【朗報?】托卵された娘が、僕と血がつながっていないと知って狂喜乱舞している
妻が不倫していた。
相手は、僕たち夫婦の高校時代の同級生だった。
久我玲音――通称、レオン。
サッカー部のキャプテンで、モデルまがいの整った顔と、人の心を踏みにじることに一切ためらいのない性格を持った男だ。
学生時代の僕は、彼にずいぶんといじめられた。
教科書を隠され、上履きを捨てられ、大勢の前で告白の真似事をさせられた。僕が当時から想いを寄せていた幼なじみ、香澄への気持ちも、格好の笑いものにされた。
その香澄は、学園のマドンナだった。
腰まで伸びた黒髪。透き通るような肌。大人びた微笑み。
そんな彼女と僕は大学卒業後に再会し、交際し、結婚した。
だから僕は、自分が人生の最後に逆転したのだと思っていた。
レオンに踏みにじられていた情けない少年が、ずっと好きだった女性と家庭を築き、娘にも恵まれた。
それが僕の、ささやかな勝利だった。
全部、勘違いだった。
香澄とレオンの関係は、高校時代から一度も切れていなかった。
僕との結婚後も、娘が生まれた後も。
そして、二十歳になった娘の美月は、僕の子どもではなかった。
日曜日の午後。
僕はリビングのテーブルにDNA鑑定書を置いた。
向かいには妻の香澄。その隣には娘の美月が座っている。
香澄は青ざめていた。
美月は鑑定書を手に取り、難しい顔で何度も読み返している。
今年二十歳になった美月は、母親譲りの美貌で知られていた。
大学では本人が望んでもいないのに「ミスキャンパス候補」などと呼ばれ、入学式から数え切れないほど告白されたらしい。
艶のある黒髪と、猫のように大きな目。普段は落ち着いていて、外では近寄りがたいほど上品に振る舞っている。
少なくとも僕は、そう思っていた。
「美月」
僕は震える声で呼びかけた。
「こんなことになって、本当にすまない」
「なんでパパが謝るの?」
「君に黙って鑑定した。香澄だけの問題じゃない。君の人生に関わることなのに」
「それは別にいいよ」
美月は鑑定結果に視線を落としたまま答えた。
「それより、確認なんだけど」
「ああ」
「この『生物学上の父子関係が成立する可能性は認められない』っていうのは」
「ああ」
「パパとわたしは、血がつながってないってこと?」
「……そうだ」
「赤の他人?」
「そんな言い方は――」
「生物学的には?」
「そういうことになる」
僕が答えた瞬間、美月の肩が小刻みに震え始めた。
泣いているのだと思った。
当然だ。
二十年間、父親だと思っていた男と血がつながっていなかった。しかも実の父親は、母親の不倫相手だ。
何を言えばいいのか分からない。
それでも僕は父親として、美月を抱きしめるべきだと思った。
「美月。血がつながっていなくても、僕は――」
「ぃ」
「え?」
「ぃよっしゃぁぁあああああ!!!!」
美月が鑑定書を掲げて立ち上がった。
「パパと血がつながってない!!!! 赤の他人!!!!!!! パパと合法ックスできるッッッ!!!!!!!! はよ脱げ!!!!!!!!! ♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥」
「待って待って待って待って!」
父親として想定していた反応と、一万光年ほど違った。
「美月、落ち着こう! まず座ろう! そして服は脱がない!」
「なんで!?」
「なんでって、僕は君の父親だからだ!」
「血がつながってないって、今パパが言ったじゃん!」
「血縁がなくても二十年間育てた事実は消えないんだよ!」
「パパ!」
「はい!」
「わたし二十歳!」
「知ってる!」
「成人!」
「それも知ってる!」
「同意能力あり!」
「単語を並べれば倫理的な問題が消えるわけじゃない!」
香澄は口を半開きにしていた。
不倫を追及されている妻と、托卵を知った夫の会話とは思えない。
僕だってそう思う。
