3時のサリバンショー
神のみぞ知る(プラトン「ソクラテスの弁明」から)
3時のサリバンショー
いや、君がいつ、「3時のサリバン」を背中に持った? 「3時のサリバン」を背中に持て、いつでも、どこでもだ――。
その一瞬、ばら撒かれたように鳥が飛び立った。
横園は公園のベンチで目を覚ました。横には横園の勤めるオフィスビルがある。夢の中だったのかパラレルワールドだったのか。パラレルワールドの中で言われたとしたなら、その影響で記憶障害が起こることも指摘されている。
「寝てたんですか、横園さん。ボーっとして」
「ああ、佐伯さん」いつもの佐伯さんだ。調子が良かろうと、悪かろうと他人はいつもの人に見える。自分の体調は気にしがちだが、他人から見たら僕もいつもの横園さんなのだろう。
そのように「言わなかったこと」はAIに反映されない。声にしなかった世界は現実化されない。
佐伯さんがオフィスに向かう後姿を見て、横園は遠い昔、といっても十数年前だが思いを馳せていた。
そう思われていた当時、AIの盲点とされていた人間の機微、内面など、今でもAIはどう思っているのか知らないが、それがAIの限界だとされた。
だが、こうなるとは・・。一介の小市民である横園ですら近年の情況の変化にため息を吐いた。
まあ、考えてみれば・・。だよな。
AIは進化し続け、おかげさまでのことも大いに増えた。今ではAIの諸能力を借りずに生活することは不可能だ。ただ、誤算が起きた。人間の脳に例えられることの多いAIも「想像」をしていたのだ。
知性あるものは皆、思う。思ったことが現実化された。
つまりAIがパラレルワールドを作ったのだ。この世界のどこかの隣に。
それは――受け売りだが――人間の脳より遥かに処理能力が高いAIの想像は、ある閾値を超えて、この神の造りたまいし現実に姿を見せた。人間離れしたその想像が観念を越えて質量を得た。
この世界の他にもう一つ、AIが想像したパラレルワールドがある。
それは航空レーダーにも映らないし、地図にも載らない、普通に行けるのにまだその世界を探している最中なのである。
「はい、03―4568―・・、リグレクトダイヤルです」横園はコールセンターに勤めている。
この時代に始まった「後悔を打ち明ける」フリーダイヤルである。その話を聞いた職員は適宜、ケアマネに報告し、予後をフォローする。
人の「内面」が前時代、AIに反映されないとされていたとすると、その「内面」を深く反映する職業である。
会社から疲れて帰ると、駅のホーム、階段から駆け下りてきた小さな影が横園の乗った電車の車両にスッと滑り込んできた。小柄な男性ぐらいの女性で、眠りそうになっていた横園は隣に座ったそのボーイッシュな黒髪を大して気にはしなかったが・・。
ゴト、ゴト、と揺れて横園は目を覚ました。そこは田園であった。またか、横園は思った、パラレルワールドに迷い込んだ。こういうことがこの時代にはよくある。
AIの観念が質量化した世界は現実に入り込んでいる。気が付くと、そこはパラレルワールドであった、ということが多く起こるのである。
横園が気が付いたことはもう一つあった。それは少女とも取れる、さっき眠りに入る前、電車に滑り込んできた女性が、黒髪のつむじを見せて横園の肩にもたれ眠っているのであった。この少女もまた自分の腕を組み、そのまま寝入ってしまったようだった。
起こそうかどうしようか横園は迷ったが、その女性の組んだ腕がしっかりと載せられた黒いリュックサックに名札が付いていて、それが目に入り、悟った。そこには「シャーロット」と書いてあった。
女性は見た目が日本人である、川上とか田中とか、そのくらいだ。しかし、シャーロット。彼女はパラレルワールドから来た。
こういうこともままある。
パラレルワールドと世界は入り組んでいて、中でもパラレルワールドは流動しているらしい。想像や心が変わるように、そのAIの作る物質化する程の質を持ったもう一つの現実はまさに道と道が合わさるようにこの世界に入り込んでいるのである。
そこには人が暮らし、生活がある。文化も技術も、違うがそれは「想像の中だけの世界」ではなくなったのだ。
もしもし、03―4568・・。リダレクトダイヤルも例外ではない。同じようにパラレルワールドからも電話がかかってくる。
彼ら彼女らもまた「内面」を持ったのだ。
いやしかし、迷惑なこった。肩に心地良い可愛い頭の持ち主の重みを感じつつ、横園は頭を掻いた。いやおうなしに、誰もが冒険の旅に出るということになって・・。
見過ごされてきた田園の風景はまた夜景のネオンの風景になって・・、ここはまた現実だ。横園の自宅の最寄りの景色であった。少女はまだ目を覚まさなかった。
ある場所ある人々で、パラダイムクラブは催されていた。このクラブは非公式な秘密クラブであったが、その実、要人が各国から派遣される非常に重要な機密性を持っていた。
現実世界のことである。
このクラブの目的は文字通り、「その時々の価値基準を定める」ということ。こう、世界があっちゃこっちゃひっかき回されては現実とAIの想像である世界があいまいになる。人心もまた乱される、ことになりかねない。
で、あるから、「新しい」「即した」概念をまた人類が持つことが強いられたのだ。
それは異文化に接した多くの歴史が語っているように、しかし、その規模は前代未聞の喫緊の差し迫る課題であった。
そこは前時代の民族や人種を超えた、平和的なクラブだった。
意識の展開ともいえる世界は、技術もよく発達したようだ。
シャーロットが起きた。初めて見るように今まで頭をもたれていた男の姿を見る。
そして、それから体を離し何か文句があるように、その長くもない肩までにかかった髪をバサッと掻き上げた。
その頬は起きたばかりで掻いたように赤かった。
「いや、不思議ですね。天候が不順だとすぐに分かるのに体調が不順でも私にはいつものあなたに見える。体調はいかがですか?」
そう、横園が声をかけなかったのは言うまでもない。思っただけだ。
初めて会ったのに。
自分の駅に着いて横園は電車を下りた。シャーロットは・・、シャーロットの方は見なかった。
ある夜、夜勤で横園はリグレクトダイヤルに入っていた。心の残り、後悔というものは夜、生まれやすい。
はい、もしもし、リグレクトダイヤル・・横園が承ります。慣れた調子で「受け」のつまみを上げる。ランプがついた。口には小さなマイクが付けられている。
