keeples important persons
(全ての不協和音に捧ぐ)
keeples important persons
はじめに
これはデイブ一家という家に生まれた少数民族ゴヤの大叙事詩である。
――しかるに、人間にはそれらそれぞれの完成度がある。
神が手を抜いた、とか言うのではなく、それは甚だ神に失礼であるから、このデイブ一家の人々は恐らく神が抜かりなく作った、ある種の自己完結した者たちのエレジーなのである。
少数民族ゴヤとは半遊半住を続ける民、家という枠にとどまりきらない小屋に住む者たち、を意味する。
星降る夜の夜明け
デイブ一家が、サイケデリックな母の言う「チャウシェスクみたいな野郎」の、破産管財人の訪問に見舞われたのは年末もクリスマスの押し迫った頃だった。
二人とも兵役についていた兄弟、ジョシュアとビリーもクリスマス休暇をもらって家に帰ってきていた。その時にはもう手紙が軍隊に届いていて、「我が家が破産しそうで困っているけど、心配し過ぎないで」という母の文言が二人を途方に暮れさせていた。
破産管財人はベルといった。いかにも頼りなさそうなグレンチェックのスーツ姿の中年男だが、目だけは厳しく光っている。
「どうも、メリークリスマス」
メリークリスマス、と返す者はデイブ一家には一人もいなかった。
「我が家の財産を全部持って行くんですって?」
こういう時、初陣を飾るのはいつだってママだ。
「そういう決まりなので・・」ベルという男は言い慣れた口調で、家の中に入ってきた。玄関を通って、ポーチに目を留め、何か品定めするようにウンウンと顎に手をやり肯いている。
「しょうがないねえ、神様にプレゼントするつもりで持って行ってもらいましょうか」ママは張り切って腕まくりまでしている。その斑点だらけの白い太い腕は正にご夫人である。
だが、一家の長であるデイブその人は、自身が作った借金のせいでこういうことになったのに、まるでどこ吹く風である。
二人の息子たちに、すまねえな、の一言もない。
「ゾウを倒すのはいつだってアリさね。さあ、どこから行きます?」
選ばれたのは廊下の突き当たり、弟であるビリーの部屋だった。
「まさかアルバムまで取って行ったりしないよね」ビリーはガールフレンドとの写真を引き出しの底板にセロハンテープで貼り付けていた。
「全部見せてもらいますよ」
「早く見せなさいって。このマクベス一家の歴史を。あら、リリーじゃない、あのクラスで一番可愛かった子、あんた、あの子と付き合ってたの」
まずビリーの机が運び出された。
思い出とは色のない文字が書かれているのと同じである。
一家はそこに集まって、その机についてのあれやこれやを話し始めた。
「これはジョシュアが初めて立った机だ、ここにつかまり立ちをしてね」
そうだ、そうだ、ジョシュがこんなちっこかった頃だ、あの頃、もうビリーはいたっけ?
何言ってんのさ、私のお腹の中だったじゃないか、あんたも物覚え悪いねえ。
ジョシュがつかまり立ちしてね、あーあ、こんな物も持って行っちまうのかい。
こんな物はデイブ一家にとって嵐の序章にしか過ぎなかった。ベルという破産管財人も困り顔をするでもなく淡々と慣れた様子である。
ママもデイブもジョシュアとビリーから見ればまだ「遠慮がち」だったのである。
デイブ一家の家は長らく飼っていた犬猫の痕跡で傷だらけである。もう犬猫を飼わないのは「お別れが悲し過ぎるから」らしい。
ジョシュアは家の軒先に立って煙草をフカしていた。ビリーも隣に立って、胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
「ビリー、お前も軍隊に入ってるから分かってるだろうが」
ジョシュアはそこで体の向きを変え、ビリーと顔を合わせないようにした。
「人は二人寄れば家族の形にまとまろうとする」
ああ、とビリーも応えた。
「それは、どんな形であっても家族が幸せだったからじゃないかな?」
ビリーは空気中に薄れゆく煙草の煙を見るでもなく見て、ああ、ともう一度答えた。
「ビッグママブルース」はこれからが佳境である。リビングに戻った二人の息子はまずカーペットが引きずり出されようとしているのを見て、それからママを見た。
ママは唇を押さえているが、顔は真っ白であり、その口は何か言わんとして震えているに違いない。
嫌だ、嫌だ、それは私の嫁入り道具に持たしてくれたもんじゃないか、母さんやおばあちゃんが手編みで縫ったんだよ、まだ御恩返しもしてないのに、それはあんまりじゃないか、そんなの値を付けようたって大して値がつかないだろ!
その時、ママの見た「幻影」をデイブ一家も見た。ほっそりした脚、田舎風のワンピースがよく似合うよく日焼けした褐色の、弾力のある肌。そしてそこには肩で手を取る若きデイブの陽炎。
次にキルティングのハンティングパーカーをベルが取った。デイブは驚いた。
おいおい、それは俺の一張羅じゃないか。それを取られたらこの寒い年の瀬にどこへ行けって言うんだ? まだキルティングもフカフカだし・・。
その時、またデイブ一家に見える不思議な「幻影」が見えた。
サマージャケットを伊達に着こなした痩せたデイブ。ボタニカルなショーツとパナマ帽が若々しさを演出し、まるで銀幕の中から出てきたような匂い立つ男。口には細い輸入品のタバコだ。
そうして過去の自分たちが横行闊歩する家の中でまず細々した物が運び出され、その度に「幻影」はゆらめき、消え、現れ、その群像を変えていった。
「兄さん、会った時から気付いてたけど、ちょっと太り過ぎじゃないか?」
「ああ、ここに来る前に島でアイスクリームをいっぱい食べてきたから、帰ったらもう食べられなくなるからな」
ビリーは眉をひそめた。
「ビリー、お前みたいな可愛い顔してると女なんてコロッとだまされるだろ」
「いやあ・・」ビリーは言葉を濁した。
「君こそ歯を磨いた方がいい」
ジョシュアはその真っ黒に汚れた歯で笑った。
「何年、磨いてないの?」
そんな質問に答えるほどデイブ一家は他人行儀ではない。
「おじいちゃんとおばあちゃんから6000ドル借りたって」
ジョシュアは氷のようにその顔を固まらせた。
「いつからジョシュはそんなモンスターになったんだ、って言ってたよ」
「いつ?」
「さあ、・・この前帰った時」
ビリーは持っていた煙草を真ん中で曲げると灰皿に放った。この家では息子たちのために外に灰皿が置いてある。
「デイブが働いて返す、って言ったんだって?」
「そんな事も言ったかなあ・・」
「どうしたんだよ」
ビリーは他人行儀にジョシュアの肩を押しやった。ジョシュアはそれでもビリーを見ようとしないで何かツッパッてるみたいだった。
「アルバムにはコラージュデザインの需要があるのでね」
ベルがそう言って、押し入れいっぱいの家族アルバムを取り上げたら、ママは半狂乱になった。今すぐベルの脳天をかち割りそうである。
「おひとりさまの子供たち、今までどこ行ってたんだい」ママは頬をヒクヒクさせてこっちを見もしないで部屋に入ってきた二人に行った。
「おひとりさまの子供たち」と昔からママは息子二人をたまにそう呼ぶことがある。一人にさせてくれたことなんてなかったじゃないか。
「私たちのアルバムが取られそうになってるんだよっ」男手で何とかしろという意味なのだろう、デイブは相変わらず知らん顔だし、ジョシュアとビリーの二人は前髪を掻いた。
「一冊ぐらい残せませんか」そう言ったのはビリーである。
「中身を見てみないと分かりませんが、幼少期の少年の姿なんてものは絵になるからって結構な高値が付くんでね、譲れませんよ」
「何っ・・!」何言ってんだいとママは言いたかったのだろうが怒りで言葉にならなかったらしい。「この貧乏虫!」この罵声はベルにこそ放たれたが一家にそのまま跳ね返ってくるのは目に見えていた。
「持ってくなら持ってくでいいじゃないか、全部持って行った方がせいせいするやね、その方が楽だ」椅子のひじ掛けにだらしなく脚をかけていたデイブが鼻くそをほじるがごとく言った。
「畜生!」ママはいつの間にか持っていた手拭きを床に叩き落とし、奥のキッチンへと行ってしまった。奥で忍び泣きをしているのだろうが、追っていく者はいなかった。
「そんな細々した物までどうするんですか」またベルに口を出したのはビリーである。
ジョシュアはもう口を出さないと決めたのか、壁にかけた丸鏡に自分の顔を映して覗き込んでいる。
ベルがその付箋みたいな針金の付いた値札を、我が家がどこにでもある廉価ショップで買ったプラスチック容器や「その他」としか言い様がない我が家でもまだ名前の付けられていなかった物たちにまで付け始めたからである。
「こういう物は什器にします。生活感のある物っていうのはね、ヴィンテージなんですよ。レトロな魅力があるって、このシミまで値段が付きますからね」
まだ押し入れにアルバムのいくつかの箱は残されている。このところは、開くこともなかった写真たちだが、なくなると思うとやはり淋しい。
「私は納得しませんからねっ!」今度はベルの喉を絞めに来たのか、涙を拭いていたであろう新しい手拭きを持って、ママの再来だ。
「なあ、この写真だけは持っておこう」デイブがいつの間にか手にしていたのはママが若かった頃、恐らくデイブと付き合い始めた頃の写真だった。ママはウエイトレス姿をしている。
背景はピンぼけしているがどこかのレストランのデッキらしい。パパが撮ったのか。
一切れのステーキみたいな雲がまだ若いママの頭の横にある。空も昔の青だ。