「美月、あなた、何を言ってるの?」
香澄がようやく声を絞り出した。
「今はそんな話をしている場合じゃ――」
「うるさい」
瞬間、美月の声から熱が消えた。
冷たい視線が香澄を貫く。
「不倫して、パパのお金を男に貢いで、二十年間パパを騙してた人は黙ってて」
「そ、それは……」
「あとで全部説明してもらうから」
美月が鑑定書を丁寧にテーブルへ戻す。
そして再び僕を見ると、花が咲くように笑った。
「パパ!」
「今度は何かな」
「大好き!」
「ありがとう。僕も娘として――うわっ!」
美月がテーブルを回り込み、背後から僕に抱きついてきた。
柔らかい腕が首に回る。
僕の背中に頬を寄せた美月は、首筋へ鼻先を近づけた。
「スン、スン……」
「ちょっと美月さん?」
「パパの匂いだぁ……」
妙にうっとりした声だった。
「落ち着く……。ずっと嗅いでいられる……」
「人をアロマディフューザーみたいに扱わないでくれるかな」
「知ってる? わたし、パパの洗濯物のパンツとかこっそり嗅いで……うひひひひ」
「あわわわわわわわわわ!」
僕は椅子から転げ落ちそうになった。
「何してるの!?」
「愛情確認」
「一般家庭では絶対に採用されていない確認方法だよ!」
「使用済みのワイシャツも好き」
「やめなさい!」
「枕はもっと好き」
「やめなさい!」
「パパが出張の日は、パパのベッドで――」
「それ以上は聞かない!」
僕は耳を塞いだ。
知りたくない。
父親として知らなくていい娘の秘密が、世の中には存在する。
「そ、それに」
僕は必死に平静を取り戻そうとした。
「血がつながっていないからといって、結婚できるとは限らない。法律上の親子関係や姻族関係もある。合法と結婚可能は同じ意味じゃないんだ」
「じゃあ結婚は専門家に相談しよう」
「相談する気なの!?」
「入籍できなくても、パパの隣にいることはできる」
「その前向きさを別の方向に生かしてほしい!」
「パパ、わたし頑張るよ。法の抜け穴を――」
「探さなくていい!」
美月は頬を膨らませた。
外で見せる学園のマドンナ然とした姿はどこへ行ったのだろう。
僕の背中にしがみついているのは、どう見ても危険なファザコンだった。
「いい加減にしなさい!」
香澄がテーブルを叩いた。
「美月、あなたはどうかしてるわ。直人もよ。今は私たち夫婦の問題でしょう!」
「そうだな」
僕は美月の腕をどうにかほどき、香澄と向き合った。
「では説明してもらおう。玲音との関係を」
「……一度だけよ」
「お母さん、嘘をつくとき、右手で左の指輪を触るよね」
美月が即座に言った。
香澄の手が止まった。
「高校二年の夏からでしょ」
「な……」
「パパと付き合い始めたあとも続いてた。結婚式の一週間前にも、駅前のホテルで会ってる」
「どうして、それを」
「ほかにもあるよ」
美月は自室へ向かい、大きなファイルケースを抱えて戻ってきた。
それをテーブルの上に置く。
中から大量の書類と写真が出てきた。
ホテルの領収書。
銀行口座の出金記録。
メッセージアプリの印刷。
高級時計やブランド品の購入履歴。
香澄と玲音が腕を組んで歩いている写真。
「これ、過去五年分」
美月は淡々と告げた。
「お母さんは家計から毎月二十万円前後を抜いてた。レオンへのプレゼント代、飲食代、ホテル代。去年は百八十万円を『知人への貸付』って名目で送金してる」
「美月、あなた、私のスマホを見たの?」
「見られて困ることをしてたの?」
「プライバシーの侵害よ!」
「じゃあ裁判でそう主張すれば?」
美月は一枚の紙を差し出した。
「バックアップもあるよ。お母さんが消しても無駄」
「直人、違うの。これは、あの人が事業を始めるっていうから、少し助けただけで――」
「へえ」
美月が別の書類を取り出す。
「その事業って、去年潰れたパーソナルトレーニングジム? 設備費を踏み倒して、今も訴えられてるやつ?」