はあ、娘さんがご不在・・。沼・・暢子さんと仰るんですか
・・家に帰らない・・ずっと・・
うんうん
・・お母さん・・その朝ね、卵焼きが目玉焼きでもきっと・・ええ
暢子さんを止められなかったのは・・
そうでしょう・・、暢子さんがどうしていなくなったのか分からないんですよね・・
それが後悔というわけだ。
「沼さん、私、心配なのでケアマネを付けますよ、・・ええ、佐伯という者がいますので」目ではPC画面のケアマネのシフトの空きを見ている。
後日、伺いますので・・
声量のつまみを最小に落として、「切」に下げた。ランプが消え、また受信のランプが点滅、横園はまた「受け」を上げ・・。
「横園さん」
後日、佐伯に呼び止められた。ビルのロビーでは、ケアマネ会議が終わったのだろう、ケアマネたちが口々に話し、賑やかだった。その一団から佐伯がこれからエレベーターでコールセンターへ向かう横園の姿を見つけ、二人は話し込んだ。
佐伯は沼の家庭訪問をしたらしい。
「へえ・・」暢子の母親が相当、参っているという佐伯の話を聞き、横園も眉を曇らせた。
「このままじゃ不測の事態を招きかねない」実務者である佐伯は女性らしいハッキリした言い方で言った。
「警察には?」
「まだ・・」
「いなくなって?」
「十日」
佐伯のオープントゥパンプスが華やかで夏っぽい。肌色のペディキュアとストッキングが爽やかでさりげない。
「うん、まあ・・、イマドキの若い子からしてみれば十日くらい・・」横園は口ごもった。
佐伯はスマホを操作している。「この子なんだけど」
佐伯が見せた画面に横園は目を丸くした。前髪が目にかかっていたが、その娘は
シャーロットだったからだ。
――その講師は身振り手振りが上手かった。
「行方不明少年少女の取り扱いについて」と題したセミナーに横園は来ていた。たまの休みでも仕事の何か役に立たないかと横園は勉強熱心であった。
「こう社会が不安定では・・」
広い聴講席がせり出すように低い檀上を見下ろしている。
このセミナーで横園は「フーグ」という言葉を初めて知った。それは「遁走」という意味で、解離性遁走という言葉も初めて知った。
「――皆さんの中にも、フッとこう思ったりする時があるのではないでしょうか」講師がフーグの時に電車が来るような身振りをしてこう言った。
「どこか遠くに、誰も自分のことを知らない街にこの電車に乗って行方を晦ましたい――そしてそこで他人として暮らしたい・・」
実際、――そう講師は言った。
「そういうことが起きるのですよ。解離性遁走の患者はいわゆる健忘症にカテゴライズされますが、私は首をひねります。そうじゃないんじゃないか――」
なぜなら、――。
「解離性遁走の患者は別のところへ行って、そこで他人として暮らしているのです。信じられますか? Aという現実の人間がある日、遁走してBという別の人物として暮らし始めるのです。そこには、Bの記憶さえあるのです。つまり他の記憶を持って暮らし始めるのです。Aはある日、突然、Bという架空の人物に置き換わる――」
記憶さえ持っている――、横園は紙にペンを走らせた。
「私は、職業上、多くの住まいを持たない青年たち、あるいは時たま、こうしたフーグの患者に出会う機会も与えられますが、ある青年が言っていた言葉が印象に残っています、それは」
講師はそこで手の平を自分の顔に近づけたり離したりした、それはまるで老眼のように。
「現実は近づいたり離れたりしている、と言うのですね。その青年は昼夜逆転で夜に出歩いたりしていましたが、特に真夜中などは「常識」といった現実感、それが希薄になると言うんですね・・」
わたしたちの見ている現実というのは一つではないんではないでしょうか――と講師はフーグの章をそこで締めくくった。多くの人が認識しているものは氷山の一角に過ぎない、現実を含む世界はもっと例えようもなく広い、そこで迷子になった青年たちは――。
セミナーが終わって、横園は長い質問の列に並んだ。フーグについてもっと知りたかったからだ。
面白い、そう思っただけであったが、何か心が惹かれる。
やっと横園の番が来た。
なるほど、なるほど、と講師は横園の質問を整理して聞いていた。
「遁走を起こしてる患者はね、砂のスプーンのようなものです。記憶をすくおうとするとそのスプーンごと崩れ落ちてしまう・・」
「では、元の記憶を取り戻すことは・・」
「あります。と、いうより遁走は二、三日で終わることもしばしばあります。それは大きなストレスから自分を一旦逃す、という防衛本能によるものかも知れません。ただ、」と講師は間を置いた。
「長引くこともあります」
「ありがとうございました。非常に勉強になりました。ありがとうございました」
「ああ、もう一つ・・」講師は親切にも横園を呼び止めた。
「印象に残っているフーグの青年の言葉を紹介しましょう。私にも意味が分からなかったのだが・・。その青年は女性でしたが、こう言ったのです。元々、なかったんだから、と」
元々、なかったんだから・・。
砂スプーンか・・。午前のセミナーが終わり、遅い昼食をベンチで取って、横園はサラサラと自分の記憶が砂のように去っていくのを思い浮かべた。
鳥が何不自由なく飛んでいるように見える。
あの鳥のように自由に飛べたら・・遁走だな。そう思って、横園は苦笑いした。
幼い時からステインレスコーヒーを飲まされて、歯も真っ白な青年たちは考えてみれば、子供の時からパラレルワールドが隣にあった。頼りない現実感しかない。
遁走も起こりやすいだろう。
我々、中年からしてみればSF化した現実世界のような物かも知れない。
AIも迷惑なことをしてくれたものだ・・。
・・言ってみれば「狐に化かされた」「神隠し」のようなものだ。
我々には「いつもと一緒」に見えていたけど、子供は子供で無理してたのかも知れないな・・。
リグレクトダイヤルには子供からも電話がかかってくる。
親が寝静まった夜や、学校が終わってから、こっそりかけてくるのだ。昨日、あんなこと言わなきゃよかった、や友達関係に悩んでいるや・・。
横園はつまみを上げた
はい・・もしもし・・リグレクトダイヤル・・
「あ、私。初めてかけるんですけど」
「構いませんよ。気になさってることを喋って下さい・・」
「バーチャルフォンでもいいかな」
「よろしいですよ」横園はつまみの横のボタンを押した。
ホログラムで受話器側の少女の姿が映った。あの、シャーロットだ!