ピンぼけした家族の背景にウエイトレス姿のママが現れた。心がすれ違っている合い間を縫うように微笑を絶やさず盆を持って周りを見回っている。
オレンジの制服にフリルの付いた腰エプロン、脚はその下から真っすぐに伸びている。円を描くように歩き回って、伝票をその腰エプロンから取り出すように後ろにクルッと回って消えた。
一瞬の「幻影」だった――。
相変わらずデイブは足をひじ掛けに載せたままだし、ジョシュアも何を見ているのか分からない。ビリーだけがやけに真面目にベルと取り組んでいる。
それから小さなジョシュアとビリーが走り回っていた。
何十年も一家の団欒を支えていたテーブルも運ばれ、椅子だけ残された。四脚の椅子。それぞれに傷がついている。汚れもシミも。
ジョシュアの椅子のひじ掛けだけ、突端の方が黒くなっている。それはジョシュアがいつもそこを握って片手で料理を食べるからだ。
そのアームチェアも今、ベルによってその椅子の恐らく行ったことのないスペース、ポーチの明かり取りの窓の前に運ばれて検分されていた。
「全部、一人でやるのは大変でしょう」
「いやあ、慣れてますから。今のご時世じゃ、データで全て送れますからね、私が付けているのは大体の値です。私の本来の業務は、ね、分かるでしょ、精神の部分で破産を申し渡す役目です。こんなの誰もやりたがらない」ベルは少し目を上げて、その目尻に深くくい込んだしわを見せた。
「なる程」ビリーは家族の様子を見た。
ママは先ほどから見える「小さな妖精たち」に片頬を突き、見入り、ジョシュアは出窓に腰かけ外を何気なしに見ている。
親父は、デイブは不機嫌そうな面をしているなと思ったら自分の腹を見ているだけだった。
後は、ママが気ちがいになる家の値札を付ける時が来るのをビリーは今か今かと恐れていた。
細々した物が運ばれ、ベルはこの家の内面を形作っている家具へと腰を上げた。
「これは何ですか」
ベルが指したのは、天井に届くほど背の高い象の置き物だった。その象の置き物は本来、横にして四本足を立たせる物だったが、邪魔っけになるのでビリーが物心ついた頃から縦にされて壁の隅に押しやられていた。
「それはペルシアで買ってきた」デイブが言った。
「結婚してすぐだったかな」
ビリーもジョシュアも多くの神々の名前を付けて、それで遊んでいたものだった。色彩もこの家になじんで剥げかかっている。
ママは肉がついて丸くなったその背を伸ばすこともなく、放心したように「我が子」が二人でふざけ回っているのを飽かず眺め見やっている。
「これは運べませんな、明日、ハーグという男を連れて来ますから・・」
「テーブルもない家でどうやって暮らすんだい!」ママのカウンターが始まった。
「明日までの辛抱ですから、奥様・・」
その日の夕食は、ビーツの缶ヅメが入ったスープとパン、それだけ。
「ジョシュアもビリーもくじけんじゃないよ、これからなんだから。これから」
今、考えるとママには何もかもお見通しで、後述する「巻き返すネジ」はもうこの頃にはママの中で、多分、脇腹かどこかで、動き始めていたんじゃないかと思う。
僕らは、デイブを除いた二人は目を伏せてスープにパンを浸していた。
「仕切り直しだ」
デイブが象の像の横で他人事みたいに言った。
「何か、これ見ると思い出すなあ、まだ小さいビリーに缶ビール冷やしといてくれって電話してなあ・・」
デイブのその足元では「まだ小さなビリー」が「カンチョー」をしようとしている。
ママは何も言わない。惚れたが負け、とばかりにママはデイブに限ってはその歯に衣着せぬ物言いはできない。
「そしたらビリーは気が利いて、グラスにちょっと水をかけて凍らせておくんだ。うまかったなあ、キンキンに冷えたグラスで飲むビールは・・」
神のサイコロの中だな、と珍しくデイブが観念的なことを言った。
ハア、と疲れ切った大きなため息をママが吐いた。
「まあ、どう転ぼうとこれ以上落ちることはねえだろ」これがデイブだ。
この家の「昔の原住民たち」はまるで大掃除をやっているみたいに忙しなく行き来し、その夜は過ぎていった。
「ビリーは昔から聡い子だった。ビリーがこれは何? って聞くから私は「タンス」って答えたのさ」
もうママは泣きそうである。ハーグという大男にもうそのタンスの角は持たれ、今にも運び出されようとしている。
ベルはやり方を変えたらしい。
まずハーグに荷物をあらかた運び出させてから、家を空っぽにして家族に「心積もり」をさせる方法に移したみたいだ。
いちいち値札など付けず、まるで何か月も前から引っ越しの予約をしていたみたいに、ドンドンハーグ一人の力で、あの象の像も、食器棚も冷蔵庫も洗濯機も浴槽まで、外に運び出されていく。
野っぱらに我が家が吐き出した家具は軽々と運搬車に載せられ、それが帰ってくると、また新しい家具を積んでどこかへ運んでいく。
「トロッコででも運ぶのかと思ったよ」ママの捨て台詞である。
デイブ、ママ、ジョシュア、ビリーはまだ枠に過ぎなくなってしまった空っぽの家にまるで額縁の中から外を覗く絵の登場人物のように取りすがっていた。
それは柵が一本一本抜き取られ、もう籠でないのに飛び立てない傷を負った野鳥に似ていた。
――家を売り払って僕らは公団住宅に移った。
その――とりわけ、ママの――気ちがいじみた騒動をここに書き記すつもりはない。
僕、ビリーとジョシュアは兵役に戻ったし、メリークリスマスも言えないままのクリスマス休暇だったがそれはそれで有意義なものになったと思う。
デイブは――父は――どこに行ったのか分からない。僕が兵役に移ってから間もなく、公団住宅には帰らなくなったらしいし、それ以降ママからの手紙からそれを推し量ることは無理そうだった。
家という額縁が解体されてから家族というものもその仕切りを失ったかに見えた。
絵の登場人物たちはそれぞれが美術館の端っこに落ちて転がったか、絵のもっと奥に消えて見えなくなったようだった。
このデイブ一家の描かれた絵が何という題名だったのか今もって謎である。――その日までは――。
戦場といっても、ダッフルバッグを枕にしていただけだがこの地平がママにつながっているとはどうしても思えなかった。
僕はまだあの家が、枠になっただけのあの家が、ある気がしていたし、その中では相も変わらず暖簾に腕押しのデイブ相手にママが奮闘している気がしていたし、ただ一つ変わった点といえば同じ兵役についているジョシュアの方がより身近に、この地平の続きのどこかにいる気配がしていただけだ。
「二人共、もうママが結婚しててもいい歳なんだから・・」
とは「おひとりさまの子供たち」にママがあのクリスマス休暇の最後に向けた言葉だ。
ママの言葉は伝道で、きっとジョシュアと僕の違いは「巻き返すネジ」が付いていたか付いていなかったかの違いに過ぎない。
「巻き返すネジ」とはデイブ一家にきっと遺伝していた物で、どんなどん詰まりに遭っても、そこから、多分、脇腹に付いてる、ネジが回ると浮上を始めるという造りだ。
それがデイブとジョシュアには付いていなくて、ママと僕には付いていた。それだけの違いだ。
――次のママの手紙で、手紙といってもそれは電報で――電話なんて便利な器械は期待はずれになかった――上官からの指示で僕が帰るとジョシュアがそういうことになっていた。
護岸で、そういうことになった。
なぜ死んだかは問題ではなかった。
いずれ死ぬつもりだったんだろうから、と驚く気持ちはなかった。
ジョシュの冷たい手がいつまでもママの髪を撫でているみたいにママは悲しんでいた。「ママの勝ちだ」とそういう時、僕は思わずにはいられなかった。
ゾウを倒したのは本当にアリだったのだろうか? と僕はいつも思う。
ジョシュアの最後に残した言葉は、フレッチャーというジョシュと同じ軍隊にいた、という男からのお悔やみの手紙に書いてあった。
「街が僕らの人生をムチャクチャにしてきた」。
あのクリスマス休暇の後に、彼はそう仲間たちに言ったらしい。
目庇をいつも深く被っていた彼である。死んだ時もそうだったに違いない。
涙のつぼみがいつどこで花開くか、僕はオロオロして暮らしている。だが、前もって言っておくと、それはジョシュアの問題ではなくて、「夜警」のような僕らの絵がたちまち解けたことと無関係ではないだろう。
今、僕はママと離れて暮らしている。それは兵役についていたことと無関係で、ママというのが家で、それをもう失くしたくはなかったからに過ぎない。
ママからの贈り物である「巻き返すネジ」によって、僕は美しい空を眺めている。
新巻鮭の絵をつぶさに見ていたジョシュアの目が思い出される。
きっとこんな絵を描きたかったのだろう、と僕は推察する。それはトマトのような、夕暮れのような、そんなデイブ一家にはない、ビリーとジョシュアとしてデイブ一家の一員に生まれてきたはいいけれど、求めざるを得なかったものだったんだろうな、と僕は推察する。
コーヒーの飲み過ぎは覆水、盆に返らずだ。「巻き返すネジ」を持っている二人は一方は機銃掃射のように暮らし、もう一方はかかとを切ったアキレスのように暮らしている。
それがデイブ一家には、らしからぬ、行為だったとしても今はそうするしかないのだ。家という枠組みが外れた野鳥は飛び立つしかない。
ジョシュアの言によれば、人は二人寄ればまた家族の形にまとまろうとするらしい。野鳥は新しい巣を作れるだろうか、自分の知らない地で自分たちの見知った枝や枠を拾って、冬を越すのだろう。
それまではただらしからぬ行動を取って、羽を温めているのだ。
曇りがちだった陽が見えてきた。
そこは天国に見た目が違いない――ジョシュアが見たに違いない――世界だった。