「どうしてそこまで……」
「調べたから」
美月はにっこり笑った。
「パパの敵だもん」
その笑顔に、僕は背筋が寒くなった。
「美月。まさか、以前から全部知っていたのか?」
「うん」
「いつから?」
「三年前」
「三年……」
「最初に気づいたのは、お母さんのスマホに届いた通知。『次はいつ会える?』って。気になって調べたら、次から次へと出てきた」
「どうして僕に言わなかった?」
「証拠が足りなかったから」
娘は事もなげに答えた。
「中途半端に追及したら、お母さんが証拠を消すかもしれない。レオンと口裏を合わせて、パパを悪者にするかもしれない。だから逃げられなくなるまで集めたの」
「DNA鑑定を勧めたのも?」
「わたし」
そういえば一か月ほど前、美月は僕にテレビ番組の話をした。
親子で遺伝的な体質を調べる企画を見たから、自分たちも検査してみたいと。
僕と美月のサンプルを用意したのも彼女だった。
「じゃあ、これは偶然発覚したんじゃないのか」
「うん」
「全部、君の計画だった?」
「計画っていうほどじゃないよ」
美月は少し照れたように笑った。
「家族をきれいにお掃除しただけ」
「掃除……」
「パパを騙す人は、うちにはいらないから」
僕は何も言えなかった。
香澄が恐怖の入り混じった目で娘を見ている。
「あなた、最初から私を追い出すつもりだったの?」
「うん」
美月は即答した。
「そのために父親が違うことまで――」
「それは予想外だった」
美月が僕の腕を取る。
「最高の誤算だったけど」
「喜ぶところじゃないよ」
「だってこれで障害が一個減ったし」
「法律上も倫理上も、障害物競走みたいに残ってるよ!」
そのとき、インターホンが鳴った。
香澄がびくりと肩を震わせる。
美月だけは驚かなかった。
「来たみたい」
「誰が?」
「レオン」
「呼んだのか?」
「うん。午後三時に来てって、お母さんのスマホから送った」
「なんでそんなことを!」
「一度で全部片づけた方が効率的でしょ?」
娘の手際がよすぎる。
僕は不倫された夫なのに、状況から完全に置き去りにされていた。
美月が玄関を開ける。
「久しぶり、美月ちゃん」
現れた男を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
久我玲音。
四十を過ぎても顔立ちは整っている。けれど高校時代の輝きはない。
金色に染めた髪は根元が黒く、上等そうに見えるジャケットも袖口が擦れていた。
「直人もいたのか」
玲音は一瞬だけ驚き、それから口元を歪めた。
僕は、その笑い方を知っている。
高校時代、彼が僕を見下すときの顔だ。
「ずいぶん久しぶりだな。相変わらず、冴えない顔してるじゃないか」
「レオン」
香澄が立ち上がる。
「どうして来たの?」
「君が呼んだんだろ。全部バレたから、今後のことを話したいって」
「私じゃないわ!」
「呼んだのはわたし」
美月が言った。
「話を簡単にするために」
玲音は娘を見た。
自分の実の娘だと知っているのだろうか。
その疑問は、玲音の次の言葉で解決した。
「美月。もう知ってるんだろ?」
「何を?」
「俺が本当の父親だってことさ」
「生物学的な材料提供者ってことなら」
「照れるなよ。俺も昔から、もしかしたらって思ってたんだ」
玲音は両腕を広げた。
「香澄とはずっと愛し合ってた。直人との結婚は間違いだったんだよ。これからは本当の家族としてやり直そう」
「……本当の家族?」
「そうだ」
玲音が自信たっぷりにうなずく。
「俺と香澄と、お前。三人で暮らすんだ。そんなゴミのもとじゃ幸せになれない」
空気が凍った。
ゴミ。
昔と同じだ。
彼の中で僕は、何年たっても踏みつけてよい相手なのだ。
「レオン、やめて」
香澄が小声で止める。
「なんだよ。事実だろ。こいつには昔から何の取り柄もなかった。お前だって退屈してたから、俺のところに――」
「アンタ馬鹿ぁ?」