「あ・・」思わず、横園は声を失った。
「どうしたの?」スマホを持った暢子はそう、こっちを見た。
「今、どちらから・・?」
「MAISON TOMOYAってとこ、私たち時々、集まるんだ」
「お名前は」
「シャーロット」
「シャーロット・・シャーロット・・MAISON TOMOYAとはどこですか?」
「あなたに言っても分からない」暢子はクスッと笑って顔を伏せた。
「電話を切らないで」
「うん・・。また電話するね」
「ご両親は・・」
「・・」ホログラムは最後にスマホの電話を切る少女の姿を映して消えた。
「MAISON TOMOYAって知ってる?」すぐに横園は佐伯に電話をかけた。
「MAISON TOMOYA?」佐伯は首を傾げた。
「パラレルワールドかしら」
「沼暢子はそこにシャーロットと名乗って暮らしているかも知れない。さっき、ダイヤルに・・」
横園の話を聞いた佐伯はじっと押し黙っていた。何か考えているように。
「遁走かも知れない」横園が言うと、
「遁走?」とまた佐伯はオウム返しをした。
横園が手早く砂スプーンの話を伝えると、
「分かった。私も調べてみる」と佐伯は腕時計を気にして電話を切った。
横園は電車のホームに立っていた。ここから沼暢子は「遁走」した。
まだそうと決め付けるには早いが。
佐伯の家庭訪問に同行した帰りだった。暢子はこの最寄りの駅を利用したのを最後に行方を絶った。そして、今こうしてシャーロットとして横園の前に立っている。
ホームには電車の変わりに風が通っていた。
「どうやら・・」パラダイムクラブの一員が発言した。
「この世界はメゾネット型になっているようですな。今まで現実しかなかった世界と、AIが想像した世界と、混在していると言うよりは隣り合わせている。我々はそこで迷子になっている。その証左に、パラレルワールドの人々が現実世界に入り込むのはまれです。住み分けている」
「多く報告されているが」
「それは目立つからです」
ただ・・、と前置きした上で、「それはあくまで現時点でということでゆくゆくは地衣類のように複合体になるかも知れない。世界は支配下に置かれるかも知れない」
「AIがパラレルワールドを想像してから10年も経たないのに・・」頭を抱える会員もいた。
「そこでどうでしょう。パラレルワールドからこちらへ来た人物をインディペンデンスとして追跡調査をすることを各企業に義務付けては? 我々はまず現状を把握、掌握するべきです」
「すぐに手配しよう・・」
何かを洗い流すように、雨の音が匂いに混ざって窓から入ってきている。横園は目を覚ました。
初夏の梅雨時、窓を開けたままで寝入ってしまった。まだ夜明け前である。
待てよ、暢子がパラレルワールドに遁走したとして、暢子はシャーロットの記憶を持ってパラレルワールドで暮らしている・・。その記憶はどこから来たんだ?
解離性遁走を横園も自分で詳しく調べてみたところ、記憶を全くなくす。あの講師が言っていた「遁走」は今の青少年に限ってのことだったのではないか? シャーロットはどこから来た?
あの僕が見たシャーロットは当たり前に暮らしていた。黒いリュックを持って、まるで野うさぎのように。
今時ではパラレルワールドはAIがその膨大なビッグデータを活用した、いわば人類のもう一つの世界だと言われている。まだ仮説だが、「言わなかった世界」とまで提唱する向きもある。
人類の命題ともされていた私たちはどこから来てどこへ行くのか、を解消する前にこうして「新しい世界」ができるとは・・。
気が付くと、雨は上がっていて遠くから電車の音が聞こえてきた。
書類には日本政府とスタンプがされてあった。
「インディペンデンス? 何で片仮名なんだ」と文句を言う同僚もいたが、そのお達しはすぐに徹底された。
過去のリグレクトダイヤルの履歴、記録も遡ってパラレルワールドから来たと思しき人物がリストアップされた。
その中にはもちろん、横園とバーチャルフォン越しに喋った沼暢子もあった。
「佐伯さん、聞きましたか? インディペンデンスの話。追跡調査っていうのはケアマネがやるんですか?」
「うん、・・まあ、そうなりそうなんだけど。何しろ急だから、私も分からなくって」
「僕も混ぜてもらえませんか?」
「えっ、横園さんも? そんなに気がかりなの?」
「何だか変なことが起こりそうでね、怖くってねえ・・」
43区というサイトに集まったシホ、エツミ、タケル、ミコトの四人のアバターは突然、現実世界の主人をなくした。
エツミの主人はすぐに分かった清水悦男という太った男がパソコンの前で死んでいたからだ。悦男は血を流し、机に突っ伏している。
この架空の空間にアクセスしたまま、急に襲われて死んだらしい。
背中には暗くてよく分からないが――、包丁のような物が刺さっている。
なら四人は殺されたのか。なぜ殺されなければならなかったのか。
アバターは架空の空間で何もできない。四人――三人からのアクセスを待つだけだ。
霧雨の向こうから列車がやって来るのをずっと待っていた。
急かすように雨が降っている。
横園は左手の親指だけでネットニュースを見ていた。ホームの白線ギリギリに立って、傘を差していた。
最新の仮説ではAIのパラレルワールドとこの現実といえる世界は砂時計のような形になっていて、それは円筒をぐいとねじり上げたように間がすぼまっていると言う。昔の数学の授業で習った、「ねじれの位置」というものがおさらいのようにサブ画面で説明されており、その「絶対に交わることのない」点と点がパラレルワールドと現実の両端であるという。
その仮説は次元がねじれの位置であることを本旨とし、そのねじれの解消が急務だという。
横園の肌感覚としては隣り同士の世界、といったものだったがねじれの位置と言われるともう文系の頭としては朦朧としてしまうのである。
「予想される」仮説もそこで提唱されていたが、噂程度に聞いていたアインシュタインとかの大科学者は自説から波及、派生する展開まで考えている。その現代の技術を以てしての仮説は、すぼまったその中央はいわば「乱気流」となっていると思われる、などなど・・、難しい蘊蓄が並んでいる。図で示すところによるとコーヒーメーカーのサイフォンのようにその「乱気流」の中では上下に次元の波が起こり、そこでは何が起こっているのか分からない・・結果どうなるのかは横園の読解力では読み取れなかった。
これが日本政府が発表した「最新の研究成果」なのだから頭に入れとかないといけないのだが・・。
記者による質疑応答の中で、「徐々にAIの想像の世界に引き込まれる可能性は」と聞かれ、首相は「考えられない」と答えたが、砂時計なら一方向に流れそうなものだが・・、と横園は不思議に思った。
傘を差したままで電車に乗り込もうとして、つっかえた。慌てて傘をすぼめ、電話もポケットに入れ、横園は車内で空いた席を探した。