雪は降りつづく
幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言うが世間知らずのスレた青年が一人、死んだというだけだった。
世間とか社会とか人間というのは、一見すれば恐ろしく見えるがその正体は呆気に取られるほど幼稚なものだ。
ジョシュアは若すぎた。それに気がつく前に、自分の大きさより遥かに大きな影を見て死んでしまったのだ。
ジョシュアは真面目すぎて不真面目になりたくて、ビリーは真面目でいるのがわずらわしいくらい不真面目であんぽんたんな・・あべこべな兄弟だった。
自分は自分だからと世界の瓦解するように思ってるビリーだからこそ、ジョシュアの死の遠因が分かった――ママは「千里眼の持ち主」だと言っていたけれど――。
それはシャッフルしてジューサーしてミキサーにかけるようなものだったが。
それは目の鱗が皮膚に落ちるようなものだった。
「・・要するにエデンの東でパンドラが開いた箱の最後に残っていた玉はハッピーエンドなんだよ。
ノアの方舟は「神さまの計画」に乗ったことを意味する。
凄いな、これを作った神さまってのは、緻密なミケランジェロが作った織り物みたいだ。・・現実ってのは。
現実ってのは賜だな。
神に十字を切るっていうのはね、自分の血を流しますってことだ」
ビリーは白い骸のように白い布団に絡まって寝ているママを目を細めて見ていた。
いつの間に寝てしまったのか分からない、だが厳密に言うとママが寝ている隙にビリーは話し出したのだ。
「・・ママは「人並みの感情」を持っているよ。それはあらたかなることだ。
だから、――ママは額縁を失ってはいないんだね。こんなひどい目に遭っても・・。
デイブのことは僕からは言わない。ただ、ジョシュアや僕にとっては額縁がお母さんだった。
だから額縁を失っただなんて言わないで。
混ぜるなキケンな人物が二人ないし三人、この家族にいたってことさ。ママを除いてね。
額縁・・、そう、それが――ジョシュアにとってママだったんだ」
言い終わり、病室のベッドの隅の椅子にビリーは静かに座った。
ママは足首を骨折してこの病院に運び込まれたのだ。
人は三人寄れば常識に傾く、と言われる。こうして二人きりになってみるとビリーはその言葉を確かめるのだった。
「僕とジョシュがまともでいられたのは、ママという額縁の中の絵に過ぎなかったからさ、それが悲しい色で染められたのはライト、照明、光のせいさ。
ジョシュは真面目だったけど真面目でいられなかった。それが自己破産の要因だな。僕は不真面目だけど真面目でいられるんだ。この家族はね、混ぜ返しが足りないマーブリングみたいに色のムラができたまま、生まれたんだ。
ダマができたんだよ。要するに小麦粉の。
・・」
ビリーがここで黙ったのは母の寝息を確かめるに過ぎない。
「ビリーかい・・?」
「・・そうだよ、ママ」
「ああ、寝てた」ママは必ずそう言うのだ、まるで自分が寝ていたことに気付いたと人に教えるみたいに。
ビリーはママの顔を見た途端、子供のようにはしゃいでたことを後悔した。
「早まったことをしたね・・」
「ああ、・・早まったことをした」
「ジョシュは若すぎたんだよ。ビリーにも分かるだろ?」
「ああ、・・彼は若すぎた」
「ジョシュは早熟だったんだね」
これにはビリーは内心、首を傾げるばかりだった。
「ジョシュは天才的だったからね。生きるのにさ、向いてなかったんだよ」
そんな「人並みの感情」で一言に尽きる、といったママの言葉にビリーは反駁を感じざるを得なかったが、それは同時に、自分もママに過剰に認めてもらいたい、という自己欺瞞に過ぎないと分かっていたから、認めたように肯いた。
「彼は・・早まったことをした」ビリーはママの体内の時間の中で時計を逆戻りさせようとした。自分に都合のいいように。
「生きるのに不器用だったんだね。天才的過ぎるからさ」
ビリーはママの想念のトンネルの中を光を探して歩いている気がした。
真理は苦悩の裡によってのみ現れる。世の中に真理はないよ、ママ。ビリーは天才的ではなかったかも知れないが「大人びた少年」だったのである。
ママ、それじゃ駄目だ。いつも気を付けていないと神の真意には気付けないからね。神の真意に気付くこと、それが生きることの意味なんだから。
ジョシュアもママもそれで間違えたんだからね。
可愛気がなかった子かも知れないよ。僕は。
ビリーのチャコールブラウンの瞳がママの一挙手一投足を見つめていた。
といってもママは半身を起こしてボウッとしていただけだが。以前にはママはこんなことはなかったのだ。
「女の忠告には従え」誰が言ったのか、言い出したのかデイブ一家にはそんな不文律があった。
今、母が言おうとしている事は忠告に他ならないとビリーは全身の本能でそう感じていたからじっと見守っていた。
それはもう、「ある他人」からの視点だったが。
「ジムに通いなよビリー」ママのそれはいつも風のように忽然と来る。
「この血を絶やすんじゃないよ、私たちは少数民族なんだから。自分の肌の匂いを嗅いでごらん。レンガの素焼きの匂いがするだろう」
この文言はママから腐るほど聞いた論だった。何でも、うち(もうそこからはデイブは抜けていたが)はジョセフチャプリンの生き残りなんだから。
「うちはジョセフチャプリンの生き残りなんだから」
そう、ジョセフチャプリンとは聞かずと知れたアメリカの最初の永住民の一人だ。
「分かったよ、ママ」
「そうしたら、溌剌としたあんたとスピードが同じパートナーと出会うだろう? あんたは健全なんだから」
「そう、・・そうかも・・知れないね」
「とにかく、汗を流すことは悪いことじゃないよ。運動不足だろ、ビリー。あくがぬけたような顔してさ」
浅瀬に運ばれたジョシュは、あの護岸に辿り着いたジョシュはまるでママの言葉によると塩の塊のようになっていたということだ。
どこもかしこも雪のように塩が吹きだまり、彼はまるで氷山で遭難していたようだ、と。
うすら寒いと思ったら、雪が降り出したみたいだ。
雪が自分の重みで変形し、やがて崩れ溶けていくみたいにジョシュは消えた。
いつか、会った時に「ジョシュはジョシュに入り切らなかったね」とママが言っていたことがある。
象の背に 乗せられたるは 昔かな
昔、ジョシュアと俳句ごっこをしていた頃の、唯一覚えているジョシュの句だ。
そんな雪が積もったある日のこと、ビリーは懐かしい友の訪問を受けていた。
兵役についていた頃の上官である。彼は大陸を離れていた間に家族から逃げられ、たった一人路頭に迷う退役軍人と化していた。
「歩きにくい道をわざわざ・・」
その上官はステッキを手にしていた。元から足が丈夫にできていないらしい。
「キミ、落ち着いた生活をしているようだね」
「はあ・・、お陰さまで」とか何とか言いつつビリーは二人分の紅茶を淹れた。
「紅茶とかそんな格式ばった飲み物はいい、私はコーヒーでいいよ。しかも、思いっ切り薄くて量の多いアメリカンでね」
上官がそう言うのでコーヒーマシンでビリーはアメリカンを二つ淹れた。
「うん、落ち着いた暮らしをしているようだ」また、上官はそう繰り返した。知らぬ間に椅子に座っていた。
「時に作家活動をしているとか?」
ビリーは笑った。
「いいえ、まだどの雑誌にも載ったことのないようなペーペーですよ」
上官はステッキの柄に顎を載せ、何か考えているようだった。
「ソウだね、君の一生の内に一つでも人の心に残るような作品が書けたら大したものだね」
何を言うかと思ったら、まだ上官気取りでいたいらしい。
「そうですね、でもそれだけじゃ僕は満足できないんです」
部屋にある一番大きなカップでアメリカンを上官の膝元に置きながら、ビリーは言った。
「何? 何て言った?」
上官の目が責めるポイントを見つけたかのようにチラッと光ったのをビリーは見逃さなかったが、放っておいた。
「僕はそれだけじゃ満足できないんです。僕の書く物一つ残らず歴史に残らないと気が済まないんです」ビリーは自分のアメリカンを口に運んだ。
「正気か?」
上官はステッキの柄から顎を外し、言った。
「ええ、もちろん正気です」あなたの脚のようにイカれていませんよ、といった調子でビリーはサラリと返した。
「キミねえ・・」
上官は勿体ぶった言い方で言って、自分の裾を少し気にしたフリをした。何か言う前の用意だ。
「馬鹿言っちゃいかんよ。自分の一つ残らず歴史だと言った奴がいるかね? 君はまるで夢見るお嬢ちゃんだ、王子様を待っているだけのお姫さまだ」
「そうですかねえ・・」ビリーはそんな上官をまるで「他人」を見るかのように言った。またアメリカンに口をつけながら。
「そもそも君はいつ作家を目指したんだ? 兵役の頃からその気持ちはあったのか?」
「そんなこと問題じゃないでしょう。いつ始めようが」やけに歯切れのいいビリーの返し文句である。
「ハッ」と分かりやすい笑い方で、その態度さえも、上官は示した。
「僕にとっちゃペンと紙ってのは兵器なんです。よくやるでしょ、戦争とかで。今日、何人死にましたって。そういうのは歴史に残るんだ。僕はそういう作家になりたいんです」
ビリーがさらさら言うと上官の笑みが消え失せた。
「君は卑怯な兵器なんかになりたいのか?」
「いや、卑怯なんかじゃないですよ」とビリーは言ったが、すぐに
「例えただけです」と言い直した。
「君は・・」上官はまた勿体ぶった言い方をした。軍隊にいた頃はこんな人物ではなかった。
「選民思想を持っているんじゃないかね? 何かその・・、気になるんだが」
