああっついぃぃ!」
ピザをパッと皿の上に落とし、稀生が飛び上がる。涙目になって、そのまま手を硬直させていた。
「ねねね猫は猫手なんだぞこの野郎……」
「ちゃんと冷ましてから食えよ」
「うう……ふー、ふー、ふー、ふー、ぱくり」
しっかりと冷ましてから自身で何故か擬音を出して頬張った稀生の不機嫌顔は、見る見るうちに輝かしいものとなった。
「美味い!」
つられて一口食べた金架も感嘆以上の声を上げた。
「ナニコレ超美味えハンパねえやべえまじ美味え!」
「ね?」
シルクがのほほんと少しずつ食べている横で、稀生と金架は半ばがっつくような感じでピザへと手を伸ばす。その間、金架も稀生も良く水を飲んだ。なんと金架は2本目突入、シルクの言っていたとおりで、彼は酷く喉く渇いていたらしい。
最後の一枚……になった瞬間である。
稀生と金架が狙いを定め手を伸ばしたその時、もう一つ伸びた手があった。
ガッ!
体格差ありまくりだが稀生と金架とシルクは3人でその最後の一枚をグググググとピザが引き千切れないように力を加減しながら取り合っていた。その最後の一枚のピザは、何故だろう、一番大きいサイズであるように見える。
まさかの展開だった。
「おかわりが欲しかったら、どんどん食べるがいいさ。色々多寡は関係ないよ、なぜかって、金架が払うから」
「ええどうしよう」
「どうしようじゃねえよ。オレの金なんだから遠慮しろ」
「お前また偉そうだぁ」
「ったりめえだこの野郎!」
「もーらいっと」
「あ」「あ!」
シルクであった。
「畜生……心理戦とは卑怯だぞシルク!」
「シルクの悪口言うな!」
「勝った者が正義だよ、金架。ありがとう、とっても美味しいよ」
上品に、それでもとても可愛らしい笑顔を見せるシルク。
「うがー!」
「ふんっ。全く五月蠅い奴だ……んんー……」
突然稀生がクシクシと目を擦った。そして髪の毛に手を伸ばしたかと思うと凄絶な手の動きで髪を整え始めた。確かに見ている限りなんだか彼の髪を跳ねてきている。
猫かよ。猫だけど。
「お前、食事中に髪触るなよー」
「ボクは猫だからいーんだっ」
「意味分からんわ」
「金架。椅子をもっと、中に寄せなさい。濡れるよ」
「え……?」
急に。
急に周りがザワつき少し暗くなってきたと思ったら。
急に雨が降ってきた。
しかも次第に強くなっていく奴じゃなくて、バケツを引っ繰り返し続けているような、土砂降りだった。物凄い音を立てて、カラカラだった地面に強く雨を打ちつける。傘があっても意味がなさそうなほどの雨だった。
「お、おぉ……夕立?」
「違うよ。これが、シンガポール名物のスコールらしいね。シンガポールに来て、雨に、出会わない方が可笑しいと、言われるくらいらしいよ」
というか名物じゃないけどね、とシルクは続けて言った。そして最後の一口を食べ終える。
丁度屋根の下にいて良かったと思う。道行く観光客が慌てて様々な屋根の下に避難し、店員達は品物が濡れぬようにとせっせと移動を行っていた。けれども空は、青かった。
ていうか。
「……涼しい!」
「まあその一言に尽きるよね」
ガッツポーズをする金架にやんわりと合いの手を入れるシルク。雨とは災難なのものだと思っていたが、この極暑多温多湿熱帯地獄のシンガポールでは神からの恩恵、恵みの雨である。
涼しすぎる。
寒いくらい。
「あー」
と稀生は唸って先程よりも頻繁に髪を整えにかかっている。確かに、彼の毛は少し逆立っているように見える。雨だからなのだろうか、天然パーマ?