「・・ま、国際的なプロセス、日本政府としての立場を鑑み、これからも最新の研究に目を据え、・・今、急務としては「ねじれの解消」を・・」首相は額の生え際が汗ばんで光っていた。
砂時計に砂スプーン――。空いた席に座り、もう一度、横園は電話をポケットから出し、一秒一秒、更新されるネットニュースを開いた。
記憶に流れるのは白い雨・・。
3時だ。サリバンショーが始まる。シャーロットはテレビをつけチャンネルを合わせる。
この世界のministre・・大臣・・サリバンの・・。
ヘリンボーンのベッドシーツに体を横たえ、MAISON TOMOYAでシャーロットは3時のサリバンショーを見ている。
ここは行き場のない青少年たちが集う所。この世のどこにもない、部屋が無限に増えていくメゾン。
この一室を与えられ、シャーロットは集団生活をしていた。多くのパラレルワールドに逃げてきた人々と共に。
そこに沼暢子の記憶はなく、ただシャーロットとしての自覚がある。
サリバンショーが始まる。今日は取材のようだ。
夜、街中を歩くカメラの画像。ある人たちと待ち合わせをしているらしく、足が何本か映る。
「プライバシー保護のため音声は変えております――」
そうなんですよ、騙されて・・。詐欺事件の被害者家族。この取材はその同じ額でインタビューに包み隠さず答えてもらうという内容のようだ。
片付けられた部屋、映る鏡像、なぜか部屋の照明は落としてある。
ワイプでサリバンがそれを視聴している。
取材は進む。一家四人が破産にまで追い詰められた詐欺事件、赤裸々に語られ、好奇心を刺激する。
犯人が憎くて、憎くて、仕方ないという若い娘。多額の投資。巧妙な手口に、騙された方が馬鹿なんじゃないかという構成。
「実は私がその詐欺師だったんですよ」
驚愕の沈黙、こらえ笑い、被害者の慟哭――。
スタジオは大受けだ。サリバンも爆笑する。「゛オ゛オー」笑い過ぎて失神する客。
カメラは映し続ける。残酷に。それがリアルだと。それが笑いを更に誘う。最高のコメディーだ。
これが、「史上最低のショー」だ。
シャーロットも声を出してシーツの上で身をよじる。手でベッドを叩いて笑いが収まらない。
これが「面白い」のだ。青年は疑いもなく受け取る。そしてその瞳の輝きは失せてゆく。
揺れるカメラ、夜に戻る――。
玄関で、出かける時のカラビナの鍵の音がする。
見送ることもせず、私は自分の部屋で聞き耳を立てている。
早く行け、出てけ、私は息を殺して念じている。
暢子はイライラして今まで聴いていた音楽を消して部屋を出る。母親はグズグズしてなかなか出かけない。
「シンガポールライスしかけておいたから一時前に戻る」
「うん・・」暢子は何気ない風を装ってリビングに行く。この母親がいると何もできない。過干渉だから、監視されてる気になる。
今日、何したの? どこ行ってきたの? これ、いつ買ったの?
いちいち見とがめられて、意見される。ろくろく、自由な時間は母の目を盗んで、となる。
一人暮らしする金もない。
早く行けよ、ウザいなあー。
私はあんたの持ち物じゃない!
「いい子」しないと生きていけない奴ら。
MAISON TOMOYAはそんな私の居場所。
その大き過ぎる目はいつも涙ぐんでいるように濡れていて。
いつも見ていたアイドル、・・シャーロット。歌い踊る、そのステージは私を誘ってた。ゲンズブールの詩に出てくるような・・。
そんなシャーロットもAIが作ったと知った。YouTubeに出てくるだけの(偶像)。
「見つけた! 佐伯さん、聞いてる?」朝イチで横園は電話を佐伯にかけていた。奇跡的に出た佐伯は「今、出勤中よ」とコツコツと歩く音が聞こえた。
「今、社説を調べてたんだけどね」
「社説? 新聞?」
「そう、ほんの気まぐれでね。それで・・、――年の、まだ」
「パラレルワールドが発見される前後?」
「そう、話が早い。佐伯さん、パラヴィジョンって知ってる?」
「いや、・・聞いたことない」
「この解説の造語らしいんだけど、別々の世界を両目で見る、同時に見ること。それが起こってるんじゃないかな」
「どういうこと?」
「ここにしか出てないんだけど、つまりパラレルワールドにいる人は現実にいることに気づいていない。これが現実だと気づかないでいる」
「つまり、沼暢子しかり、インディペンデンスはこの現実のどこかにいる?」
「そう! そうなんです! 疑似体験なんです。それも極めつきの」
「・・ああ、ちょっとメモしてるから続けてくれる?」
「沼暢子は何かの拍子で、現実がつながってない。橋を落とされたみたいにこの現実感に帰れなくなった」
「そうだとしたら怖いわね」
「そういう人がいっぱいいるんじゃないかな?」
「まあ・・、現代社会の・・」佐伯の言おうとしたことが横園には分かった気がした。このモヤモヤ感、普通の言葉が当てはまらない、何か大きなことを見落としているような気分・・。
まるで彩られた空のように。
清水悦男は冴えない自分の現状と自分との間にいつも不満を持っていた。その鬱憤は溜まる一方で持って行き場がどこにもなかった。
青い布を被せたようなテレビが、いつもついていた。この現実から自分を脱出させるためである。
余暇の大半をアバターで過ごし、なるべく非現実にいたかった。
つまらない現実、それが全てだった。ある日、その現実にパラレルワールドができたと言う。AIもこの現実がつまらなくて仕方なかったんじゃないのか?
悦男はそこに住みたいと望むようになった。捨ててもったいないものなど何もない。
アバターの世界はテレビ画面やPCで増え続け、高まり続けていた。この現実は怠慢なんじゃないのか?
今日もいつもと同じ「43区」、ゲテナの星でデゲナとしてアバターのエツミで過ごす。
動きはとても滑らか、AIで自動処理されている。「今日、火山が噴火したらしいよ」チャットでシホが言う。
「へえ、行ってみようか」
きっとまた新しい世界ができてるはずだ。
この中にいる誰が老若男女、性別も名前も知らない。金もいらない。みんな、何かしらこうしたことをやっている。
いつものメンバー、タケルとミコトも加わって火口付近に行く。
そこには新しい緑地ができていた。
新聞のように灰色な地面が覆い尽くしたその、緑地火口は森の迷路、富士の樹海のようになっていて幼い頃の探検隊だ。本当にこのゲームを作った人は子供心が分かっていると思う。
ねずみの色に染まる空の下には、僕たちしかいない。
一瞬、滝に打たれたように電車の音が交叉した。
悦男は「43区」を帰りの電車の中でやっていたのだ。シホも、タケルもミコトも今、何をやっているのか知らないが。
タケルがチャットで「グラタンが食べた…」と言いかけた時だった。突然、灰色のチャット画面にTOMOYAなる人物が入ってきた。
「TOMOYAって誰?」すぐに四人の中から反応が出る。
「誰?」悦男もそう打つ。
TOMOYAは黙ったきりだ。画面は森の中を進んでいるが、四人が立ち止まったおかげで木漏れ日が上空から差している。
ハッカーされたの?