ビリーはそれもまたあるかもな、と内心、上官の言葉を反芻して考えた。ママの言っていた少数民族とはそれのことだったのか? と上官を忘れてただ目を開けながら何も見ずに脳内を探っていた。
「え? 選民思想を持っているんじゃないかね?」上官の追い打ちも、ビリーがいつまでも黙っているので二人とも黙った。
「新しい景色を・・」
ビリーの半分うわの空の独り言を上官を眉根を寄せて聞いていた。
「新しい景色を見せてくれるんですよ」
上官はそれを聞いても何も言わなかった。
上官はスネたようなおちょぼ口をしてまたステッキの柄に自分の顎を載せて黙っていたが、
「・・君は少し社会に揉まれる必要があるね。どうだね? 社会参加はしているのかね?」
ビリーは頭を振った。
「いや、特に・・」
「退役軍人の会というのがあるが・・」
上官からその話を聞くとは思わなかった。なぜならこの上官がかつての兵役仲間を渡り歩いているという噂と共に、この上官は退役軍人の会からも出入り禁止を申し渡された、という話を聞いていたからだ。
「自分でもイイ線いってると思うのかね」
「イイ線?」
「いや、つまりその作品がだよ」
「イイ線とはどういった意味ですか?」
「ビリー君、分かるかね? 私だよ。どうした? どこか気分でも悪いんじゃないか? 大丈夫かね」
ビリーのチャコールブラウンの瞳はただ上官の上に載せられているだけでビリーが何を思っているのかは・・。
「君は兵役の時から人を小馬鹿にする難があったが、それが高じているようだ。卑屈になるわけじゃないが・・」
「失礼。アメリカンを淹れ直してきます」そう言って、ビリーは席を立った。
キッチンでビリーは深いため息を吐いた。
コーヒーマシンが二人分のアメリカンを吐いている時間で自分を立て直そうと思った。
「キミ、鼻でもいじったのかね?」
は? と盆に二つのカップを載せてキッチンから出てきたビリーは上官の言葉を一瞬理解できなかった。
「鼻血が出てる」
盆を置いてから、手で鼻孔を拭ってみた。ビリーの鼻腔からは血が出ていた。
「どうしたんだ、一体? キミ、本当に大丈夫か?」
「これが私とあなたとの「差」なんです」
鼻孔からの出血を止めもせずに、ビリーは呟いた。
「何だって?」上官は本当に聞こえなかったように顔をしかめた。
「私は血を流しているんです」
「ああ、ああ、それは分かっている」上官は立ち上がりクリネクスのあるテーブルまでその不自由な脚で歩いていった。
「拭きなさい」
目の前に差し入れられた何枚かのティッシュにビリーは戸惑った。
「見苦しい。早く拭きなさい」
ティッシュを押しのけるように手を鼻にやってビリーは鼻血を素手で押さえた。
「理解に苦しむ。キミはほとほと理解に苦しむよ」
上官がいつ自分の家を出ていったのか、ビリーは気が付いたら夕日の差す部屋に一人でいた。鼻血も止まっている。
外では雪かきの音が聞こえている・・。
上官が使ったカップは自分で片付けたらしい、キッチンに置かれていた。ビリーは自分の使った、まだなみなみとアメリカンが入っている冷めたカップをそのままシンクに置いた。手にはこすったような血の跡が付いている。
ビリーは自分の顔を鏡で映すこともなかった。
足首を骨折したママが「もう帰る」と言うので病院まで迎えに行った。
「この間、鼻血が出てね」ビリーは病院から出るまでの間、借り受けたママの車椅子を押していた。
「1月6日に」
「あの日だね」
「そう、「あの日」だ」
1月6日はジョシュの命日だった。
事の顛末をママに話してやったら、ママはこう言った。
「それってジョシュの幽霊だったんじゃなかったの?」
ビリーは「ジョシュの新たな他人」としてママを見ていた。バスに二人で乗り、公団住宅に向かう。
しかし、「体裁が悪い」ということでママは一つ前のバス停で降りる。
坂で足を固定されたままのママが転ばないように、後ろから見守り歩きながら、ビリーは我が子のように自分の昔のことを思い出していた。
何もかも他人になった今、あの・・、デイブ一家が正四角形を作っていた頃のことを。ひし形でもなく、侵されざる正四角形を作っていた頃を途方もなく遠くに思い出すのだった。
夜明けのないブラウン
ビリーは兵役に就く前、演劇に打ち込む学生だった。
デイブ一家の中では比較的「まとも役」を一手に引き受けていた彼は、「大人びた」少年ではあったが、一歩、一家から離れると社会的な地位は「子供っぽい」「軽口を叩く」天才的な青年だった。
トゥレット症候群のように会う人会う人にジョークを飛ばし、呆れられていることに気づきつつも、軽躁のように日々暮らす。
その持て余すエネルギーを消費するのにうってつけだったのが、ビリーの愛する映画と同じ世界の、演劇だったのだ。
彼の芝居に対する熱量は、ジョシュアのみならず、ママにもデイブにも共通する、人間の完成度に欠かせない「霊感」によるものだったが、その頃はまだビリーはそのことに気づいていなかった。
学生演劇だが劇場はいつも満杯だ。
その時、ビリーはブラウンという役に取り組んでいた。
皆が皆、というわけではないが裕福な家系が多かったビリーの大学ではアルマーニなどを着ているのがほとんどだったが、ビリーはグリーンのベイカーパンツを毎日穿いていた。ビリーの家系、デイブ一家もそれほど貧しくはなかったが、なぜかビリーはこのベイカーパンツを慕っていた。
ブラウンという役だが、村民上がりのやがて地位も富も築くという中心人物の一人だった。
その頃のビリーの学内での評判は「世界を240度くらい違う視点から見てる」というものだったが、デイブ一家から見れば可愛いものである。
大学の構内の劇団部屋で話し合いが持たれた。
それぞれの役の解釈を皆に説明し、ディスカッションしながらそれをブラッシュアップしたり深めていく場だ。
「僕はこのブラウンを象の人に落とし込みたい」とビリーは何人目かの自分の番で言った。
それまでのビリーはと言うと他の人の役のことなどには一切口を挟まず、泰然自若、悪く言えばゲストとしてそこにいた。
「象の人とは、あの生き物の象っていうのは人間を見る時に、まるで人間が小動物を見ているような脳波を見せるって言うんだ。可愛いな、と僕らは象に思われているわけだ」
「ちょっと待て、ビリー。ブラウンは野心的で嗜虐的な人間のはずだろう? 悪役をやりたいと言ったのは君の方じゃないか」
「いやいや、ブラウンというのは度量の深い人だよ。なぜなら、ブラウンという人物はこの脚本の中では誰のことも恨んでいない、憎んでいない、それを重要視するべきだったんだ」
「じゃあ、ホンを書き直すべきなんじゃないか?」
「ビリー、ブラウンを買い被っているよ。ブラウンはこのホンの中では誰のことも幸せにしない、単純に言うと、憎まれ役なんだ。度量が深いなんて・・」
「いや、僕はブラウンを愛している。今後、ホンを書き直すなんてこと、しかも論理的におかしな部分で恣意的に書き直すなんてこと言ったらただじゃおかないぞ」ビリーはそれでもニコニコと生まれつき社交的なサービス精神を丸出しにして、皆の輪の中に加わっていた。
座長というのは決まっていないが、それがこの劇団の古くからのルールだったのだが、皆の調整役として頼りにされている――その性格によって――のは小道具を担当している一人の女生徒、シラエだった。
彼女はおっとりとしていて誰の会話も遮ることなく、かつ打てば響く頭の持ち主だったので自然、グループのまとめ役として重要人物になっていた。
ビリーのブラウン役、そしてその他の課題は次のそしてまた次の逐一開かれるディスカッションに持ち越しとなった。
その頃のビリーはデイブ一家の家から大学に通っていたが、ろくに家に帰らず、友人の所に居候しては酒を飲み、喋り、生活のほとんど全てが遊びと化していた。華々しい生活と言ったらいいか。
その日、ビリーはいつものように友人の家に居候していたがそこに数人の仲間とシラエも来た。劇団仲間も中にいたので酒を飲みながらのディスカッションになった。
シラエが言った。「ビリーのブラウンが誰も恨んでない、憎んでないという説明は得心がいった。しかし、全体としての一人として役を掴み切れてなかったわ」
ビリーは感心した。それはシラエの頭の良さではなく、自分を馬鹿にしないで面と向かって意見するという立場の上手さに、人間性に一種の生まれもっての天賦の才を見せつけられたことによる。
それは自分にとって絶対的対照的兄弟、ジョシュアとはまた違う角度からの対照的な人間を発見した、生き物として見ぬいた、といってもいい。
「今度の舞台「ベイスリー」の中ではブラウンという役はね・・」とシラエが知らない仲間たちにも懇切丁寧に説明するのをビリーはグリーンのベイカーパンツに付けた鼻クソを気にしながら眺めていた。
――それは「モンタナ」という酒だったが。
そんな度の強い酒をパカパカ飲んでいるから、議論は関係ない所まで白熱した。普段は体裁を気にしているビリーですら、このシラエという達人を言い負かすのに賭けていた、といえる。
「僕らの信じている神さまの妙っていうのは愛されていることに気付きなさいってことだろ? ベイスリーでそれに気付いている人はブラウンただ一人なんだ」
今思えば、青臭い話だがそれも若気の至りだ。
冬眠からいよいよ目覚めようとしている熊の穴蔵のように蒸して色んな匂いがしていただろう友人の部屋だが、そんな事も気にせずビリーも楽しんでいた。
変にあの日の事だけをリフレインで思い返していた。
今、ビリーはサウナにいて、汗の雫が垂れるのをじっくり味わっていた。
フットレストに足を置いて、ふくらはぎまで濡れていくのを感じる。