「すげえすげえこれが雨だな? なんだか妙に髪がもにゃもにゃする……どうして上から水が降ってくるんだ? 空が泣いているのか?」
子供かよ。子供だけど。
稀生は度々色々シルクに聞く。
彼女の使い魔だという割には結構何も知らない。というか極度の世間知らずだ。猫といえどもこれはないと思う。そんなんでいいのだろうか? いやオレも何も知んないけど。
「そう、これが雨。冷たくて、突き刺さるようで、悲しいものや、温かくて、包み込むような、優しいものも雨、とにかく空からの雨滴によって構成されるものだけれど、生存に、必要不可欠な水、しかも飲用に、適した淡水を供給するという、重要な役割をもつんだ。雨が集まってできた水辺、地面にしみ込んだ後に湧き出す、泉や、それらが合流してできる川から、生存に必要な水を摂取する、人間においても同様さ。全てを流して、全てを持っていってしまう。そして全ては、最後には海へ辿り着くんだ。帰り着く場所があるんだ……そうだねえ、空が、泣いているのかもねえ」
スゥ……っとシルクは瞳を閉じてその雨を身体で感じるかのように上を向く。聴き入るように、溶け込むように、パラソルに当たる雨音が、静かに続く。そして。
「あ」
急に。
急に周りがザワつき少し明るくなってきたと思ったら。
急に雨が止んだ。
しかも次第にではなく、ピタッと。まるで時が止まってしまったかのように、カラカラだった地面は今では半ばダム決壊状態、その雲からまた覗いたサンサンの太陽でキラキラと光っている。新鮮な気持ちが心を埋め尽くし、さっぱりとしていて、またすぐに気温が上がっているのを感じた。何か、稀生は楽しそうだった。
「晴れた!」
「そうだね」
「あの雲追っかけたら、またあの雨に会えるのかな?」
「うん、そうだよ」
「なんだか雨上がりの空は気持ちいいな! 良い体験をした、凄い世界だな、ここは。あの空間よりはよっぽど良い!」
「大仰だねえ、稀生は」
なんだかキラキラしたような空間。雨上がりはこんなにも晴れやかで、清々しくて、気持ちを穏やかにしてくれて、なんだか未来への希望が持てそうで、突き抜けるような空の青が自らの心の中のようで。
「ボク、またいつかこの雨上がりに会いたい!」
「夢がある……それだけでもいいのだよ、ね、金架」
「えええ何故オレ」
「済まないけれど、もう一つ、行きたい所があるんだ。付き合ってくれないかね? そこで、例の件を話そう」
なんだかその例の件がどんどん後々になって来ている気がしてたけれど。
やっと始まりますか、オレの魔王への勇者の道のり。
……ゲームでしかやったことねえんですけれど。
まあ出来る限り頑張ってみましょう。
「はいじゃあごちそうさま、言って言って」
「ごちそうさま」
「ごっそーさま!」
「はい、ありがとう、ごちそうさま」
「腹一杯! ありがとう、シルク!」
「いえいえ」
巨大ピザに隠れていたこれまた巨大なプラスチックの皿とトレイとサービスで空になったペットボトルを売店へ返却し、稀生は大きく背伸びをして、シルクは帽子を被り直し、金架は大きく欠伸をした。そして、歩き出す。
「さっきのバスに乗るよ」
「おー」
機嫌が良いのか、稀生がきゃらきゃらと走っていく。その後を気怠そうに2人が歩く。
「シルク、もう一本水貰って良いか? 喉が渇いて乾いてしょうがねえ」
「そうだね。汝の場合はしょうがないからね。でも、飲み過ぎには注意だよ、はい、もう一本」
「だからどこから……さんきゅ、シルク」
「いえいえ」
嬉しそうにシルクからペットボトルを受け取る金架。のほほんとした空気が2人の間に流れた。その真ん中でなんだか腑に落ちないというような顔をした稀生が金架にアタック。
「バス停どっちだー」
「あっちだー! いえーい、夏が近づいてきたぜ!」
なんだか妙に絡み合いながら歩く稀生と金架の姿を見て、シルクはまた、フッと笑った。
「やがて来る気紛れな運命の中でも、それぞれの道を行く。頑張ろう」
誰にも聞こえないような声で、シルクはそう、呟いた。
お久しぶりです。
この曲は、夏を迎える歌だなって思います。
爽やかで、なんていうか恋人というか仲の良い2人で聴く曲、みたいな……。
私は雨が降ってくると鬱になりますけれど(傘持つの嫌いなんです)、
雨上がりはとてつもなく好きです。
走りたくなるというか歩き出したくなる一曲ですね。
あ、シンガポールではリアルに孔雀いますので。
超ビックリしました。
可愛かったです!
その辺の文化とか国とか齟齬はないかと思われますがあったら教えてください。
GARNET CROW、
来月や来春に出るアルバム楽しみ過ぎて毎日が楽しいです。
楽しみですね!
それでは!