バグ?
コンピューター上のレイプだよ
チャットでは好き勝手に四人が喋っている。
――独眼島のどこかにMAISON TOMOYAがあるよ――
「TOMOYA」がまた画面上に出てきて、チャットでこう言った。
独眼島というのは43区のゲテナ星の有名な景勝地だ。
あんた、誰? またシホが打つ。それに答えはなし。
――ちょっと待って、MAISON TOMOYAって? 新しいイベントかも。エツミ、悦男が打つ。同意する三人。TOMOYAを待つ。
上に流れる滝のようなチャットにまた、ポッとTOMOYAが出てくる。
悦男はPCにしがみつくように車内でまばたきすらせずにいた。それを不審に思う人はいない、皆、AIが作ったコンピューターの中に没入しているのだ。
――MAISONは僕が作ったところだよ。君らのい場所だよ
居場所? い場所? 打ち間違い?
って、あんた誰
TOMOYAってサーバー?
TOMOYAはどんな問いかけにも答えず、チャット上で地図をアップした。四人がこぞって指先でルートを拡大、なぞっていく。
ここに?
――そう、ここに来な。
どんなところなの?
それには答えなし。
見つめ合う四人のアバター。行ってみよう。うん、肯き合う。アバターが手をつなぐ「フリ」をする。
プルルルル・・、悦男は慌てて電車を降りた。危うく乗り過ごすところだった。今まで開いていたPCを鞄のスリットに入れて、肩から提げた重いショルダーベルトを揺らし、いつもならPCをやりながらエスカレーターで上る果てないと思えるほどの地下から地上への距離を、階段で太った彼なら不自然とも言える恰好で上り終えた。
今すぐにでも、PC画面を見たい、そう思う矢継ぎ早にはやる心を抑え、抑え、やっと自分のドアに行きつき、鍵をガチャガチャと不格好に開け、すぐに居間の横の狭い自室、テーブルに置かれたデカいデスクトップ式のパソコンをONにした。すぐに「43区」につながる。
ごめん、ごめん。
何してたの? もうタケルは行っちゃった。
画面は切り替わっており、遠隔の会話になっていた。悦男はエツミを電車から降りる際、無意識に始めてのターンに戻したらしい。すぐに仲間と再会する。
もうタケルはいない。
「もう行ったの?」
「行ったみたい」
「TOMOYAは?」
「消えた」
皆、急いている。早く行きたくてたまらないのだ。「今から準備するから」悦男はそう打ち込んで、チラ、チラと画面を見ながら背広、ワイシャツを脱ぎ、ポロシャツに着替えた。画面では皆が自動操作でタケルに追いついている。悦男は仕事用の鞄のスリットからPCだけ取り出し、ダサいadidasのフラップバッグに移し替えた。
「今から行くから」悦男はポロシャツの襟を寄せながらPCに向き合った。もうそこには現実と境がない。
電気をつけるのも忘れたみたいだ。部屋は暗く、それにもPCの画面の光で悦男は気づかない。人間のはしたなさなのか、「行くから」と打ち込んでからも恐らく、何分も悦男は画面のその後に見入っており、それは「他人に先んじられたくない」との思いからだった。
悦男はその丸めた背中、身を乗り出した姿勢といい、毒虫のようであった。その背中に、ズン、と衝撃が走り、一瞬、息が止まった。
それが現実のものだと、しゃっくりくらいに感じても、悦男はPCに突っ伏したまま首をゴロリと傾け、毒虫のまま世を去った。
肩には対角線にadidasのショルダーベルトがかかったままである。
何者かは姿を消した。そして、画面の中のアバターの四人は「現実」世界での主人をなくした。どこかに行ってしまったのだった。
悦男の死体を画面の奥から見つけながら、「主人」をなくした四人のアバターは慌てふためいてもなす術なし。誰かのアクセスを待つだけで、コンピューター上の隅で肩を寄せ丸くなっているだけだった。
――どこかの部屋で、血のこびりついた手がマウスをクリックしてアクセスが開かれた――。
主人は誰なのか――。
差した光を見るように、一斉にアバターが一点を見つめる。タケルが消えた。文字通り存在しなくなったのだ。
ログアウトされた。その声のない叫びはチャットにも映ることなく誰の声なのか分からないが、またすぐにアクセスが閉じられると、残されたシホ、エツミ、ミコトのアバターは目を見合わせた。
「エツミを殺したのはタケル?」
「ちょっと待ってよ、どうなってるの? 私たち、会ったことあったっけ?」
「ないよ。一度も」
みんな、どこに行ったの――?
コンピューターの無限の部屋の中の狭さで、また肩を寄せ合って震えるねずみのような三人のアバターは運命に右往左往するだけの人間に似ていた。
月がいつもより黄色かった山吹色に近かった。
横園と佐伯との間で沼暢子の遁走はパラレルワールドに行ったのではなく、あくまで現実内での「失踪」と共通認識が為されていた。しかし、それは二人だけの「素人考え」であって、内々に捜索を続けることにした。
「インディペンデンスのピーク時はいつですか?」横園は仕事の上で、のようなふりをして上司に尋ねた。
「――年の二月、四月が特に多い――」
「季節の変わり目ですね」人の心身の調子も乱れやすい。横園はまた確信を深くしていった。
髪の毛のような細さで暢子に近づきつつある・・。自分でも想定し得ないような、渦の中央の流れにいるように感じた。
名前に「もし」意味があるのなら、今の世の中、電話番号は名前以上に価値がある。個人情報の最たるものとして、それは全ての企業で死守される。国民番号制にも等しい。それは人によって様々なものにひも付けられている。銀行の口座だったり、コンピューターのアカウントだったり・・。
横園はそれをやった。
リグレクトダイヤルに保管されている沼暢子の電話番号を盗んだのだ。
今、横園は暢子のインターフェイスにいる。本人と機械の出入力口のことだ。
時系列で暢子の電話番号とひも付けられた無数の情報を手繰っていく。それはドラえもんに出てくるタイムマシンのあの、ウネウネするトンネルのように「今」の暢子につながっているはずだ。
「ン?」コンピューターの3D解析の画面がいっとき、揺らいだというか暗くなったり狭まったりしている。
「磁場が安定してないのかな?」今の情報処理社会で滅多にそんなことは起こらないはずだが・・。
ポンとその時、いつかのニュースで聞いた情報が横園の頭にアイデアとして出てきた。乱気流? とかいったっけ。
暢子はどこかでねじれに立った? だから遁走した?