美月の声だった。
玲音の笑顔が固まる。
「は?」
「これから多額の慰謝料や返済請求を抱える可能性がある托卵野郎と、なんでわたしが貧乏生活しなきゃいけないの?」
「美月?」
「父親面しないで。成人するまで一円も出さず、誕生日すら知らなかったくせに、DNAが一致したくらいで家族になれると思ってるの?」
「俺は知らなかったんだ。香澄が黙って――」
「知ってたよね?」
美月がスマートフォンを操作した。
録音された声が流れる。
『娘は直人に育てさせればいい。あいつなら疑わない』
玲音の声だった。
『俺は自由でいたいんだよ。ガキの面倒なんか無理だって』
続いて香澄の笑い声。
『そうね。あの人、私がお願いすれば何でもやってくれるから』
僕は息ができなかった。
二十年前の録音ではない。
日付は三年前。
二人は最近まで、過去を笑い話にしていた。
僕が夜泣きする美月を抱いて部屋を歩いたことも。
熱を出した美月を背負って病院へ走ったことも。
仕事を休み、運動会や卒業式へ行ったことも。
全部知りながら。
「うそ……」
香澄が美月を見る。
「どうして、これを」
「車の中で楽しそうに話してたね」
美月の顔から、笑みが消えていた。
「わたしは駐車場の隣の列にいたよ」
「美月、それは――」
「パパを笑ったよね」
低い声だった。
「二人でパパを馬鹿にした。自分たちが裏切っておいて、騙された方が間抜けだって笑った」
「悪かったよ」
玲音が苛立ったように髪をかき上げる。
「でも三年前の話だろ。いつまでも根に持つなよ。それにお前は俺の娘なんだ。俺に似て顔もいい。運動神経も――」
「似てない」
「何?」
「わたしはアンタに似てない」
美月は僕の隣へ立った。
「血液とか顔の部品とか、そういう話じゃない。パパは嫌なことがあっても人に当たらない。困っている人がいたら助ける。誰かを笑いものにして、自分が偉くなったような顔もしない」
娘の手が僕の袖をつかんだ。
「わたしがなりたいのは、パパみたいな人」
「だけど血は――」
「だから何?」
玲音の言葉を、美月が切り捨てた。
「アンタが寄越したのは遺伝子だけ。わたしに名前をつけたのはパパ。育ててくれたのもパパ。叱ってくれたのも、褒めてくれたのも、大学まで行かせてくれたのもパパ」
美月が一歩、玲音へ近づく。
「本当のお父さんと一緒に暮らそう? そんなゴミのもとじゃ幸せになれない?」
玲音の言葉をわざと繰り返し、鼻で笑った。
「これから多額の慰謝料払うことになる托卵野郎と貧乏生活なんてするわけないじゃん。あ、これから一緒に貧乏生活する馬鹿女も一匹いたっけ」
「美月!」
香澄が叫ぶ。
「惨めよねぇ」
美月は笑っていた。
しかし、目は少しも笑っていなかった。
「パパのお金で高い服を買って、パパのお金で男にプレゼントして、最後には二人まとめて追い出されるんだから」
「親に向かって、なんて口を――」
「親?」
美月が首を傾ける。
「都合のいいときだけ親にならないで」
香澄の顔が引きつった。
「わたし、二十歳だから。誰と暮らすかは自分で決める」
「そんな……」
「もちろんパパと暮らすよ」
美月が僕の腕を抱え込む。
「わたしの好きな人だもん」
「最後の一言で意味を変えないで!」
玲音は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「慰謝料だの何だの、好き勝手言いやがって! 俺には金なんかないぞ!」
「知ってる」
美月が答えた。
「ジムの借金とカードローンで首が回らないんだよね」
「だったら取れないだろ!」
「だから、お母さんから取るの」
「え?」
香澄が固まった。
「お母さん名義の預金、不動産、保険。パパが知らなかった口座も調べてある。おじいちゃんから相続した分はともかく、家計から勝手に流したお金は返してもらう。詳しいことは弁護士さんに確認中」
「弁護士?」