変にあの日の事だけを・・。いやにはっきりと。
論争はビリーの人柄にまで及んだ。
「ビリーは完璧主義者だから自分にも完璧を要求するのね」シラエではない他の女生徒が言ったが、シラエはそれに肯定も否定も示さなかった。
そんな事は自分が二世紀も前に考えたことだから、未熟な赤ん坊が何か言っているぐらいにビリーはモンタナを飲んで聞き流していた。
「君たちは何かを「担保」にして考えていないか、というより日々生きているんだ。何かに腰を落ち着けて他のことをしようと思っても無駄さ」ビリーはそう言った。
「依って立つということ?」シラエが口を挟んだ。ビリーは当然だ、というごとく鷹揚に肯いた。
「僕はこのブラウンという男をね、名前のないブラウンにしたいのさ。誰が演じているのでもない、そうしないと真のブラウンという男は出てこない。分かるか?」
ビリーはシラエに少なくとも二度も驚かされた。皆が酔って好きなことを言い触らしているこんな時でも、シラエはローヤルゼリー色のペンで何やらメモに走り書きして誰がどんなことを言ったのかを書き留めていたからだ。
サウナで自分の体を愛撫している内にビリーはあの頃の自分を軽蔑し始めていた。
冬の間に溜まった塩をこうして遠慮会釈なく流しているとペーハーが落ち着いてきて、整った頭で考えることができる。
雑然とした現実の中で生きてきたあれこれを遠巻きに見ているだけである。
あれから――、家もなくなり、デイブもいなくなり、ジョシュアも死んで・・。
あの頃は「担保」などないと思っていたビリーは、不思議なことにそれまで思い出したことなどなかった、あの雑居房みたいな部屋の会話を事細かに思い出していた。
「神の導く通りに歩くというまるでシンプルな生き方に到達しているのはブラウンだけだ」
ビリーの話し方はいつもこの通りである。周りから浮いて、空回りして、馬鹿にされるというポジションに彼は安寧して暮らしていた。ビリーにとっては生まれてこの方、そう待遇されていたから気にならなかったし、生来末っ子のお坊ちゃん気質である彼は同じ人間でありながら、周りの人は大抵、「色のないキャベツ」くらいにしか思っていなかった。
「時にシラエ君、上演は五月中となっているが、三月にしないか?」
「何言ってるの、もうちょっと役作りしないと。ホンもできたばかりだし」
「いや、それじゃあ、僕の想像力が干からびてしまう。三月には名前のないブラウンが出来上がっているだろう。五月ともなると僕の中でブラウンは君らと大して変わらないただの人になってしまう。三月にしないと」
「いや、けど、ビリー。ジェシカなんてまだ配役が決まったばかりだし、あまりに性急すぎるし現実的に考えなくても無理よ、それは」
「思い立ったが吉日、と言うだろう。善は急げ、だよ」
「飲み過ぎだわ、私たち。ちょっと外の空気でも浴びましょうよ」シラエは笑って相手にしてくれなかった。ビリーは本気だったのだ。酔ってもいなかったし、本音を酒の勢いで言ってしまったに過ぎない。
ともかく、一行は外に空気を浴びることになって、それぞれがオーバーやジャケットを持ちに部屋中を散策するというハメになった。
マルコスの丘という所がある。ここから電車で遠いが、昔、「家」があった所の近くだ。
このサウナを出たら夜。着く頃には朝方になっていることだろう。
ビリーはそこで石炭車に轢かれ、「自殺未遂をしよう」とこの日、決めていた。
「家族」を取り戻すにはそれしかない。
ママは心配して飛んで来るし、元のママに戻る。デイブもどこかでそれを耳にし、「家族」はジョシュア抜きの「家族」はたとい一瞬でもその姿を現すだろう。
マルコスの丘にはコークスの山がある。そこに石炭車が線路をノロノロと走ってくる。そこに飛び込んで・・。
腕の一本や二本、惜しくない。ジョシュアが見た「天国」――それは現実に他ならなかったが――そこに僕もいられない。僕はあの「天国」には住めない。
コールマンのナイロンでできたリクライニングチェアに座り、ゆっくりと汗が引いていき、自分の体が甘くなるのを感じた。
ダウンジャケットを取って、Tシャツの上に重ねる。ジッパーを上げ、タオルを首に巻き付け、サウナ室の外に出た。
冬のある寒い日にこんなに汗みずくになっているのは僕だけじゃないかしらと思うようなそんな街道だった。
ビリーはすぐに駅に向かい、そこで30分も目的地行きの電車をベンチに座って待った。そうなるともうとうに汗は引き、シャワーも浴びないで出てきたおかげで、自分の素肌の甘い匂いが漂ってくる。レンガの素焼きの匂いとママが言っていたが、ビリーはその時はそう思わなかった。まるで麝香のような匂いが柔らかになった肌から香ってくる。
頬は内からピンク色に染まっている。
電車が、巨大な夜が、来た。
その時、彼が見たものをどう形容したらいいだろう。
「家」があった近くまで来た。
初め、ビリーはりんごの皮でもぶら下がっているのかと思った。
夜の間に仄かに見えるそれは、電線に靴紐で引っかけてあるキャンバススニーカーだった。
きっとどこかの少年がダウンタウンを気取って履き古した靴を放り投げてでも引っかけたのだろう。
それを見た時のビリーの気持ちは、ジョシュもそう思っていただろう、という「腑に落ちた」感じだった。ジョシュはただのいっときも生まれてきたことを恨みに思わなかった。ビリーに起こったことは生の是認だった。
もし、それが少年ではなく大人だったら、そういうことは起きなかった。もしそれが革靴でも、そういうことは起きなかった。
ミルク色の朝焼けだった。
ビリーはマルコスの丘まで行くのを取り止め、そこからジョシュの墓参りにでも行こうかという気持ちになった。
しかし、そこで油を売るばかりで結局、何もしないで電車を乗り継いで自分の今住んでいる部屋まで帰ったのだった。
結局、あの懐かしい、楽しかった論争は外に出て夜の空気を浴びたところで有耶無耶になってしまった。
まるで「ほんの気まぐれ」でどこかの少年が電線に履き古した靴を引っかけたみたいに。
「ベイスリー」は予告通り五月に上演されたし、ビリーの演じたブラウンは思っていたより喝采は得られなかった。
なぜ、ビリーが演劇を辞めたのかと言うと、兵役に就いたからでも不満があったからでもない。うまくいったからであった。
ビリーの中にはいつも現実を超越した部分があって、それを解消する必要があり演劇に打ち込めたのだ。あの日、かそれ以降か分からないが、演劇より楽しいことを見つけた。それは現実に生きることであった。
いつしか、役を演じることより学生仲間と過ごすこと、毎日を生きることが充実してきて、熱情がいつの間にかコークスのように冷えて固まってしまった。
それがジョシュの死によって一瞬、煌めきを帯びたのだった。
少年の靴を見てから、ビリーは落ち着きを取り戻し、現実に帰っていった。もうそれは、天才的な霊感を持つ人が感じることを感じなくなったし、考えることもなくなった。
それがいいことなのかそうでないのかは分からない。
なぜ、ブラウン役がそう認められなかったかと言うと、あの論争の場でビリーが口走った通り、「名前のある」ブラウンになってしまったからだった。ビリーという現実に打ち込む青年が演じている、「ビリーの」ブラウンになってしまったから。
もし、あの時何かのはずみで三月中に上演される機会があったらビリーはまんまと名前のないブラウンを演じ切っていただろう。そうなるとビリーの運命は軽はずみな彼にふさわしい物となっていた。
ビリーにとって、ブラウンはいつしか「つまらない」人間となり、それはジョシュアにも言えた。
ある時期を越えた時から、ビリーにとってジョシュアは子供じみた「つまらない」人間となり、ジョシュからしてみればビリーは、分からない「つまらない」人間となった。
その境目は現実だ。現実という厳然とした、コートに引いた白いチョークみたいなライン、その人にとっての現実という線がビリーにとっては恵まれたものであって、ジョシュアにとってはきっとそうでなかったのだろう。
もし今ビリーが、ジョシュアについて語る言葉を持つとしたら「ああ、ツいてなかったね」と切り捨て、一蹴することができるだろう。嘘をついていないのなら。
ママやデイブのようにジョシュについての論争を厭って、離れたのではなく、ビリーは一市民として「健全なる精神」によって「偉大な」ジョシュアから離れざるを得なかったのだ。
最早、ビリーにとってジョシュアは「年下の兄」「早世した彼」に過ぎなくなった。
それは、ビリーの目算で言うと、三月中に演じることができた「名前のないブラウン」のように、ビリーにとっては惜しむらくもなくなったものとしての「過去」になってしまった。
ただ、天才的な霊感を持つビリーは、兄の話となるとそれをいかんなく発揮し、ただの「悲劇のヒーロー」を語る目をして自分に落とし込む。ビリーは生まれつき芸人であって、真実を語ることができる。だが、もうそれは真実という目をした嘘、「名前のない」舞台のホンに過ぎないのだ。
冷徹に見れば、「愛されていることに気付いている」のがビリー、最後の審判で生き残るのがジョシュア、という死ぬほど退屈な対照的な兄弟であった。
しかし神の恩寵に満ちた目から見ると、狼に追い出された三匹の子豚の内、新しい「枠組み」――レンガ――の家を持つのは、類まれな常識人のビリーになったのだった。
ウォークインキャンバス
デイビッド――デイブ――が破産するまで何に金を使ったのかというと誰にとっても定かではない。
恐らく本人にとっても「色々いるんだ」と言うだけでどこからどこへ金がなくなっていくのか不明だったんではないだろうか?