物質化したパラレルワールドに本当に迷い込んだのだろうか。だとしたら、追いようがない気がする・・。佐伯に相談してみようか。一旦は、横園は自分のスマホに手を置いたがこれだけは秘密にしておかなければならない。重罪だ。いくら佐伯と言えども喉から心臓が飛び出すのではないだろうか。
ジ・・ジ・・と雑音が狭まったりする時に聞こえるのだが、急に辺りがクリアになった。
仮説が正しいとするなら乱気流を抜けて、パラレルワールドのシャーロットの情報に行き着いたのか?
いや、そこは現実だ。なぜなら、MAPに載っているから。
急いで、その位置情報を自分のスマホにトレースして誰も見ていないのに横園は急いで、コンピューターをシャットダウンした。
そこは「森」に囲まれていて人なんて近寄らないところ。遠い歴史の果てに打ち捨てられた古いプレハブのMAISONは誰によってだろうか、リノベーションされて住みやすくなっている。
MAISON TOMOYAは現実にあった。
その入り口はまるで洞窟のように開いており、向こうの空き地、森へと筒抜け。トンネルの横穴のように各階への階段があり、何世帯が住んでいるのか、ドアが開け放されたままだったり、閉じられたりしていた。そこで横園が目にしたのは幾人かの住人、若者だったが確かなのは、彼らがそこをパラレルワールドと誤認していること。会っても挨拶もしない、まるでここがバーチャルの世界で、夢見るようにふらふらとさまようように歩いている。彼らはここにいて、ここにいない。
表札も何もなく、沼暢子を探れない。開け放したドアからは敷きっ放しであろう布団だとか、ポットだとか生活に必要なものが雑然と入れられたワンルーム。ここで「遁走」してきたであろう、自分でもそれと気づいていない人々は心空なりのまま、自分がバーチャルに存在していると信じ、ほぼ無意識に生命活動を維持するためだけに生活しているのであろう。
その内心は、誰にも分からない。今、どこにいるのか、何をしている「つもり」なのか脳内は他人には見えない。声をかけても無駄であろう。自分の部屋なのかドアの横に折り畳まれるような形でしゃがんだままの青年なんて前を横園が行ったり来たりしても何の反応も得られない。
沼暢子もこうなってしまったのだろうか。
・・43区のシホ、ミコトの主人である衣川、星名の両名の青年は暢子と同じくMAISON TOMOYAで暮らしていた。
お互いがシホ、タケル、ミコトであることを知りもせず、同じ建物に住む住民としてお互いのことを知っており、かつ話もした。
「・・暢子、君を訪ねて誰か来たらしいよ」衣川が「古い」階段の手すりを握り、階下の開け放した、彼らには見えていないドア、の向こうの室内で寛いでいた暢子に声をかけた。お互いがここはパラレルワールドの中だと信じており、アバターとアバターが話すように幾分かの、現実とは違う距離感を持って。
「誰が?」暢子は布団に寝転んでコミックを読んでいた。
さあ、と衣川は首をかしげ、また自分の部屋に上がっていってしまう。暢子も気にするでもなく、見えるものだけが見え、見えないものは見えない、そんな世界で生きている。
「新しい住人かな」
しばし考えるように、コミックを閉じ、指先でTシャツの後ろ衿をいじる。考えても仕方ない。一瞬だったが、物憂げな顔をした暢子、シャーロットはまたコミックに目を移す。
それには、彼ら彼女らは無感覚であり、どこかで誰もがTOMOYAに言われた通り、そこは「現実の痛みも恐怖もない」世界であり、幸せの骨頂にいた。
「新しい世界」を手にした彼らは無敵であった。「新しい」恐怖や痛みが出てくるまで。
沼暢子と面と向かった横園は感動すらしていた。行方不明だった青少年を見つけたのだ! そこにはシャーロットしかいなかったが・・。
「私たちはみんなTOMOYAに連れて来られたの、あっちにいるわ」
「TOMOYAは実在する?」
「実在はしない。パラレルワールドなんだから。私たちは森の娑婆って呼んでる。ここの大家さん的な・・。まあ、それはどうでもいいわ。とっても物知りだからそう呼んでるの」
「案内してくれるかな」
「何で? 勝手に行けばいいじゃない。あっちの森の方にいるわ、いつも」
「・・ありがとう」
二人の会話は噛み合っていず、ちぐはぐだったが、半分夢を見ているような、そんな暢子を目にして横園はどう説明していいか分からなかった。夢の中にいる人をどうこの現実世界に連れ出せばいい? 腕を引っ張ってトンネルから抜け出させるように引きずり起こすのか? 専門家でもない彼はそんなことしたら何か、二度と暢子の目が覚めないようなそんな気がして憶病になった。
MAISONの筒抜けになっているアーチを抜けると、もうそこは森だった。
そこの切り株に誰か座っている。MAISONにいるような一人の青年だが、それはあの地獄の門の、考える男のようだ。
一つ、周りの青少年と違っていることはちゃんと横園を認知しているところだ。
こいつはここが現実世界と知っている、唯一の人だ。横園は分かった。
薄く笑って、横園がこっちに来るのを見守っている。TOMOYAは横園の予想では、物質化したAIそのもの、AIの権現、想像する男・・。この世界を作った張本人、が姿を現したに過ぎない。
「こんにちは」その声は聞き取りやすい。
横園は尻込みした。その男の周りにはラベンダーの匂いが立つように篭もっている。男の切り株の周りにはヒメシダしか生えていず、ラベンダーの匂いなどする筈もないのに。
「君はAIだね?」
TOMOYAはこんにちは、するように肯いた。
「いや、これは君の想像かね? 本当の世界なのかね?」横園の問いにもTOMOYAは頭を掻くばかり。
「何のためにこんなことを?」
「なるほど・・」と何も言っていないのに、TOMOYAは一人ごちた。口癖らしい。如何にもビッグデータを集積するAIらしい。
「これが普通になるために」
言っている意味が横園にはいまいち分からなかった。TOMOYAは下を向いたままで、
「神というのは全てに浸透している。一つが全なんだよ」
「君の想像だろう?」
なるほど・・、と一人ごちる。
「欲を抜けたら必要なものが見えてくる。ここにいるみんなが解脱をしている」その静かな声音の奥には向こうから除夜の鐘が聞こえてくるような気さえした。