「大学の先輩のお父さん」
準備がよすぎる。
「それとレオン。お母さんから送られたお金を、あなたが『事業への出資』だと言い張るなら、契約書と使い道を説明してね。半分以上を遊びに使ってたみたいだけど」
「お前……」
「あと、脅迫みたいな連絡をパパに送ったら全部保存する。今日の会話も録音してるから」
美月がテレビ台の上を指差した。
小さなカメラがこちらを向いていた。
「いつ設置したの?」
「昨日」
「昨日から今日の展開を予想してたの!?」
「パパ以外の人間なんて、だいたい予想どおり動くよ」
娘がさらりと言った。
その発言は僕も怖い。
玲音はしばらく口を動かしていたが、結局言葉が出なかった。
「出ていって」
美月が玄関を示す。
「二度とパパに近づかないで」
「俺はお前の父親だぞ!」
「わたしのお父さんは、この人だけ」
美月は僕の腕を強く抱いた。
「アンタは、パパの奥さんと不倫した最低男。それ以上でも、それ以下でもない」
玲音の顔が醜く歪んだ。
高校時代なら、僕は怯えていたかもしれない。
けれど今は、不思議と怖くなかった。
「玲音」
僕は言った。
「帰ってくれ」
「直人、お前――」
「もう君の言うことを聞く必要はない」
声は震えていた。
それでも、言えた。
「学生時代のことも、香澄とのことも、今後は代理人を通して話す。僕と美月に直接連絡するな」
玲音は僕をにらんだ。
だが美月がカメラを指差すと、舌打ちして出ていった。
玄関の扉が閉まる。
昔から僕の中に居座っていた巨大な影が、急に小さくなった気がした。
「直人」
香澄が泣いていた。
「ごめんなさい。私、どうかしてたの」
僕は答えなかった。
「玲音とは別れる。もう二度と会わない。だから、やり直しましょう?」
「無理だよ」
「お願い。私にはあなたしかいないの」
香澄が手を伸ばす。
けれど、その手が僕に触れる前に、美月が間へ入った。
「パパしかいないんじゃないでしょ」
「美月……」
「レオンが役に立たないって分かったから、パパに戻ろうとしてるだけ」
「あなたには分からないわ。夫婦には夫婦にしか分からないことが――」
「だったら、パパが夜中まで働いてた日に何をしてたの?」
「それは」
「わたしが入院したときは?」
「……」
「お母さん、病室に一度も来なかったよね。美容院の予約があるって」
そうだった。
美月が中学生の頃、盲腸で入院した。
香澄は病院が苦手だからと言い、僕にすべて任せた。
僕は、それを信じていた。
「同じ日のホテルの領収書があるよ」
美月が告げる。
「お母さんは、わたしやパパを捨てたんじゃない」
一枚の写真を香澄の前に置く。
「最初から選んでなかったんだよ」
その写真には、ホテルから出てくる香澄と玲音が写っていた。
日付は、美月の手術の日だった。
僕の中で、最後まで残っていた何かが切れた。
「香澄」
僕は静かに言った。
「離婚しよう」
「待って」
「もう決めた」
「私を追い出したら、家事はどうするの? あなた一人で働きながら、この家を維持できるの?」
「できるよ」
美月が僕より先に答えた。
「家事は前から、ほとんどわたしがやってるもん」
「美月、あなたは学生でしょう!」
「授業と両立できてるよ。パパも手伝ってくれるし」
「いつか結婚して家を出るのよ。ずっと父親と暮らせるわけじゃない!」
「出ないけど?」
美月が真顔になった。
「むしろパパと結婚する予定だけど?」
「それは今、議題にしなくていい!」
僕が叫ぶ。
香澄は娘を見て、次に僕を見た。
「直人。この子、おかしいわ」
「うん」
「否定してよ、パパ!」
「そこは認めよう、美月」
「ひどい!」
「でも」
僕は娘の頭に手を置いた。
「僕のために怒ってくれたことは、うれしい」
美月が目を見開く。
「僕自身、何も言い返せなかった。昔の玲音に戻ったみたいに、怖くて動けなかった。美月が隣にいてくれたから、言えたんだ」
「パパ……」