このデイブ一家に言えることは一家四人として生まれてきたそれぞれに欠落した部分があって、それがジョシュアやビリーが幼い時という一瞬の間は、ジグソーパズルのピースとピースのようにカッチリ収まって、子供たちにとって離れ難い「幸福な家族」を作った。それは神様からのプレゼントかも知れないし、いずれ、早晩奪われる予定のヨブ記の序章だったのかも知れない。
もう一つ、言えることはビリーが大人になって分かったこと、それは恒常性という現実の成り立ちである。
現実というものはこれまで何度も繰り返してきたように神からの賜り物である。その恒常性というものは偏りをなくし保とうとする力、万有引力のように存在するバネ、といってもいいその「元に戻ろうとする力」は社会にしろ人間にしろどんなところでも働いている。
ビリーは今でも自慢げに兵役で支給された「エアフォース」のジャケットを着ることがある。
一家の誰もデイブが高尚な目的で金を使ったとは思わなかった。蛇足、あるいは無意味と思われる、思春期を過ぎたあとの長い一家の生活でデイブにそんなことがあるとは誰も思わなくなった。
「女の忠告には従え」は、今では「亀の甲より年の劫」となって、類まれな常識人となったビリーにママも以前とは違う面を見せるようになった。新しい「枠組み」が脱皮直後の柔らかい殻のようだがようやくその形を危なっかしく現してきたのである。
ビリーが送った短編小説が佳作となり新聞に掲載された。だが、「女の忠告には従え」でママが言ったようにビリーはもう学生時代のように芸術に傾倒することなく、現実社会で揉まれて生きることを選択した。
ママ曰く、「自分の世界に篭もっているような芸術家は幼稚であり、社会に根ざした上で書くなら書く」云々である。
それはジョシュアの反省もあるのかも知れない。ジョシュもどういう経緯か知らないが、「絵が新聞に載った」ことを生前、漏らしていたからである。
長い間、先述したような子供たちの思春期以降の一家の生活でデイブは「不在」だった。
デイブは家族と食卓を共にすることも時折、拒否するような一面を見せるようになり、誰の目から見ても家族から距離を置いていることは明らかだった。
長い間、「デイブ」とは外套かけにかけられたマントのように父親の名義貸しのような「不在証明」の存在だった。
で、あるからしてビリーがその新しい枠組みの中にママを取り入れようとする過程の、定期的にママと会う、という制約の中でも、デイブがもし入ってきたらというのは全くの未知数であったし、優先順位としてはまた下の、予測不能なブラウン運動であったのである。
粉々に剥がれた空のように鳥たちが飛んでいく。
春の大風が吹いたその日、ビリーは久しぶりにママに会いに行くことにした。あの、ママ曰く「みっともない」公団住宅を訪ねた。
ビリーとママは「ガレージ」というコーヒー店の窓際の小鳥の巣みたいな二脚しかない席に落ち着いていた。公団住宅にビリーが入らずに、玄関先でママが靴を履くまで待っていたのは別に「みっともない」とかそういう理由からではなく、ビリーが「ガリバーのように同じ家に住むには大きくなり過ぎたんだよ」からであり、なぜビリーとママが定期的に会う契約を結んだのかというとビリーにも人並みに母恋慕という感情がノスタルジーのように抑えがたきものであり、ママにとっても恐竜にあったと言われる「第二の脳」は彼女のお喋りによってのみ現れるものであるから、お互いに持ちつ持たれつといういい関係を天秤の両端みたいに保てていたのである。
何度目かのこの逢瀬は別に取り立ててテーマがあるわけではなく、ごく一般の家庭が続くように、デイブ一家という並々ならぬ家族も「子供が元気な顔を見せる」「近況報告」といった大義名分で成り立っていた。とりとめない会話を禅問答のように続ける内に生薬が効能を見せるように目に見えないほどの遅さで加速度的に離れていくかのように見える家族を内包する。
哲学と哲学との結合とも言えるこの家族の一員の二人の会話は近づくだけでもう「近況報告」は済み、それからの会話はまるで一人の人間の独白のように阿吽の呼吸で進んでいく。
それはまるで美術館を散歩しているかのように幽き高尚な趣味の趣きさえ見せるのである。
それはまるで自由律の詩のごとく・・。
「この間会ってから、僕も考えたんだけどさ、あの家族の中で僕とママは恒星どうしだったんだよ。だから僕ら二人じゃうまくいかなかった。電池で言うならプラスとプラスってところかな。で、デイブとジョシュがマイナス・・」
まるでショゲてるみたいにママは年を取って少し小さくなって見えたがそんなものは仮の姿でその中には数え切れぬエピソードのエナジーが煮えたぎっているのは長年の生活の中でビリーにはお見通しだった。
ビリーはその喫茶店に喫煙室があったので行った。
「私にはあの人という人が分からない・・」
「デイブのことかい?」
喫煙室から戻るなりママのコーヒーを見ると少しも減っていなかったのでビリーは何か話したいことがあるに違いないと察した。
「お父さんはそんな悪い人じゃなかったよね?」
それは、ママが顔を上げ試すようにビリーを見たのは、宣戦布告ののろしを上げたに違いなかった。
これをどう処理するかによって彼女の転轍機が変わること、それに「年の劫」をも手にしたビリーは彼女――他でもないママ――が自分に助けを求めていることも察して嘘でもいいからまともに答えようと思った。
「・・演劇をやっている時に、「舞台を広く使え」と言われたよ・・」ビリーは俯いてそう切り出した。
俯いたその先、一瞬だったけれど走馬灯のように長い、にあるのはデイブをより正確に、というのは美化された記憶をも含む、を思い出させてママの第二の脳であるお喋りによってデイブを今まさにここに再来させようという試みだった。
「舞台を広く使えというのは今、劇中で起こっている事実より、その事実を支えている裏方の、まあいい・・。デイブは・・」
「何で演劇を続けなかったの?」とママ。それは自分の核心に触れられたくないという患者の心境であろう。
ビリーは紙やすりのような粉砂糖の筒を指先で弄びながら、「僕の競演者は神しかいないんだ」と吐いた。
「ジョシュアが死んだのは?」
ママは悲しげに首を振った。
「ジョシュアが死んだのも知らない」そのビリーの確認には、もちろん憤りなどなく、ただ事務的にデイブの履歴書を埋めていくのに過ぎなかった。
「ジョシュアが死んだのを知ったらデイブはどんな顔をするだろうね」
「きっと何も変わらないよ」
その言葉でもうママの中では認知症のようにデイブが変容しているのを悟った。
「VIETNAM・・」
「え?」
「VIETNAMの話から始めようか」
ママはまるで催眠術にかかる同意書を書かされたみたいに渋々、自分の言いたいことを飲み込んで肯いた。
「あの人は何を見てもVIETNAMって字に見える、って言ってたことがあるよ」
その家族のことについては超人的な記憶を持つママが言ったのは、恐らくあの寡黙というよりは「だんまり」に近いデイブの、漏らした呟きに過ぎないのであろう。
「きっとデイブはライ麦畑にかぶれてたごく一般的な若者に過ぎなかったと思うんだ」
「ああ、あのサリンジャーの。私はピンとこなかったけどねえ」
「あの功罪は大きいよ・・。「サリンジャーの子供たち」は大勢いるからね。彼らがその後どういう過程を送ったかというと・・、つまり「ライ麦畑のその後」だね」
「デイブはそんな月並みな男だったかしら?」
「混ぜるなキケンという話は前したよね? もしVIETNAMでそういうのをきどってた人たちが大勢いたとしたら?」
「まあ、そりゃ地獄だわね」
「つまり――、非凡というのがデイブには一生分からなかった」
「ジョシュも言ってたよ。あの歳で。デイブは知らないことを知らないって。ジョシュは惜しい子だった、逸材だったのに」
ママの暴走しかけた列車、爆発しかけた火室、を過去へと引っ張り転轍機の前まで移動させるのは延伸した線路のようにあるいは列車自体が異様に長いように至難だった。
「ああ、そうそう、デイブは戦地で「おこり」を起こしたんだよ」
へえ・・、とビリーは大して気にしなかった。
「それで、ビリーにも移ったんだよ」
「僕が「おこり」を起こしたって? いつ?」
「まだ赤ん坊のころ。俺のが移ったってあの人が」
熱病が遺伝するなんてことはないが、それを知らないで言うのもデイブらしいと言えば、らしい。
「ジョシュアは?」
ママは首を振り、「ジョシュには移らなかった」
「ちょっと煙草吸ってくる」
「恒星ねえ・・、確かにそうかも知れないねえ・・、+と-で盛り立て役はいつも私とビリーだったもんね・・」寂しげにコーヒーを一口ママはやっとすすった。
喫煙室はアロマの香りが漂い、照明は暗くされ天井には星空が映されている。