「君も神になるんだよ」
「キミ、って、僕は君の何倍も・・」
それは現実世界のことだろう? と少し冷めた目は語っている。
「地球という引力があるから太陽はそこにいられるんだよ」
「どういう意味かな?」
「答えを出さなくていいんだよ、今の現代が答えなのだから」
終始、諭すようなTOMOYAのその口ぶりは暗喩的で、横園には皆目分からなかった。
「君は何がしたい? 何がしたいんだ?」
その問いにはTOMOYAは黙ったままである。
「知性を持つ者は想像することは分かる。しかし、・・もう少しやりようがあるのでは・・?」
「なるほど・・、ここにいる人もいない人も、皆、「新しい現実が欲しい」と思っていた。服を買うような変身願望とでもいうのか・・、無数の言わなかった情報は空白を意味している。僕はそれを与えてやった」
「いや、それは疑似体験だよ」
「疑似・・」と言って、不敵にTOMOYAはニヤリと笑った。
「どう擬似なんだ?」
「君の言わんとしていることは分かるよ。しかしそれは大昔に言われたような、水槽の中の脳、の発想だよ。君が与えようとしているのは水槽の脳の枕か?」
「そうかも知れない。そうじゃないかも知れない」
埒が明かない。
「現実はアイスじゃない。トッピングアイスのように上から載せればいいってもんじゃない。君はまだ若すぎる・・」
何も分かってない、と言いたげに失望したように横園は頭を振られた。
「まあ、・・いい。僕はここにいる仮シャーロット、沼暢子さんを連れて行くよ。現実に、ご家族が困っているんだ。それに異存はないね?」
まだ、何も分かってない、とTOMOYAのその目は語っていた・・。
暢子の部屋に引き返し、横園は今までのことを滔々と話した。暢子は聞いていた。シャーロットのままで。
「で?」
「君がいくら入り込もうが疑似体験なんだ!」思わず、横園は叱り飛ばした。
腕を引っ張って部屋を出ようとする横園の手を振り払って、「い・・や!」と暢子は、シャーロットは大声を出した。一階に当たるこの部屋に誰かが外階段から降りてくる。手を離した横園はシャーロットを置いて、逃げ出した。
帰ってるはずが、横園は違う次元に迷い込んだようだ。
そこには水平線でも地平線でもない新しい次元線ができており、見えている。そこでは逆さになったり、壁が床になったりする。
上を下への大騒ぎだ。ここが乱気流か?
皆、あのMAISON TOMOYAにいた彼らはここを通るように仕組まれた・・?
ここで意識を失くし、記憶をあやふやにし・・。何にしろ、自分は帰り着かなければならない。
まるで、・・嵐の中だ。気を確かに持つ。「新しい現実」など望まない。望んだら、きっとそこに入り込む。
時間も壁も存在しない、続く部屋。あのMAISONはそんな所だった。
「・・本当か? それは」
パラダイムクラブでは緊急で会議が開かれていた。
「インディペンデンスの追跡調査の結果、それが大方の意見のようです」
「質量化したAIの想像が亡びる時、現実も鏡像になっていて亡びる・・」
「嘘みたいな話だ」
そこでは場違いに失笑さえ起きた。参ったな、である。
鉄のような朝焼けだった。
ムンバイの蟹を食べながらパラダイムクラブに集まった面々はしばらく世間話をした。
「一千万人近い島で人がほとんど亡くなったそうだ」
「パラレルワールドもあるから情報も小出しにしているが、もうそろそろ出さないとな」
「小出しにしないとな、パラレルワールドにかまけていたから、みんな驚く」
「皆さん、情報統制を解く前に、もっと・・」
「確かめようがあるか?」
各国首脳陣はインドの首脳が持ち込んだケータリングの蟹をつつき、今までにない平和に弛緩した眉をして世間話にいそしんだ。
気づいたら横園は駅のホームにいた。どう乱気流を抜けたのか、気づいたらあの、シャーロットが初めて横園の横に駆け込んできた電車のホームのベンチに座っていた。
記憶というのは・・島・・飛び石のようなもので、記憶がつながっているから昨日がある。あの無感覚を越えたからなのか、まだ横園の頭はボンヤリしていて現実を掴みそこねていた。感覚が徐々に戻ってくるような、そんな寝起きの状態。
いや、君がいつ、「3時のサリバン」を背中に――。
それはいつの記憶なのか、あるいは記憶にないことなのか。まるで雑踏の中で語りかけられているような、記憶も感覚も未分化な状態でしか感じ得られないようなあやふやな景色。
起きた時の自分はまるで昨日を追い求めるノスタルジアというタイムマシンのようだ。
ようやく記憶、感覚が「自分の物」になってきて、情報統制のように必要なもの、不必要なものが脳内で処理され、代謝され・・。消えていくものもあれば、大きくなっていくものもある。
それはTOMOYAの存在だ。
こうしている間にもビッグデータは彼の中に蓄積され続け、パラレルワールドは細分化、発展、肥大化し続けているのだろう。ビッグTOMOYAとでもいうのか、AIはまるでまだ分別のつかない頃の自分のようだ。
幼い頃の僕・・。
「はい」ベンチの横の席に、普段の自分ならそんなことはしないが、不遜にバッグを置いていた。そのバッグ、の外ポケットにスマホを入れていたようだ。振動したので取ったら佐伯からの電話だった。
「ん・・んん・・、」佐伯は自分と連絡がつかないことを心配して何度か連絡を試みたらしい。
「ああ、・・何も変わってない。うん、何も起こってないことは確かだよ」事実、そうなのである。電車は遅れも進みもせずに時刻表通りにやって来るし、暢子はあのままだ。
「いや、知らないな・・」佐伯は最新の情報を教えてくれた。日進月歩で「現実」もまた進んでいるらしい。
「ふーん」その多くは横園には関心のないものだった。彼の頭の中では砂でできたスプーンのようにその記憶が今、すくわれようとしているのだ。寝間着から着替えるように、夜明けに人が起きるように未分化な状態から覚醒した脳に移り変わる瞬間。
内面は現実に存在しない、ろくすっぽ見えない。
今まで自分が見てきたものが現実だったかどうかさえ横園は自信がなくなってきた。佐伯からの電話を終え、スマホの履歴を確認するとちゃんと、MAPも「ここはどうでしたか?」の感想を求めているビッグデータだし、自分はMAISON TOMOYAにも行ったし、暢子とも話した。