「ありがとう」
美月の目に涙が浮かんだ。
初めて見せる、本物の涙だった。
「パパぁ!」
「うわっ」
美月が胸に飛び込んでくる。
僕は娘の背中へ手を回した。
血縁はない。
それでも、二十年間抱きしめてきた娘だった。
「大丈夫だ」
「うん」
「僕は美月を捨てない」
「うん!」
「ずっと家族だ」
「うん……それで、できれば夫婦に昇格を」
「今の感動を返しなさい」
香澄は一週間後、家を出た。
その後の話し合いは弁護士を通した。
美月が集めた資料は想像以上に役立ったが、彼女が期待したように、すべてが一方的かつ派手に決着したわけではない。
お金の問題には証明が必要だったし、父子関係や財産の扱いも、DNA鑑定一枚ですべて決まるほど単純ではなかった。
それでも、香澄の長期間にわたる不貞と家計からの流用については、本人も否定し切れなかった。
離婚は成立した。
玲音からは一度だけ、僕を罵倒するメッセージが来た。
美月が一分で保存し、弁護士へ転送した。
それ以降、連絡はない。
香澄と玲音が一緒に暮らし始めたのかは知らない。
知りたいとも思わなかった。
離婚成立から三か月後。
仕事を終えて家へ戻った僕が玄関を開けると、すぐに軽い足音が聞こえてきた。
「ただいま」
「パパ、おかえりなさい!」
美月が笑顔で駆けてくる。
娘は大学に通いながら、以前と同じように家事をしてくれている。
いや、以前より生き生きとしていた。
「今日の晩ご飯は?」
「ハンバーグ!」
「いいね」
「ご飯にする? お風呂にする? それとも――」
「ご飯」
「まだ最後まで言ってない」
「何度言われてもご飯」
「それとも、わ・た・し♥」
「予想どおりだった」
「パパ以外の人間は予想どおり動くんじゃなかったの?」
「パパは別枠」
「光栄だよ」
靴を脱いだところで、美月が背後から抱きついてきた。
また首筋へ鼻を寄せる。
「スン、スン……」
「美月」
「パパの匂いだぁ……」
「汗臭いだけだよ」
「今日もお仕事を頑張った匂い」
「そういうことにしておこう」
「そこがいいのに」
「その境地には来なくていい」
「ところで、今日のワイシャツはわたしが洗うね」
「洗濯機に入れるだけだろ?」
「脱ぎたてを直接受け取ろうかなって」
「自分で洗うことにするよ」
「パンツも?」
「特にパンツは!」
美月が残念そうに頬を膨らませる。
「もう隠す必要ないのに」
「最初から隠れて嗅いではいけないんだ」
「じゃあ、本人の許可があれば?」
「許可しない」
「けち」
僕はため息をついた。
「美月。離婚の件で、改めて話しておきたいことがある」
「何?」
「僕は君に感謝している。君は僕を助けてくれた。でも、君の気持ちに恋愛という形で応えることはできない」
美月の笑顔が消えた。
「血がつながっていなくても?」
「ああ」
「わたしが成人でも?」
「ああ」
「ママとは離婚したのに?」
「それでもだ」
「どうして?」
「僕は君の父親だから」
同じ答えだった。
何度状況が変わっても、それだけは変わらない。
「美月が赤ん坊の頃から、僕は君を抱いてきた。熱を出せば看病した。転んで泣けば手を握った。血がつながっていないと分かったくらいで、その時間を恋愛に読み替えることはできない」
「……」
「君を嫌っているわけじゃない」
「分かってる」
「捨てるわけでもない」
「それも分かってる」
「いつか美月が別の人を好きになったら――」
「ならない」
「言い切らないで」
「パパより好きになれる人なんていない」
「これから出会うかもしれない」
「じゃあ、出会わなかったら?」
「それは……」
「三年後も、五年後も、十年後も、わたしがパパを好きだったら?」
美月は僕の背中から離れ、正面へ回った。
真正面から僕を見上げる。
母親によく似た美しい顔。
けれど、その表情は香澄とはまったく違う。
「そのときも、娘だからって逃げる?」
「逃げているわけじゃない」