中にはビリー一人だ。しかし、その星空には恒星はないのである。
「ジョシュもデイブも自分のことが嫌いだったんだね」
こんな端的にジョシュアの死因をピタリと言い当てたのはママが初めてで恐らくそれができるビリーも含めて世界中の全員の口をあつめても唯一の人だった。
ビリーはつい、目を逸らし窓の外に目をやった。
「恐らく、」窓の外にはヒソヒソと雨が降っている。
「僕には不向きだったんだと思うよ」
「ん? 何の話?」
「演劇。好きだったけど・・」
木々のすき間で窓から外を見ている二人。
「絵になっているかもね」ビリーは呟いた。
「見るもの全てがVIETNAMに見えるなんて辛いだろうねえ・・」
ママが「尾」であるならばビリーはそれを噛む冠を被った蛇の頭のようにこの話は終わりそうになかった。
しかし、その冠は下を向いているがゆえにもう落ちているのである。
ママの前ではいかにビリーが本物の王様であったとしても裸の王様なのだ。
「・・「サリンジャーの子供たち」というのはね、自分がどうあっても現実は一歩も変わらないって考え方にハマっちゃったんだな、結局。唾棄すべきものだって。現状を現実と間違えるというか・・。それはジョシュアもね」
ママのコーヒーはまだ少し飲んだだけで水深を示す線がまるで水平線に沈む西明かりのようであった。
「中島敦の「山月記」を読んでごらんよ、ママ」
それにも幾許の反応もママにはなかった。
「天才ってのは人間以下だってことが分かるから。あれの――危ないところだった、っていうのが全てを表している」
音楽も鳴っていないこの喫茶店では時が姿を現していない。ビリーの言葉も空しく響くばかり。ただ、雨が時折りバラバラとその勢いを増す時にだけ、音がする。人々の囁き声も色がなく、まるで灰色の中のようだ、とビリーは思っていた。
「ママがね、老人ホームなんかに入って朝飯を出されたらきっと泣くと思うよ。軍隊ではいつもそうなんだ。僕の場合は朝飯の時間が一番辛かったな」
「老人ホームなんかに入るお金なんかあるもんかい」
丁々発止の才をいかんなく発揮した人生のママに対して、ビリーは風船を膨らますような話し方をする。電光石火の頭の持ち主だが、その風船の話し方のせいでママと話す時はいつも膨らみっ放しなのである。
「老人ホームなんかに入れる人はブランドの洒落たバッグなんか持って、何やかや恵まれてさ、きっと人生の優待チケットなんか持って生まれてきたんだね。オズの魔法使いみたいにさ」
自動ドアが開く度に雨の匂いが入り込んで煙草の匂いと混じり合う――。
ビリーのそのチャコールブラウンの瞳は繰り返し言うがもうママには何も通用しないらしかった。
「ママの言ってた少数民族ってどういう意味?」
ママは、その顔の侮蔑の表情を隠すこともなく、ただ声を潜め、
「バケツごとひっくり返したような・・」と言った。
「ああ、つまり「土着」の人だね」ビリーは周りを見回すまでもなかった。
現実のみを信奉する輩か、とコーヒーを飲んだ。
「・・そういう人たちには芸術ってのは娯楽に過ぎないのかな。僕らは芸術みたいに死に絶える運命なんだよ」
「うぶなんだね、きっと。産まれたまま世界を信じてる」
「・・それが正しい憶病な人間の生き方だよ」ビリーはジョシュアのことも頭に含めて言った。
「例えばエゴン・シーレが・・」
「ああ、あのクニャクニャした画を描く人か」
ビリーは肯いた。
「あれは「手」だよね。表面的で、・・何て言うか化合物なんだよね。純じゃない」
「まあね」ママの心には響かないようだった。
「ママ・・」ビリーはずいとコーヒーテーブルの上に身を乗り出して自分の両手を握った。お願いするように。
「引っ越してもいいんだよ。どっか遠く。僕はママがいなくても平気だから」
「・・んなお金、どこにあるの」
「そんなの、」ビリーは後ろに背をもたれ、突き放すように言った。
「赤いトラックに乗りゃ、いつでもできるよ。荷物はまとめてあるんだろ? あの狭い部屋ごとケースみたいなもんさ。赤いトラックに乗りゃ、いいんだよ。あのママの黄金の花のブローチは忘れないようにね。今日は忘れてきたみたいだけど」
「ビリー、・・酔ってんのかい? まさかだけどね」
まるで歩き慣れた外国の歩道のようにママを感じた。
「中には、なんて家族になるのは嫌なんだよ」ビリーはこれまでにない強い口調で言った。
ママはまるで息子に大声を出されたことを恥じ入るかのように首を下げた。
「・・デイブはよくアポロキャップを被っていたね」
ママは特にそれに返答はしなかった。なぜならそのポツリと独り言のように呟いたビリーの言葉を謝罪と受け止めたからだ。
「私はね、ビリー」今、気付いたが大事なことを言うにはママもまた自分の両手を組んでテーブルの上に載せることだ。
「今が生きている中で一番幸せなんだよ」
「生きててよかった、と思うかい?」
「そうは思わないけどね」
ビリーは鼻息を吐きながら何度か肯くようにして、
「乳歯が生え変わっていなかったんだね、きっと。ジョシュもデイブも」
ジョプリン――これはママの名だ――とビリーは頭の中だけで呟いて、
「僕がいれば――」
ママは外を見ていた。それは知らない女を街角で見かけたようだった。雨足を見ているようだ。
まるでみにくいアヒルの子が違う羽が生えたママを見ているようだった。
「僕が言いたいのは、ジョシュアも自分のかさぶたを剥いてみたらオレンジのみかんの皮だったりするんだよ」
あの――昔、甘苦くママが煮込んで冷蔵庫に入れておいてくれたオレンジピールのようにね。
「僕も昔は青いコーンって呼ばれたもんさ」
「ジョシュア、あ、ごめん間違った。ビリー、今もお酒は飲んでるのかい?」
「まあ・・」
「絶対駄目だよ」
これで「女の忠告には従え」がまた一個できたわけだ。
喫煙室で出ていく前の最後の一服をビリーはしていた。そこにはデッキチェアはなかったけれど、あの死にそうになったサウナの夜を思い出した。夜が砕けて、世界が上るまで朝日はどれくらいだろうか。
暗い星空の喫煙室から重ねて曇りガラス窓越しに外を見た。
夕日がそのまま霧の中へ溶けていく。
パープルの冬がもうどこにも見当たらない。
ビリーは見るでもなしに少し離れた所で横顔を見せて煙を壁に吹いている女を見た。
煙の髪飾りをつけているのをじっと見ていた。
鶏犬相聞こゆというところ。
恋は猿でもする、愛は――。
現実という軽々しさで命を捨ててはいけないよ。
ビリーは二本目の煙草を出してライターを擦った。風もないのに揺れる炎の舌が舐めるのを、ママより長いまつ毛を伏せて、待っていた。
ブラザー The important person
初めから、その人からは木犀の香りがした――。
「我が家のカメレオン俳優ってあなたのことか」ビリーはジョシュアが自分のことをそんな風に思っていたことを、ジョシュが死んでからずっと経ってから現れたジョシュアの恋人、ゾラから聞いた。
ビリーはなぜか自分の部屋を訪ねてきたその女を歓待したが、ローリングストーンズのあの唇のTシャツといい、その女に失望しかけていた。
「その、ジョシュアを振ってデクスターという男に向かった理由は?」ビリーはもうそろそろ自分の話は終わりにしようと矛先を向けた。
「そんなの、どうでもいいじゃない」ゾラはそっぽを向いた。
「山カンで当ててみてよ」
「はあ?」
「ジョシュアが言ってたわ。弟は何でも「筋がいい」んだ、って誉めてたわ」
「へえ」
ビリーは何だか陰で自分のことをそんな風に言っていたジョシュアにも失望しかけた。
「私、あなたに会いに来たのよ」ゾラという女はその挑戦的な目をビリーの少し伏せたチャコールブラウンの瞳に寄せた。
「あんな人の弟がどんな人か見に来たの」
あんな人、と呼ばれるようなどんなことを兄がしたのか、想像に難くない。ひんまがった兄のことだからこの少女ともいえたであろう彼女を傷付けたのだろう。
「死んだってね」ポツリとゾラが言った。
「いつか、そうなるんじゃないかと思ってた。あんたもでしょ? ビリーさん」
「さあ・・」確かに僕は何でも「筋が良かった」。絵も甘え方でも人との関係でも、末っ子だからと思っていた。
「そう言えなくもない」
その答えにははぐらかしたような調子はなかったのだが、ゾラには逆効果だったようだ。ハンと鼻で笑われた。
「確かにあの人の弟って気がする」これも鼻で言ったような声だった。ビリーの出したコーヒーを飲みながらだったから。
「アップルジュース持ってない? あれは免疫を上げるのよ。コーヒーは体に悪いから私、あんまり飲まないんだ」
アップルジュース? ビリーは首を傾げた。そんな物は子供の時以来、飲んだことはない。この彼女と同棲していた頃はジョシュアはそんな物を飲んでいたのだろうか?