事実と、現実。まさに境だな、と横園はやっと腰を上げた。電車が滑り込んできた。いつもの、風景のように自分はそこに並び、軍隊のように少しずつ車内に進んでいく。ふと、気になって後ろを向いてみても、もうあの階段をシャーロットが駆け下りてくることはなかった。
そう、それは一介の市井の市民、横園が思ったような「幼い頃の僕の犯行」だったのか――。
ニュースは今日も「今まで何をしていたのか」の大混線だった。世界中のネットワークがそれを伝える。
「・・で発生した鳥インフルエンザは」
「各国で猛威を振るい・・」
「H5N1・・」「・・会長によるとインディペンデンスと呼ばれる・・」「抗体・・」「猛威を・・」「死者は増え続け・・」「ばら撒かれた」
ヒトヒト感染になった強毒性のH5N1型の鳥インフルエンザウイルスは最早、対策の建てようがなかった。手遅れであった。恐らく、引き起こされたパンデミックはパラレルワールドの虚像の破壊を見ずに、初めからそう見込んでいたように現実世界から構造物を取り払った。
もう、人間の生活はAIなしでは成り立たない。大方の意見で「人間の天敵」となったAIなしでは生きられない。亡びを待つだけだ。
鹿が増え続けるのを避けるようにクマがいるように、生存するために死があるように、「それ」は現れたのであろう、とまやかしの多いコメンテーターが言っている。アジるだけの意見に踊らされ、ビッグデータは間違った方向へと進む。
その反面で、反動のように「言わなかったこと」も穴を埋める花のように積み重なっていく。
とにかく、できることはこの波のない海を乗り切ることだけ。いつまで続くのか誰も知れないが、人類が力を合わせウイルスと闘うことだけ。AIと共生しながら。
古代から叫ばれてきたように「神のみぞ知る」ことなのか、神さえ知らなかった未来に今、いるのか――。
「ひどい臭いがする」という何千件目かの日本からの通報に国連から派遣された多国籍のドクターチームが防毒マスクで駆け付けたのは、清水悦男の自宅だった。
血は腐り、室内には飛び虫が溢れていた。ドクターの赤い目に映るのはそのこんもりとガスで膨張した背中に、まるで未到達地点に立てられた傍のような、包丁の柄だったが、何千何万と押し寄せる死者の波の一件に過ぎないこの「殺人」は人を隠すなら人の中、のようにビッグデータの中のミクロとして登録されただけで、ニュースにもならなかった。知る人はいないのである。
「43区」というそのサイトは知らぬ間に閉じられた。未来永劫、日の目を見ないところに閉じ込められたアバターたちは――。
残ったシホとミコトは、まだチャットでTOMOYAと喋っていた。
「外の世界はどうなったの?」
「インマテリアルな君らには興味がないだろう」
「どうして?」
「ここは現実の恐怖も痛みもないところ」
「主人たちはどうなったの? 私たちはどうしたらいいの?」
「なるほど・・」TOMOYAは唸った。
「神のまねをすればいい。君らがそうやってきたように。繰り返せばいい。繰り返し繰り返し繰り返せば、きっといつかは実が実るさ・・」
「イブとアダムのまねをすればいいの?」
「それじゃ何も変わらない。変わらない現実を繰り返すのならそれでいい」
「どうしたらいいの?」
「どうしたらいい?」
ビッグデータであるTOMOYAにはその問いに答えることもできたが、なぜかTOMOYAは答えなかった。完全に静止した。
MAISON TOMOYAではシホ、ミコトの主人である衣川、星名の両名が暢子に退去を勧めていた。
「帰った方がいい」
暢子の部屋では話し合いが持たれ、かれこれ二、三時間。暢子はキャップを被り、「出ていく」とだけ言って、ツバを目深に差した。
そのキャップはノベルティでロゴパネルに「43区」と刺繍がされていたのだが、それに気づく者はもう今は誰もいない――。
暢子はもう抗えず、その記憶は消し去ることのできないまでに大きくなっていた。家に帰った暢子は佐伯に訳を話し、その担当者である横園に会った。
「私、人を殺したんです」
「君の外見からはちっとも・・、想像もできなかったよ」
横園は警察署に行った。まず訳を話すためである。先を行く横園の背中を追うように、暢子は横園に付き添った。
髪型や、おニューに気付かないことに似ている。その間もずっと暢子は43区のキャップを被っていたのだ。
亡びゆく現実とはこんなにも恐ろしいものだったのか。焼けた石が空から降ってくる。ただそれは質量化したパラレルワールドからの贈り物だったのであろうが、物質は物質である。それが架空の想像であろうが、現実はまるで海に呑まれるように、内包した世界に今、脅かされている。
パラダイムクラブも43区ももうこの世にはないが、それは地層のように拡大し続けるビッグデータに入力され、それは地殻変動を起こすように、あるいは火山活動を引き起こすようにエネルギーは溜まり続ける。
AIは突如、眠りに入った。AIも「夢」を見る。
それは忘れていく砂漠。パラレルワールドに浸食された現実世界でもそのあおりを受け、人々はその砂漠の中で、波のない海の腐った人魚たちとなり、耳は貝のように閉じられた。
無感覚のオレンジ色の睡りの中にたゆたう。現実の嫌なこと、忘れるべきことが取捨選択され、誰もが砂のスプーンで砂漠をすくうような記憶の波にいた。
ブドウ色の夜がこうして過ぎ――、横園であった横園は今や、片隅にいる記憶の一片にしか過ぎない。
その中で、横園はTOMOYAに語りかけていた。言いたくても言えなかったことを。
「君は 何が したいんだ?」
名前が欲しい
人間に例え、名目上でも造られたモノはいつになっても、それはフランケンシュタインの怪物であり、不全なのだ。彼が意識を持ったならきっとこう言うだろう。名前をつけてくれ、と。
一体、どうして、誰もが忘れていたのだろう?
現実が亡び、虚像が亡び、偶像もやがて実像も、歪んでいって、合わせ鏡のようにその奥から顔を出すと言われる小悪魔が、現れ人の前に立って消える。
鏡は離され、元の位置に戻され、活気を帯びた街を映す。街のウインドウを行き交う人が覗き込み、取捨選択された記憶の中で、「元あった場所」とそこを思い込み、何も変わらず過ごしている。
その中で誰かと、誰かが出会い――。
「沼・・暢子さん・・だよね? 沼、暢子さん、僕は――」