「じゃあ、わたしがどれくらい本気か見てて」
美月が一歩近づいた。
反射的に僕は一歩下がる。
美月がさらに一歩近づく。
僕はまた一歩下がった。
やがて背中が玄関の壁に当たった。
「美月さん?」
「安心して」
娘が微笑む。
「今日は何もしないよ」
「今日は?」
「パパが自分から好きって言ってくれるまで待つ」
「一生言わない可能性もあるんだよ」
「それなら一生一緒にいられるね」
「どうしてそうなるの?」
「ほかの人と結婚しないから」
「美月」
「追い出す?」
「そんなことはしない」
「じゃあ、ずっと隣にいられる」
この子は強い。
玲音に似た強引さなのかもしれない。
だが、彼とは違う。
美月は、自分の言葉が相手を傷つければ、自分も傷つく。
それでも諦めないだけだ。
「一つだけ聞いていい?」
「何?」
「離婚の証拠を集めたのは、僕を助けるためか。それとも、香澄を追い出して僕を手に入れるためか」
美月は少し考えた。
「最初は、パパを助けたかった」
「最初は?」
「途中から、ママがいなくなればパパと二人きりになれるって思った」
美月はごまかさなかった。
「両方だよ」
「そうか」
「軽蔑した?」
「いや」
僕は首を振る。
「正直に言ってくれてよかった」
「パパ」
「ただし、これから僕の下着を盗んだら家族会議だからね」
「二人しかいないけど?」
「二人で会議だ」
「議題は『パパのパンツを娘が嗅ぐことの是非』?」
「言葉にすると破壊力がすごいな」
「わたしは賛成に一票」
「僕は反対に一票」
「一対一で否決できないね」
「所有者権限で廃案にします!」
美月が笑った。
僕もつられて笑った。
以前と同じ家。
以前と同じ玄関。
けれど、もう嘘をついている人はいない。
たぶん。
その日の夜。
風呂を済ませた僕は、自室の引き出しを開けた。
「……ない」
洗濯して畳んでおいた下着が、一枚足りない。
「美月!」
廊下へ飛び出す。
娘の部屋から、慌ただしい物音が聞こえた。
「知らない!」
「まだ何も聞いてないよ!」
「わたしはパパのパンツなんて盗んでない!」
「犯人しか知り得ない情報を自白したね!?」
扉が少しだけ開く。
隙間から、美月の片目がのぞいた。
「違うの。これは盗んだんじゃなくて、将来の夫婦共有財産を先に管理してるだけで」
「返しなさい!」
「やだ!」
「美月!」
「捕まえてみろぉ!」
美月が部屋から飛び出した。
僕の脇をすり抜け、廊下を走って逃げる。
「待ちなさい!」
「ぃよっしゃぁぁあああああ! パパと追いかけっこだぁぁぁ!」
「近所迷惑だから叫ばない!」
「捕まったらお嫁さんにしてね!」
「そのルールは採用しない!」
夜の家に、僕たちの声が響いた。
血のつながらない父と娘。
娘から一人の女性へ変わろうとする美月と、それを認められない僕。
これから僕たちがどんな関係になるのかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
香澄に裏切られ、玲音に踏みにじられ、自分の人生すべてが偽物だったように感じたあの日。
そんな僕の隣に立ち、代わりに怒り、敵を追い払い、家族だと言い切ってくれたのは、美月だった。
たとえ血がつながっていなくても。
たとえ彼女の愛情が、僕の望んだ方向から大幅に脱線していても。
僕にとって美月は、大切な家族だ。
「パパ!」
廊下の向こうで、美月が振り返った。
「大好き!」
「はいはい」
「わたしと結婚して!」
「それは駄目!」
「じゃあ事実婚!」
「制度を迂回しようとするんじゃない!」
「合法ックスだけでも!」
「近所に聞こえるから本当にやめなさい!」
美月は楽しそうに笑った。
僕は頭を抱えながら、娘を追いかける。
壊れてしまった家庭の中で、僕たちはようやく、本当の家族としてやり直し始めていた。
娘の暴走だけは、当分おとなしくなりそうになかったが。