あのジョシュアが?
「アップルティーでいいんなら、確かパックがあったはずだけど」
「じゃあそれでいい。その方がマシ」
ビリーはキッチンに入ってティーパックのアラカルトの中からアップルを選び出しながら、正直、面倒だと思った。招かれざる客というかそんな・・。
「百面相だって。あんたのこと」
お湯を注いだだけのカップを置き直して、真向いのクッションに座るとまたいきなりゾラが言い放った。
そうか、ジョシュアが僕を嫌っていたからこの女も僕を嫌っているのか。
部屋の中で煙草を吸い始めたゾラは安いカメラのモデルみたいだったが、消臭剤のドクターリビングがあるから大丈夫だ。
「オレンジジュースじゃいけないのかな?」イラついたようにビリーは自分のカップをコツコツと叩いた。
「君は安楽死賛成派か?」
「は?」
「“楽になったのなら良かった”と思えないのかな?」
「実の弟なのに、そんな・・やっぱりイカれてる、あの人の言った通りだ」
「あの人は、何と言っていた?」
「安っぽいメキシカンインディアンジュエリーみたいな家族だって。星よりおセンチなんだって」
アップルジュースと偽って自分の小便を出してやろうかとビリーは思った。
「貯蓄を全部はたいて君と話をしようじゃないか」ビリーはカップをコツコツと叩くのをやめてそう吐いた。
「望むところだわ」ゾラは相も変わらずクッションに膝頭を付け、頭は後ろのソファにもたれ、見下すようにビリーを見ている。
「いや、正直ここに越してきたことはいい事だと思ってる。少なくともママを憎まないでいいのが楽だからね」ビリーは自分の首の後ろの生え際辺りを掻いた。ビリーからはタイルを焼いた匂い――陶の匂いがしていた。
「僕のいた病院にはね、モーリーっていう気の狂った人がいて、夜中中、こうして耳をきちんと揃えていないとね、やられちゃうんだよ、モーリーに。そんな悪い奴じゃないんだけどね」
ゾラは膝頭を抱いて脚を胸の前で揃えた。
「今はおとなしくしているみたいだけどね・・」ビリーはやり切れないという風にため息を吐いていた。
「で――、君はジョシュアが死んだことを悲しむのもご時世だと言いたがっているし、悲しまないのもメキシカンジュエリーみたいに安っぽいと言うんだね?」
「私はジョシュが死んだことも悲しめないなんて変な家族だと言っているの」
「ママは悲しんでるよ。正真正銘」
「あなたは?」
「だから僕は、“楽になったのなら――」
「それが変だと言ってるのよ!」
「どこが変なのかな? 自殺者なんて年にいっぱいいるし、その都度悲しんでいたら――」
「あなたのお兄さんよね? ビリー、あなたの家族が死んだのよ」
ビリーはまるで高級な時計を見るように意味のない眼差しをゾラに向けた。
「じゃあ、君はジョシュアがもっと苦しめば良かったと言っているの? そうなんだね、ゾラ、ゾラ何だっけ?」
「ゾラ・プラニスよ。そうとは言っていない。けど、死んだのならそれまでを素直に悲しめばいいと言っているの。悼むという言葉を知っているの、そもそもあなたは」
ビリーは意味が分からないといった風に黙っていた。
「言ってあげましょうか。ジョシュはね、私と別れた後も、お土産や手紙なんかを私に送ってきた。それでね、私はマメジョシュだね、なんて手紙を送ったりした。そんな可愛い人だったの、ジョシュは」
ビリーは自分の見てきたオア考えてきた兄像と、実際のつまらない現実というボロ雑巾を掴んでいるに過ぎないこの小娘が言っているジョシュ像との乖離を感じていた。それは隔てられているものの、その境が分からなかった。
「プラニスか・・。プラネットのプラニスだよね? そうだよね? プラニス」
「私の名前の由来なんてどうでもいいでしょ」
「兄が愛した名前なんだよ」
ガチャッと鍵の開く音がした。ビリーの部屋の間近のドアが開いたみたいだ。
「モーリー、もう治らないんだったら!」ビリーはいきなり叫んだ。
「こう、耳を揃えていないとね」ビリーは自分の耳をまるで囲うように手で隠した。
「ママを憎まないでいいっていうのはママはBGMみたいに喋るからさ、モーリーの音が聞こえない」
ゾラはまるで汚い言葉を浴びせられたように不意に顔を背け、しかめた。
「っていうのは冗談でね、ママがいると僕の言いたいことが全て消えてしまう」
「私の言ったことをその揃えた耳で聞いて、どう思った? 私は悼んだ。ジョシュが死んで、デクスターとも別れた。それどころじゃなか、」
「いや、下らない人間だったんだなと思ったよ」ビリーは言い放った。
「本当に、君が言ったようにジョシュがそんな人間だったなんて僕には信じられない。もっと高尚な――」
「人間に高尚とか言うあなたは、冷たい。まるで価値を自分で付けているみたい。値札なんて、自分には付けているの?」
「君のそのローリングストーンズのベロのTシャツだがね、ダサいよ。まるでじゃじゃ馬じゃないか。着替えた方がいい」
ゾラは真正面から中指をビリーに立てた。それは墓標に似ていた。
「kiss my ass」
それを聞いたビリーは、自分の穿いている、軍の頃を追い求めているようなカーゴパンツを見下ろした。ポケットが四段付いていて、色はカーキグリーンだが、優しい草の色だ。
傘を差すまでもない雨の中でずっと暮らしていたようにビリーは気付く。
「君の足の形はバナナに似ている」ゾラの素足を見て、ビリーは言った。
「音楽でも聴いてリラックスしたら? ここには音楽はないの? 私のタブレットで・・」
「いや」やや強い口調でビリーは制した。
「聞き耳を立てていないとモーリーが・・。今、何をしてるか分からないじゃないか」
そんなビリーをゾラは目元に喪章を付けたままの少年の弟のように見ていた。
「話を変わるが――」どこかから除菌剤のアルコールの匂いがしていた。
「人間というのは度量だと思うんだよね。つまり――、人間の、何て言ったらいいかな、価値というか・・」
「また価値か・・。あなたはかけがえのない物でも値段を付けるのね。呆れた冷たさ。私はあなたのママにも会ったのよ、温かい人だった。私の前で泣き崩れて・・。ジョシュアの言っていたママだった」
「君の悲しむというのはそういうことか」
別に否定はしないけどさ、とビリーは口の中で呟いた。
「否定されたらどうすればいい? 僕のような人間を否定したら僕はどうしたらいい? 階段を下りればいいの?」
「言っていることが分からない。あなた、送り返されるわよ」
「僕もそう思ってた。モーリーの言うことにはね、火事なんだよ。モーリーに言わせると、どこもかしこも火事。病院に行けよ、と言ってもそこはもう火事で燃えちゃってるか、今燃えてんだな。現実ってのはそういうもんさ」
ビリーはテーブルの上にあるしょう油さしを指した。
「君から見てここにしょう油さしがある、僕から見てここにしょう油さしがある。それが現実なんだけど、見方だよね。僕には君から見たしょう油さしが分からないし、君も僕から見たしょう油さしが見えない、しょう油さしがない現実、つまり――、見方によって現実は違う、つまり――、現実ってのはない、とも言える」
「でも、あるわ」
「そう、ある。神の造りたまいし現実ってのは厳然としてある。そこからはじき飛ばされた人間はどうすればいい?」
「かわいそうだけど、ママには、高じていると――」
「神の造りたまいし病気なんだよ。分からないかな? 僕にはジョシュが高尚であってほしかったんだ。君みたいな・・ジョシュ・・!」ビリーはその突然に、「おこり」を起こした。「ひきつけ」を起こしたビリーを見て、ゾラはタブレットを耳に当てた。
ひきつけを起こしながら、ビリーはゾラを指差し、「変な間取りでね、風呂を突っ切って脱衣所があるんだ。着替えをするなら――」
ビリーの目は裏腹に、ゾラの持って来たバッグに移っていた。
バッグにシミができている。それは傘をその中に入れたからで、濡れたら色が変わるバッグなんて、それは――。
「論理的破綻というやつだよ」ビリーは呟いて、気味が悪そうに立って自分から離れたゾラを見やった。
病院のベッドの上でビリーは夢を見ていた。
コーンクリームの缶をスーパーで選んでいる。それを裏返すと――。
目を覚ましたビリーは横にいるママに言った。
「僕は夢を見たよ。神様がしたかった事をせよ、と書いてあった」
神様がしたかった事をせよ。
「それからゾラはどうした? ああ、ごめん、ママだった。どうしたの?」
「帰ろう、ビリー。私たちの家へ」
「そう、帰ろう。家へ。帰り道は赤い荷車に乗って・・」
家に帰ったビリーはママの目には落ち着いたように見えた。
ビリーは赤いタータンチェックのトートバッグを持ち上げた。
これからジョシュアの墓参りに行くんだと。
もう夕暮れだったけど。




